社長ブログ

日本の役割

免震ゴムのデータ改ざん事件が発生し、以前の姉歯事件同様の大きな問題と成っています。建物の構造計算上のトラブルは、住む人(利用者)の生命に関わるため、非常に厳しい状況ではないかと思います。姉歯事件の場合は、一人の(個人の)設計者に起因するものでしたが、今回の場合は信頼性の高い大手メーカーの製品で、より根の深い病巣を感じます。一人の個人も、名のある大企業も、決められた法律や法規、取り決め事を守らないと、一瞬で崩壊する時代に成ったのでしょう。逆に言うと、真面目にコツコツ、社会的ルールや規律を守り続けている人や企業に対しては、「光」が当たる時代でもあります。「愚直に生きること」が評価される社会への移行が始まるのでしょうか。そのような意味では、むしろ「大安心」の時代が始まったと観るべきなのでしょう。
さて、最近のTV番組の中で、素晴らしい日本人の姿を観ました。ある小児科専門の外科医の先生は、他の病院に見放されてしまった難病の子ども達に対して、「絶対に何か方法はある」とその可能性を探し続け、最後には極めて難しい手術を成功させていました。元来の性格である心配性のおかげで、手術を行う前までの徹底した準備を行い、「実際に手術を行う時には、既に手術は終わっている」と言います。準備、準備、準備の繰り返しで、先生のノートには、手術の手順が克明に書かれており、それを何回も何回もペンで追いかけていました。心配性とは一見マイナスの性格のように感じますが、それを準備、段取りの徹底という習慣に反転させることで、自信と挑戦のエネルギーへと転換しているのです。心配性だからこそ、常に最悪を想定し、最悪を想定するからこそ、そのための完璧な準備を行う。よって物事が成功する。心配性と挑戦性という両極二面性を持つ素晴らしい人でした。
また、もう一人は中小企業の経営者で、汚れた水を浄化することのできる特殊な粉末を開発し、発展途上国の汚れた川の水をきれいな飲料水にすることによって、社会貢献とビジネスの両立を実現している方でした。当初はお金儲け(だけ)の為にいろいろな事業を行っていたのですが、全て失敗の連続で、その後に発展途上国の小さな村の村長さんや村民の方々との出会いによって、「人の役に立つことをしたい」という考えに変わったそうです。その後、この粉末の需要が増え、発展途上国の方々にも収益が上がる仕組みを考え、世界の貧困な地域での安全な水の普及に努力されています。一時的な形で終ってしまうボランティアではなく、永続するビジネスという仕組みの中で、全ての人が(少ない負担で)喜びを得られる道を開拓しているのです。「社会貢献なんて言葉は大嫌い」などと言いながら、お金儲けを追求していた人が行き着いた場所が、真の社会貢献であったという、これも両極の思考の一体化ではないかと、とても不思議に面白く感じました。
また他の番組では、世界で最も早く日付が変わる国である(太平洋の小さな島国の)「キリバス共和国」の現状を紹介していました。ここは第二次世界大戦時に日本の統治下にあった場所で、戦後も日本からの援助が行われ、キリバス国民の日本に対する感謝の思いが、とても強く感じられました。日本の援助により完成した(島と島との間を結ぶ)「連絡路(コーズウェイ)」は、日本語の歌にも成っていて、今でも毎日ラジオから流れているそうです。キリバスの若者たちの夢は、日本語を学び、日本で漁師に成ることです。TVではその夢を果たそうとする明るく元気な若者たちの姿を追っていました。このようにして、知らないところで、日本はとても良い事をしている・・・。日本に感謝し、日本を尊敬し、日本に憧れている人々がたくさんいる・・・。その事実を知れば知る程、私たち日本人は、襟を正して、見本と成る姿を見せて行かなくては成らないと感じました。キリバスの島は、年々の海面上昇によって、いつか国土が失われてしまうそうです。そのための移住先も既に確保しているとのことでした。それでも明るく前向きに生きている人たちの姿を見ると、私たちの方も学ぶべき点があると感じました。
