社長ブログ

若い力で!

政治とお金の問題やマニュフェストとの乖離等により、民主党の勢いも徐々に落ちてきたようです。国民の期待に応えるというのは、本当に並大抵なことでは無いのでしょう。私は、日本の政治家の多くが、(与野党問わず)高い志を持って、日本を何とかしようとしていると、固く信じています。そのような過程の中で、多少の問題が起きたとしても、それほど気になりません。それよりも、もっと大きなことに取り組んで欲しいからです。しかしながら、その大きなことに、実際に取り組めているかと言うと、現実はどうもそうでもなさそうです。何かきっと、壁があるのでしょう。もしかしたら、それは(意外と単純に・・・)「世代」という壁かもしれません。
今の国会議員の定数を削減して、参議院も無くして、かつ政治家の年齢制限または任期制限を設けたら、どうなるのか・・・。例えば、国会議員に立候補できるのは原則50歳未満とする(世襲も禁止)。ただ一部、地方自治の経験者(市議、市長、知事等)のための特別枠(年齢制限は無し)を設けて、それは2期(8年)あるいは3期(12年)までとする。企業団体献金は廃止し、広くインターネット等で個人から献金できるシステムに変える。仮に、このようなシステムになると、特定の企業団体からの影響を受けずに、若い人たちが生き生きと政治を行うことができるようになり、また地方自治の経験豊富なベテラン政治家たちの、プロとしての経験を国政に生かすこともできます。
こうなれば、国政における権力構造は弱まり、若い人がもっと自由に大きなことに取り組めるのではないでしょうか。もちろん、それによって政治が甘くなったり、軽くなったりしてはいけません。そこは、私たち国民が、厳しい目でチェックをしていきます。そして50歳を過ぎて引退した大物政治家たちは、政治塾を開校して、ガンガン若い政治家たちを指導・教育し、立派に育てていくのです。仮に、その塾生が立派な政治家になれば、その塾は評価を受け、入塾希望者も増えるでしょう。そのような状態になれば、国政はもっとダイナミックかつオープンになり、本当のリーダーシップが生まれて来ると思います。
このような改革をやれば、意外と面白いのではと思います。面白い政治によって、様々な問題が解決し、国が良くなっていく喜び、世界が良くなっていく喜び、地球が良くなっていく喜びを味わいものです。日本人の精神性があれば、きっと大丈夫です。

