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ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

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今年の1月に公開されたアン・リー監督の映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」をDVDで鑑賞しました。本当は映画館で観たかったのですが、つい見逃してしまい、やっとです。この映画はアカデミー監督賞や撮影賞等を受賞した、映像の美しい冒険映画として話題に成りました。でもそれは違いました。この作品は決して単なる「冒険映画」などでは無く、「人間の持つ根源的な本能」と「宗教を超えた真の神、大自然」を描いた、人類の深層部分に迫る一大叙事詩だったのです。
物語は、動物園の動物たちを連れてインドからカナダへ(貨物船に乗って)移住しようとする家族が、大嵐で船が難破し、家族の中で唯一生き残った少年が救命ボートで(227日間)漂流するというものです。そのボートには、獰猛な虎も乗っていました。よって少年と虎のサバイバル(冒険)が本映画の主題と成りました。映画の内容や結末については、詳しくは書けませんが、ただ、懸命に生きようとする人間のことを、神(あるいは太陽)は間違いなく見守っている。善悪を超えた「視点」で、その人の「全て」を包み込んでいる。厳しさも優しさも、同時に与えている。人間はそのような「航海」の中で、激しく葛藤しながらも、「生きようとする」ことで、生かされ、救われる。
この映画に登場する虎はほぼ全てCGで作られています。あまりにも現実離れした美しいシーンも連続します。それは、ただ単に映像的な技術を駆使したいが為ではなく、人間にとっての現実とは(事実を超えた)脳内に宿る「思考の世界」だからかもしれません。そして最後は、全てを受け入れ、「事実」に回帰し、人間は遂に葛藤から脱出します。映画の中で、「人生とは手放すこと」と語られますが、一体何を手放すのでしょうか。それは、自己の善悪を認め、正当化する自分自身(自我)を捨てることでしょうか。そこから湧き上がる涙こそが、人生の真の成果物なのでしょうか。
神から見たら人間なんて(当然)未熟者でしょう。善も悪も持っています。そして「生きる」とはまさに熾烈な葛藤の連続です。でもこの「葛藤」の中にこそ、生きる意味があり、目的があるのではないか。この映画の主人公の少年の名前はパイ(π)と言います。円周率(3.14・・・)ですね。ですので、割り切れません。でもその永遠に「割り切れない(=葛藤)」中で、「葛藤を乗り越えよう」「懸命に生きよう」とする行為こそが最も美しく、最も尊いのかもしれません。この映画の美しさは、人工的です。それは思考の世界の映像化だからです。懸命に生きようとする人間の「心」を映像に転写したものです。だから、これは冒険映画ではありません。誰の心の中にも宿る、美しい良心の映像化だと思います。
以上、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」の印象を書きました。結局全ての人間の人生も、自分自身の(たった一人の)航海なのだと思います。その航海の最中で、様々な困難や葛藤が起きます。その経験=人生ならば、その困難や葛藤を(自ら)抱きしめてあげれば良い。どんなに酷い嵐も時間が経てば(必ず)終わります。そして穏やかな海が現れ、優しい太陽が顔を出します。その繰り返しです。大嵐(極限状態)の中で、「私は懸命に生き切る」と心に決めること。そうそれば、「恐怖」は(振り返らずに)去って行き、「勇気」と化して(自身の中で)生き続けるのでしょう。
さて、映画には(どうも)2種類あるようです。1つは、(その物語世界の中で)現実に起こる事(目に見える事実)だけを追う手法。これはリアリズムやリアリティを大事にするものです。もう1つは、登場人物の夢や思考の世界までを「現実」として捉える手法。あるいは「作り物」である事を隠さない手法。つまり「嘘か真か」の境界線が曖昧なものです。一般的な映画やドラマのほとんどは、前者です。それが一番分かりやすいからです。でも時々、後者の作品も生まれます。
