MARUNIの社長ブログ

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今朝(5日)、ガタガタとした揺れを感じて飛び起きたところ、さほどの大きな地震ではなくてホッとしたのですが、念のためTVを付けたら、東京23区(千代田区)で「震度5弱」でした。揺れ自体はそんなに激しく感じなかったのですが、「震度5弱」とはとても大きな数字です。確かに揺れ方が(今までとは違う)ちょっと変な感じがしました。最近は岐阜の方でも「震度3」程度の群発地震が起きていましたが、このような小規模の地震が小出しに起きることで、むしろ巨大な地震エネルギーが発散してくれるのであれば、(人間にとっては)ありがたいことです。

日本の場合は、元々が地震国のため、他国に比べれば建物の耐震性は(非常に)高くて安全です。けれども、昭和56年(1981年)以前の旧耐震基準の建物もまだ多くあり、その耐震化を進める努力が進んでいます。また都内には木造住宅密集地域も数多く有り、そこでは災害時における火災の問題が心配です。昨日は新潟の海岸で(5名の方が亡くなるという)悲しい事故がありましたが、津波、台風、豪雨を含めての水の事故にも気を付けなければなりません。どんなに準備や対策をしても、自然の猛威(地、火、水、風)を恐れる気持ちは大切だと思います。

この連休中にも山の事故が(数件)起きていますが、私たち人間は「山を恐れる(畏れる)気持ち」を決して忘れてはいけないと思います。それは、山の厳しい天候的な面だけではなく、もっと神聖なもの、つまり、自然界に対する畏れ(信仰心)の様な種類のものです。日本の山々の中には、古来より「霊山」として地域の方々に敬われている山や森があります。そこにはむやみに人は入らず、この地を護っていただいていることへの感謝の祈りを捧げるのみです。つまり、山や森そのもの(全体)が「御神体」ですので、(当然)人間が土足で入る様な場所ではありません。けれども今の現代人は、そのような(自然界への)畏怖の念を喪失していまい、どこへでもレジャー感覚で入り込んで行くようになりました。あの富士山に登る事さえも、本当に良い事なのかどうか分かりません。

最近のニュースで、エベレスト登山の為の入山料が(日本円で)約250万円(ネパール側)と知りました。これは、確かに(人間的な経済感覚としては)非常に高い金額ですが、(人間が)世界最高峰の「聖地」に立ち入るには、それくらいの意識と覚悟と心構えが必要なのでしょう。「険しく危険」という理由だけでなく、決して気楽に立ち入る様な場所では無いという自覚です。富士山も同様に、否それ以上の意味合いが在る様に感じます。ある程度の高額な入山料を取り、山を汚さない意識を共有する必要があるのではないかと思います。

今回の韓国の客船沈没事故は、明らかに人災の様ですが、その後の地下鉄追突事故もきっとそうでしょう。けれども日本でも、2005年にJR福知山線脱線事故で、乗客と運転士合わせて107名が死亡しています。これも人災でした。日本の方が安全対策や救助対策のレベルは高いと言われていますが、人間である以上、絶対的な完璧は存在しません。ありとあらゆる完璧な対策を講じて、それでやっと半分。残りの半分は、大自然の摂理に委ねられているのではないでしょうか。合理的な考え方では、そのような目に見えない不確定な領域は無視すべきでしょう。けれども、私たち日本人の心の奥底には、何か・・・そのような深い部分にある「祈りというもの」が(まだ)いくらか残っているような気がします。4日には、インド西部マハラシュトラ州で列車が脱線し、少なくとも18人が死亡、112人が負傷しました。特定の宗教を持たず、八百万の神(森羅万象)を畏れ敬うという(世界的にも珍しい)自然信仰の国である日本が、それでも他国に比べれば、安心安全な国でいられるのは、自然界やご先祖様への「祈り」の文化が残っているからではないかと感じます。

