MARUNIの社長ブログ

2013年12月のバックナンバー

仕事納め

2013年12月27日

明日12月28日は会社の仕事納めです。今年も本当に素晴らしい一年でした。もちろん全てが良い事ばかりでは在りません。けれども、人も会社も様々な経験を通して成長して行くものです。ここ数年来の激動の時代において、こうして1つ1つの年を越して行けることへの感謝の思いでいっぱいです。どのような出来事も、自分自身に対するタイムリーな課題であり、ご褒美です。そう考えると、この世の中の仕組みは想像を絶する凄さだと分かります。一人ひとりの人間の全てが、個人の成長の為の出来事と出会いながら、その相手の人も、あるいはその総和の社会全体も、同時に必要な経験と向き合っているからです。どんな天才科学者でも追いつけない程の計算式の下で、全ては関連付けられ、管理運営されているのでしょう。そう成ると、今現在の世の中の変化も、きっと大きな意味合いを持っているのではないでしょうか。今を生きる個人個人が、自身の課題を解決する為に、「今」という時代が必要だったのかもしれません。世の中全体と自分自身の人生は決して無関係でなく、極めて太い線で結ばれていると思います。

今年もおかげさまで仕事量が多く、とても充実した一年でした。また中期経営計画も立て、会社の未来像へのイメージ化も出来ました。お客様に「良き建築」をお届けすることで、これからの激動(あるいは防災)の時代の中、私たちの役割は確かに拡大するでしょう。否むしろ、かつて無いほどの影響力が生まれるかもしれません。これまでの建設業は、ずっと下降線を辿って来ましたが、人々の生命と生活を守る基幹産業、もっと言えば「生命産業」としての復活を果たし、いよいよ社会に貢献しなければ成りません。震災の復興、国土強靭化、老朽化したインフラの整備、オリンピック対策、耐震・防火への対応、地域環境の清浄化、住まいの再建築、住まいの修繕、強固な建物、長寿命化・・・。人間が生きて行く上で、絶対的に必要不可欠な「衣(医)食住」の一角として、精神的にも肉体的にも負荷の多くなる時代の中、安らぎと寛ぎと安心安全をご提供する仕事。それが建設業です。

今、業界では職人不足が問題に成っています。この傾向はますます拡大するでしょう。同時に技術者の高齢化も進んでいます。この流れは、あらためて(「虚業」に対する意味での)「実業」への回帰を積極的に促す為の(あえて)演出された状況設定なのかもしれません。今後、最も人手を必要とする(であろう)建設業界に、人手不足、若者不足という課題がある。これは裏を返せば、その「反転」に対する期待では無いでしょうか。リアリティー(実体)のある仕事への回帰。そこまで読み取ることが出来れば、今後の職人不足や若者不足は一気に流れが変わってくると感じます。建設業の素晴らしいところは、経験者、熟練者には敵わないという面があることです。若い人の方が良い仕事が出来る業界はたくさんありますが、建設業はそうは行きません。やはり、実際の仕事をして来た人の経験には敵わないのです。そういう意味で、今現在の若者不足の中でも、この業界はしっかり成り立っています。

けれども、そろそろ熟練者の技術や経験を引継ぐ世代も必要です。そのようなタイミングの中で、今の建設需要の増加が起きました。これは天の計らいでしょうか。何か全てが計算され尽くしている。そのような印象を持つのです。熟練者や高齢者が優位と成る仕事は本物だと思います。結局のところ、最後の最後まで社会に貢献できる役割は尊いものだからです。年齢に関係なく、いつまでも出来る仕事こそが、その人の使命であり、役割ではないでしょうか。会社には定年がありますが、仕事には定年はありません。建築は、死ぬまでやり続けられる仕事の1つだと思います。伊勢神宮の御遷宮は20年に一度ですが、そのお蔭で、日本古来の建築技術が脈々と受け継がれています。建設業も(同様に)約20年振りに需要の喚起が発生しています。これも決して無関係では無いと思います。

