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広島、バッハ、8月

ドイツのピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(1895年11月25日-1991年5月23日)は大の親日家で、1936年の初来日以来、10回も来日したそうです。1954年には広島平和記念聖堂でのオルガン除幕式に出席し、記念演奏を行い、その録音による売上金は全額、被爆者のために寄付されました。その時の実況録音(CD)には、ケンプのオルガン演奏と肉声メッセージが吹き込まれています。日本もドイツも共に敗戦国と成り、厳しい戦後を乗り越えて来ましたが、共に西洋芸術と大和文化という深い「精神性」に守られたことで、今日の奇跡的な復興と発展を授かったのではないかと感じています。
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その広島での録音ですが、先ずは広島世界平和記念聖堂(幟町カトリック教会)の荘厳なる鐘の音に始まり、続いて、ケンプのオルガン演奏によるバッハのコラール「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」(BWV639)が演奏されました。この「BWV639」は、タルコフスキー監督の代表作「惑星ソラリス」でも使用された、短くも儚き、宇宙からの囁きのような音楽であり、その響きの中に、ケンプという一人の人間の(深く温かい)祈りの声が織り込まれているような気がしました。今から70年前の8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。そして9日には長崎・・・。広島、長崎、そして福島。この日本では未だに核の苦しみが続いています。けれどもこの70年に及ぶ一人ひとりの祈りの声の総和によって、この国は応援され、浄化されているような気がします。
戦争を忘れない。忘れないことによって、二度と戦争を起こさない。その思いは、皆同じだと思います。けれどもその方法論については、様々な考え方があり、(どの時代においても)なかなかまとまらないものです。戦争を知らない私たちに出来ることは、「戦争を忘れないこと」「戦争を起こさないこと」「戦争を仕掛けられないための(現実的な)方法論を持つこと」ではないかと思います。この世の中は、実際にはなかなか思い通りには行きません。他国はこちらの都合通りに動いてくれないからです。理想の未来を思うことと、同時に、最悪の事態に対する想定と準備への並行作業が大切だと思います。それによって、(逆に)現実的な理想の未来への道が拓かれると思います。
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さて最近、タワーレコードより復刻されたケンプのCD、「主よ、人の望みの喜びよ~ケンプ、バッハを弾く」もとても素晴らしかった。これは晩年のケンプが弾くバッハの小品集で、特にコラール「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノの響きは、とても美しく、宇宙的な拡がりをもって、私の心に届きました。バッハの音楽には「祈り」があります。その祈りは、決して特定の宗教と結びつくような種類のものではなく(むしろ真逆で)全ての人類一人ひとりの精神(こころ)と宇宙(大自然)をつなぐ物理的な「信号音」のような気がしてしまうのです。人間が考えて作った音ではなく、元から自然界で響いていた音。モーツァルトの音楽にも同様のものを感じますが、そこには人間の手が加わっていない「天然の響き」が在ります。
もうすぐ終戦の日から70年、8月15日が来ます。その前の8月12日は、乗客乗員520人の命が失われた日航機墜落事故から30年です。8月はお盆の月で、古来より、こちら側と向こう側との扉が開く、人間と精霊との交流の時。ご先祖様や過去の出来事に対する感謝の祈りを捧げ、そこから新しい道を歩んで行く季節です。この暑い日本の夏、国も個人も、自らの過去と歴史を振り返って、向こう側から聞こえる信号音に耳を傾け、これからの間違いのない道を歩むべく、努力の日々を積み重ねて行きたいと思います。日本の8月とは、きっとそのような月なのでしょう。ケンプの広島での演奏を聴きながら、心静かに、日本と世界の良き未来を願います。

