MARUNIの社長ブログ

2014年9月のバックナンバー

御嶽山噴火

2014年9月28日

アベノミクスや東京オリンピック等のプラス面の陰には、消費増税や人手不足等のマイナス面が存在しています。全てはプラスとマイナスの2つの力が働いているからでしょう。これから始まる大きな時代の潮流(激変)を想像すると、プラス面とマイナス面の双方共、かつてない程の巨大な力として現れて来るような気がします。その両面双方の中に、実は大きなチャンスが(共に)眠っている様な気がします。プラス面をさらに活かすチャンスと、マイナス面を逆手に取るチャンス。時代が大きく動く時、このようにしてチャンスは「二乗」以上と成って倍増化するのかもしれません。だからこそ、これから始まる大激変は(多くの人々にとって)それぞれの人生のクライマックスを形成するのではないかと思います。

そして事業においても、人生においても、このチャンスを活かす道はただ1つの様な気がします。それは「極める」こと。自分自身が歩む道を極めること。周囲の現象に囚われず、自らの道を極めること。言い換えると、自己(=人間とは)を追求し続けること。これしか無いのではないでしょうか。今回の大激変(大震動)の目的は、ありとあらゆる社会全体に満ちた贅肉を削ぎ落とし、全ての物事や人間の本質(本性)を暴くことに在るのではないかと感じています。つまり、私たちの化けの皮が剥がされることに成るのだと。正体を曝されるのだと。それは一見、怖いことの様に思えますが、もしその本質や正体が純粋なものであったのなら、あるいは美しいものであったのなら、それは「発見」という言葉に転じます。

もっと純粋に、もっと素直に、もっと良心の声のままに、道徳心と感謝の心をもって、正しい(と信じる)道を行く。そのような道を極め続けている人や会社は、いつか発見されるに違いありません。「極める」にゴールなどは無く、永遠に届かない北極星に向かって歩むことと同じなのかもしれません。であるならば、「向かって歩く」という意識と行為こそが「極めの道」なのでしょう。そう思うことが出来れば、私たちの様なレベルの人間でも(今すぐ)その道を歩み始めることが出来ます。人生は誰かとの競争では無く、自分自身をより良くするための道程です。今の時代は大きなチャンスに満ちていると感じます。千歳一隅のチャンスが巡って来た。そこに気づくことが出来るかどうかの分水嶺だと思います。

昨日、(突然)御嶽山が噴火しました。登山中の方々や地域の方々への被害が最少で済みます様、心からお祈りしています。丸二と縁ある(岐阜県)加子母も、御嶽山から近い地域ではありますが、特に被害は無いようです。3年前の3.11を経て、日本の国土の大振動が増幅し始めていると言われ、地震のみならず火山の噴火への警鐘を鳴らし続ける識者や専門家が多数いましたが、今回このような形で(突然の)顕在化と成り、しかも日本の中央に位置し、日本三大霊山の1つと言われている御嶽山の噴火として現れ、ある種の緊張感が走ります。今のところ、水蒸気噴火と言う形であり、マグマの流出の可能性は低いとのことですが、他の火山への影響は(当然)出て来るのでしょう。

以前のブログで、霊山とは(山自体が)神聖な御神体であり、人間がむやみに足を踏み入れてはならない清浄な場であるという内容を書きましたが、御嶽山も(きっと)そのような意味があるのかも知れません。今回の噴火のレベルで納まるかどうかは、これからの私たち日本人の意識と日々の行い次第に成ると思います。日本の国土は、(まさに)龍体のように連なる「山々」という自然の御神体に支えられています。だからこそ、山の声を聞き、山の意志を理解し、素直に修正して行く努力が必要なのでしょう。これから始まる火山噴火の流れは、白山、立山等の他の大霊山へとつながり、最後には「富士山」へと向かうはずです。今回の御嶽山の周囲は木曽(裏木曽)であり、日本の檜の大産地です。裏木曽加子母の山にも(伊勢神宮のための)神宮備林(国有林)があります。風土的にも、歴史的にも、信仰的にも、日本の守り神である御嶽山の地で、今回(前兆なく)噴火が始まったことは、重く受け止めなければ成りません。

それでは一体、山の声、山の意志とは何なのでしょうか・・・。それは決して大げさな対策を講ずるという意味では無く、実は(個人個人の)極めて小さな意識や小さな行為の継続、あるいは追求ではないかと感じるのです。例えば、身の回りを掃除することとか、笑顔を大切にすること。感謝すること。道理やルールを守ること。そんなことの日々の積み重ねの様な気がします。要は、かつての日本人が最も得意としていた道徳的な意識のことです。しかしながら(欧米化された)現代の日本の中では、そのような文化は既に薄れて来ています。道理(自然の摂理)が分からない。全ての自己流の(自分にとって都合の良い)解釈で生きる。日本人が日本の本質(正体)に気づき、そこを極めて行くこと、追求して行くこと。今回の噴火を、その為のシグナルだと気づくことが出来れば、これから大いなるチャンスが巡って来ると思います。

