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「思い出のマーニー」と今

佐世保でまた悲惨な事件が起きてしまいました。ニュース報道の中に「再び」という言葉を聞いたのですが、10年程前の小学校で起きたあの事件も、佐世保だったのですね・・・。地元の方々にとっては、本当に様々な思いがあると思います。このような「心の教育」という課題に向き合いながらも、なかなか思うように成らない現状は、(当然)ひとつの地域だけで解決できる問題では無く、まさに地球上の全ての人類に対する共通のテーマではないかと感じます。最近のニュースで見聞きするように、中東では(相変わらず)大人同士の殺し合いが続いています。現代社会では、子ども達だけでなく、大人達にとっても「心の病」が暗く影を落としているかの様です。その闇を明るく照らす術を、私たち人間は忘れてしまったのでしょうか・・・。
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先日、公開中のジブリの新作「思い出のマーニー」を観ました。とても素晴らしかった。ジブリ作品では、昨年の「かぐや姫の物語」で大変な衝撃を受けたのですが、今回はまた別の意味で、深い感動(感慨)を覚えました。多分、観る人によっては、あまり起伏の無いストーリーで「どこが良いの?」という感想が出て来るかもしれません。商業映画として「良い出来か?」と聞かれれば、「ちょっと下手かな」とも。やはり宮崎アニメと比較されれば(総合的には)そのような評価に成る様な気がします。けれども、この映画にはそれを超えるだけの「何か特別な力」を感じたのです。もちろん原作(物語)の力があったとは思いますが、そこに一般的な映画とは(あえて)別の道を行こうとするオリジナルの感性(方向性)が見えたのです。私は、人と違う道を行く人が好きなので。
その「何か特別な力」とは何か。それは「映画を映画として観て、感動したり泣いたりする」という一般的な映画鑑賞の領域を超えた「外側」に、何かもう1つの世界観の存在を感じたのです。私はそれを、ある種の「治癒行為」と呼びたいのです。映画の物語自体が、主人公の(時空を超えた)内面への旅であり、自分自身の心の治癒へと向かって行くのですが、同時に(観ている)私たち自身の内的な治癒をも起こしているかのような感覚に陥ったのです。これは錯覚だったのでしょうか・・・。それを確かめる為に、また観てみたいと思う程です。この物語は、北海道の湿地にある古いお屋敷が舞台ですが、やはり「家」という存在(場)は、人間の心、内面、精神の成長に大きな影響を及ぼしていることが分かります。良き思い出も、嫌な思い出も、「場」に宿ります。今回の佐世保の事件では、加害者である高校一年生の少女は(親とは別に)マンションで一人暮らしをしていたそうです。そこが事件の現場にも成りました。彼女にとって、その部屋(場)は、一体どのような「心象風景」だったのでしょうか・・・。
「心の治癒」とは、もしかしたら今の全ての人々にとって大切なことなのかも知れません。自分でも知らない内に、(勝手に)自分自身を傷つけているのかもしれません。今回の佐世保の事件は、極めて特殊な例かも知れませんが、私たちも、自分自身の内面に在る「心象風景」を意識して見ることが大切でしょう。それが喜びで満たされているのか、あるいは孤独の叫び声を上げているのか。「思い出のマーニー」は、映画としての評価は分かれると思いますが、自分自身の心の奥底に眠っている「心象風景」を思い出す為に、観てみるのも面白いかと思います。もしそこで「何か」を感じ、「何か」を思い出したら、きっと「外側」と「内側」とがつながり、「無色の世界」が「カラーの世界」に一変するかも知れません。「心の教育」「心の治癒」とは、(結局のところ)一人ひとりが「自力」で、自分自身の内面へ向かって旅に出る以外、道は無いのでしょう。そこで、自分自身の良心の声を聞く以外・・・。そして(自分自身の)小さな光が、(みんなの光と)束と成って、この世界の深い暗闇を明るく照らし始めるのでしょう。今、そのことを思い出しました。
ところで、(どうでも良いことですが)私のジブリ作品のベスト3です。
第1位 かぐや姫の物語
第2位 思い出のマーニー
第3位 千と千尋の神隠し
「思い出のマーニー」が第2位とは自分でも意外です。それにしても、映画の中の「空」と「水面」と「月」の映像がとても美しく、素晴らしかった。まさに心の心象風景でした。この映画の究極のメッセージは、「人を許し、自分自身を愛すること」。美しい空の色彩が、その全てを物語っていた様に思います。

内側の世界

