社長ブログ

つきを呼ぶ環境

ここ数日間で、本物の「風水オフィス」(千葉)と「風水住宅」(茨城)を見学することが出来ました。風水とは、「西に黄色」というような単純な方位学(占い)とは「似て非なるもの」で、本来は、住環境(場)が人間の脳や体や心に与える影響を科学的に検証した(古代から伝わる)建築技術体系のことを言います。東洋医学と建築技術の融合が、現代の大脳生理学や環境心理学によって科学的に解明され始めたことで、風水が「風水科学」と呼ばれるようになってきました。
その風水科学のテクノロジーを応用したオフィスや住宅を見ると、とても自然界との調和を感じますし、脳も体も活性化してきます。オフィスであれば、とても居心地の良い職場環境となり、社員の仕事に対する意欲が高まると同時に、精神的なストレス(病気)の予防になります。住宅であれば、家族が早く帰りたくなるような家となり、家族団らんと楽しいコミュニケーションが生まれやすく、ゆっくりと心身ともに、くつろぐことが可能となります。これが住宅本来の目的ですよね。オフィスにしても、住宅にしても、そこで過ごす人たちがどのような未来を望んでいるのかによって、空間の形や色やレイアウトが変わります。ここが、面白いところです。単純に、一律に、「西に黄色」というわけにはいかないのです。
見学させていただいた風水オフィスと風水住宅は、明るくカラフルで、曲線が多く、温かく、かつ神秘的です。過ごす人の心を捉え、一日の習慣自体を変えてしまう力があります。場が変わると、気持ちが変わり、習慣が変わり、自然と行動が変わります。それが、結果的に、人生(=経営)の流れを変えうる力になると考えます。
私も風水鑑定士として、最近、いくつかの鑑定業務を行っていますが、「意識して場を整える」という行動によって、少なからず気持ちに変化が起きるようです。例えば、デスクの位置を変えるとか、ベッドの位置を変えてみる。あるいは、整理整頓して、ゴミを捨てる。エントランスに、観葉植物を置いてみる。クロスの色を、白から黄色・オレンジに変えてみる。暗い部屋の隅に、間接照明をひとつ置いて、壁を照らす。殺風景な壁に、風景の絵や写真を飾る。固い床に、カーペットを置く。テーブルを四角から丸に変えてみる・・・。以上のように、そんなに多額のお金を掛けなくても、大きな効果が上がるものがあります。
建築とは、ただ物理的に建物を作ることが真の目的ではなく、そこで過ごす人の夢や目標を支援する「場」を提供するためにあると思います。新社屋を建てる社長は、「会社の発展のため」であり、家を建てる人は、「家族の健康と幸福のため」・・・ですよね。それに応えることができる建築技術を、私たちは、可能な限り、マスターしなければならないと思うのです。
※月のテンポ
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つきを呼ぶ音楽  - 絶対テンポ116 -
片岡慎介
イチローやタイガーウッズの動作に現れるテンポは、「月のテンポ116」だそうです。このCDは、絶対テンポ116によって作られた音楽で、右脳を活性化させる効果があるとのこと。確かに、とても快適なテンポを感じます。今、試しに社内で流しています。