例えば英国の映画監督、デビット・リンチの作品の多くは後者に属します。それは主人公の脳内にある思考(幻想、理想)までを当然の事実として描きますので、現実との乖離が起こります。よって非常に難解な映画に成ります。でもそこが面白いところでもあります。私の好きな「マルホランド・ドライブ」などは、何回見ても様々な解釈が生まれます。映画全編で映しだされていた物語とは全く違う本当の物語(事実)が(後に)分かるからです。その事実の物語を全く「描いていない」にも関わらずです。そして「ライフ・オブ・パイ」も、こちら側の映画に属します。これも「精神」と「思考」の物語だったからです。
翻って私たちの人生はどうでしょうか。多分きっと、起きた事実に対する「感情(思考)」までを現実のものとして含めていないでしょうか。起きたことは単なる事実であって、本当は「中立」のはずなのに、その事実に対する様々な「観念」を加えて、自分だけの(偏った)現実社会を造りあげています。要は起きたことにレッテルを貼っているのです。起きたことはただの「事」に過ぎないのに。起きたことを素直に(無色透明に)受け止め、感謝し、その対応(=方法論)を淡々と進めて行く。それこそが「懸命に生きる」ための究極の武器かも知れません。パイ(π)は「生命の危機」あるいは「虎」との葛藤に、素直に、正直に、真剣に向き合い、極限状態を乗り越えました。目の前で起きている事実の「本質」だけと向き合い、受け入れたからでしょう。
私たちは、何かが起こると、その事実に対していろいろなレッテルを貼ります。それは良いことだ。それは悪いことだと。そのような評論家的発想から抜け出したところに本当の答えはあるのかもしれません。大切な事は、「良い」「悪い」の自己評価(色付け)では無く、どこにいようが、何が起ころうが、常に「最善を生きる」「懸命に生きる」「良き人生を歩む」「課題を解決する」という「力の方向性」を持つことでは無いでしょうか。今は大量の情報を手に入れることが出来る時代です。でも、それらに振り回されるのではなく、「今」「目の前で」自分自身に起きている現実にこそ意識を集中する。多分きっと、本当の答えはそこにしかないのかもしれません。パイ(π)のような極限状態に陥ると、人間は不思議(不可能)な力を発揮します。それは、目の前の巨大な現実だけと対峙せざるを得ないからでしょう。本当に必要な情報は、実はすでに自分自身の中に膨大にあるのではないでしょうか。
仕事は人生の一部です。仕事は、自分自身の中に在る本当の力(情報)を呼び起こすのに最適です。何もパイ(π)のような極限状態を味わう必要はありません(味わいたく無いですよね)。日々の仕事や生活の中に在る困難と向き合い、乗り越えて行く経験の蓄積こそが、自らの人生を形成して行きます。だから、仕事とは「自分自身を成長させる為のもの」であり、会社とは「社員の人格形成の場」であると思うのです。「π」は決して割り切れませんが、(割り切れるまで)永遠に続きます。私たちの人生も同じです。

観光立国と平和への道

先日行われた参議院選挙の前に、日銀は景気判断を上方修正し、「緩やかに回復しつつある」と発表しました。アベノミクスに対する世間の評価は「賛否両論」あります。「長引くデフレが終わりホッとした」「景気が良く成って来た」という人もいますし、「未だ景気回復の実感は無い」「物価が上がって来た」「消費増税は困る」「原発反対」という人も多いです。ただ(仮に一時的にせよ)「デフレから脱却することができた(ようだ)」という点においては、まだ日本は守られていると感じます。もし未だデフレ圧力が継続していたならば、国全体がさらに収縮していて、景気回復の実感の「有無」さえ言い合える状況では無かったと思います。
