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人類の夜明け

東京都議会議員選挙が始まりました。豊洲市場への移転と築地の今後については様々な意見がぶつかり合うと思いますが、これを機に(2020年の東京オリンピックに向けて)良い道筋が見えて来て欲しいと願うところです。「禍いを転じて福と為す」とか「人間万事塞翁が馬」と言いますが、目の前の問題に懸命に取り組んでさえ行けば、きっと新たな智慧が生まれて来るはずです(思わぬ副産物も出て来るかも知れません)。その為にも、私心を捨て、世の中の為を思って、真摯に考え行動して行くしかありません。国政においても、現在多くの問題が露呈しているところですが、国民の生命と安全を守り抜くという大きな道筋を見失わず、1つ1つの課題に向かって真摯に取り組んで行けば、日本の道筋はきっと見えて来ると思います。
一方、近隣国の最近の動向については、大いなる緊張感があります。核ミサイルへの不安があるからです。平成時代があと一年半で終わろうとする中、このまま何とか平和が維持されるよう心から願っています。欧州の混乱、中国やロシアの苦境、米国の激変、世界的テロの多発・・・世界は相当な状況に陥っていると認識できますが、その分(逆に)日本の安定が(あくまで相対的に)際立って来ると感じます。世界が更に混沌へ向かう中、相対的に日本が上昇発展する時代に成るのではないか。同時に狙われる(巻き込まれる)可能性も増えて来るのではないか。確かに多くの問題が山積している日本ですが、世界全体から見れば極めて恵まれている国です。そのことへの感謝の意識を持って、世界の激しい潮流の中で、警戒心を強化しながら、唯一光り輝く黄金の国を築いて行きたいと思います。
話は変わりますが、最近友人から「映画の見方がわかる本」(町山智浩著)という本を貸していただき、大変興味深く読ませていただきました。その中に、スタンリー・キューブリック監督の代表作「2001年宇宙の旅」製作に関わる多くの(裏)情報が書かれていて、(キューブリック・ファンとして)とても面白かったです。映画の冒頭、「人類の夜明け」のシークエンスから400万年後の宇宙へジャンプするシーンで、猿が空高く投げた(武器としての)骨が、宇宙船に変わる有名なカットがあります。その宇宙船(のようなもの)は、人類の進歩と叡智の象徴であり、技術の進化を意味するものだと解釈されていましたが、本当は(そんな美しい意味ではなく)実は「核ミサイル」だったと言うのです。
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キューブリックは今から50年も前に、将来の核保有国の増加と核戦争の発生への警告を鳴らしていた訳です。このシーンには、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が流れていたので、まさに人類の平和と進歩が印象付けられていました。でも実際には、「恐怖」の裏返しだったのです。この映画には元々(全編に)ナレーションが付いていたそうですが、最終的には全てがカットされました。ナレーションをあえて無くすことで、映画を意図的に分かりにくくさせたかったからとのこと。つまり、観客を訳の分からない状況に陥らせ、摩訶不思議なマジック体験へ連れ込んだのです。それは確かに成功したと思います。いろいろな解釈が、この映画に新たな生命を吹き込み続けているからです。この本には、他にも多くの映画の面白い裏話が書いてあるので、また今後も感想を書いてみたいと思います。
人類は本当に進歩しているのだろうか。技術は進歩したが、精神は進歩していないのではないか。その結果が今の混沌とした世界ではないか。映画「2001年宇宙の旅」は、最後に新たな人類(スターチャイルド)が誕生して終わりますが、今、私たちは、まさに時代の生まれ変わる瞬間を生きているのではないか。いろいろな場所で、いろいろな事態が発生していますが、それらが「禍いを転じて福と為す」「人間万事塞翁が馬」と成る道筋を見つけて行くことが大事だと思います。そのためにも人類の精神的な進歩が必要と思います。2019年に始まる日本の新天皇の時代、そして2020年の東京オリンピックの開催。このタイミングが単なる偶然とは思えないのです。日本人が真に(精神的に)世界をリードする時代の始まりではないかと感じます。映画「2001年宇宙の旅」(1968年)の製作から来年2018年で50年。これも1つのタイミングかも知れません。