若い人たちへ

来週の4月1日、新入社員が3名入ります。この3名にとって、この日は、学生から社会人となる大きな節目になります。きっと、不安と希望が入り交ざった、思い出深い一日になるでしょう。私も含め、誰もが経験した独特な感覚の日です。
若い人たちは、社会に出るまでは、(仮にアルバイト等をしていたとしても)家庭や学校という「器」に守られて生きています。それが今度は、自らの力で生きていかなければならない。この差は大きいでしょう。ところが、「自らの力で」という部分に対する自覚が無いと、「学校という器」の次は「会社という器」に守ってもらおう!という、大きな勘違いをしてしまいます。ここは大事なところです。
学校と会社(=社会)の違いを分かりやすく言うと、学校の場合は「器の中にいる」、会社の場合は「器の一部になる」ということでしょうか。会社と「私」は分離することはできず、会社(=社会)と「私」は一体であるということ。ここに気づかないまま社会人生活を続けていると、どこかで自己の成長をピタッと止めてしまいます。これは、もったいないし、人生最大の損失です。
社会人になったら、このような意識を持って、あらゆることに主体的に取り組みましょう。与えられた環境や仕事は、自己を成長させるための「何か」があります。大抵の場合、それが何か、その時にはなかなか分からないものです。だから悩むし、苦労する・・・。でも、そこから逃げたら、せっかくのチャンスを逃してしまう。「何か」が見つかるまで、日々1mmの前進です。そして、「器(会社や社会)の一部になれた」という感覚がやって来たら、本当に、とても楽しくなります。
来年の2009年度の新卒採用活動も、現在、順調に進んでいます。今回も、素敵な出会いが生まれそうです。若い力と熟練の智慧・・・この2つを融合して、これからも丸二が目指す建築を、たくさん世に出して行きたいと思います。
※見つけたCD
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空海の旅 [Hybrid SACD]
喜多郎 (アーティスト, 演奏)
司馬遼太郎の「空海の風景」をアマゾンで購入する時に、見つけたCD。喜多郎は、「シルクロード」等で昔はよく聴いていたのですが、最近はあまり関心が無かった。でも、タイトルに惹かれて買って聴いてみたら、なかなかよろしい。「四国八十八ヶ所」がテーマになっていて、お寺の鐘の音や読経の声も入っていて、けっこう面白い。2作目、3作目も出ていたので、それらも買ってしまいました。聴いていると、心が落ち着きます。

深み

政治が止まりました・・・。これから日本は、未体験ゾーンに突入です。こうなると、外側の雑多な(ネガティブな)情報に振り回されるのを止めて、自分自身の心の声に従って、最善を生きるしかありません。何か、非常に大きな流れが起きているような気がするので、あらゆる問題に対して、小手先の手段は、もう通用しなくなると思います。だから、ハウツー本での対策が無理な時代です。
最近、本屋さんを歩きながら思うのは、これだけの新刊が出ていても、本当に物事の根本に触れた深みのある本は、いったいどれくらいあるのだろうかということです。今は、ちょっとしたことで、本を出せる時代。かつてのように、本を出していることが信頼の証だった時代ではありません。中身も、どこかで読んだ内容の寄せ集めが多い。刺激的なタイトルと装丁のデザイン性で売るという、出版ビジネスという意味においては、とても巧みになったと思います。でも、問題は中身が伴っているのかどうか。けっこう、怪しい本がいっぱいあります。
映画もCD(音楽)も、一過性的のものが多くなってきました。10年後も、20年後も、100年後も観られ、聴かれ、読まれ、愛される深みがそこにあるのだろうか・・・。そのような真の作品が少なくなってきたと思います。日本人は、与えられたものや環境(状況)を、そのまま何の疑問も持たずに、受け入れてしまう傾向があるそうです。最近、NPO法人:ネットーワーク「地球村」代表の高木善之氏のDVD「美しい地球を子どもたちに」を見たのですが、現在の日本の環境や健康に関わる実態を見ると、いかに私たちが無知であるのかが分かります。大きな流れを見失っていて、現状に関心を持たず、目先のエゴ的な幸福だけに酔っている自分自身に気づきます。ああ、恥ずかしい。
また、政治評論家の森田実氏の新刊「脱アメリカで日本は必ず蘇る」は、氏が人生をかけて訴え続けている問題提起の集大成であり、まさに今の日本が向かうべき進路と志に満ちていると思います。このような本を読んで、心を動かされる政治家はいないのでしょうか。目先よりも、本当に豊かで幸福な社会を創ることに、全力を挙げなければいけないと思います。司馬遼太郎の「空海の風景」を読み終わりましたが、時代を変える人間には、「志」があります。「志」よりも上の存在が無いのです。天皇よりも、最澄よりも、空海にとって大切なのは「志」でした。「志」にのみ謙虚に向き合ったのが空海だと思います。
今の日本や世界、地球の実体を知り、個人レベルと企業レベルで、できることをして行きたいと思います。今起きている大きな動きは、「どうせ・・・」というネガティブな意識と「何とかしよう!」というポシティブな意識がぶつかりあって生まれていると思うので、私は当然、ポシティブな側に付いて行こうと思います。
※最近読んだ本
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諸葛孔明 人間力を伸ばす7つの教え
姚磊 (著)
三国志で有名な諸葛孔明の智慧について書かれた本です。諸葛孔明と言うと、「動」の人というイメージが強かったのですが、実は「静」の人。静かな心と静かな環境を大切にし、欲を持たず、謙虚に行き、感謝の心で生きる。その上で、明確な方針を定めて、勇気を持って行動する。なかなかカッコイイと思います。

