社長ブログ

地球さんへ

5月はゴールデンウィークがあった為か、営業日数が少ない分、とても忙しい感覚がありました。国民としては、休日が多いことは(当然)喜ばしいことですが、国全体の経済力(生産力)という面においては、近年の日本の国力の著しい低下傾向を見ると、むしろマイナスに働いているのかもしれません。確かに休みが増えると、観光、レジャー、グルメ等に対する消費は増えると思いますが、その効果は限定的であり、常に人気次第で持続性も無く、これからの日本の未来を築く様な根本的な新技術や新産業への活力まで結びついていないと思います。要は(日本の最高の強みである)経済力と技術力を軸とした「国力の回復」に向けて、国家の全資源が総動員できていない現実があると思います。
今、原発に対する様々な議論が再燃しています。漫画「美味しんぼ」の表現や、大飯原発の再稼働を認めない判決も出ました。原発(=放射線)は人間の生命に関わる装置であり、人間が全てをコントロールできる様なものではありません。しかしながら地球の内部にある(有限資源である)化石燃料を(今まで通り)掘り続けることも、もうすでに限界です。化石燃料を掘り続けることは、地球(自然界)を傷つけることになるからです。でも一方で、原発利用は人類の生命を脅かすことになります。私たち人間は(長い時間)このジレンマの中で(主義主張とエゴと欲に飲まれながら)化石燃料と原子力発電の間を右往左往して来ました。原発も事故など起こるはずが無いという建前でした。しかしながら実際に(ソ連、アメリカ、日本で)重大な原発事故が起きてしまった。ならば、これから行くべき道は、化石燃料から原発を経由しての、(人も自然も傷つけない)「第3のエネルギー」と成ります。
それは、化石燃料や原発を「止める」という捉え方ではなく、次代へコマを「進める」という概念のような気がします。一刻も早く原発に依存しない社会、けれども自然環境をも壊さない社会を実現する為には、みんなで「第3のエネルギー社会」を目指して行かなければなりません。そのような方向性とビジョンを共有して、今現在の人間社会を(現実的に)支えてくれている様々なエネルギー(化石燃料や原発)への「感謝」の思いも共有しつつ、その上で、「さあ、次へ行こう」と。「賛成」vs「反対」という対立構造から、「共に地球の未来を創ろう」とする人類共通の目標に向かって、お互いの考えや立場を理解し尊重し合いながら、もう1つの新しい社会への進化を目指していく。私たちは過去と現在を肯定的に理解し、その上で、一致団結して(一刻も早く)人も自然も傷つけない新エネルギーを開発・稼働することが大事だと思います。
そのような基本技術はすでに存在していると聞きます。その技術が世に出ると困る産業もあるのでしょう。しかしながら最大の問題は電力コストの様です。先日のNHK番組では、ドイツの再生可能エネルギーは世界一進んでいるが、その分、電力コストが上昇してしまい、多くの企業の工場が次々と隣国に移転しているとのことでした。その隣国では原発による電力供給がなされていて、電力コストが安いからです。よって、現在のような世界的な不況下において、再生可能エネルギーへの転換は容易ではないのも事実です。そのような現実をお互いに共有しながらも、全地球的な見地で物事を捉えて、大きな流れを造って行きたいものです。その流れの中で、それぞれが「第3のエネルギー時代」への適応能力を高め、コストを下げる仕組みを開発して、経済システムを再構築して行く。それだけの時間軸には、まだ間に合うのではないでしょうか。
このようにして考えて見ると、この社会というものには必ず(矛盾する)2つの力が存在していることを感じさせます。陰と陽があって、はじめて全ての物質や思考が発生しているのではないかと。エネルギー問題にしても、化石燃料と原発という(大きく分けて)2つの力が在りますが、お互いに主義主張を持っています。大切なのは(そこで戦い合うのではなく)その2つの力を融合させて、第3の「何か」を(早く)生み出すことではないでしょうか。お互いの力を合わせて、新たな技術、発想、生命を誕生させること。世の中の仕組みの中に(もし)そのような側面が在るとしたら、戦争を経験したことで、戦争を終わらせる(=戦争エネルギーを別のエネルギーへ昇華させる)ことも可能なのかもしれません。要は、その力の(見た目の)現象ではなく本質(真因)を見抜くこと。
