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仕事納め

明日12月28日は会社の仕事納めです。今年も本当に素晴らしい一年でした。もちろん全てが良い事ばかりでは在りません。けれども、人も会社も様々な経験を通して成長して行くものです。ここ数年来の激動の時代において、こうして1つ1つの年を越して行けることへの感謝の思いでいっぱいです。どのような出来事も、自分自身に対するタイムリーな課題であり、ご褒美です。そう考えると、この世の中の仕組みは想像を絶する凄さだと分かります。一人ひとりの人間の全てが、個人の成長の為の出来事と出会いながら、その相手の人も、あるいはその総和の社会全体も、同時に必要な経験と向き合っているからです。どんな天才科学者でも追いつけない程の計算式の下で、全ては関連付けられ、管理運営されているのでしょう。そう成ると、今現在の世の中の変化も、きっと大きな意味合いを持っているのではないでしょうか。今を生きる個人個人が、自身の課題を解決する為に、「今」という時代が必要だったのかもしれません。世の中全体と自分自身の人生は決して無関係でなく、極めて太い線で結ばれていると思います。
今年もおかげさまで仕事量が多く、とても充実した一年でした。また中期経営計画も立て、会社の未来像へのイメージ化も出来ました。お客様に「良き建築」をお届けすることで、これからの激動(あるいは防災)の時代の中、私たちの役割は確かに拡大するでしょう。否むしろ、かつて無いほどの影響力が生まれるかもしれません。これまでの建設業は、ずっと下降線を辿って来ましたが、人々の生命と生活を守る基幹産業、もっと言えば「生命産業」としての復活を果たし、いよいよ社会に貢献しなければ成りません。震災の復興、国土強靭化、老朽化したインフラの整備、オリンピック対策、耐震・防火への対応、地域環境の清浄化、住まいの再建築、住まいの修繕、強固な建物、長寿命化・・・。人間が生きて行く上で、絶対的に必要不可欠な「衣(医)食住」の一角として、精神的にも肉体的にも負荷の多くなる時代の中、安らぎと寛ぎと安心安全をご提供する仕事。それが建設業です。
今、業界では職人不足が問題に成っています。この傾向はますます拡大するでしょう。同時に技術者の高齢化も進んでいます。この流れは、あらためて(「虚業」に対する意味での)「実業」への回帰を積極的に促す為の(あえて)演出された状況設定なのかもしれません。今後、最も人手を必要とする(であろう)建設業界に、人手不足、若者不足という課題がある。これは裏を返せば、その「反転」に対する期待では無いでしょうか。リアリティー(実体)のある仕事への回帰。そこまで読み取ることが出来れば、今後の職人不足や若者不足は一気に流れが変わってくると感じます。建設業の素晴らしいところは、経験者、熟練者には敵わないという面があることです。若い人の方が良い仕事が出来る業界はたくさんありますが、建設業はそうは行きません。やはり、実際の仕事をして来た人の経験には敵わないのです。そういう意味で、今現在の若者不足の中でも、この業界はしっかり成り立っています。
けれども、そろそろ熟練者の技術や経験を引継ぐ世代も必要です。そのようなタイミングの中で、今の建設需要の増加が起きました。これは天の計らいでしょうか。何か全てが計算され尽くしている。そのような印象を持つのです。熟練者や高齢者が優位と成る仕事は本物だと思います。結局のところ、最後の最後まで社会に貢献できる役割は尊いものだからです。年齢に関係なく、いつまでも出来る仕事こそが、その人の使命であり、役割ではないでしょうか。会社には定年がありますが、仕事には定年はありません。建築は、死ぬまでやり続けられる仕事の1つだと思います。伊勢神宮の御遷宮は20年に一度ですが、そのお蔭で、日本古来の建築技術が脈々と受け継がれています。建設業も(同様に)約20年振りに需要の喚起が発生しています。これも決して無関係では無いと思います。
来年は一体どのような年に成るのでしょうか。今年以上に激動の年に成るのは間違いないように思います。いずれにしても物価の上昇は今後もますます続いて行くでしょうから、そういう意味で、消費行動が早まり、景気を支えて行く可能性はあると思います。ただその一方で、社会全体の仕組みや個人の生き方を変えて行こうとする流れも加速するのでは無いでしょうか。その根底にあるものこそ、自分自身の中に在る良心との対話です。今までの社会全体に存在していた強制的(物質的)な価値観から抜け出し、自分自身の良心の声に従って生き始める人が増えて来るような気がします。先日、とても尊敬するある方からこう言われました。「今までは良心的な会社(人)が苦しかったが、これからは良心的な会社(人)が良く成る」と。これは逆に言うと、良心を裏切る経営や生き方をしたらダメに成るという、裏返しの意味にも聞こえます。全ての人間の生き方が「見られている」時代の中で、いよいよ個人の内面性に対する評価が顕在化する時代が始まろうとしています。それはむしろ厳しい時代ではないかと思います。けれども極めて爽快で清々しい時代でもあります。来年も一年、自分自身の良心と共に、楽しく経営と人生に向き合って行こうと思います。ありがとうございます。
※挑戦し続ける監督たち
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建設業と同様に、映画の世界でも70歳を超える熟練監督が未だに注目を集めています。どんな若手監督よりも衝撃的かつ挑戦的な作品を創り続けているからです。本ブログで何度も紹介している大林宣彦監督やジブリの高畑勲監督はその良い例です。先日、このお二人の製作現場を追うTV番組が相次いで放映されました。大林宣彦監督の方は、NHKの特集で、前作「この空の花~長岡花火物語」に引き続き、今度は北海道の芦別を舞台にした「野のなななのか」という古里映画の紹介です。今回も北海道の豊かな自然の中で、戦争や生と死を題材にしています。またきっと驚くべき作品に仕上がっていることでしょう。公開は来年で、今から楽しみです。
一方、高畑勲監督の方は、WOWWOWの番組で、前編と後編の2回に分けて放映されました。もちろん内容は、現在公開中の「かぐや姫の物語」です。この映画の評価は(驚くほど)真っ二つに分かれていて、賛否両論状態がさらに激化しています。未見の方は、年末年始にぜひ見てください。きっと「1点。ただの竹取物語。長い。つまらない」か、「満点。歴史的大傑作。不覚にもかぐや姫で泣いてしまった。また見る」のどちらかでしょう。番組を見て初めて知ったのは、高畑監督は「絵を描かない」ということです。アニメ映画の作者が絵を一切描かないなどとは、思っても見ませんでした。高畑監督は自分自身のイメージや考えを「言葉」で表現するのみ。あるいは手振り身振り。その下で、トップクラスのクリエーター達が、その指示に従って、懸命に作業を進めるのです。同じジブリの宮崎駿監督とは全く違います。まだ勢いの残っている手書きの筆の線をそのまま動画にするという、通常のアニメ制作のシステムでは考えられないやり方は、ジブリの製作現場を崩壊させたそうです。よって今回の「かぐや姫の物語」は、新たに別のスタジオを作って製作に入りました。それでも作業は難航を極め、公開は延びたのです。それにしても、一体このエネルギーはどこからやって来るのでしょうか。売れる映画を作るという発想は微塵も無く、自身の魂から発せられる「言葉」の実現だけに生きる。この「目には見えない」力と波動の合った人のみが、「心が震える感動」を味わえるのかも知れません。リーダーにとって「言葉」は生命です。あらためてその事に気づきました。私はお正月に、また家族と見に行く予定です。多分きっと、この映画は100年後も名作として存在していると思います。