再びマレーシア航空機の事故(事件)が起き、多くの命が犠牲に成りました。真相は不明ですが、これが大きな国際的な問題等(戦争)に発展しない様に心から祈ります。国内では多くの誘拐事件や殺人事件が発生しており、幸い岡山の事件は無事保護と成りましたが、このような普通の生活の中にこそ紙一重の危険が潜んでいることを自覚しなければ成らない時代なのでしょう。そうは言っても、怯えながら生活をする必要性も無く、それでも(諸外国よりも)安心で安全な日本に生まれたことに感謝して、自ら(何かに巻き込まれる様な)種を撒かず、この日々を懸命に生き抜いて行くことしか無いのでしょう。私たちは、どうしても世の中(外側)で起きている事象に心を奪われ、あるいは恐れ、自分自身への過度な(精神的な)負担や圧力を強いるものですが、何があっても、自分自身の心(内側)を大切にして行くことも同時に大切なことかもしれません。
先日、NHKの番組で「人手不足」を特集しており、現在、最も人手が足らない職種として「型枠大工」が紹介されていました。これは建設業者として既に実感していることです。型枠大工さんの仕事は本当に重労働ですので、長引く不況に加えて、リーマンショック以後の深刻な建設業界の低迷によって、職人たちが離れて行ったのでしょう。結局その後、景気が(ほんの少し)回復基調と成っただけで、急激な人手不足に陥りました(この2年がピークだったと思います)。最近はやっと受給バランスが取れて来たところですが、(過去の経験からすると)この景気回復がまた一段落すると、あるいは(各ゼネコンの)労務的リスク回避の為のリストラ(企業収縮)策等によって、再び「人余り」へと転じる可能性が無いとも言えません。いずれにしても、そのような流れを繰り返す過程の中でも、建設業に多くの(次代を担う)若者たちが入ってくる環境を、私たちは造って行かなければ成りません。
建設業は、(このようにして)それぞれの時代における経済面の影響を過分に受けてしまう傾向がありますが、(同時に)人間が生きて行く為に必要不可欠な産業=「衣(医)食住」の重要な一角を担っており、(この世界に人類が存在する以上)決して無くならない職業であることも事実です。どのような時代に成っても、国や地域は建設業を存続させなければ成らない。そういう意味では、外部環境の変化に無関係に、社会全体が守るべき存在でしょう。しかしながら、ここ数十年来のデジタル化時代の大波の中で、そのような本質的な認識が失われてしまった・・・。これこそが「人手不足」の真の原因だったと思います。いかなる時代になろうとも、守って行くべきものとは何か。そのような長期的視点、あるいは理念こそが大切です。まして、地球環境の激変(自然災害)の時代が始まる中で、日本の優れた建設産業の技術や人的資産が枯渇してしまっては、国家の存亡にすら関わります。かつてマスコミによって「3K」というレッテルを貼られ、それによって「若者離れ」が起きてしまったことが、(今思うと)最大のミスだったと思います。時代を超えて生き続けるアナログ的な産業(建設業、農業、林業、介護・・・)を大切にする時代がやっと始まりました。
ところで最近のニュースを見ると、これから日本中で多くの過疎の町や村が消滅すると報道しています。確かに、人が住まなく成れば、町や村は消滅するでしょう。便利と効率だけを求めた結果の当然の帰結です。結局、すべてはバランスではないでしょうか。便利と効率も大事ですが、それだけは割り切れない面も同時に大切です。陰と陽のバランス感覚。あらゆる物事には(昼と夜のような)二面性が在り、例えば人間の意識も顕在意識と潜在意識の両面があります。お互いを否定し合うのではなく、反対の性質のものをミックスして、新しい価値を生み出すこと。これが自然の摂理であり、道理ではないでしょうか。都会と田舎、デジタル産業とアナログ産業、外側と内側、肉体と精神。みんな2つで1つ。このような両面をバランス良く成長させて行く為には、やはり先ずは、自らの内側(心)を確かなもの(安心、安定)にすることだと思います。けれども、それが一番難しいですね。様々な事柄を経験できる今の時代は、自身の内側を鍛えるにはモッテコイの環境なのかもしれません。
※映画「エレニの帰郷」