古き日本の風景

今年の東京の梅雨は(いつもの梅雨らしくなく)晴れ間の多い天気が続きます。仕事柄、雨が少ないのはとてもありがたいのですが、自然の摂理としては、これも1つの異常気象なのかも知れません。けれども雨の休日もなかなか良いもので、自宅でゆっくり映画鑑賞などは最高の贅沢です。最近は古い日本の映画が面白く、溝口健二作品、成瀬巳喜男作品はもちろんのこと、水上勉原作の「雁の寺」「越前竹人形」の二本もとても良かったです(原作も読み、素晴らしかった)。
古い日本の映画の良さのひとつに、昔の日本の原風景や情緒ある町並みが観られる点があります。昔の東京下町の風景、京都の町並み、旧家の続く小径やお寺、鐘の音、山や川の農村の風景、そして木造の日本家屋。日々の生活や商売のシーンも興味深くて、不思議な懐かしさを感じます。それに何しろ言葉の美しさ。日本語の「音」としての響きの素晴らしさは、まるで西洋のクラシック音楽を聴いているかのように、心地良いものです。決して多くを語らない、寡黙さの中に、美しくも粋な音階を感じます。
古き日本の風景は、今からほんの数十年前と同じ場所なのに、別世界。まるでノスタルジックなワンダーランドです。要はそれ程、日本の高度成長とは物凄い変化だったのでしょう。そのおかげで私たちは便利で快適で長寿の生活(人生)を得ることが出来ました。それはとても素晴らしいことであり、ありがたいことです。けれども一方では、古き良き日本の風景への郷愁も強く残っています。梅雨の休日に観る日本映画が、この忙しい時代を生きる日本人の心のバランスを整えてくれるかも知れません。
古い日本の匂いは(映画だけでなく)小説からも感じ取れます。「雁の寺」の水上勉の小説からは、京都や越前の風景。夏目漱石や永井荷風の小説からは、東京下町の風景を伺い知ることが出来ます。森鴎外からは同じく江戸東京、そして留学地の独逸、有名な「山椒大夫」では裏日本の風景が印象的です。最近、森鴎外の小説を読み返していますが、短編の「高瀬舟」「最後の一句」「舞姫」はやはり素晴らしく、また「杯」という(ほんの8ページ程の)短編の美しさには心から感銘を受けました。言葉だけなのに、透き通るような「映像美」を感じました。
先日、「エレファントカシマシ」という日本のロックバンドの30周年コンサートに行きました。基本的にロックは大の苦手です。でも彼らが鳴らす音響の果てには、古き日本人の情緒(寂しさ、悲しさ、清らかさ、恥ずかしさ、無骨さ、やせ我慢など)や郷愁(ノスタルジア)が聴こえるような気がします。例えば・・・有名ブランドの立ち並ぶ大都会の表通り、そこから一本奥に入った裏道りの一角に、小さな古い団子屋さんが在る。そこの店主は、只々、己自身の最高の団子を作ることにしか興味がなく、世間には背を向け、遊ぶ暇があったら黙々と汗だくになって団子を作り続けている。売るための商品パッケージや宣伝にも無関心。それなのに(本心は)表通りの賑わいへの憧れを抱き、時には嫉妬し、悔し涙を流す。「売れたい」という正直な本音も隠さない。苦労に苦労を重ね、幾度か潰れそうになりながら、必死で乗り越えて来たが、気が付いてみると、表通りの店はほとんどが入れ替わっているのに、自分の店はなぜか30年以上も続いている・・・。この立派な老舗団子屋さんが彼らのイメージ。努力を積み重ね、困難と苦労を乗り越えて行く愚直な姿勢こそに、ある種の(転んだり、よろけたり、オロオロしたりの)恰好悪さも含めて、愛すべき(尊敬すべき)何かが在るように感じるのです。
さて、その30周年コンサートですが「歴史」という曲で始まりました。この歌は森鴎外のことを歌った曲です。ロックで森鴎外を歌うなどという発想は、なかなか無いと思いますが、一人の日本の文豪の「生き様」と「死に様」への憧憬が詠われていて、とても好きな曲です。この歌の歌詞に、「名作『山椒大夫』そして『渋江抽斎』に至って輝きは極限」とあります。この「渋江抽斎」という作品はとても難解の様ですが、鴎外の最高傑作とのことで、いつか挑戦してみたいと思います(※渋江抽斎とは、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者で、森鴎外が歴史小説として発表し、広く世に知られるように成った)。
古き日本の風景と現代の豊かな生活との間には、(戦争を含めた)様々な歴史が流れています。その時代、その瞬間、只々懸命に生き抜いて来た先人達の歩みの積み重ねが、今日の豊かな日本を実現させたに違いありません。ならば今の私たちの歩みの蓄積が、もっと素晴らしい日本の未来を築いても良いハズです。けれども実際には、世間は右往左往の毎日を繰り広げているばかり。だからこそ私たちは、自らの人生の道筋のみに集中し、真摯に、愚直に、懸命に、胸を張って歩んで行くしかないのでしょう。古い日本の映画の登場人物は、皆(悪人も善人も)「今」を懸命に生きています。苦労をしても、無様な恰好でも、自らの道筋を只ひたすら歩んで行くこと。此処に日本人の美の極限を感じます。