来年は一体どのような年に成るのでしょうか。今年以上に激動の年に成るのは間違いないように思います。いずれにしても物価の上昇は今後もますます続いて行くでしょうから、そういう意味で、消費行動が早まり、景気を支えて行く可能性はあると思います。ただその一方で、社会全体の仕組みや個人の生き方を変えて行こうとする流れも加速するのでは無いでしょうか。その根底にあるものこそ、自分自身の中に在る良心との対話です。今までの社会全体に存在していた強制的(物質的)な価値観から抜け出し、自分自身の良心の声に従って生き始める人が増えて来るような気がします。先日、とても尊敬するある方からこう言われました。「今までは良心的な会社(人)が苦しかったが、これからは良心的な会社(人)が良く成る」と。これは逆に言うと、良心を裏切る経営や生き方をしたらダメに成るという、裏返しの意味にも聞こえます。全ての人間の生き方が「見られている」時代の中で、いよいよ個人の内面性に対する評価が顕在化する時代が始まろうとしています。それはむしろ厳しい時代ではないかと思います。けれども極めて爽快で清々しい時代でもあります。来年も一年、自分自身の良心と共に、楽しく経営と人生に向き合って行こうと思います。ありがとうございます。


※挑戦し続ける監督たち

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建設業と同様に、映画の世界でも70歳を超える熟練監督が未だに注目を集めています。どんな若手監督よりも衝撃的かつ挑戦的な作品を創り続けているからです。本ブログで何度も紹介している大林宣彦監督やジブリの高畑勲監督はその良い例です。先日、このお二人の製作現場を追うTV番組が相次いで放映されました。大林宣彦監督の方は、NHKの特集で、前作「この空の花~長岡花火物語」に引き続き、今度は北海道の芦別を舞台にした「野のなななのか」という古里映画の紹介です。今回も北海道の豊かな自然の中で、戦争や生と死を題材にしています。またきっと驚くべき作品に仕上がっていることでしょう。公開は来年で、今から楽しみです。

一方、高畑勲監督の方は、WOWWOWの番組で、前編と後編の2回に分けて放映されました。もちろん内容は、現在公開中の「かぐや姫の物語」です。この映画の評価は(驚くほど)真っ二つに分かれていて、賛否両論状態がさらに激化しています。未見の方は、年末年始にぜひ見てください。きっと「1点。ただの竹取物語。長い。つまらない」か、「満点。歴史的大傑作。不覚にもかぐや姫で泣いてしまった。また見る」のどちらかでしょう。番組を見て初めて知ったのは、高畑監督は「絵を描かない」ということです。アニメ映画の作者が絵を一切描かないなどとは、思っても見ませんでした。高畑監督は自分自身のイメージや考えを「言葉」で表現するのみ。あるいは手振り身振り。その下で、トップクラスのクリエーター達が、その指示に従って、懸命に作業を進めるのです。同じジブリの宮崎駿監督とは全く違います。まだ勢いの残っている手書きの筆の線をそのまま動画にするという、通常のアニメ制作のシステムでは考えられないやり方は、ジブリの製作現場を崩壊させたそうです。よって今回の「かぐや姫の物語」は、新たに別のスタジオを作って製作に入りました。それでも作業は難航を極め、公開は延びたのです。それにしても、一体このエネルギーはどこからやって来るのでしょうか。売れる映画を作るという発想は微塵も無く、自身の魂から発せられる「言葉」の実現だけに生きる。この「目には見えない」力と波動の合った人のみが、「心が震える感動」を味わえるのかも知れません。リーダーにとって「言葉」は生命です。あらためてその事に気づきました。私はお正月に、また家族と見に行く予定です。多分きっと、この映画は100年後も名作として存在していると思います。

喪中のお葉書で、恩師が亡くなられたことを知りました。私の小学校時代の先生で、私自身の幼少期における精神的支柱とも言える存在でした。先生から教わったこと、山ほどあります。そのほとんど全てが、今現在の自分自身の根底に息づいていると思います。私のような、おとなしくて、目立たなくて、成績も(可もなく不可もなく)ごくごく普通の子どもに対しても、多くのことを真剣に、時に厳しく、時に優しく教えてくださいました。あの時、先生がおっしゃっていたことは、今思うと、子どもに話すようなレベルの内容では無かったように思います。所謂、先生が生徒に対して「ああしなさい、こうしなさい」という種類のものでは無く、もっと広くて大きくて深いものでした。

先生の専門は歴史(日本史)でしたが、その歴史の授業においても、単なる年表的な説明ではなく、例えば合戦の風景や情景がありありと思い浮かべられるような、まさに「物語絵巻」を見ているかのような臨場感があったのです。またクラスの中で何か問題が起こると、授業を止めて、その事柄について真剣に叱り、同時に包み込むような優しさで(何時間も)語りかけてくれました。先生のお宅にも何度も友達と遊びに行きました。このクラスには、多くの教育関係の方々が授業見学に来られていましたが、学業と心の教育の両立が成されていたと云う意味において、(今から思うと)随分時代の先を行っていたように思います。そして多くの同級生たちは(その後)優秀な進路へと進んで行きました。