よって問題はこれからです。景気回復が日本全体に行き渡っているわけではありません。今回の「穏やかな回復」も、「異次元の金融緩和」というある種の「投薬効果」によるもので、未だ本質的な「治癒」に成っているわけでもありません。(今後は、逆に)インフレに対する懸念も生まれて来るでしょう。要は、先ずは「生命」を救うことはできたが、本当に元通りの「健康体」に成れるのかどうかだと思います。
今回の参議院選挙は(やはり低い投票率でしたが)、当面の景気回復を優先させた結果ではないでしょうか。世界的にはまだデフレ状態が続いていますので、日本が今すぐ急激なインフレに成る可能性は少ないでしょうし、(自民党が単独過半数に届かなかったので)憲法改正論議も多少は遠のく可能性もあり、やはり国民の期待である「景気回復」に一点集中すべきと思います。「みんな」が好況を実感できる状態を早く造ること。そのためには、消費増税の判断や行政改革も含めて、たくさんの課題が残っています。
私が今後の日本に期待しているのは「観光立国」というテーマです。今朝の日経新聞に、2013年上期の訪日外国人客数が過去最高(495万5千人)と成り、年間1,000万人の政府目標に近づいて来たとありました。日本の強みは、「技術力」と「国民性」にあると思っていますが、もう1つ「観光立国」という希望も残っています。富士山や伊勢神宮を始めとする(西洋にも他のアジアにも無い)今現在も光輝いている聖地があります。皇居もそうかもしれません。そして大自然の山々。数々の文化的な遺産。減少しつつありますが「里山」や「古里」も、まだまだ多く残っています。いずれも、世界中のどの地域とも違う、穏やかで、優しくて、思いやりにあふれた風景です。
高度成長の流れに乗って、私たちは日本の原風景を壊して来ました。それは、先ずは経済成長を優先させた結果からでしょう。でもそのおかげで、私たちは現在とても便利で快適な暮らしを享受しています。よって過去を否定する意味は無いと思います。けれどもこれからは(経済成長のためにも)日本の風景を再生(新生)し、世界中の人々が日本へ足を運び、日本を体験し、日本人と触れ合い、日本を尊敬することを望みます。結果的に日本全体の経済成長にも結びつくはずです。同時に農業や林業の再生にも連動するでしょう。そうです、「観光立国」という視点を置くことで、日本の持っている強みを生かしながら、経済成長と自然再生を同時に手に入れるのです。日本は、それだけの巨大なポテンシャルを持っているはずです。
経済成長は時に下降することがあります。けれども大自然は決して変わらない価値を持ち続けます。先週末、沖縄へ行って来ましたが、鉄筋コンクリート住宅も木造住宅も、同じような「赤瓦」の屋根がとても印象的でした。沖縄の歴史や文化を象徴する赤瓦の家やマンションを観ると、これも1つの美しい風景と感じます。日本の場合、観光地は良いのですが、それ以外の普通の街並みに美しさが無く、諸外国の街並みから劣って見えます。要は「観光立国」にするとは、決して観光地を開発するだけでは無く、普通の街、普通の里を美しくすることでもあります。
そういう意味で、建築の新たな役割も生まれて来るでしょう。確かに1軒1軒の家は、個人の財産であり、他人には無関係です。けれども外観は、それ自体が公共の財産であり、街の価値を大きく左右します。日本中を美しくするために、みんなで(長い時間を掛けて)取組むのです。世界一の技術力(ハード&ソフト)で世界の繁栄に貢献し、日本人固有の親切な国民性で人々を救い、美しく光る国土で世界中の人々を感動させ、そして癒す。結局それは日本全体の経済を刺激するでしょうし、日本人一人ひとりの人間性をも成長させるでしょう。そして世界から尊敬され、喜ばれる国に成ると思います。
時間を掛けて改革する力こそが本物だと思います。一本の木が育つのに40年以上掛かります。ひとつの森を再生するのに100年以上掛かります。自分が生きている間には結果は出ません。けれども過去を生きた先人たちは、未来の子ども達のために、そのような地道な努力をして来たのです。沖縄の広大な「平和祈念公園」に行き、戦争で生命を落とされた多くの方々の墓碑を見つめた時、平和を築くのには長大な時間が掛かるのだと感じました。だからこそ一歩一歩平和を実現して行かなければならない。現代を生きる私たちは、そろそろ原点に戻って、自然を愛し、先祖に感謝し、未来への土産を造る時が来たのでは無いでしょうか。そのような意識が生まれた時、日本は本当の「健康体」と成って、生かされるのではないかと思います。