私たち人間が現実を生きるとは、このような矛盾する力の中で、いかに自らと社会を進化向上させていくかということなのかもしれません。逆に言うと、矛盾する力(=解決が困難な課題)があるからこそ、次の何かが生まれる訳です。結局のところ、なぜ地球が宇宙空間で浮いているのかも分からない人間に、世の中で起きている森羅万象を都合よくコントロールする力は在りません。そのことに気づけば、大切なことは外界を変えることではなく、自身の内面を変えて行くことしか無いのではと分かります。その思考の根本には、大自然への感謝、大地への感謝が在ります。そもそも「地球」にとっての真の平和とは、実は「人間がいないこと」なのですから・・・。けれどもそれでは宇宙自体の存在否定です。私たち人間は、この美しい地球上に(無料で)生活させて頂けていることへの感謝の心と謙虚さを決して忘れてはいけないと思います。だからこそ、無料で住まわせていただいていることへの替りとして、(この地球上で)次から次へと起こる矛盾する現象に真摯に向き合いながら、そこで味わう困難と悲しみを乗り越え、そこから新しい「何か」を生み出して行く。それが人間の進化向上とつながり、地球(自然)に一歩近づくことに成り、それが地球自身の真の平和に成るのではないだろうか。それこそが、私たち人間が地球に住まわせていただく為の許可証ではなかったのか。
つまり、私たちの人生とは、目の前で起きて来る(答えの出しようのない)矛盾や困難を乗り越えながら、新たな「何か」を創造して行くことなのかもしれません。もし、そのような「矛盾」や「困難」が無ければ、生きる意味の否定にすら成りかねません。人間が進化向上することができれば、地球にとっても(人間が)「無害(無為自然)」な存在に成るのでしょう。地球さんは、そのような(私たちの)進化向上を加速させるために、あえて(人間にとって)厳しい現象や現実を用意しているのかもしれません。と言うことは、(逆に)そこを乗り越えることができれば、それこそが地球さんが最も喜ぶことであり、同時にその結果として、今の私たちには不可能だった問題解決が(次々と)出来て行くのかもしれません。戦争や原発も(もしかしたら)その為に地球さんが用意した(私たちへの)重大課題だったのかもしれません。
未来の子どもたちと未来の地球さんの為に、私たちができることは、やはり(大自然に対する)感謝と謙虚ではないかと、あらためて感じます。その「感謝の心」と「謙虚な思い」を最も強く持っている国民が日本のような気もします。日本にもいろいろな問題が山積していますし、危うい面もあるように思います。それでも(他の国や地域に比べれば)幸せな世界に生きています。毎日のテレビ番組のプログラムを見れば、呆れて物が言えないレベルであることは確かに事実ですが、かと言って、国民全てが無知で無教養という訳では無く、きちんとした時代認識ができている若者も多く見受けます。むしろ大人たちの方に問題があるのかもしれません。今、私たちは(せっかく)厳しい時代を生きているのですから、そこから得られるものを極めて大きいと思います。しかも過去の歴史という蓄積経験も持っています。いよいよ進化向上のための大舞台が出来たのではないかとすら感じます。先ずは、そこへの感謝から始めたいと思います。

「ルルドの水」と「菜の花や月は東に日は西に」