先生との思い出の1つに、移動教室で日光へ行った時のことが在ります。泊まった宿泊施設の部屋がとても広く、2段ベッドが(確か)10台くらい有って、ひと部屋20名くらいでワイワイと騒いでいました。そこへ先生が入ってきて「静かにしなさい」と注意されたのですが、その際、あまりにも部屋が散らかっており、それぞれのベッドの上もグチャグチャ状態で、先生から「何だ、この汚い部屋は!」とさらに厳しい雷を落とされました。ところが、その中で1つだけキチンとしたベッドがあり、先生から「そこは誰だ」と聞かれたのです。それは私のベッドでした。自分はただグチャグチャ状態が嫌いなだけで、好きでキチンとしていただけでしたが、「僕です」と答えると、「トモキか。偉い」と言われました。ただ、それだけのことでしたが、自分の心の中に、何か小さな灯りが燈ったような気がしました。先生はそう言って部屋を出て行きました。みんなは静かに身の回りを整理し始めました。

身の回りをキレイにしなさい。両親に感謝しなさい。先生に教わった2年間の中で、今でも心に刻まれている大切なことです。私という、弱くて小さな生命の一番奥底に記憶された2つの規律は、その後の人格形成の種と成りました。その後も、素晴らしい恩師との出会いがあり、事に応じて、「身の回りをキレイにしなさい」「清浄感を持ちなさい」「掃除をしなさい」「靴を揃えなさい」「ゴミや不要なものはすぐ捨てなさい」「自然の恵みに感謝しなさい」「太陽に感謝しなさい」「食べ物に感謝しなさい」「挨拶をしなさい」「時間を守りなさい」「約束を守りなさい」と、教わり続けました。それら全てが、あの頃「先生」からいただいた「種」に与える「水(養分)」に成っていたのではないか。ああ、そうだったのか・・・。

清き水は淀みなく流れ続けます。身の回りを清浄感で保つということは、まさに自分自身の人生に淀み(停滞)を作らないためです。ゴミはもちろん、使わない物も、すぐに捨ててあげること。それによって、その物(物質)はいったん壊され分解されますが、すぐに新たな物体として再生され、別の人々の生活のお役に立ち、また新たな生命(価値)を生き始めます。使わない物を使わないまま放置しておくことは、物に宿る生命を殺していることなのです。だからこそ、使わないものは(できるだけ)持たないようにする。使うものは、長く大切に使い続ける。それが本当の「もったいない」の心。地球環境が大変に成って来たのは、このような意識を人類に気付かせるためだったのではないか。3.11が起きても、なかなか直らない心の習慣。そのような時代を生きて行く上で、「先生」の教育は、未来の子ども達を救って来たのではないかと、ふと思います。

先週の土曜日、とても尊敬するある方の新築祝いのために、静岡県の可睡という地に(その方の親友の方々と一緒に)日帰りで行ってきました。新しい住まいはとても美しく、超シンプルで、(隅から隅まで)清浄感で満ち溢れていました。いかに「持たないか」を追求すると、このような良き姿・形に成るのでしょう。このような良き生活・人生に成るのでしょう。家そのものが、住む人の生き方を証明していました。良き建築は良き人生の写し鏡。であるならば、自身の家の状態、部屋の状態は、自分自身の心の写し鏡と成ります。そのように気づいた時、身の回りの状態こそが、「私の心」の投影と分かります。だからこそ、身の回りの整理整頓こそが、自身の心磨きに成るのだ。ああ、そうだったのか。日光で先生から言われた一言が、またここで起動したのです。

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可睡には、東海道一の禅の修行道場である「可睡斎」が在ります。此処は、悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康公が名づけた古刹。現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(修行僧)が修行をしています。当日は、この「可睡斎」も案内していただき、午後の温かい陽だまりの中で、美味しい精進料理をいただき、寺院内をゆっくりと見学いたしました。紅葉がとても美しく、この世のものとは思えない風景と建物の中で、本当に「居睡り」をしたく成る様な場所でした。数人の僧侶の方が、場内をホウキで掃いていました。とても静かでした。同じ日本なのに、どうしてこんなに違うのだろうか。場所のエネルギーとは、きっと在るのだろう。可睡には、ほんの半日しかいませんでしたが、古代日本の太古の風と風景を感じました。