今、建設業界では人手不足が大きな課題に成っていますが、外食産業やサービス業、物流等も同様で、大手牛丼店でも人手不足による一時閉店が起きています。世界的には仕事がなく、失業者があふれているのに、日本は真逆の状態です。人手不足も確かに大きな問題ですが、それでも仕事がない、やることが無いよりとても幸せなことです。あとは、方法論で解決して行けば、また新しい発想やシステムや意識改革が生まれて行くでしょう。このようにして、日本はいつも様々な苦境を経験しながらも、その中で必ず不思議な力が働き、逆の良い方向へ向かって行きます。

最近、奇跡の水として有名な「ルルドの泉」を描いた映画「聖処女」(1943年)を(DVDで)観ました。フランスのピレネー山脈にある小さな村ルルドに実在した少女ベルナデットが、ある日、村外れのマッサビエルの洞窟で白衣の聖女(聖母マリア)を幻視し、土を掘るように言われます。そこから湧き出た泉の水で、死にかけた赤ん坊の命が救われます。無学なベルナデットは、聖母マリアのことが誰だか分からず、最初は「あれ」と呼んでいました。その後、聖母マリアがベルナデットに「自分は無原罪の御宿りです」と伝え、そのことから、ベルナテッドの前に姿を現しているのは「聖母マリア」であることが判明します。しかしながら、何時の世でもこのような人は社会から隔離されてしまい、最後は修道院に入り、35歳で、肺結核で亡くなりました。

聖母マリアは、この少女の前に18回も姿を現したそうです。その後、聖母が現れた場所には聖母像が建てられ、やがては大聖堂が建てられ、今や世界中から巡礼者が後を絶たず、ルルドの水の「奇跡」を求めて多くの人々が集まって来ます。ルルドでは、これまで約2,500件の「説明不可能な治癒」が起き、その中でも「奇跡」と公式に認定された症例は68件在るとのことです。無学でしたが、心の清らかな一人の少女が見たものが、本当に何(誰)であったのかは、今では分かりません。それに、本当に「見た」のかどうかも分かりません。けれども、そこで起きた数々の「奇跡」が事実である以上、きっと「何か」と出会ったのは本当なのでしょう。

もしこれが日本だったら、聖母マリアではなく、誰だったのかと想像します。けれども、なかなか出て来ません。日本の場合は、そのような存在は、特定の人物や姿ではなく、何か自然界の中に溶け込んでいるような感覚があるからです。日本の場合は、森羅万象のありとあらゆるものの中に、既に「それ」は含まれている、宿っている、たたみこまれている、漂っている。例えば、小さな菜の花の花びら1枚に在り、夏の草原を爽やかに吹く風の中に在り、秋の夕暮れに鳴く虫の声に在り、野山を銀世界に変える雪の結晶に在る。私たちが「そこに在る」と感じれば、そこに出現する。きっと松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村のような俳人たちは、そこに在る「それ」を見て(あるいは聞いて、触って、感じて)限られた数の中に「文字として」転写したのではないでしょうか。たった17文字の中から、(私たちが)そこに漂っていた空気、風、色、音、感情、思い、想念を感じと取ることが出来るのは、日本人が共有する「それ」が普遍性を持って、媒体化されているからかもしれません。

ちなみに私が知っている数少ない俳句の中で、一番好きなのが、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」です。とても分かりやすくて、その光景がイメージしやすくて、春の夕暮れに、黄色い菜の花の咲く田園の向こう側で、オレンジ色の夕日が沈んで行く時、反対側の空には、丸いお月様が光り始めている・・・。本当の解釈は違うのかもしれませんが、大自然の雄大さと美しさの中で、夕暮れ時の侘しさと、太陽と月が彩る宇宙とが混然一体となって、私(人間)と自然界を優しく結び付けてくれる様な、そういう思いやりを感じるのです。きっとそこには、何か、特殊な(目には見えない)意志が存在しているのではないかと。