良い混迷を

日銀の次期総裁が決まりそうもない状態ですが、この際とことん混迷を極めた方が、第3の道あるいは新しい発想が出てくる可能性があると思います。思い切って、前例が無い世界に飛び込んでいくのも、いいかもしれません。落とし所が見えない政治というのは、案外ダイナミックで、本質的・抜本的見直しに繋がります。そもそも、どのような人物が日銀総裁に相応しいのか・・・この根本的な問題まで回帰することになれば、多少の混迷は「良し」ではないでしょうか。
ねじれ国会(という言い方自体、おかしいのですが)は、混迷とセットに、物事や問題の本質を洗い出す役割を持っているはずです。表面的な調和を後回しにしてでも、根源的な問題提起をあぶり出し、モメにモメる。いいことだと思います。ここに触らない限り、いつになっても、本質的な調和はやって来ないでしょう。だから、与党も野党もマスコミも、安易に、その場しのぎに、「いいところ」で手を打つことなく、お互いが政治生命をかけて、とことんぶつかり合って欲しいですね。すぐにベストな答えは出ないかもしれませんが、そのプロセスこそが、生きた政治の証だと思います。そのようにして混迷が深まるなら、まだ希望が持てます。
ところで、チベット騒乱はどうなるのでしょうか。フランスの外相は、北京オリンピックの(開会式の)ボイコットの検討が必要だと話しています。8月まであと5ヶ月間もありますので、もしこの騒乱がまだ拡大するようだと、国際的な問題に発展していくのでしょう。今、あらためて世界地図を見てみると、テロや内乱の全く無い国や地域というのは、本当に限られているように思います。真にオリンピック開催国に相応しい国家など、数えるほどしかありません。そのような意味において、様々な問題があるにせよ、日本という国の「お国柄」は、希少な存在であると思います。
数千年をかけて西方から伝来してきた文明や智慧が、極東の日本で、いま静かに息づいているとすれば、これからのリーダーは日本であるべきです。その自覚を持って、現在の混迷を打開するエネルギーを人々は求めているのかもしれません。それは、日本人のみならず、世界中の人々の潜在的な願いなのです、きっと。さて問題は、その願いに応えられる人物たちがいるのか??ということです。ここが見えてきたら、ガラッと世の中が変わるでしょう。そこに期待です。
※今、読んでいる本
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空海の風景〈上〉
(中公文庫)
司馬 遼太郎 (著)
弘法大師・空海が、今生きていたら、何をしたでしょうか。煩悩を肯定し、脳力と潜在意識を高めることによって、即身成仏(生きている間に、幸福になる=思いを実現する)するという発想は、案外、現代人に素直に受け入れられるような気がします。本の上巻では、密教を学びに長安に行ったところまで。下巻が楽しみです。読んでいると、あらゆる文明や智慧が、中国やインド、そしてもっと西方から伝来していることが、よく分かります。日本は様々な文化を包み込む力があるのだと思います。