前回のブログで紹介した映画「かぐや姫の物語」からも、そのような太古の風を感じました。「竹取物語」とは、平安時代に書かれた日本最古の小説(しかも、SF小説)です。映画の画面からも、日本の原風景の「風」あるいは「匂い」を感じます。それらは、きっと今の日本でも(本当は)感じられるはずのものです。その「感じられる」感性をいかに呼び戻すか。そのスタートラインこそが、「身の回りをキレイにすること」あるいは「大自然や両親に感謝すること」ではないでしょうか。映画「かぐや姫の物語」の主題は、人生讃歌であり自然讃歌です。「生きている手応え」や「生きる喜びと幸せ」を感じたい。それは苦労を乗り越える経験からしか得られない種類のものです。かぐや姫は言います。「私は生きるために生まれてきた」と。かぐや姫は、鳥や虫や獣や草や木や花を愛し、あらゆるものを大切にしていました。育ててくれた両親(翁と媼)への感謝も、最後の最後まで忘れませんでした。乗り越える為に必要なものとは、いつの世でも「感謝」と「清浄感」ではないか。

丸二の理念の基本は「自然の恩恵への感謝」です。現場の基本は「6S(整理・整頓・清掃・清潔・親切・速度)」です。「現場は心の鏡」という合言葉もあります。全てが「感謝」と「清浄感」の追求です。結局のところ、お客様の喜びと幸せ、社員の喜びと幸せを願う時、最後は「感謝」と「清浄感」に行き着きます。そして、そのルーツこそが「先生」の教えでした。私は、亡き恩師への恩返しとして、これら全てを守り続けて行こうと思います。先生、本当にありがとうございました。


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※「かぐや姫の物語」ですが、老若男女、全ての方に見ていただきたい映画です。見た方の半数は、「日本昔話みたい。竹取物語そのまんま。特別面白くなかった。絵もそれほどでもなかった」という感想で、もう半数は「何か物凄いものを見た。なぜ竹取物語で号泣してしまったのだろう。涙が止まらない。アニメ史上の快挙。映画史上の大傑作」という感想のようです。私の場合は完璧に後者でしたが、みなさんはどうでしょうか。すでに日本人の誰もが知っているストーリーです。しかもアニメです。ですので、前者の感想の方が(一見)説得力があります。けれども私は後者でした。それがなぜだか未だに頭の中で整理が付かないのです。上手く説明ができないのです。でも、心の深い部分で感じています。多分、きっと・・・生きるために生まれてきたことを、私も「思い出した」のだと。

かぐや姫の物語

2013年12月 1日

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子どもの頃、地元(吉祥寺)の古い映画館でディズニー作品や東宝映画(ゴジラ)等を見て以来、私は映画ファンに成りました。古い名作(洋画)の2本立ても、良く見に行きました(「シェーン」や「エデンの東」等もその頃に見ました)。中学生頃からは、封切したばかりのロードショー作品を見に、新宿や渋谷にも行くように成りました。そこには「新作映画が見られる!」という喜びと好奇心がありました。当時見た映画の中で、特に強い印象が残っているのは「ロッキー」(渋谷東急だったかな)と「未知との遭遇」(新宿プラザ劇場)です。私の映画による「感動の原体験」は、(今思うと)ここに在ったように思います。その後、たくさんのアメリカ映画を見て、徐々にヨーロッパ映画やマイナーな映画、内省的な映画へと興味の方向が変わり、「哲学的」とか「難解」とか言われる作品群の方に心は惹かれて行きました。実際、自分自身の好きな映画の多くは、そのような傾向のものです。

けれども、映画における「感動の原体験」と成ると、今でも(あの時の)「ロッキー」や「未知との遭遇」の記憶が蘇ります。部屋にポスターを貼ったり、下敷ケースにチラシを入れたり、今思うと気恥ずかしいのですが、(それくらい)いつも頭の中に映画がありました。もちろんサントラ(レコード)も買って、何度も聞きました。当時は、今のようにビデオ等が無い時代でしたので、映画を追体験するには、サントラのレコードを聞く以外無かったのです。その分、音だけで映像をイメージする訓練が出来たのかもしれません。とにかく勉強よりも映画でした。そのようにして、大学では映画研究会で映画を撮り、社会に出てからも映画好きはそのままです。もちろん昔ほど見に行く機会は減りましたが・・・。