地球温暖化による海面上昇、迫り来る大地震、難病を治す医療、発展途上国への支援・・・これから日本(日本人)が果たせる役割はまだまだたくさん在ると思います。日本の技術、日本人の智慧と良心はまさに地球(世界)の宝です。その宝物を与えて頂いたことへの感謝の心と謙虚さを決して忘れないで、更なる大欲を持って、日本人として恥ずかしくない行動をして行かなければと思います。その先に、世界から尊敬され、感謝される「黄金の国ジパング」が見えて来ると期待して・・・。
※海面上昇に思う
上記のキリバス共和国における海面上昇の件は、決してこの地域だけの問題では無く、これからの地球全体に及ぶ重大な危機の1つではないかと思います。日本においては、大地震に対する防災意識は他国よりも高く、建築的にも(まだ完璧では無いですが)耐震性能も高く、過去の経験からの様々なシミュレーションと準備が行われています。海面上昇に対しても、3.11の津波によって大きな危機意識を持つに至りましたが、津波の場合は、あくまで一時的なもので、必ずしも被害に遭うとは限りません。けれどもこれが海面上昇と成ると、世界中の海抜の低い地域の全てが(ゆっくりとですが)水没して行くことに成ります。
もちろん今日、明日の事では無いので、慌てる必要は無いと思いますが、既にキリバス共和国の様に、別の国のある地域(土地)を購入することで、確かな準備を始めている国もあります。実際どれくらいの海抜まで海水が上昇してくるのかは分かりませんが、津波の被害を受けた東北のみならず、全国の海沿いのエリアにて、建築不可地域の設定等が必要に成って来るのではないでしょうか。突然襲ってくる地震の様な災害が(確かに)一番怖いのですが、でも本当に怖いのは、ゆっくりと、少しずつ、近づいて来る、静かなる恐怖です。知覚しているのに、まだ先のことの様に思えてしまい、実際に近づいて来た時にはもう、「時すでに遅し」という状態が多いものです。先ず認識をして、最悪を想定した上で、今から出来る事を(ゆっくりと、少しずつ)進めて行くこと。この様な準備の力と災害の力が相殺されて、無難に成ることも有るのではないかと思います。
また火山の噴火についても、これから頻発する可能性が高いと言われています。日本の場合は、昨年の御嶽山の噴火で、そのような意識が目覚めましたが、地震に比べればまだ危機意識は低いものと思われます。けれども火山噴火の影響は極めて大きく、街は焼け、火山灰に埋もれ、都市機能は停止し、噴火自体も長期化することが多い様です。日本は地震国であり、火山国であり、そして島国です。日本がこれらの自然災害に対してどのように向き合い、どのように準備をし、どのように対応して行くのかを世界が見守っていると思います。そして、その日本の姿勢が世界に対しての良き見本、良き雛形に成るはずです。建築も深く関わることですので、今後の日本の総合的な防災戦略に注目して行きたいと思います。

東京大空襲と東日本大震災

昨日3月10日は、1945年の東京大空襲から70年の日。私自身、そのことをほんの数日前からの新聞やニュース等で認識したという事実が、この「70年」と言う年月の長さを物語っています。今日の3月11日も、70年後には、風化した過去の記憶に成ってしまうのでしょうか・・・。70年と言うと、確かに遠い昔の様に感じますが、もし私があと20年程早く生まれていたとしたら、その大空襲の日を確かに生きていたのです。20年として考え直してみると、非常に短い時間です。宇宙創成の時間軸から見たら0.1秒にも満たない誤差でしょう。そのほんの一瞬の差で、戦争や災害や恐慌等という壮絶な過去を生き抜いた人々がいる・・・。今の私たちに出来る事は、その歴史を風化させること無く、未来へ語り継ぐことしかありません。私たち人間は(個人も国家も)経験から学ぶ以外に、道は無いと思います。