PS.大好きな映画、「この空の花~長岡花火物語」の大林宣彦監督が、次回作の撮影をすでに撮り終えたそうです。今度の映画「野のなななのか」は、北海道の芦別が舞台です。東日本大震災から2年。日本の古里と日本人の心を再生する、きっときっと素敵な映画に成るでしょう。ちなみに今回の映画も、「この空の花」同様に、戦争秘話を扱っているようです。いま公開中の宮崎駿監督の「風立ちぬ」も、ゼロ戦の開発者の物語です。今こそ過去の戦争を思い出し、亡くなられた方々を追悼して、戦争の無い平和な世界を実現する時なのでしょう。ちなみに私の父(会長)の古里は、芦別のすぐ隣の滝川です。何か縁を感じます。大林監督の芦別映画、今からとても楽しみです。

とても広くてとても長く

今月は参議院選挙です。けれどもきっと投票率は低く成るのでしょう。先日の東京都議選挙も非常に低い投票率でした。組織政党にとっては、投票率が低いことがプラス効果に成りますので、なかなか投票率を上げるためのシステムは進みません。ただ今回からインターネットでの選挙活動が解禁と成りましたので、多少の期待は持っています。どこが勝つか負けるか以前の問題として、最低でも60%以上(理想は70%以上)の有権者が参加する選挙が行われて欲しいと思います。その結果が国民の総意に成ると思いますし、国民の期待でもあり、ある意味においては国民の責任にも成ります。国の未来を決めるのは、やはり国民です。マスコミやメディアが正しい情報を提供し、その上で有権者が正しい判断を行う。その連続によって、国の未来は定まって行くのでしょう。
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最近、またDVDでギリシャのアンゲロプロス監督の映画を2本観ました。「シテール島への船出」と「エレニの旅」です。共にギリシャの戦争と内戦の歴史の中で懸命に生きた人々を描いた作品です。「霧の中の風景」同様に、とても美しい映像と長回しの撮影手法が、その時代を生きた人々の内面にゆっくりと侵入して行きます。物語としては(もちろん)悲劇なのですが、そこには「悲劇」を俯瞰する「ある種の視線」が内在しているように感じます。それは決して「冷めた」視線では無く、あくまで「覚めた」視線です。かつてギリシャ人が体験した、過酷な道程(旅)を俯瞰する「眼」です。その眼を画面に「入れる」ためには(どうしても)とても広くてとても長い「絵」が必要だったのかもしれません。通常の人間の生理では受け付けられない程の「距離」と「時間」が無ければ、その「眼」は画面に収まり切らなかったのではないかと。
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「エレニの旅」では(屋外セットで)川沿いの荒野に1つの村を実際に造り、映画の終盤では、その村を全て水没させます。もちろんCGではありません。商業映画に成るはずの無い1本の作品のために、これだけのコストと労力を費やすアンゲロプロフ監督とは、一体何者なのか。少なくとも、自国の歴史を俯瞰しつつ、新しい時代を切り拓こうとする「志」は本物だったのではないでしょうか。残念ながら、昨年交通事故で亡くなってしまいましたが、残された作品は永遠に生き続けるでしょう。まだ未見の作品がありますので、今後も探して、観て行きたいと思います。
そしてギリシャは(現在も)財政的に厳しい状態が続いています。もちろん世界全体もそのように成っています。政治、経済、環境、社会・・・あらゆる物事が曲がり角に来ているのは間違いないでしょう。日本も同様に、今回の選挙結果によって今後の大きな方向性が決まります。同時に、私たちの経済活動の流れもさらに見えて来ます。確かに楽観は禁物ですが、新しい流れが生まれて来たという意味においては、「変化」は大歓迎です。日本は様々な困難と遭遇するたびに強く成って来ました。今回の「困難」はかつて無い程の「飛躍」を生み出す可能性があると思います。建設業界においても、「スクラップ&ビルド」の流れが下降し始め、「保守&修繕」へ変わって行くでしょう。今はアベノミクス効果で(一見)建設投資が回復しているように見えますが、大きな流れにおいては「保守&修繕」に向かうはずです。ここを見誤ると、また同じ時代を繰り返し、いつまでも抜け出せない罠に陥ります。