サントラと言えば、私がクラシック音楽に興味を持ったのも、映画音楽からでした。「2001年:宇宙の旅」の<ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)>、「時計じかけのオレンジ」の<第9(ベートーヴェン)>、「地獄の黙示録」の<ワルキューレの騎行(ワーグナー)>等、みんなサントラで初めて聞いてから、「全曲聴いてみたい!」の一心で、(勇気を振り絞って)吉祥寺駅前の(今はもう無い)新星堂クラシックレコード店へ足を向けました。決して学校の音楽の授業からでは無かったのです(音楽の通信簿は「2」でしたから!)。当時は、ベートーヴェンもモーツァルトも全く知りませんでした(クラシックは嫌いでした)。けれども映画のおかげで、人類至宝の芸術との出会いが実現したのです。そこから映画とクラシック音楽という大海への漂流の始まりです。

「イメージ(想像)すること」「見えない力を感じること」「俯瞰して見ること」「クローズアップして見ること」・・・映画を通じて学べたことはたくさんあります。けれどもテレビドラマからは(あまり)在りません。それはきっと「深み」の問題だと思います。クラシック音楽が数百年以上も生き続けているのは、そこに本物の深みが在るからではないでしょうか。深みとは感覚的な世界ですので、確かに比べられる性質のものではありません。それでも尚、人類は残すものと残さないものを明確に「仕分け」しているように見えます。その仕分けの根本原理は、「見えない世界とのつながり」ではないかと想像します。

この世の中のすべての物事や事象、あるいは構造は、2つの力で構成されています。善と悪、男性と女性、昼と夜。すべて表と裏、陰と陽です。多くの映画やドラマ、音楽、演劇、絵画は、見える世界(聞こえる世界)を描きます。なぜならば、見えない世界(聞こえない世界)を描いても、受け手には見えない(聞こえない)のだから意味がない(=売れない)と思うからです。確かにその通りであり、見えない世界を描くことは無理ですし、無駄です。手間暇掛ります。なかなか理解も得られません。けれども本物のクリエーター達は(そのような風潮の中においても)(仮に分からなくても構わないから)もう1つの世界観(サブテキスト)を作品の中に組み込もうと戦います。なぜならば、表と裏の両面を描かなければ、偽物だと「知っている」からです。両方の力を含めることで、本物の芸術作品と成り、それが受け手側に(なんとなく)独特の雰囲気(魅力)を与えるのではないでしょうか。それが数百年後も生き続けることによって、自然界の普遍的な構造を「有していた」という意味において、いつか必ず証明されるのでしょう。

そのようにして最近のいくつかの映画を観た時に、実は日本映画の良質化を感じています。軽い気持ちで見た「陽だまりの彼女」などは、単なるアイドル映画だと思っていたのですが、(表側のストーリーと並行する)生きる意味と幸福についての寓話として、とても面白かった。作り手の素直で純粋な意識がそのまま画面に出ていて、こちら側もとても気持ち良く感動できたのです。原作を全く知らなかったので、後半の展開には驚きましたが、大好きなビーチボーイズ(ブライアン・ウィルソン)の名曲「素敵じゃないか」が、重要な役目を果たしていて、それも嬉しかった。かつて「こんな音楽、犬にでも食わせておけ!」と罵詈雑言を浴びたアルバム「ペットサウンズ」第1曲目のこの曲が、このようにして今の若い人達の前に(突然)現れたこと自体も驚きです。この映画自体が(いつまでも残る)名作に成るかどうかは分かりませんが、あの頃、目を輝かせてロードショーを見に行っていた時代の「感動の原体験」がちょっと蘇ったのも事実です。若いカップルばかりの映画館で、ちょっとキツかったですが・・・。

けれども、本ブログで本当に書きたいのは、実は見たばかりの「かぐや姫の物語」です。これはスタジオ・ジブリの高畑勲監督の渾身の一作。ジブリと言えば、大ヒット中の「風立ちぬ」公開後に引退を表明された宮崎駿監督が有名ですが、もう一人の雄が高畑勲監督です。何度か予告編を見た時から、「これは・・・」と(なんとなく)異質な世界観を感じていたのですが、実際に本編を見て、非常に心を打たれました。圧巻でした。昨年の「この空の花~長岡花火物語」を見た時の衝撃とはまた違うのですが、誰もが持っている記憶の扉をこじ開けられたようなショック感と言ったら良いか・・・そういう種類の衝撃でした。アニメだとか実写だとか、そのような問題では無く、そういう手法を超えた次元に在るとすら感じました。そのような意味で言うと、宮崎駿監督作品は見事なアニメ映画であり、この「かぐや姫の物語」は見事な体験映画と言えます。物語は当然、「竹取物語」そのものですので、誰もが知っているストーリーであり、特別目新しいものではありません。オリジナルの人物も登場しますが、極めて原作に忠実でした。

