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中学校時代、あれこれ

昨夜は、中学校時代の友人たちと、いつもの飲み会でした。年、数回集まりながら、いろいろな事を話しつつ、各自の現状を面白おかしく理解し合い、とても刺激的で楽しい時間です。今回も6人が集まって、たくさん笑って、たくさん飲みました(私は少量)。
友人と会って、お酒を飲んで、いっぱい笑い合える幸せは、他の何よりも勝ります。話題も当時の話に加えて、「今」から「未来」へと向かい、それぞれ人生観や生き方も垣間見ることができ、単なる同窓会ではないところが大きな魅力なのです(幹事さんに感謝です)。
自分自身の中学校時代を振り返ると、まさに遠い過去のことで、本当に忘れ去ってしまったことが多いのですが、この地元の公立中学校に通うありきたりの毎日から、きっと何かしら大切な智慧のようなものを体得できていたのかもしれないと、最近ふと思います。
特に私は、おとなしくて、口数が少なくて、目立たなくて、インパクトがなくて、勉強も運動も中くらいで、高校入試も補欠合格という何となく中途半端な人生を歩んでいた時期で、もう少し時代が違っていたら、いじめにあっていたかもしれないような性格だったように思います。
でも、幸いなことに、私のまわりにいた友達たちは、頭のいいグループもワル系グループも、みんなが良いつながり感を持っていて、私のような「居るか居ないか分からないようなヤツ」の存在も、きっと許してくれていたのでしょう。結局、これがあるべき社会の理想形であり、この経験が大人になって役立っているような気がします。
どのような組織も会社もチームも、そのトップの考え方等に対して、2割の人が協力的で、6割の人がニュートラルで、残りの2割の人が批判的と言います。これも自然の摂理によるバランスで、変えようのない道理ですね。ただ、この飲み会の仲間たちに共通しているのは、愚痴や不平・不満を言わないことです。とにかく前向きで、明るくて、楽しい。きっとそれぞれが、それぞれの世界の中で、「協力的な2割」の中にいるのだと思います。
さて、中学校時代と言えば、映画に熱中し始めた時期で、結局その思いは大学時代での映画製作につながっていくのですが、当時の映画と今の映画を比べてみると、やはり映画作家の「熱」の違いというものを感じます。
例えば映画のファーストシーン(ファーストカット)に対するこだわり感のようなものが、今の映画からはあまり感じられません。つまり物語の説明上、わかりやすいファーストシーンから始まるだけで、そこにはこの映画を象徴する暗示なり、予感なり、メッセージは無いのです。昔の映画には、最初のシーンやカットに対する異常なまでのこだわりがあったような気がします。
フランシス・コッポラ監督の有名な「ゴッドファーザー」のファーストシーンは凄いです。ゴッドファーザーに対する相談者の顔のアップから、ゆっくりと絵を引いていき、マーロン・ブランドの後ろ姿、黒い頭と手が画面に入ってくる。その数秒感の緊張が、これからこの映画で語られる世界の背景、深さ、怖さ、異常性を表現しているように感じるのです。
また、ラストシーンも同様に、同じ部屋で終わるのですが、ゴッドファーザーを継ぐことになった三男のアル・パシーノが部屋にいて、その妻が部屋の外にいて、その部屋のドアが閉められるシーンで終わりますが、最後は妻のアップで、閉められる黒いドアが画面を覆い、妻と新しいゴッドファーザーを遮断します。これでエンドロール。どういう意味か・・・、言葉では語り尽くしない現象と心情がそこにはあります。
時代は変わってきました。いろいろな分野で・・・。中学校時代の友人たちも、間違いなく変わってきています。なので、私ももっともっと良い方向に変わっていきたいと思います。そして、これから始まる新しい価値観の時代に、(今度は補欠でなくて!)堂々合格したいものです。