日本と感謝の歌

丸二の経営理念は「感謝」ですが、感謝の気持ちを表した有名なクラシック音楽が、実はあります。ベートーヴェン作曲:交響曲第6番「田園」の終楽章(第5楽章)です。田園交響楽は、ベートーヴェンが書いた9つの交響曲の中でも、最も穏やかで牧歌的気分に満ちた名曲です。その終楽章は「牧人の歌~嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」という副題のとおり、第4楽章の「雷雨、嵐」が去った後の感謝と喜びの田園風景を歌ったものです。
もちろん全曲素晴らしいのですが、特にこの「感謝の歌」は、詩も無く、管弦楽だけなのに、本当に感謝と喜びの気持ちが、聴く人の心に歌のように響いてくるのです。多分、ベートーヴェンの他の楽曲と比べると、やや単調な楽章ですが、素晴らしい演奏で聴くと、とても感動しますし、涙が出そうになります(逆に、演奏がいまいちだと、厭きやすいですが・・・)。
耳が聞こえなくなり、とうとう死を覚悟し、遺書まで書いたベートーヴェンにとって、森や田園に木霊する音たちは、もはや心の中でしか響いていなかったはずです。その音たちを、今、ここにあるかのように、ひとつひとつ優しく積み上げて、感謝の気持ちの大聖堂に築き上げたことは、常人では不可能だったと思います。そういう背景を思いつつ聴くと、また感慨深いものです。
さて、その「素晴らしい演奏」ですが、私が好きなのはこの2枚です。
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ベートーヴェン:交響曲第5番『運命』、第6番『田園』、他 ベーム指揮ウィーン・フィル(1977年 東京ライヴ)
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ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』、ワーグナー:『ワルキューレの騎行』、他 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(1979年 東京ライヴ)
偶然にもこの2枚、共に1970年代後半の東京ライヴです。ベーム指揮ウィーン・フィルという伝統的ドイツ・オーストリアの温かく美しい響きと、旧ソ連のムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルという厳格で強固な響き・・・この全く相反する名演が、ほぼ同時期にわが日本で鳴っていたのです。それだけでも何か不思議なものを感じます。
実は、他のCDでも、東京公演のライヴがたくさんあって、しかもとても素晴らしい演奏が数多く残っています。これは一体どういうことなのでしょうか・・・。少なくともプロですから、演奏を間違うことは無い訳ですし、「特別、名演にしなくてもいいや・・・明日もやるし・・・」などと考えてもおかしくないと思います。それなのに、日本まで来て、最高の演奏をするというのは・・・。
それはきっと・・・日本人の意識の高さ、感性の良さ、真摯な姿勢、歓迎の精神、おもてなしの心、思いやり・・・そんなものに触れたことによって、大いなる感謝の思いが高まり、結果的に一世一代の名演を生み出したのではないかと思うのです。一方、すべての文明の起源(源流)は日本にあるという説もあるようですから、世界の芸術家達は、日本という国の存在を(無意識に・・・)神聖な場所として捉えているのかもしれません。ただ単に、チケットが高く売れるからという理由ではないような気がします。
これで、日本と感謝の歌が結びつきましたが、日本には「ありがとう」という素敵な言葉があります。今、確かに日本は苦しんでいるように見えますが、この日本独自の精神性を呼び戻しさえすれば、すぐに世界に感謝される存在になれると思います。経済から解き放たれているアーティスト達の純粋な目には、もう見えているはずです。さらに良い時代になります。田園交響楽の聴きながら、そんなことを思いました。

アナログの時代

今回のトヨタのリコール問題を通じて知ったのは、今の車のブレーキ・システムが複雑な電子制御によるものだということです。足で踏み込むという物理的な動作が、そのままタイヤを止める力になっているというのは思い込みで、実は複雑なプログラミングによって、ブレーキが作動しているんですね。
私は、車の電気化には賛成ですし、ハイブリッドなどのような中間的なものでなく、本格的な電気自動車が早く世に出て欲しいと思っていますが、エンジン(動力)以外の機械的なメカニック部分は、できるだけ単純な方がいいですね。その方が、運転をしていて、音や振動や効き具合から異常が感じられますし、何となく安心感があります。すべて電子制御になってしまうと、そういう感覚が無くなり、修理もできにくくなり、何かの誤作動や電気製品からの電磁波等の影響で、突然狂うことも考えられ、ちょっと怖いです。
デジタル化の波に乗って、人々の生活を快適にするために、昨今さまざまな商品開発が行われていますが、今後はデジタルとアナログの両方の良さ、あるいは電子式と機械式の両方の良さを、うまく統合していく必要があると思います。建築は、そういう意味では、アナログ的であり、現場で人が手造りで建設していくものです。姉歯問題のようなことも、本来、現場で鉄筋の本数や太さを見て、アナログ感覚で、「おや?」と思うはずです。そういう意味で、太古の時代から継承されている建築は、極めて単純明快で、最も安心・安全な技術体系ではないかと思います。
これから電子化が行くところまで行くと、その後はむしろ、このような人力によるアナログ的な製造工程、アナログ的な商品に価値が移っていくのではないでしょうか。造る人によって違う商品。絵も、芸術も、建築も、みんなそうですね。現在の街の店頭に並んでいる商品は、みんな1ミクロンの誤差も無い、全く同じものです。そういうモノは、そういうモノとしての価値がありますが、そうではないモノも同時に、必要なのです。
だから、建築も、プレハブ式の精密な組み立て物よりも、現場で職人たちが気持ちを込めて造る方が良いいのです。絶対に他には無い建物が生まれます。今の時代、夏は猛暑、冬は極寒の中で、コツコツとものづくりが出来る人は極めて希少です。そのような人たちの温かい心が、有機的に、建物に宿ります。建物にも生命があるからです。だから、無機的な組み立てではなく、人の手によるアナログな建築を大事にしてもらいたいと思います。それが、新しい文化の創造です。