日本が日本を極める道と、人間が人間を極める道は、(何か)同質のような気がします。けれども、(例えば)米国が米国を極める道と、人間が人間を極める道は、(何か)異質のような気がします(そこに、違和感のようなものを感じます)。この何か分からないけれど、日本という国には他国とは違う独特の精神(日本的良心)が存在しているようです。武士道、道徳心、感謝道。これら「日本的良心」を追求する生き方、経営、国家運営への転換期に来ているのは間違いないと思います。今、世の中では、いろいろなニュースや出来事が多く、あるいは日々の生活や仕事においても、ますます厳しい時代の到来を感じさせます。けれども、それらの現象を自分自身への「シグナル」と変換することが出来たのならば、一人ひとりが「日本的良心」への追求へと(自然に)向かえるような気がするのです。その向かう行為さえ始まれば(そして、続ければ)、それは既に「成功」ではないだろうか。等しくみんなに大いなるチャンスが巡って来る時代の始まりではないか。

オレの道

2014年9月19日

ソニーが上場以来初の無配になると発表しました。かねてからの業績の苦しさに付いては新聞紙上等で知っていましたが、今回の初の無配とは、とても大きな決断だったのではないかと思います。私自身にとってのソニーと言えば、ウォークマンであり、ベータマックスであり、CDの開発でした。それらは、常に新たな世界を切り拓く憧れの存在であり、他社はソニーの後を真似して行けば良かった。けれども時代は変わり、消費者のニーズが「ハード」から「ソフト」へと移り変わる過程の中で、ソニーも「モノ造り」から「ソフト産業」への時代の流れに(流されて)付いて行った様に思います。

先日、あるTVニュースで、既に廃れてしまったはずのVHS(磁気)テープが、最先端コンピューター装置の記憶媒体として復活を遂げていることを知りました。記憶媒体と言えば、今やディスクの時代のはずですが、本当に安全に記録を残す為には、むしろ高品質の磁気テープの方が適していることが分かり、最新の大型記憶コンピューターには、かつてのVHSテープが採用され始めて来たとのことです。このニュースにはとても驚きました。

そして、その磁気テープですが、かつては大変多くのメーカーがビデオテープやカセットテープを製造販売していたのですが、その後のCDやDVDの時代が始まると共に、製造中止を選択して来ました。ところが、その中でたった一社だけ、未だに磁気テープの開発を続けている企業があったのです。富士フィルムです。よって、最新大型記憶コンピューターの採用される磁気テープは、全て富士フィルム製です。もちろん注文殺到でしょう。富士フィルムでは、テープの時代が完全に終わっていたのに、より品質の高い磁気テープの開発に懸命に努力し続け、遂に新しい素材の開発にも成功したそうです。そこには一体どのような経営判断があったのでしょうか・・・。時代の流れをどれほど大きな視点で見ていたのでしょうか。ここに「モノ造り」への執念を感じたのです。

その番組では、他にも、(既に廃れてしまった)ポケベル技術を活用した「防災ラジオ」が、全国の自治体から注文が殺到していることも報じていました。ポケベルの電波は、現在主流の携帯電話よりも強力な為、どのような場所でも届くそうです。それは、有事の際の防災情報の装置としては、最大の利点です。このようにして、確かに時代の流れと共に、価値が薄れてしまった技術はあるのですが、その中に、きっと何かオリジナルの強みがあり、その強みを発見し、それを信じて、磨き続けている人たちがいる。その努力の結果が、ある日の突然の爆発を生むのではないでしょうか。まるで映画のようなドラマです。信じる力の素晴らしさ。巨大な時間軸でモノを見られる見識力。そして継続する意思の力と日々の努力。決して諦めないこと。他者の目や評価を気にしないこと。ソニーの無配のニュースや、旧技術の復活のニュースを見て、経営や人生についての思いを巡らしました。

ところで(話は変わりますが)、やはり人生とは映画のようなものだと、あらためて感じます。まさに自分自身が主役の映画です。100人いれば100の映画、1000人いれば1000の映画が、同時並行的に上映されているようなものです。ここで凄いと思うのは、自分自身以外の人は全て脇役として(自分の映画の為に)出演してくれている訳ですが、その脇役の人も、自身が主役の映画に(同時に)主演している最中です。つまり、自分が主役の作品で演じている行為が、(同時に)他人の映画の中での脇役の演技にも成っているという、まさに奇跡的な連動性を有しているのです。この完璧なまでの整合性を考えた時、人智を超えた摩訶不思議な世界観の存在を感じます。

もちろん、以上は私の勝手な想像に過ぎません。けれども、その様に捉えることで、ありとあらゆる出来事の意味や価値を正しく認識することができ、(同時に)不安や恐れに意味がない事も分かります。つまり、この人生が自らを成長させるための自作自演の物語であると気づくことが出来るからです。人生を生き切るとは、自作の物語の主役を演じ切ること。自分の歩む道とは、実は(既に)自分自身が脚本を書き、自分自身が監督をし、自分自身が主役を演じる映画の下書きであり、実際に日々歩み続ける行為こそが、映画の完成なのでしょう。そこに自身が求め続けていた経験の全てが在るのでしょう。