目先のミクロの動きだけに捉われず、長期のマクロな動きも感じなければならない。予測しなければならない。視界に入れなければならない。アンゲロプロス監督の映画のように、「とても広くてとても長い」視座を持つこと。そういう視点で経営を行い、仕事を行い、生活を行い、選挙を行う。私たちは、少し物事を「とても狭くてとても短く」見過ぎていたのかもしれません。もう少し「引き絵」で観て、俯瞰しなくてはならなかったのに。そのような高くて遠い視点(ビジョン)を持って、あらゆる意志決定をして行く時代に成ったと思います。最終的は自分自身を俯瞰すること。つまり、自身の良心と向き合うこと。そこにしか本当の答えは無いのかもしれません。

見えない応援者たち

先日の良き日、お祝い事が2つありました。お昼は、当社が施工させていただいたお寺様(分院)の落慶式で、法要と食事会にご招待をいただき、会社への感謝状と工事所長へのご祝儀を頂戴いたしました。そこで工事所長に対するお褒めの言葉もいただきました。(当社の施工範囲外の)隣接する墓地の建設作業にも(汗を流して)協力をしてくれてとても助かった。本当にありがとうと。ご近隣とも調和して、多くの関係者から喜ばれたことは、とても素晴らしい成果でした。お客様、ご近隣の皆様、そして社員さん、協力業者さん、本当にありがとうございました。
夜は個人住宅の上棟祝いでした。お施主様が美味しいお寿司屋や手料理やワインをご用意いただき、大工さんと一緒に、楽しい会食に成りました。終わった後も、お施主様から「こうして皆さんと一緒に食事をしながら、いろいろな話ができて、本当に良かった。こういう場を作ってくれて本当にありがとう」とおっしゃっていただきました。こちらこそ、このような会席をご用意いただき、心から感謝しています。最後の完成に向けて、誠心誠意努めてまいります。
さて、その上棟祝いの際、あるエピソードがありました。お施主様が新築の家の屋根裏に貼り付ける為の「木の板」を持って来ました。その板には、あるお寺さんにお願いしてたくさんの文字が書かれていました。日蓮宗のお寺なので、「南無妙法蓮華経」等のいろいろなお経が書かれています。そのお寺とのご縁ですが、お施主様のあるお知り合いの方が(ある晩)夢を見たそうです。その夢は、「龍神の社」をどこそこのお寺に建てなさいというお告げだったそうです。夢を見た方は、そのお寺を探して行き、夢の話をしました。そうしたところ、お寺の住職から「あなたのことを○○○年、お待ちしていました」と言われ、そのお寺は「龍神の社」を建てました。そのようなお話を(そのお知り合いから)聞いて、お施主様もそのお寺とのご縁が出来たそうです。「木の板」は、加子母の木です(当社から加子母さんにお願いしました)。つまり加子母の木に、「龍神」とご縁のあるお寺さんがお経を書いた訳です。
さて話は6月末に行われた「第12回:加子母森林ツアー(25名参加)」に飛びます。ツアー当日は(台風の後で)2日間とも「快晴」の予報でした。その予報通り、加子母到着まで本当に素晴らしい天気でした。ところが加子母に着き、みんなが建物に入ったとたんに、突然の大雨が降って来ました。みんなもびっくりしながら、「大変だ」と思って窓の外を見ていました。ところが、山へ行く時間に成った瞬間、ピタッと雨は止み、先ほどまでの快晴に戻りました。以降、全行程が終了するまで、素晴らしい天気のままでした。ツアーには(上棟祝いをされた)お施主様も参加されていました。
私はその時、「ああ、龍神様だ」と感じていました。龍神様が喜んでお出迎えする時には、必ず「ひと雨」降らせると聞いていたからです。確かに今までも数回そのようなことがありました。だから突然の大雨が来た時も「龍神様、ありがとうございます」と思い、「すぐ止むから大丈夫」と安心していた訳です。