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今朝(5日)、ガタガタとした揺れを感じて飛び起きたところ、さほどの大きな地震ではなくてホッとしたのですが、念のためTVを付けたら、東京23区(千代田区)で「震度5弱」でした。揺れ自体はそんなに激しく感じなかったのですが、「震度5弱」とはとても大きな数字です。確かに揺れ方が(今までとは違う)ちょっと変な感じがしました。最近は岐阜の方でも「震度3」程度の群発地震が起きていましたが、このような小規模の地震が小出しに起きることで、むしろ巨大な地震エネルギーが発散してくれるのであれば、(人間にとっては)ありがたいことです。
日本の場合は、元々が地震国のため、他国に比べれば建物の耐震性は(非常に)高くて安全です。けれども、昭和56年(1981年)以前の旧耐震基準の建物もまだ多くあり、その耐震化を進める努力が進んでいます。また都内には木造住宅密集地域も数多く有り、そこでは災害時における火災の問題が心配です。昨日は新潟の海岸で(5名の方が亡くなるという)悲しい事故がありましたが、津波、台風、豪雨を含めての水の事故にも気を付けなければなりません。どんなに準備や対策をしても、自然の猛威(地、火、水、風)を恐れる気持ちは大切だと思います。
この連休中にも山の事故が(数件)起きていますが、私たち人間は「山を恐れる(畏れる)気持ち」を決して忘れてはいけないと思います。それは、山の厳しい天候的な面だけではなく、もっと神聖なもの、つまり、自然界に対する畏れ(信仰心)の様な種類のものです。日本の山々の中には、古来より「霊山」として地域の方々に敬われている山や森があります。そこにはむやみに人は入らず、この地を護っていただいていることへの感謝の祈りを捧げるのみです。つまり、山や森そのもの(全体)が「御神体」ですので、(当然)人間が土足で入る様な場所ではありません。けれども今の現代人は、そのような(自然界への)畏怖の念を喪失していまい、どこへでもレジャー感覚で入り込んで行くようになりました。あの富士山に登る事さえも、本当に良い事なのかどうか分かりません。
最近のニュースで、エベレスト登山の為の入山料が(日本円で)約250万円(ネパール側)と知りました。これは、確かに(人間的な経済感覚としては)非常に高い金額ですが、(人間が)世界最高峰の「聖地」に立ち入るには、それくらいの意識と覚悟と心構えが必要なのでしょう。「険しく危険」という理由だけでなく、決して気楽に立ち入る様な場所では無いという自覚です。富士山も同様に、否それ以上の意味合いが在る様に感じます。ある程度の高額な入山料を取り、山を汚さない意識を共有する必要があるのではないかと思います。
今回の韓国の客船沈没事故は、明らかに人災の様ですが、その後の地下鉄追突事故もきっとそうでしょう。けれども日本でも、2005年にJR福知山線脱線事故で、乗客と運転士合わせて107名が死亡しています。これも人災でした。日本の方が安全対策や救助対策のレベルは高いと言われていますが、人間である以上、絶対的な完璧は存在しません。ありとあらゆる完璧な対策を講じて、それでやっと半分。残りの半分は、大自然の摂理に委ねられているのではないでしょうか。合理的な考え方では、そのような目に見えない不確定な領域は無視すべきでしょう。けれども、私たち日本人の心の奥底には、何か・・・そのような深い部分にある「祈りというもの」が(まだ)いくらか残っているような気がします。4日には、インド西部マハラシュトラ州で列車が脱線し、少なくとも18人が死亡、112人が負傷しました。特定の宗教を持たず、八百万の神(森羅万象)を畏れ敬うという(世界的にも珍しい)自然信仰の国である日本が、それでも他国に比べれば、安心安全な国でいられるのは、自然界やご先祖様への「祈り」の文化が残っているからではないかと感じます。
今、建設業界では人手不足が大きな課題に成っていますが、外食産業やサービス業、物流等も同様で、大手牛丼店でも人手不足による一時閉店が起きています。世界的には仕事がなく、失業者があふれているのに、日本は真逆の状態です。人手不足も確かに大きな問題ですが、それでも仕事がない、やることが無いよりとても幸せなことです。あとは、方法論で解決して行けば、また新しい発想やシステムや意識改革が生まれて行くでしょう。このようにして、日本はいつも様々な苦境を経験しながらも、その中で必ず不思議な力が働き、逆の良い方向へ向かって行きます。