大体の映画はハラハラドキドキします。あるいは笑ったり、泣いたりします。そういう物語でないと面白くないからです。遊園地に行っても、ジェットコースターに乗ったり、お化け屋敷に入ったりして、ドキドキ感を味わいます。せっかく来たのだから、大いに体験してみようと思うはずです。人生もきっと同じで、せっかくの人生なのだから、いろいろな経験をしてみたい。だからこのような(苦しい)経験を自分自身に課してみよう。それを経験できたら(乗り越えたら)もっと成長できるはずだ。そのような脚本を自らが書いて、自らその場面を演出し、そして主役である「私」が「私」を演じる。そこに結果に対する不安や恐れは(本来)不要なはずです。だって、自分が書いた映画の中の予定通りのシーンの1つに過ぎないのだから。

私たちは、以上のような人生構造を忘れているが故に、苦しい場面が来ると(つい)そこから逃げ出そうとします。せっかく(長蛇の列を並んで)最高の遊園地に入れたのに、(怖くて)何も乗らないで帰ろうとします。でもよくよく考えて見ると、そのシーンを書いたのは自分自身なのだから、必ず(最終的には)良い結果が待っているに決まっています。自分の人生をわざと悪く書く人はいないでしょう。逆に、あえて超苦しい物語を書くチャレンジャーもいるでしょう。その苦しい経験の先に、とてつもない超感動が待っているからです。その実体験を味わいたいからこそ、苦難の物語を書いたのではないでしょうか。

でも現実に生きる私たちは、実際にはそうは思えず、そのシーンの撮影の直前に逃げ出してしまいます。でも、そこから全ての物語は狂って行く。時には、この映画(人生物語)そのものから(自らの意志で)降りてしまう人もいます。それは、数億倍という高い倍率で手に入れた映画化権を、撮影途中で放棄してしまうようなもの。自分自身の人生物語を造りたくて仕方ない人が、他にもたくさんいるのに・・・。映画化権を与えてくれた奇跡に対しての不義理に成ると思います。

生きていると、自身の映画と他人の映画を(どうしても)比べてしまいます。他人の人生の方が良く見えてしまうからです。でもそれは、その人の映画の全編を見ていない上での勝手な判断です。映画の全てを鑑賞できるのは自分自身の映画だけです。他人の映画は、自分が脇役で出演した時のシーンしか見ていません。それ以外の大半のシーンは決して分からない。だから、他人の本当のことなど永遠に分からないと思います。

それに、もし自分自身の映画の脚本を自分の意志で書いたのだとすれば、そもそも他人と比べようが無いはずです。悲劇を演じている役者さんと、喜劇を演じている役者さんを比べて、喜劇を演じている役者さんの方が幸福だという比較は全く無意味です。お互いに、今回はそのような物語に(好きで)出演しただけです。自分が演じたい役を演じただけ。孤独を克服する役をやりたいと思い、苦しい物語を演じている人と、のんびりした人生を味わいたいと思って、お金持ちを演じている人を比べる意味はありません。

むしろ、苦しい物語に身を置いている人の方が、素晴らしいチャレンジャーかもしれません。自分の意志で、あえて苦労を経験してみようとする凄い人です。だから今の自分の境遇や環境が悪いと思うならば、それは自分自身がファイティングマンであることの証明ではないか。だからこそ、人生に文句を言う必要はなく、自身が決めた環境設定を(むしろ)誇りに思っても良いのではと思います。

私が思うに、全ての人の映画にはある共通テーマが在る様に思います。それは愛と善で生きることではないかと。実際の映画も様々な分野や物語があります。戦争物や恋愛物、悲劇や喜劇、サスペンスやホームドラマ・・・。けれどもどのジャンルのどの映画も、最終的には「愛」や「善」を描いていると思います。私たちも、自分が体験したいジャンルを選択しながらも、最終的には「愛」や「善」で生きることの出来る自分自身を造る為に、映画に主演していると思います。その作品意図を早く理解して、物語が予定通り、あるいは予定以上の素晴らしい出来映えに成る様に、この日々を生きて行こう。あらゆる挫折や悲しみも、乗り超えて行こう。自分自身が書いた脚本以上の感動を味わうために・・・。

自分自身を生きること。個人も企業も自分自身(自社自身)を生き切ること。仮に生きにくい時代に成ったとしても、時は必ず移り変わり、必ず変化し続けて行く。だからいつか必ず「オレ(わたし)の時代」が来ると信じて、この日々を懸命に超えて行くこと。生きにくい時代の中で得た経験こそが、自分の映画の最大の見せ場です。だからこそ大きな感動が生まれます。個人も企業も、自分自身を信じて、自分(自社)の物語を創造して行こう。時代の流れを正しく認識しながらも、自分(自社)のオリジナルの価値を追求(求道)して行こう。そこから生まれる困難や苦労こそが、求めていた経験であるのだから。ソニーの生きる道と、富士フィルムの生きる道を見た時に、(決して比較では無く)個人も企業も1つの生命体として「生きている」のだと感じました。「流される」生き方もある。「貫く」道もある。そして私は「貫く」道を行く。世界でたった1つのオリジナルの映画、それが「オレ(わたし)の道」だから。

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