実はこの時、でもなぜ今回のツアーに龍神様が出て来られたのだろうと思っていました。こんなにピンポイントでの大雨のご挨拶をいただいたのは初めてだったからです。そこで先ほどの「木の板」の話です。加子母の木に龍神様と縁あるお寺の文字が書かれました。その本人であるお施主様が加子母に(初めて)着いた瞬間、大雨が来ました。つまり、加子母の龍神様が(龍神様と縁あるお施主様への)歓迎の挨拶をされたのではないだろうか。上棟祝いの席で、お施主様から龍神と木の板の話をお聞きし、やっとつながったのです。
もう1つ、変なことがありました。ツアー2日目の早朝、お施主様のコテージのドアを誰かが「トントン」と叩いたそうです。お施主様は、私だと思って「どうぞ~」と声を掛けました。けれども返事が無いので、ドアを開けて外を見たら、まわりには誰もいなかったそうです。もちろん私も、早朝にお施主様のコテージには行ってません。「変だね」って言う話で終わってました。でも、よく考えてみたら、「龍神様だっだのか・・・」と感じます。伊勢神宮の御用材の山、加子母ではこのような不思議な事が起こるのかもしれない・・・と、ちょっと嬉しい気分に成りました。
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ついでに、もう1つの不思議な話題です。今、「奇跡のリンゴ」という映画が公開されています(阿部サダオ、菅野美穂主演)。これは「絶対に不可能」と言われて来たリンゴの「無農薬栽培」に遂に成功した(青森県中津軽郡の農家の)木村秋則さんの実話です。木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」のお話はとても有名で、たくさん本も出て、またNHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀」にも紹介されて、その後の農業の変革にも結びついています。
けれども、この実話が映画に成ったと聞いた時、「本当かな」「大丈夫かな」と感じたのです。なぜかと言うと、この「奇跡のリンゴ」の物語の背景にある真実まで描けるのだろうかと。否、描いて大丈夫なのかと。この木村秋則さんの無農薬リンゴに関する本が(数冊)出た時、私も2冊ほど読みました。自然農法と木村秋則さんの苦闘の人生に興味を持ったからです。
1つ目の本は、まさに木村秋則さんの壮絶な人生を(ライターさんが)綴ったドキュメントでした。10年にわたって挑戦し続けた「リンゴの無農薬栽培」が上手く行かず、お金も1円も無く成り、命を断とうとロープを持って夜の山に行きます。そこで果実を実らせた1本の樹を見つけ、遂に答えを見つけます。そのような命を掛けた感動の物語でした。
でも私がより感銘を受けたのは、もう1冊の本でした(タイトルは忘れました)。これは(確か)木村秋則さん自身が書いた本です。そこに書かれていた事実こそが、「映画にできるのかな」と思った内容でした。つまり、この「無農薬リンゴ」の物語には、「見えない世界」が関与していたのです。木村秋則さんは、「龍(!)」に会っています。「UFO(!)」に乗っています。「宇宙人(!)」に会っています。「無農薬のリンゴ」は、そのような目には見えない存在からの応援があって、実現しています。そう「本人」が語っていたのです。
こう聞いただけで「眉つば」と思う人が多いでしょう。でも、もしそうであるならば、あえてそんな「ウソ」を言う必要があるでしょうか。「自分の努力で」と言えば良いのに・・・。不可能を可能にするには、きっと何かしらの「目には見えない力」が(間違い無く)関与していると思います。それが、具体的な形で「目に見える」人もいるのでしょう(木村秋則さんのように)。でも「目に見えないから、応援されていない」と言う訳ではありません。私たちもきっと、懸命に(何かに)取り組んでいる最中、必ず「見えない力」に応援されているはずです。