東京大空襲では、一夜にして約10万人の命が奪われました。日本が戦争に巻き込まれた経緯については、きっと様々な事情があったことと思います。その評価や責任論等については、今でも多くの検証や論説が行われています。しかしながら私が思うに、その時代を生きた全ての人々は、その人自身の苦しい状況の中で、その日々をただ懸命に生きるしかなかったのだと思います。現在の平和なる日々を享受している私たちには、到底理解できない種類の恐怖の日々だったと思います。そこには只々、畏敬の念しかありません。戦争を題材にした小説や映画も多くありますが、どの立場から見ても、善と悪の狭間で苦しむ人間の姿が見えます。戦争という極限状態の中で、人間はその本質(正体)を現し、もがき、苦しみ、悲しみ、嘆きます。でも同時に、その正体の更なる奥底に光り輝く魂の姿も浮かび上がるのです。その「光」こそを、私たち後世を生きる者たちは、決して絶やさず、未来へと繋いで行きたいと思います。
けれども戦争は今も続いています。テロも地域紛争も戦争であり、日本国内で起きている様々な凄惨な事件も、ある種の(個人的)戦争の1つ1つでしょう。もっと言えば、心の中で人を恨んだり、怒ったり、批判すること自体も(既に)戦争への発火点なのかも知れません。そう思うと、この世の中で生きて、日々の生活という行為の中に、(広い意味での)戦争に巻き込まれる可能性は誰にも等しく在るように感じます。心の戦争状態を回避するには、先ずは自分自身の心の中を穏やかにすることであり、同時に相手からの(マイナスの)思いや攻撃を防御しながら、不干渉を決め込むことしか無いと思います。国の防衛という意味においても、自ら戦争を行わないという強き意志(穏やかさ)と同時に、相手からの攻撃を逃れる為の術(防衛)の二段構えが必要なのでしょう。世界が経済的に困窮して来ると、再び大きな戦争が起こる下地が生まれて来ます。その時、日本が戦争と不干渉な状態でいられる為に、今から最悪を想定して、あらゆる準備が必要なのでしょう。
東日本大震災から今日で4年ですが、なかなか思うように復興は進んでいません。福島の原発事故の影響も暗い影を落としています。戦後復興の時は、「経済成長」という巨大な波の力がありましたが、今回の震災復興の時代背景に、もはやその波の面影は無く、引き潮に足を攫われないのがやっとの状態です。それでも復興を実現させる為に「経済成長」が必須と成れば、国はあらゆる手段を駆使して、その波を(技術的に)起こそうとするでしょう。その波は戦後復興期とは違い、極めて人為的(人工的)なものに成らざるを得ず、きっと様々な障害(事態)が付随して来る様な気がします。とは言え、このまま復興ままならぬ状態を放置しておくことも出来ず、いろいろな面で苦しい判断が続くでしょう。つまり、これから始まる出来事とは、人間が人為的(人工的)な大波(経済成長)を実際に起こせるのかどうかという事であり、もし仮に起こせたとして、全ての人々がその波に乗れるのかどうか、その波は人々(生命)を傷つけないのか、その波はいつまで持つのか、その波が終わった後に世の中は落ち着く(安定する)のかどうかという難題を孕んでいます。
経済成長という魔物を人間の力だけでコントロール出来るものなのかどうかは分かりませんが、前回の戦後復興の経済成長が(地球環境へ)与えた負の影響を考えると、今回は自然災害の増加という形と成って、地球(自然界)からの反応が多発する様にも思います。今の私たちに大切なのは、良いか悪いかという評論ではなく、既に私たちは「そこ」に来ているという現状認識であり、世の中の現実を直視し、その波に乗る為の懸命な努力をしつつも、その波の有無に関わらない別次元において、精神的な心(人間性)の成長を目指す道を行くという、二段構えではないかと思います。東日本大震災以後の本当の復興とは、日本人をはじめとする人々の精神的な向上ではないかと思います。この厳しい現実を懸命に生きながら、そこに在る大いなる矛盾や不条理と戦いながらも、それでも自分自身の心を磨き、人間的な成長を目指して行くこと。これからの時代は、そのような時代ではないかと感じます。