最近、奇跡の水として有名な「ルルドの泉」を描いた映画「聖処女」(1943年)を(DVDで)観ました。フランスのピレネー山脈にある小さな村ルルドに実在した少女ベルナデットが、ある日、村外れのマッサビエルの洞窟で白衣の聖女(聖母マリア)を幻視し、土を掘るように言われます。そこから湧き出た泉の水で、死にかけた赤ん坊の命が救われます。無学なベルナデットは、聖母マリアのことが誰だか分からず、最初は「あれ」と呼んでいました。その後、聖母マリアがベルナデットに「自分は無原罪の御宿りです」と伝え、そのことから、ベルナテッドの前に姿を現しているのは「聖母マリア」であることが判明します。しかしながら、何時の世でもこのような人は社会から隔離されてしまい、最後は修道院に入り、35歳で、肺結核で亡くなりました。
聖母マリアは、この少女の前に18回も姿を現したそうです。その後、聖母が現れた場所には聖母像が建てられ、やがては大聖堂が建てられ、今や世界中から巡礼者が後を絶たず、ルルドの水の「奇跡」を求めて多くの人々が集まって来ます。ルルドでは、これまで約2,500件の「説明不可能な治癒」が起き、その中でも「奇跡」と公式に認定された症例は68件在るとのことです。無学でしたが、心の清らかな一人の少女が見たものが、本当に何(誰)であったのかは、今では分かりません。それに、本当に「見た」のかどうかも分かりません。けれども、そこで起きた数々の「奇跡」が事実である以上、きっと「何か」と出会ったのは本当なのでしょう。
もしこれが日本だったら、聖母マリアではなく、誰だったのかと想像します。けれども、なかなか出て来ません。日本の場合は、そのような存在は、特定の人物や姿ではなく、何か自然界の中に溶け込んでいるような感覚があるからです。日本の場合は、森羅万象のありとあらゆるものの中に、既に「それ」は含まれている、宿っている、たたみこまれている、漂っている。例えば、小さな菜の花の花びら1枚に在り、夏の草原を爽やかに吹く風の中に在り、秋の夕暮れに鳴く虫の声に在り、野山を銀世界に変える雪の結晶に在る。私たちが「そこに在る」と感じれば、そこに出現する。きっと松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村のような俳人たちは、そこに在る「それ」を見て(あるいは聞いて、触って、感じて)限られた数の中に「文字として」転写したのではないでしょうか。たった17文字の中から、(私たちが)そこに漂っていた空気、風、色、音、感情、思い、想念を感じと取ることが出来るのは、日本人が共有する「それ」が普遍性を持って、媒体化されているからかもしれません。
ちなみに私が知っている数少ない俳句の中で、一番好きなのが、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」です。とても分かりやすくて、その光景がイメージしやすくて、春の夕暮れに、黄色い菜の花の咲く田園の向こう側で、オレンジ色の夕日が沈んで行く時、反対側の空には、丸いお月様が光り始めている・・・。本当の解釈は違うのかもしれませんが、大自然の雄大さと美しさの中で、夕暮れ時の侘しさと、太陽と月が彩る宇宙とが混然一体となって、私(人間)と自然界を優しく結び付けてくれる様な、そういう思いやりを感じるのです。きっとそこには、何か、特殊な(目には見えない)意志が存在しているのではないかと。