中央突破

時流に乗ることが不可能な時代になってきました。バブル崩壊の頃までは、政治も景気も、上なら上へ、下なら下へ、右なら右へ、左なら左へと、(どっちに行くかを予測するのは難しくても)必ずどちらか一方向に流れていたように思います。その波にうまく乗れれば、時流に合った生き方や経営が出来たわけですね。でも今は、政治も景気も社会も個人も、それぞれが全く違う方向に向かっていて、行ったり来たり。それらを細分化すれば細分化するほど、さらに個々が違う動きになっていて、もうグチャグチャ状態。「時流」という大きな流れ(うねり)自体が消滅しているような感があります。
人により、地域により、年収により、規模により、業種により、気候により、時間により、場所により、考え方により、性別により、年齢により、情報により・・・みんながそれぞれ違う状況に置かれていて、みんながそれぞれ違う方向性を望むようになって来ました。そのような時代背景の中で、家族あるいは会社の社員さん一人ひとりが、もし(仮に、非常におおまかであったとしても)同じような方向性を向いているとしたら、その組織体は、(大小に関わらず)奇跡的な価値を有しているのではないかとさえ思います。
曼荼羅(マンダラ)は、中心と八方位に分かれている図象です。もう、どっちにも行けない状態を「八方塞(ふさがり)」と言いますが、まさに今は、ニッチもサッチも行かない八方塞状態ですね。でも、周りの八方位が全部ダメでも、最後の手段がある。そうです、九番目の方位・・・中央(真ん中)です。「八方塞になっても心配するな、必ずもうひとつの道がある」と、教わったことがあります。「必ず」を強調して。これからは、中央突破の時代ですね。時流を見て、右へ行くか、左へ行くかを決めるのではなく、どんな状況であろうと、中央突破。
中央突破とは、本物志向で王道の道。いつの時代でも変わらない、普遍的な価値の追求。ここに風穴を開けていくしかありません。ただ、目先のことを考えると、なかなか中央突破は難しい。でも、誰でも八方塞になれば、嫌でも中央突破に向かうしかない。今多くの人は、いったい誰が先に、この中央突破に向かって走り出すのかを、固唾を呑んで見守っているのかもしれません。誰かが行ったら、自分も行くぞと。私たちは、今、やっと助走をし始めた段階でしょうか。あとは、ただひたすら、走れ!走れ!走れ!
※「走る」小説家
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『ねじまき鳥クロニクル』
村上春樹
第1部 泥棒かささぎ編
第2部 予言する鳥編
第3部 鳥刺し男編
「走る」で思い出したのは、村上春樹氏。有名な小説家です。一般的に作家というと、普通の人と違って、大酒飲みだったり、昼は寝ていてダラダラしていたり、作家仲間とだけ付き合ったりと、あまり常識的でない生活習慣を持っているというイメージがあります。確かにそういう人が多いようです。でも、この村上春樹氏は、極めて常識的な人のようで、朝早く起きて、マラソンをして(走る!)、普通の人と同じように、太陽が出ている間に仕事(机に向かって、小説を書くこと)をし、夜は早く寝るという、超健全な小説家なのです。同業者(作家たち)とも、ほとんど付き合わず、何とか賞の選考委員になりたいとかどうとかという、ドロドロとした作家業界から全く縁の無いところにいるので、業界的には、「面白くない人」という評価のようです。よって、自作の本が売れないと、業界の中における政治的な強みが全く無いだけに、あっという間に消えてく可能性がある人です。ところが、出す本すべてが超ベストセラーになるので、業界としては黙っているしかない。つまり、村上春樹氏にとって唯一大切なのは、業界の評価ではなく、純粋な読者の評価だけなのです。
そんな村上春樹氏の小説を、私は多分、全部読んでいますが、すべて面白い。どこが面白いかというと、一言では言えませんが、現代小説なのに普遍的な価値と空間性を感じてしまうところ・・・でしょうか。つまり、この人は、業界でただ一人、とっくに中央突破してしまった人なんだと思います。
「ねじまき鳥クロニクル」は、3部作の長編小説。かなり、読み応えがありますが、読みながら「終わらないでくれ~」と思える小説家だから、長編物が好きです。他にも、「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、有名な「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」も好きです。