人間的成長と言うと、とても難しく感じてしまいますが、でもそれは(多分きっと)「生きている幸せを忘れない」ということの様な気がします。70年前の大空襲、あるいは4年前の大震災で亡くなられた方々の(私たちに対する)共通の思いとは、「生きている幸せを忘れるな」だと感じるのです。「俺は今日も生きている(生かされている)」という自己認識を、日々感謝の心で持つことが出来たのなら、それに勝るものは他に無く、それこそが真の成功者ではないのかと。このような意識を持った人々が、集まる家族、集まる会社、集まる地域、集まる国、集まる世界が正に理想郷ですが、先ずはそれを願うよりも前に、自分自身の心的宇宙を「生きている幸せ」の粒子で一杯に満たすことだと思います。私たち丸二は、良き建築を造るには、(個人の)良き心的宇宙が必要であると考えています。他者に依存するのではなく、自分自身の日々の仕事や生活の中にて、我が心を懸命に磨いて行くこと。むしろそのような思いと行為こそが先で、その後に「経済成長」が付いて来るのかも知れません。いろいろな面で未知なる時代が進行中ですが、ある意味、面白い時代の様にも感じます。全ては、過去の苦難の道を乗り越え、未来へ希望を繋いでくれた先人達のお蔭です。

ノスタルジアから未来へ

趣味が映画とは言いながら、最近は映画館に足を運ぶ機会はそれほど多くは無く、時々スカパーやWOWOW等で録画したものを見たり、お気に入り映画のDVDを繰り替えし見たりが多いです。それでも「これは」と思う作品があれば、映画館に行き、幸いにして「良き映画」と出会えたら、その上映期間中に何度も見に行くことがあります。それでも大抵は多くて3回までですが、たまに4回以上という作品も出てきます。4回目でも「素晴らしい」とか「もう1回見たい」と感じられれば、それは自分自身にとって特別な映画なのだろうと思います。もちろん個人的な趣味嗜好なので、多くの方が共感する映画とは限りません。むしろヒットしていないものの方が多いでしょう。でも確かに、自分自身にとって特別な映画がこの世界には存在しているのです。
DVDを含めて4回以上見た映画の共通項を考えて見ると、「音と映像」に鍵があるように思いました。ストーリー性もしくはテーマ性よりも、そこに流るる感情や風景や自然音等の世界観が、私自身の意識と感応したかどうか。つまり理屈では説明が出来ない感覚的な面の方が優位に在るのです。例えば、「主人公の生き方に共感できなかったから、ダメだった」とか、「先が読めてしまったので、つまらなかった」とか、「とても考えさせられた」という感想は皆無で、むしろ「音楽」に浸る感覚に近いのかもしれません。音楽に理屈や説明は不要であり、そこに流るる音響世界の中で、なぜか涙が流れたたり、なぜかワクワクしたり、なぜか元気に成ったりするものです。
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最近、ロシアのタルコフスキー監督の代表作「ノスタルジア」をブルーレイで鑑賞しました。それまでの通常DVD版よりも当然画像が鮮明で、見事な映像美でした。とはいえ、今までの古く霞んだ映像の中にも幻想性と郷愁性(ノスタルジー)が在り、共に価値があると感じました。映画「ノスタルジア」は、まさに静寂なる異次元世界の中に生息する音と映像の流れに身を委ねるしか方法は無く、一般的な意味での面白い映画では(決して)無いでしょう。そこに流るる音とは、水や空気の悲しき和音であり、虫の音や風鈴の音、あるいは夕暮れ時の草原を渡り行く風の音に、「郷愁」や「情緒」を感じられる日本人の感性に近いものが在ります。そう思うと、今の日本はなぜにこれ程まで騒々しく成ってしまったのだろうと、ふと考えさせられます。