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「旅芸人の記録」「霧の中の風景」「永遠と一日」「エレニの旅」等で有名なギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの遺作「エレニの帰郷」をDVDで観ました。とても美しく、素晴らしい映画でした。主人公(映画監督)の母、エレニの半世紀に及ぶ物語。若きエレニはソ連当局に捕えられ、シベリアへ抑留された後、主人公である息子(主人公)と再会する。エレニ、エレニの夫、シベリア抑留時代にエレニを支えたイスラエルの男性、主人公、そして主人公の娘が織りなす人間模様の中で、エレニは安らかな死を迎える。ストーリーを追うとこのような説明しか出来ないのですが、実は言葉だけでは全く映画の本質に迫れないのです。アンゲロプロス監督の独特の超長回しと、(その間に)時空を超えて行く映像美の中で、現実と幻想のどちらかの見分けの付かない不思議な感覚を味わいながら、ある一人の人間の一生とその精神世界(内側)を追体験していく物語。今回は雪のシーンが多かったのですが、それがまたとても美しかった。一般的な映画とは一線を画しているので、好みは分かれると思いますが、私にとっては大切な一本の映画に成りました。交通事故で亡くなってしまったアンゲロプロス監督は、その時次回作を撮影中でした。本当の最後の作品を観たかったです。

オンリーワンの道へ

今朝のワールドカップ「ブラジル対コロンビア戦」で、ブラジルのネイマール選手が相手選手の膝蹴りで(腰を)骨折したそうです。結果はブラジルの勝利でしたが、ネイマール選手の本大会の残り試合への出場が絶望的と成り、ブラジルにとっても、サッカーファンにとっても、なんとも悔やまれる事態に成りました。サッカーであれ、何であれ、これからの新しい時代を切り拓いて行くのには、その分野での若きスターの存在が必要不可欠です。まさにネイマール選手は、世界のサッカー界の若きスターでしょう。今後の選手生活に影響のない怪我であって欲しいと思います。ブラジルは、かつて多くの日本人が夢を賭けて向かった地。日本とは地球の反対側という位置関係にありますが、直線距離(思いの距離)にしたら(むしろ)近い国かもしれません。共に次代を担う若き世代を育てて、この地球運動の左右のバランスを保って行きたいものですね。
このようにして、どのような国でも、どのような分野でも、常に若き世代の勢いが誕生するものですが、なかなか実際の現実社会では、新しき者の中に希望の光を見出すことよりも、過去の栄光に縋りながら、時代の変化を極度に恐れ、既得権益を守る意識を優先させることの方が多いように感じます。年齢と言う物差しにおいては、確かに(一生)年長者を超えることは不可能ですが、人間の「中身」という視座を持つことが出来れば、若者にも同様のチャンスが与えられるべきでしょう。幸いスポーツの世界では、「勝負」という客観的な評価基軸が存在するため、若手の台頭への道がオープンに拓かれています。これは素晴らしい事だと思います。
そこには、「競争社会」という一面が表現されていますが、(同時に)この世界を形造っている「ありとあらゆる(森羅万象の)」領域において、優秀な人材に光を与え、評価すると言う意味においては、「みんな」が(何かしらの領域で、既に)光り輝く「勝利者」であると言えます。要は、受験や出世や試合や運動会(という、ごく一部の領域)で一番に成った人だけが「勝利者」ではなく、既にみんなが(何かしらの競争に勝っている)オンリーワンの存在であると云う事。ただ、自分が一番の試合(競技)が、全くメジャーでは「無い」だけのことだと思います。だから競争とは、(突き詰めれば)結局「共生」であり、全員の存在価値の「実現」だと思います。
ただ、この「全員がオンリーワン」を勘違いして、自身を成長させる努力をしないことは、また別の問題と思います。「オンリーワン」とは、あくまで(天から与えられた)「素地」としての備えであり、それを現実生活の中で、発露させ、活用し、さらに磨き続けることが生きる上で最も大切なことだと思います。良く言う「競争ではなく共生」とは、確かに真理と思いますが、それは、「人との競争を主題に置くのではなく、それをある種の副旋律(あるいはベンチマーク)として活用し、自身のオンリーワンの発見と開発と成長に生かし、さらに磨きを掛け、社会の為に役立てること」ではないでしょうか。ネイマール選手は、まさにそのようにして、若くして「個」として確立しています。みんなが(それぞれの領域で)自身のオンリーワンを磨き続け、一番の「個」として存在することで、その「総和」が良き社会を形造る。誰ひとりとして、「オンリーワン」を持っていない人はいないでしょう。持っているが故に、生きている(生かされている)。人類全員、絶対的に(誰にも)負けない何かが在る。それがたまたま、誰にでも評価できる領域(試合)になっていないだけ。ただそれだけのこと。