人間的な何か・・・

なかなか本題に入らず、ずるずる時間ばかりが過ぎていく日本の政治状況を見ていると、政治家全体のリーダーシップの欠如を感じます。また、「政治とお金」という問題を常に生み出している根源は、そもそも私たち人間(=国民)誰もが持っている「金銭欲」に起因するわけですから、永遠に終わらない性格のものなのかもしれません。すべて、陰と陽の世界ですから・・・。
大事なことは、その「私欲」を「公欲」にまで昇華・発展させることであり、そのような意味で、政治の世界では「大欲」の人物が必要だと思います。それが本当に「私欲」でなく「公欲」だったのかどうかは、いつか歴史が証明してくれるでしょう。だから、真実の解明は、時間(=自然)の流れに任せて、今はとにかく、この難局を乗り越えるために、お互いの長所と強みを連携させて、具体的に動いていくことだと思います。
そう考えると、最近のマスコミ報道には、何か陰湿なものを感じます。小沢さん、朝青龍等に対する報道を見ても、客観性を失っているように感じます。もちろん、いろいろな問題については、しっかり追及していくべきですし、どんどん批判していくべきです。しかしながら、その前提として、「私たち人間がやること、完璧は無いし、自分だって少なからずそうかもしれない・・・」という、自らを省みるという作業も同時に必要ではないかと思うのです。
一般の人々が厳しくモノを言うのは当然ですが、「人の行為を世間に公表する」ことを「職業」としている報道人の場合は、それではいけないと思います。そこには、「職業的な良識(良心)」が必要になるはずです。つまり・・・何か、うまくは言えないけれども・・・そこには人間的な何かが必要なのです。その上で、きっちりと事実・真実を追及し、正すものを正し、批判すべきものを批判していく・・・。
その「人間的な何か・・・」が損なわれ始めたから、学校でいじめが増えているのか・・・。大人が、自分の事は棚に上げて、人を(必要以上に)攻撃しているから、子どもが真似をし始めたのか・・・。いろいろと考えさせられます。

会社は公器

今朝、大学時代の友人から、「松下幸之助の言葉」がメールで送られてきました。私のブログを想起させる内容だったからという理由で・・・。とても嬉しく思いながらも、まだまだ至らない自分自身に気づく良い機会となりました。
その言葉は・・・
「企業は社会の公器~一般に、企業の目的は利益の追求にあると言われる。たしかに利益は健全な事業経営を行なう上で欠かすことができない。しかし、それ自体が究極の目的かというと、そうではない。根本はその事業を通じて共同生活の向上をはかることであって、その根本の使命を遂行していく上で利益が大切になってくるのである。そういう意味で、事業経営は本質的には私の事ではなく、公事であり、企業は社会の公器なのである。だから、たとえ個人の企業であろうと、私の立場で考えるのでなく、常に共同生活にプラスになるかマイナスになるかという観点からものを考え、判断しなければならないと思うのである。」
会社は誰のものか・・・。この問いは、常に頭の中にあります。いま、トヨタがリコール問題で大変な状況になっていますが、まさに企業が「公」のものであることの証明を、突きつけられているように感じます。大企業であろうと中小企業であろうと、社会に対する責任は同様であり、重いものです。自社の考え方や仕事の中身によって、お客様や社会、関係者の生活や人生に多大な影響を与える以上、企業は「私」だけのものではないと理解できます。
もっと言えば、企業は「私」あるいは「公」をも超えて、もっと大きな視点としての、「大自然」から与えられたものではないかという認識も出てきます。社会(お客様)を幸せにするために、そして社員を幸せにするために与えられた器として・・・。とすれば、会社は社長のものでは無く、「大自然」の所有物。その大きな「大自然」から会社をお借りしている・・・つまり「させていただいている」という認識に立てば、きっと経営のあり様も変わってくるに違いありません。これからの時代の、不景気を吹き飛ばすヒントが、ここにあるように感じます。今日は、友人のメールに感謝しながら、「公器」としての会社、「大自然」に生かされている会社を考え、さらにもっと認識を変えていこうと自覚しました。