静の時代

日経平均株価が、2年半ぶりに安値を更新しました。一般的に、株価が下落すると弱気になり、投売りを始めます。その後割安感が出てきて、再び株価が上昇すると、今度は強気になって買いに入ります。大体、そこが天井です。結局、多くの人は、高値で買って、安値で売る、損の連続をしています。この逆、つまり、人が一斉に売っている時に買い、買いに入る時に売る、これができる「勇気」のある人は、なかなかいません。それくらい、相場は「気」で動いています。自らの「気」をコントロール出来ない人は、相場は張れないということです。
みんなが悲観論の時は、実はそこが「底」ですので、その後は好転することが多い。よって、今年の後半は、意外といい状態になるのかもしれません。これは経済政策がどうのこうのという問題ではなく、単純に相場のバイオリズムという、あくまで自然界におけるテクニカルな法則として。相場は波動(ウェーブ)ですから、経済も波動です。自然界のエネルギーと人間の想念のエネルギーが波となって働き合い、株価も景気も上がったり、下がったり。これで、自然です。ただ、これからは、資本主義経済自体が何か別の形態に変わると思うので、そこから先は分かりません。自らの「気」を強く整えて、これからどのような「波」が来るのかを、静かに内観して、感じるしか方法はないのかもしれません。
一喜一憂しないこと。場を整え、心を整え、静かに良心と向き合うこと。そうすると、何か答えが見えてくるような気がします。「静」の時代だと思います。「月」の時代だと思います。それは、けっこう厳しいことなのかもしれません。でも、成長できる大きなチャンスだと思います。だから、与えられた環境から逃げ出さないこと。うまくやって、逃げ出した人は、敗者に。素直に、真剣に、その環境と向き合った人が勝者に。こういう「真の格差社会」が、やって来るような気がします。
※今、聴きたくなったCD
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ジョン・コルトレーン「バラード」
多分、家のどこかに埋もれているはずのCD。ジャズが苦手の私が持っている、数少ないジャズ系CDの一つ。コルトレーンのサックスの硬質(?)な響きは、ジャズ・ミュージシャンと言うよりも、聖人の声(ちょっと大げさかもしれませんが・・・)のようです。曲も全部、静かなバラード系で聴きやすい。さて、どこにあるのか、探して聴いてみよう!