この世界では、ネイマール選手という超有名なオンリーワンも存在すれば、一方、地球のどこかで目立たずに生きるオンリーワンもいます(ほとんどの人がそうでしょう)。そこに宇宙的な意味での「差」は存在しないと思います。もし違いがあるとしたら、自身の「オンリーワン」の素地に気づき、そのことに(心から)感謝し、それを磨く努力をしているかどうかです。だから私たちが「生きる」とは、(他者に負けない)自分にしかできない何かを発見し、それを育てていくこと。仮に誰にも気づかれず、全く評価されなくても、お天道様は知っている。そう信じて生きて行くこと。そのようにして、この日々を超えて行くこと。そのような人々が光り輝く「場」こそが、本来の地球の在り様だと思います。その「光」を独り占めにして、他者に与えることを恐れることが、格差、差別、戦争に結び付いているに違いありません。子どもたちの未来や、若い人達の希望にこそ光を当てて、彼らの経験不足の面をサポートしながら、みんなが光輝く世界を作って行く。それこそが、今の大人たちの役割なのかもしれません。
さて、ワールドカップの日本代表についてですが、FIFAの世界ランキングで46位の日本が、それより(相当)上位の3チームに勝つことができなかったのは、確かに実力の通りであり、最も可能性の高かった結果だったと思います。サッカー素人の私としては、日頃のマスコミの報道だけの情報によって、日本と同グループの他国3チームの実力は同格か僅差程度なのだろうと、勝手な思い込みをしていましたが、今に成って各国のランキングを認識し、(今さらながらに)そもそもが確率の低い厳しい戦いだったことを理解しました。そういう意味では、(むしろ)よく健闘した方なのかもしれません。ただ、どんなに実力の差があっても、それ以上の力を発揮することも可能なのが勝負の世界です。日本のサッカーファンは、(まさに)「そこ」への大きな期待を掛けていたのでしょう。日本にとっての「そこ」とは、やはり「和の力」ではなかったでしょうか。チームワーク、あるいは勝利へ向けて「みんなの心」が1つに一致団結すること。「個」では負けても「和」では勝つ。その可能性は絶対に在ると。今回の3試合を経て、私たちが感じた何とも言えない喪失感とは、むしろ勝敗よりも、日本独自のオンリーワンの「和の力」が封じ込められたことだったような気がします。
3試合を通しての日本代表チームの姿は、確かに何かチグハグな感じで、本当に全員が勝利を望んでいたのかと思う程のカオス(混沌)状態だったように見えました。日本のマスコミ報道も、「互角に戦える」「勝てる可能性が高い」という印象を国民に煽りすぎたのでは無いでしょうか。確かに希望的観測も大事ですし、楽観的なのはとても良いことなのですが、決して現実を見失ってはならない。むしろ、ランキング上位の相手チームの方が、実力が上にも関わらず、下位の日本相手に謙虚な姿勢で、緊張感と危機感を持って、懸命に戦っていたのではないでしょうか。日本代表としては、本来なら負ける相手だけれども、その中にでも、どこかに勝機は在るはずだ。そういう厳しい現実(事実)を正直に直視した上で、それでも勝つ確率を1%でも高めて行く努力をしていたのだろうか。要は圧倒的な「弱者」として、なりふり構わない程の懸命さを持って、本当に「勝ちたい!」と熱狂する選手だけを集めたチームだったのかどうか。「大丈夫、勝てる」という事実誤認の空気(ムード)の塗り重ねが、日本代表チームを取り巻くすべての環境をミスリードしてしまったような気がします。
日本は目を覚まさなければ成らないと思います。サッカーは負けても次の大会がありますが、国家運営や個人の人生では、そうは行きません。私たちは今、本当の現実を直視しているのだろうか。本当に事実と真実を認識できているのだろうか。あらゆる危機を想定できているのだろうか。そのための計画と準備を行っているのだろうか。その上で、そうはならないように努力をしつつ、明るく感謝して生きているのだろうか。ワールドカップで他国の試合等を見ていると、生活が苦しい国の選手たちの方が、とても明るくニコニコしていました。何があっても驚かない程の厳しい現実を生き抜きながら、あるいは覚悟をしながら、懸命に闘い、けれども同時に幸福な心で生きている・・・。
日本は平和すぎたのでしょうか。勘違いし過ぎたのでしょうか。このままでは負けてしまう。今回のワールドカップを見ていて、そういう危機感が募りました。だから今こそ目を覚まし、幻想を捨て、現実を直視する。その上で、(楽観的に)何が在っても明るくニコニコ、感謝の心で生きる。そういう方向転換の為に、今回の敗戦は大きなシグナルと成ったと思います。かつて蒙古襲来の時に神風が吹いたように、日本は純粋な心で1つにまとまると、実力以上の「風」が味方する国だと思います。今の日本人にとっての純粋な心とは、まさに「感謝の心」ではないでしょうか。世界で一番恵まれているのに、現実から目を背け、日々の小さな出来事に心を奪われ、暗い顔をして、夢と希望を失っている日本人。今こそ、日本独自の強み、「オンリーワン」を思い出し、感謝して、それに磨きを掛けて行こう。「和の国」への回帰を、今こそ。