高畑勲作品の作画は、宮崎駿作品あるいは一般的なアニメとは全く違う、草書体のような世界です。全てを描かない。描かないものを描く。「無」を描く。まるで消去法です。時に雑な印象すら覚えます。けれども人間の記憶の世界とは、まさにそのようなもので、非常に曖昧かつ無地や白紙部分が多く、極めて不明瞭で不明確です。見方によっては、どの様にでも見えてしまう。それはまるで、細部に渡って(固定化された)明瞭な物質で埋め尽くされた「偽物細工」へのアンチテーゼかのようです。色即是空、空即是色。在るものは無く、無いものは在る。高畑監督の作風には、そのような仏教的、老子的な世界観が込められているのかもしれません。かぐや姫が疾走するシーンの激しい墨絵的表現などは、本当に凄かった。

人生とは「苦」である。けれども、その「苦」の経験を通じて、生きることの素晴らしさ、色彩ある世界の素晴らしさ、喜怒哀楽の素晴らしさ、これら全ての経験を「味わい尽くす」ことで、人間は成長をして行くのでしょう。そのような「経験」への憧れを抱き、そのような「経験」を求めて、人間は(多分、自らの意志で)生まれて来たのにも関わらず、今度は「辛い」「苦しい」「逃げたい」「帰りたい」と不平不満を言う。なのに、静かで、穏やかで、無色透明で、起伏の無い、思考(意識)だけの満ち足りた世界にいると、今度は「もっといろいろな経験がしたい」「生を謳歌したい」「あえて苦しい状態を味わってみたい」と言う。結局、人間はどちら側に居ても、「苦しいから」とか「つまらないから」と言って、「いま、ここ」を否定してしまい、もう一方(向こう側)への憧れを持ち続ける。この堂々巡り。このような憧れと後悔の繰り返しこそが、かぐや姫(=全生命)の「罪」なのかもしれません。

「いま、ここ」を肯定し、現在の「生」を生き切ることが、このような負のループから抜け出すことに成る。物語の中には、「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」や「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」等の「偽物細工」が出てきます。本物の「生」とは、「いま、ここ」を味わい、思う存分、生きる喜びを実感すること。まさに、現世と大自然への大讃歌。そのような強いメッセージを本作品から感じ取りました。

私たちの中には、自分自身が経験した過去の記憶が全て在り、その結果としての「今の私」が此処に存在しています。それら全ての経験を、肯定的に受け入れて行くことで、「今の私」はより良く成長していくはずです。この映画(物語)の真の意味は、私たち全ての人間の中に在る普遍的かつ共有の記憶の再現ではないでしょうか。だからこそ、作画は(あえて)余白が在り、曖昧模糊としていたのではないか。余白とは、一人ひとりが実際の(自分自身の)経験で補筆して欲しい・・・そのような意図を感じました。

3.11以降、日本映画は良質化し始めたような気がします。それは、製作者が勇気を持って、「見えない世界とのつながり」を含め始めたからだと思います。「かぐや姫の物語」のクライマックスである、月から天人が降りてくるシーンの表現方法と超然とした(摩訶不思議な)天上の音楽(調べ)には、過去の映画音楽の常識を超えた「非常識」が在りました。人生とは、どこにいようと極楽であり、幸福なのだ。そのことが驚天動地の音楽表現によって明らかにされたかのようです。そしてまたここに、私自身の新たな「感動の原体験」が発生し、「かぐや姫の物語」は、私の「名作」と成りました。

映画から学んだこと。それは、まるで映画を見るがごとく生きるということ。映画の主人公に成りきって、その環境や境遇を(思う存分)生き切ること。そのように演じている自分自身の姿を(自ら)客席から(俯瞰して)見つめながら、自分自身を応援してあげること。その喜びも、悲しみも、苦しみも、映画の中で「演じている」体験の1つ1つに過ぎない。本当の自分は、「いま、ここで」、自分自身を応援している。だから安心して、人生を味わおう。映画の主役に成り切って、演じてやろう。そうすれば(人間誰もが)人生そのものを「感動の原体験」にできる。だから私たちは、喜びの心で生きて行く。建築の中に「見えないもの」を込めて行く。大自然を愛して行く。そのようにして私たちは、今、生きているという感触を掴んでいる。

最良の建築をプロデュースします。

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