日本の文化について、私は全くの無知ですが、日本人の心の中に在る「自然界の中に何かが在る」という思いの積み重ねが、今の日本を形づくっているのは間違いないと思います。私も「それ」を大切にして行きたいのです。日常の生活でも、人間関係の中でも、仕事においても、経営においても。もし日本の気象や経済や事故等が、すべて日本人の想念の総和によって引き起こされているとするならば、みんなで「それ」を意識して行くことが出来れば、きっと今を乗り越えられるのではいかと。「それ」とは、人によって表現は違うと思いますが、時に「心」であり、時に「愛情」であり、時に「思いやり」であり、時に「感謝」だと思います。
日本中、否世界中の地震や事故や不況や悲しい出来事を、全て幸福な出来事に変えてしまおう。そのためには、何か大きな運動を起こすのではなく、私たち個人の日々の、ごく日常の極めて小さな事柄、小さな場所、小さな出来事、そのような細事の中に「それ」を見出していくこと。例えば、(道や外に)ゴミを捨てないとか、人に優しく接するとか。これをみんなでやって行けば、きっと世界は今を乗り越えられると思います。「ルルドの水」は、フランスのルルドまで行かなければ、手にすることは出来ませんが、自分自身の心の中に「新しい意識」を宿すことは(誰にでも)今すぐに出来ます。それはまるで、「ルルドの水」を体内に持つが如くです。私たちは日本的な「森羅万象」という1つの軸を(心の中に)持つことで、一瞬にして、世界中のどこへでも行けるのかもしれません。それが、私たち日本人のDNAの中に隠されているとしたら、何かワクワクして来ます。そういう意味合いの俳句があったら、面白いですね。
※最近の音楽DVD
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基本的にクラシック音楽が好きなので、ロック系、しかも日本人アーティストの音楽は全くと言って聞くことが無いのですが、最近、何となく気になって買ってみたライブDVDがなかなか良かった。「エレファントカシマシ25周年ライブ」です。名前は知っていますが、実際の曲までは良く知らず。その上、とにかく男性的なロックで、自分の好みとは正反対。けれども、何か感じるものがありました。もの凄い顔をして朗朗と歌を謳い上げ、叫ぶボーカルの男(宮本浩次さん)の姿は、「うまい」とか「すごい」とかいう生易しい表現よりも、まるで「鬼神」の様で、そこには生身の「狂気」を感じました。同時に不思議な「童心」も・・・。多分、作られた(演出された)ものではないような気がします。聞くところによると、人生で最初に買ったレコードが、ベートーヴェンの「運命」だったとのこと。昨年、宮本さんは急性難聴になり、耳が聞こえない恐怖を味わったとのことですが、髪の毛もぐちゃぐちゃなので、見た目もまるでベートーヴェンの様です。
本来、真の芸術家とは、ある種の狂気を持って、自らの作品造りに没頭し続ける者で、最近の芸能人的なアーティストは、どちらかと言うとタレントであり、流行をうまくキャッチしてヒットを飛ばすことが上手です。けれども芸術家とは、そういう流行を追うことよりも、物事を「探求する」方向へ全エネルギーが向かうので、必ずしも生前に認められる訳ではありません。むしろ不幸な一生の人が多いです。この「エレファントカシマシ」の場合は、もう大変メジャーなバンドですから、もはや不幸なはずはありませんが、けれども、「探求者」の道を歩んで来たような印象を受けました。
世相への皮肉を込めた激しい曲もありますが、その根底には、「挫折や悲しみを乗り越えて行こう」「胸を張って生きて行こう」「素晴らしい人生を送って行こう」「音楽って素晴らしい」というような、極めて純粋無垢で前向きな意識が感じられます。曲想も独特かつ個性的で、歌詞には日本文学の匂いもします(森鴎外や夏目漱石等が好きらしいです)。クラシック音楽を聴く自分が好きに成る音楽(家)は、やはり「求道者」的な人が多いです。これだけメジャーなプロのバンドなのに、観客に対して「たくさん練習して来ました」と言うのは、とても奇異な感じがしますが、実際は本心なのでしょう。常に最善を追求して行くことが、この人たちにとっては、当たり前の事なのではないか。見習うべきことがたくさんあるように感じました。