野望の建築

戦国武将の織田信長は、仏教や儒教を包含した神殿「安土城」を建立し、神になろうとした。一方、ドイツの作曲家ワーグナーは、自作のオペラだけを上演するための「バイロイト祝祭劇場」を建築し、王になろうとした。
天才の「夢」と「野望」は、最終的には「建築」によって成就するのでしょうか。確かに、地球上で人間が造ることができる最も巨大な創造物は「建築」です。男のロマンがここに向かうのは、当然であり、必然なのでしょう。過去の偉人たちの中には、建築に対する造詣の深い人が多くいます。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「ウィトルウィウス的人体図」は、当時発見された古代ローマの建築家のウィトルウィウスの「建築論」にある「人体は円と正方形に内接する」という記述を表現したものですし、約130年前に、二宮尊徳は、日光神領89ヶ村の農村復興に伴い、農家住宅「報徳仕法農家」を建築しました。
様々な目的(敵から身を守る、農村復興、最高の音響・・・)のために、時代を動かしてきた人物は、「建築」を重要視しました。それは、何よりも崇高な存在であり、深い思い入れと共に、重要な役割を果たしてくれる証だったからです。
その割に、現在の建築は、見た目も中身も、妙に「軽く」なってきた感があります。気楽にパッと建てる事が出来る。それが「売り」だから仕方ありませんが・・・。でも、そこに住む人や建てる人の「思い」はあるのでしょうか。「夢」や「野望」はあるのでしょうか。人生最大の買い物に、思いや哲学、思想を取り込むことによって、もっともっと素晴らしい「建築」が数多く生まれるのではないかと思います。
ダ・ヴィンチが描いたように、人体と建築には強い関係性があると思います。よって建築とは、「人体」を造ることと等しいわけです。ささっと簡単に造るべきものではありません。「建築」に対して、もっと「野望」を持ちましょう。建築は文化として残ります。つまり、一人ひとりの建主様が、文化遺産を残すことができるのです。「よい野望」は持ってもいいと、私は思います。
※ワーグナーの野望
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ワーグナー:舞台神聖祭典劇『パルジファル』全曲
ペーター・ホフマン
クルト・モル
ジョゼ・ヴァン・ダム
ドゥニャ・ヴェイソヴィチ
ジークムント・ニムスゲルン、他
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
録音:1979&80年[デジタル]
「ワグネリアン」という言葉があります。「ワーグナー気狂い」という意味です。実は、私がそうでした。一度、ワーグナーの毒に魅せられてしまうと、もう逃れられない。永遠に終わらない「無限旋律」や「半音階和法」等、他の作曲家には全く無い、独自の世界があります。
そのワーグナーに初めて魅せられたのが、最後の作品「パルジファル」。これは正式には、「オペラ」とは呼ばず、「舞台神聖祝典劇」と言い、約4時間くらいの間、お経のような音楽が永遠と続くものです(西洋音楽なのにお経と言うのも変ですが・・・)。拍手も禁止。内容は、キリスト教の救済思想をモチーフにした荘厳なもので、自らが建築した「バイロイト祝祭劇場」でしか上演を許さなかったという変わった作品(現在では、どこでも上演可能です)。
この曲を初めて聴いたのが、このカラヤン盤。他にもクナッパーツブッシュ盤も持っていますが、どちらも素晴らしい。カラヤンは、基本的にあまり好きな指揮者ではありませんが、この「パルジファル」の美音の響き、絹のような肌触り、宇宙音のような空間性には、参りました。カラヤンも「帝王」と呼ばれるほどの「野望」いっぱいの人だったので、ワーグナーと肌が合ったのかもしれませんね。なにしろ、自分の作品を最高に響かせるために、自ら劇場を建ててしまうなんて、「野望」爆発型人間です。当然そこでは、他の作曲家の音楽は一切演奏できません。ベートーヴェンの第9以外は。すごいですね・・・。

心を定める

政治がストップモーションのように止まってしまい、何一つ動かない状態に陥ってしまいました。方向性(ビジョン)があるチーム(人)と、方向性(ビジョン)がないチーム(人)との差は、まさにここです。普段は、方向性(ビジョン)の有無に関わらず、うまいことやるチーム(人)の方が強い。だから、方向性だの、ビジョンだのと、ナニ夢物語を言ってるんだと、笑い飛ばす。しかしながら、イザ、ニッチもサッチも行かなくなると、突然アタマも体も固まってしまい、一歩も動けなくなり、砂漠のド真ん中に取り残された裸の集団と化す。
一方、方向性やビジョンのあるチーム(人)は、ほんの小さな虫かもしれないが、どっちの方角へ進むかだけは決まっているので、一日1mmでも動き続ける。動くと問題が起きる。問題が起きると、解決策が現れる。よって、結果、オアシスへと近づく。
動かなければ、問題は起きない。でも、オアシスに近づかない。
動きたいが、方角が分からない。だから、一歩を踏み出せない。
「イザ」が、いつ来るかは誰にも分かりません。だから、確かだと思われる方向性とビジョン(=考え方)を持って、それに必要なものだけを持って、身軽に、気楽に、悠々と、毎日1mmの前進をしていこう。方向にズレを発見したら、ただ修正すればいい。これが一番の「安心」だと思います。このように、「心を定めること」以上に大切なコトは無いのかもしれません。
と同時に、「定めたことに、こだわらない」ということも大事のようです。一度定めた方向性やビジョン以上に、もっと良い結果になる可能性もあるからです。まずはビジョンを持ち、やってみる。後は運命にまかせる(手放す)。これくらいの柔軟さでいいのでしょう。
今、身の回りで、だんだんと、「心を定めている個人」が増えているような気がします。皆、様々な環境や状態の中にいながらも、穏やかで、明るい目標を持っています。しかも柔軟です。私も、その仲間に入って、もっともっと成長していきたいと思います。
※ゆったりと浸れる音宇宙
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ブルックナー ( Anton Bruckner )
SACD 交響曲第3番(初稿) 
シモーネ・ヤング&ハンブルク・フィル(ハイブリッドSACD)
人生の方向性やビジョンをイメージするには、ゆったりと自己の思いに浸れる時間が必要。ブルックナーは、まさに宇宙の音の重なり合いのハーモニーです。シモーネ・ヤングは女性指揮者で、とても穏やかな演奏を聴かせてくれます。ブルックナーは、人からいろいろ言われると、譜面を修正する癖があり、一つの曲でいくつかの版があります。このCDは、その一番最初(初稿)の版なので、作曲者本人の思いが一番つまっているような気がします。好きな曲です。