歴史

溝口健二監督の映画「山椒大夫」は、森鴎外の小説の映画化でしたが、私自身原作は未読であり、映画を観て初めてこの有名な物語の内容と題名の意味を知りました。鴎外の本は、随分昔に(確か教科書で)「舞姫」や「高瀬舟」、そして最近になって「青年」を読んだ程度で、「舞姫」のあまりにも悲しい最後(結末)に胸が苦しく成った記憶が残っています。一方、好きな小説家の夏目漱石については、一冊一冊の読後感として、独特な爽快感を感じていました。きっと当時の自分には、森鴎外の小説の中に蠢く、ある種の重苦しさ、暗さ、固苦しさ、厳格さが受け入れ難かったのだろうと想像します。そして確かに、映画の「山椒大夫」も暗く、悲しい物語でした。
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私が好きなエレファントカシマシの歌の中に、森鴎外を歌った曲があります。タイトルは「歴史」。とてもロックとは思えないその歌詞には、「名作『山椒大夫』そして『渋江抽斎』に至って輝きは極限。そう極限に達した凄味のある口語文は最高」と、「山椒大夫」が出て来ます。相当、変わった歌ですね。「山椒大夫」は、まさに日本の歴史の暗部に光を当て、格差社会や人買い、奴隷の世界、そして家族の愛を生々しく描いた作品です。それが日本の歴史の中のひとつの真実であり、どの時代にも共通する人間の本性でもあるのでしょう。森鴎外の作品は、夏目漱石の様な個人主義的物語とは全く別の趣があります。
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歴史とは、いったい何だろうかと考えます。私の恩師は歴史の先生でした。私は国語と歴史が大の苦手で、成績も悪く、けれどもその恩師の授業だけはとても面白かった。試験やテストの為の記憶させる授業ではなく、その歴史の瞬間を臨場感ある物語のように語ってくれたのです。テストの点は悪かったけれど、授業は楽しかった・・・。今思うと、まるで「講談」のようでした。歴史を観るとは、起きた事実の裏側に潜む「真実」を追求することだと思います。その真実の発見により、人は歴史から学び、過去よりも良い未来を築くことが出来るのだと思います。私の尊敬する人の多くは、歴史を良く知り、深い歴史観を持っています。ただ歴史を(知識として)知っているという意味では無く、そこから人間としての生き方、人生観、国家観、そして経営の本質までを見出しています。
今、この国を動かしている方々の中に、深い歴史観を持つ人物が(数多く)存在すれば、国は正しい方向へ向かうと思います。それは教科書に書いてあるような意味の「歴史」では無く、その時、その人が、どのような思いや志で、その決断をしたのかへの認識力だと思います。深い認識力とは、言いかえれば「哲学」です。哲学とは、決して人間の歴史だけから導かれるものでは無く、大自然の営みや宇宙創成の仕組みに対する探求心、もっと言えば信仰心さえも含まれるのでしょう。そのようなマクロ的な認識力を持つ人物が、この時代には求められていると思います。
戦後70年という節目の夏が来て、昭和天皇の玉音放送の原盤が公開されましたが、原音は今まで聞いていた音声よりもややピッチが高く、思った以上にクリアーな音質でした。もし70年間、広島と長崎に原爆を落とされた以降も、あの戦争が継続されていたとしたら、今の日本も世界も絶対に無かったのだろうと、ふと思います。わが身の犠牲を覚悟の上で、降伏を決意し、1945年の8月15日にこの玉音放送を公布した時、日本の復興、日本の未来が決まったのかも知れません。あの戦争で犠牲に成った多くの方々と、国の大いなる決断に対し、今の私たちに出来ることと言えば、深い感謝の心を持って、その大いなる「志」を受け継いで行くことしか無いでしょう。国民を外からの攻撃から守ること。そして、もう二度と戦争をしないこと。過去のあらゆる歴史的事実から学び、この世界、この地球、この宇宙全体を司る人智の及ばぬ創造の声にすら耳を傾け、この両面の実現に対する正しい認識を(一人ひとりが)深めて行くことが大切なのだろうと思います。それこそが、新しい日本の道を開くことに成ると思います。
それにしても日本語とは不思議なものです。「降伏」と「幸福」は同じく「こうふく」ですし、「乾杯」と「完敗」も同じく「かんぱい」です。ほぼ逆の意味(状況)のはずなのに、言葉の音が同じです。でもそこにはきっと、何か深い意味があると思います。全ては裏腹、表と裏であることのシグナルでしょうか。戦争で負けた日本とドイツが、今の世界経済をリードしているのも不思議と言えば不思議です。日本語の「負けるが勝ち」には、どのような真意が隠されているのでしょうか。
冒頭で紹介した歌、「歴史」の歌詞の中には、「晩年のわずか五年間、栄達がのぞめなくなると、急に肩の荷が降りたのだろうか。小説家、森鴎外が俄然輝きを増す。彼は負けたんだろうか・・・」 とあります。現象的な敗者が、本質的な勝者へと逆転することはよくあります。人の歴史も、国の歴史も、その時点での評価と後世での評価が真逆に成ることがあります。「時」とは不思議なものです。歴史は「時」の蓄積です。全ての衣(汚れ)を取り払い、正体(本質)のみを炙り出すもの・・・。真の勝利を証明するものは、常に「歴史」です。
「歴史」とは、言い換えれば「経験」です。私たち一人ひとりも、それぞれがオリジナルの歴史(経験)の道を歩んでいるところです。国の歴史も、個人の歴史も、確かに波乱万丈よりも、苦労の少ない方が良いに決まっています。けれどもその分、貴重な経験や人間的な成長を得ることが難しく成る様な気もします。映画も同じで、主人公が様々な困難や苦労を乗り越えて行くからこそ、その姿に感情移入し、我が事の様に涙を流し、その感動から何かを掴み取るのです。映画「山椒大夫」に観る普遍的な母子の愛、兄妹の愛は、深い悲しみの果てに(無限に)広がる本当の幸福への道を指し示していると感じました。暗くて悲しい物語のラストに広がる海の情景が、そう思わせてくれました。日本も世界も、そして私たち一人ひとりも、自身の歴史(過去の経験)から何かを学び、今を懸命に生きて行くしかない。その懸命さ(今)の蓄積が、(先回りして)素晴らしい未来を建設してくれているかも知れません。希望を持って、自信を持って、未来へ「我が経験」を持参する。それが本当の意味で、価値ある人生ではないかと感じます。