日本の文化について、私は全くの無知ですが、日本人の心の中に在る「自然界の中に何かが在る」という思いの積み重ねが、今の日本を形づくっているのは間違いないと思います。私も「それ」を大切にして行きたいのです。日常の生活でも、人間関係の中でも、仕事においても、経営においても。もし日本の気象や経済や事故等が、すべて日本人の想念の総和によって引き起こされているとするならば、みんなで「それ」を意識して行くことが出来れば、きっと今を乗り越えられるのではいかと。「それ」とは、人によって表現は違うと思いますが、時に「心」であり、時に「愛情」であり、時に「思いやり」であり、時に「感謝」だと思います。

日本中、否世界中の地震や事故や不況や悲しい出来事を、全て幸福な出来事に変えてしまおう。そのためには、何か大きな運動を起こすのではなく、私たち個人の日々の、ごく日常の極めて小さな事柄、小さな場所、小さな出来事、そのような細事の中に「それ」を見出していくこと。例えば、(道や外に)ゴミを捨てないとか、人に優しく接するとか。これをみんなでやって行けば、きっと世界は今を乗り越えられると思います。「ルルドの水」は、フランスのルルドまで行かなければ、手にすることは出来ませんが、自分自身の心の中に「新しい意識」を宿すことは(誰にでも)今すぐに出来ます。それはまるで、「ルルドの水」を体内に持つが如くです。私たちは日本的な「森羅万象」という1つの軸を(心の中に)持つことで、一瞬にして、世界中のどこへでも行けるのかもしれません。それが、私たち日本人のDNAの中に隠されているとしたら、何かワクワクして来ます。そういう意味合いの俳句があったら、面白いですね。


※最近の音楽DVD
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基本的にクラシック音楽が好きなので、ロック系、しかも日本人アーティストの音楽は全くと言って聞くことが無いのですが、最近、何となく気になって買ってみたライブDVDがなかなか良かった。「エレファントカシマシ25周年ライブ」です。名前は知っていますが、実際の曲までは良く知らず。その上、とにかく男性的なロックで、自分の好みとは正反対。けれども、何か感じるものがありました。もの凄い顔をして朗朗と歌を謳い上げ、叫ぶボーカルの男(宮本浩次さん)の姿は、「うまい」とか「すごい」とかいう生易しい表現よりも、まるで「鬼神」の様で、そこには生身の「狂気」を感じました。同時に不思議な「童心」も・・・。多分、作られた(演出された)ものではないような気がします。聞くところによると、人生で最初に買ったレコードが、ベートーヴェンの「運命」だったとのこと。昨年、宮本さんは急性難聴になり、耳が聞こえない恐怖を味わったとのことですが、髪の毛もぐちゃぐちゃなので、見た目もまるでベートーヴェンの様です。

本来、真の芸術家とは、ある種の狂気を持って、自らの作品造りに没頭し続ける者で、最近の芸能人的なアーティストは、どちらかと言うとタレントであり、流行をうまくキャッチしてヒットを飛ばすことが上手です。けれども芸術家とは、そういう流行を追うことよりも、物事を「探求する」方向へ全エネルギーが向かうので、必ずしも生前に認められる訳ではありません。むしろ不幸な一生の人が多いです。この「エレファントカシマシ」の場合は、もう大変メジャーなバンドですから、もはや不幸なはずはありませんが、けれども、「探求者」の道を歩んで来たような印象を受けました。

世相への皮肉を込めた激しい曲もありますが、その根底には、「挫折や悲しみを乗り越えて行こう」「胸を張って生きて行こう」「素晴らしい人生を送って行こう」「音楽って素晴らしい」というような、極めて純粋無垢で前向きな意識が感じられます。曲想も独特かつ個性的で、歌詞には日本文学の匂いもします(森鴎外や夏目漱石等が好きらしいです)。クラシック音楽を聴く自分が好きに成る音楽(家)は、やはり「求道者」的な人が多いです。これだけメジャーなプロのバンドなのに、観客に対して「たくさん練習して来ました」と言うのは、とても奇異な感じがしますが、実際は本心なのでしょう。常に最善を追求して行くことが、この人たちにとっては、当たり前の事なのではないか。見習うべきことがたくさんあるように感じました。

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