ミッキーVSスヌーピー

今日の日経の一面に大きく、「アニメ作品/ディズニー、日本で制作」。日本が誇る一流経済新聞のトップ記事が、こういうニュースでいいのかなあ、世界が激動しているこの時代に・・・、などと思ったりします。もっと、もっと大事な記事があるような気がするので・・・。多分、時代の急激な変化と不可解な動きに新聞も付いていけず、中身・実体に手が付けられずに、表紙・表層だけを差し替えるのに精一杯なのかもしれない・・・。勝手な推論ですが、マスコミが(平静を装ってますが)、「何が何だか分からない」状態に陥っているのは、間違いないと思います。
ディズニーと言えば、先日のブログでも書いたように、「ディズニーリゾート」という巨大なテーマパークを保有している世界的企業です。それだけ、このニュースは業界には大きな影響を及ぼすのでしょう。ちなみに私はどういう訳か、ディズニーのキャラクターに対して、今まで一度たりとも、「かわいい」とか「かっこいい」というような、愛着を持ったことがありません。確か、子どもの頃も。ミッキーマウスやミニーマウス、プルート、ドナルドダック・・・う~ん、どこがいいのか、未だに分からない。その中で、比較的いいなあと思うのは、熊のプーさんくらい。それ以外は、よく分からない。なぜ、ディズニーランドのパレードでミッキーが出てくると、みんなが「わ~!ミッキーだ~!」となるのか、よく分からない(ミッキー・ファンの皆様、ごめんなさい)。多分、私が変なんでしょう。でも・・・実は、言いにくいけど、私もそうなんだっていう人、結構いるんじゃないでしょうか。世界中の子どもたちのアイドルという存在感に、呑み込まれているのかもしれませんね。ただ、ディズニーリゾートのテーマパークとしての完璧性には、いつも驚かされます。映画も素晴らしい。ただ、ミッキーだけは・・・。
同じ子ども向けのキャラクターとしては、私はスヌーピーの方が好きでした(もちろん、子どもの頃の話)。スヌーピーは、かわいい顔をしていますが、性格は意外と超クールで、「天上天下唯我独尊」的マイペース人間(じゃなくて、マイペース犬)。誰とも群れないし、誰とも踊らないし、常に単独行動。好きな時に遊び、好きな時に寝る。かなり醒めている。サービス精神は一切無し。多分、人間よりも偉いと思っている。ディズニーのキャラクターとは全然違いますね。はるか昔、子どもの頃、映画館で「スヌーピーの大冒険」を見て泣いてしまったことを、今思い出しました。ミッキーで泣いたことは・・・多分、無かったような気がします。
これからの時代、群れて媚を売るか、静かに己の世界と向き合うか・・・どちらがいいのでしょうか。意外と根源的な問いであり、面白い検証ですね。私は、「内なる心の中を、今、幸福感で満たすこと」に近い生き方の方に、「分(ぶ)」があると思います。
※子どもの頃、超ビックリした音楽
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冨田勲<惑星>
作曲: ホルスト
演奏: 冨田勲
1976年
イギリス人のホルストが作曲したクラシック音楽「惑星」を、全てシンセサイザーによる多重録音で創り上げた超大作。30年以上も前、モーグのシンセサイザーが世に出た頃、日本にこのような天才がいたのです。冨田勲。今では、シンセサイザーやキーボードのような電子楽器は当たり前ですが、当時は未知なる機械。様々な音を、あたかもパレットから好きな色を選ぶかのように、組み合わせて、巨大な音楽宇宙まで昇華させた記念碑的な作品です。昔はレコードで聞いて、ステレオの前でぶっ飛んでいましたが、最近CDを買って、「今でもすごいなあ」と思いながら、じっくり聴いています。