ここ最近、外国の方々が日本の田舎や農村を訪れるように成って来たと聞きます。私たち日本人が忘れてしまった、日本の美の本質がそこにあるのかも知れません。イタリアの巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」や「イノセント」もブルーレイで観ましたが、そこに映し出される言葉では言い尽くせない程の「退廃的な美」の世界も、日本の夕暮れ時に聞こえる虫の声には(永遠に)敵わないのかも知れません。遠いロシアに生きた映画作家の心象風景の中に(日本の黒澤映画からさえも感じられない)日本的な美の極致を見出すとは、何か不思議な感覚がします。映画「ノスタルジア」の冒頭のファーストカットを観れば、他の名作映画が束に成っても敵わない程の高次のエネルギーを感じます。そこには、母国ロシアに生きる家族への郷愁の祈りが映し出されていると思うのですが、とても一人の人間が意図的に造ったものとは思えません。何か別の高次の力が画面全体を覆い尽くしている様にも感じ、そこに畏怖の念すら感じるのです。
夏目漱石などの日本の文学作品を読んでいる際にも、そのような畏怖の念を感じることがあります。最近は、森鴎外の「青年」という地味な文学小説を読みましたが、そこにも特別な力を感じました。日本語という、世界で最も高次なる「言語の海」を最大限に駆使し、この世の森羅万象の一切合財を表現することの出来た明治の文豪達の作品には、外国文学の表現領域とは別格の世界観が内在されており、それと同時に、日本語の存在(そのもの)への畏怖の念へと結ばれている様に感じます。世界の中で、日本語を理解し得る人々の数は、決して多くは無いでしょう。真に正しく日本を理解するには、日本語を理解することが条件と思うのですが、そう成ると、日本を本当に理解できるのは、私たち日本人しか居ないのかも知れません。そのような中で、今や日本人から日本的な世界観が失われ、外国の映画や作品の中に、日本的な美意識への憧れを感じることが、時にあります。私たちは、今一度、この騒々しい日々の生活から、静寂さと美しい心を取り戻さなければ成らないと思います。
例えば、和歌や俳句の世界とは、(きっと)このような日本の美意識の全てを凝縮し、未来の日本人へ向けて送信されたある種の信号だったのではないかと感じます。国語や古文が嫌いだった自分自身にとって、それらを正しく理解する為の術は無いのですが、今に成ってみると、そこに内在する静寂さと情緒を感じることは出来ます。この遺伝子は現代の日本人の全てに受け継がれていると思います。今の厳しい世界情勢や経済情勢の中で、あるいは危機的な地球環境の中で、私たち日本人が果たす役割とは、科学と非科学の融合を実現することの様な気がします。日本とは不思議な国で、東洋的な神秘性と西洋的な優れた科学技術の両面を持ち合わせています。戦後60年の資本主義社会においては、特に西洋的な面が強化されたと思いますが、神秘性(精神性)が衰えた訳では無いと思います。東日本大震災を経由して、新たなる精神性の目覚めが始まり、優れた技術と美しい精神によって、これからの世界へ貢献できると思います。確かに部分だけを見ると、いろいろな嫌な事件や問題も起きていますが、それでも全体を観れば、日本は今でも非常に「良き国」だと思います。
この今の日本の中で、「古き良き日本」を思い出す土壌を造ることが大事だと思います。それは、決して回顧主義的な逆戻りでは無く、日本人の本質的な遺伝子(精神性)を再認識する為のものです。先日のTVでは、ある地方の過疎化した町が、人通りの全く無い商店街を、昭和初期の頃の懐かしい街並みに変えたことで、多くの観光客で賑わうように成ったと報じていました。そこには懐かしさと同時に、新しさも内在している様に感じました。「ノスタルジー」と言うと、やや後ろ向きの印象がありますが、今の日本にとっては実は大きな気づきへと繋がる道に成ると思います。映画「ノスタルジア」を観ながら、日本の美について、日本の未来について、そして映画全体を支配していた水の音について、心静かに、あれこれと考えてみました。