東芝がHD-DVDから撤退、三菱電機が携帯電話から撤退、パイオニアがプラズマパネルから撤退・・・「撤退」のニュースが多い、今日この頃です。東芝は、撤退の発表後に株価が上昇しました。市場は、このような「勇気ある決断」を評価するものです。いろいろな意味で、「見直し」の時代に入ってきたのでしょう。何かを始めるには、何かを止めなければならない。ビジネスの世界でも、人生の世界でも、決断を迫られる大きな曲がり角に来た感があります。
マネーゲームで増えたかに見えた世界的な富も、サブプライムローンという、結局誰も責任を取らない(追求すらしない)詐欺的商法によって、ついに喪失。いったい今までの享楽は何だったのでしょう。いよいよ、どのようにして真っ当に富を得るかという基本線に立ち還る時代に入って来ました。
マヤ暦が記した文明最後の日(と言われている)2012年12月22日まで、あと5年。地球環境や格差問題、終わらない戦争・・・。この日で本当に文明が終わるはずはありませんが、何かしらの大きな価値観の転換が起こるような気がしてなりません。それまでに私たちがしておくこと。自らの人生、生き方、経営を見直し、基本線に立ち還り、最善を尽くすこと。1mmの前進。これしかありません。
そのためにも、人が行かない道を行く。遠回りをしてでも、(細いけど)本線と思える道を行く。目先の欲よりも、遠い先の大欲を目指す。いずれ大きな価値観の転換が、時代を本線に戻してくれる。その時、人が行かない道に花が咲く。
感謝とは何か。それは、生かされていることへの気づき。自分で生きているわけではなく、自然の力で生かされている。会社も同じ。そのような認識を持って経営活動をしていかないと、自然や社会から、いつかは見放される。だから、自然や社会と総和(調和)する経営をしておこうと。ただ、それは、人が行かない寂しい道を、懐中電灯を頼りに歩くことに等しい。目先の利益とは、正反対の道だから・・・。つい怖くて、みんなが歩く道に戻りたくなる・・・。でも、こちらが本線だ。細くても本線だ。生かされている者として、歩くべき道だ。
時代の変わり目に突入すると、人は我を失います。その時、確かな自分自身を保持するために、最も大切なお守りこそが「感謝」だと、私は思うのです。丸二の企業理念である「ありがとうございます」は、この人心改革の時代の中で、大きな飛躍・発展を遂げるための、守り神だと考えています。
※最近、読み直している本
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火車 (新潮文庫)
宮部 みゆき (著)
かなり前に読んだ「火車」。最近、また読み直しています。宮部みゆきのミステリーの中で、傑作中の傑作中でしょう。難しい本を読んでいる合間に、このようなミステリー系も、なかなかいいものです。道をはずれた一人の若い女性の真実と寂寥感に、ゆっくりとフォーカスして行く物語。人は、どのような道を選ぼうとも、前に向かって進まなければならない。だから、自分自身の道は自分自身で選ぶこと。ただ、できるだけ、楽しい道がいいなあ。