でも「見える」ことが重要なのでは無いと思います。むしろ「見えてしまう」ことによって、その「奇異さ」に心を奪われてしまい、堕落して行く人もいます(多くの霊能者のように)。ですから、見えなくても良いのだと思います。けれども「見えないけれど、きっと何か(誰か)が応援してくれている」と信じることは大切だと思います。木村秋則さんの場合は、あまりにも極限状態に陥ったため、「見えてしまった」のだと思います。そして龍や宇宙人が「応援者」として物質化したのではないでしょうか(想像です)。
私たちは、今この瞬間も「目には見えない存在」に守られ、応援されているような気がします。それは木村秋則さんだけでなく、全ての人間がそうです。見えなくても良い。感じること。信じること。そして感謝すること。だって、陰で応援してくれている存在がもし本当にいるならば、その相手から「応援してくれてありがとう」と言われたら、嬉しいじゃないですか。嬉しければ、もっともっと応援したくなるはずです。だから結局、「感謝」が自分自身を救うのではないかと思います。
その後、私はこの映画を観ました。とても素晴らしい映画でした。感動しました。もちろん、龍もUFOも出て来ませんでした。でも、そういう映らない存在を感じることは出来ました。多くの成功者が、後に成って「実はあの時・・・」と、不思議な話をすることが多いです。その時は、「頭がおかしく成った」と思われてしまうので、あえて言わないだけなのでしょう。日本も今は厳しい状況の中に在りますが、でもきっと何か「目には見えない存在」に守られているのではないかと感じます。それは、私たち日本人の人間性の総和が、その力を呼んでいるのではないでしょうか。その力からもっともっと応援をいただくために、私たちはもっともっと人間性を磨かなければならないと思います。そして、もっともっと感謝しなければならない。丸二の経営理念の根幹は「感謝」です。そして私たちは、住む人を「応援」する建築を造り続けたいと思います。

ヴェルディを聴きながら・・・

最近、イタリアのオペラ作曲家ヴェルディの「レクイエム」をよく聴いています。ヴェルディはワーグナーと同年生まれで、今年が生誕200年に当たるのですが、私は今までヴェルディをほとんど聴いたことがありませんでした。特に理由はありませんが、ドイツオペラのワーグナーが好きでしたので、何となくイタリアオペラに関心が無かったのでしょう。クラシック音楽もまだまだ奥が深くて広いですね。ヴェルディの「レクイエム」は、タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の冒頭に使われていて、その数分間だけで魅せられたのです。その後いくつかのCDを聴いて、とても好きに成りました。
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「レクイエム」と言うと、モーツァルトとフォーレ、そしてこのヴェルディが有名ですが(3大レクイエム)、それぞれ全くタイプも雰囲気も違い、個性的です。中でもヴェルディのものはオペラ的な壮麗さと美しい旋律に溢れていて、約80分間と長丁場ですが、とても感動的な音楽に成っています。「レクイエム」とは「鎮魂」という意味ですので、死者に対する祈りの音楽です。けれどもそこには変な暗さは無く、むしろ希望の光を感じます。日本的な言葉で言うと、「先祖供養」なのかもしれません。日本では「レクイエム」に相当するような音楽やミサは無いと思いますが、例えば毎日、仏壇に線香をあげて、御先祖様を「思う」行為はあります。
日本の場合は(このような家の中の日常生活の中に)先を生きた家族を思い、感謝を伝える文化が生き続けています。その祈りと感謝は、1つの大きな力と成って、今の日本を支えているのかもしれません。今、私たちが生かされているのは、御先祖様がいたからですね。日本人の素晴らしさとは、このような御先祖様や大自然への感謝の心が(ごく当り前の様に)体中に染みついていることではないでしょうか。そのような基礎があるから、西洋の「レクイエム」に対しても、ごく自然に共鳴できるのだと思います。だから毎朝、仏壇に(感謝の心を込めて)線香をあげながら、「日本人って素晴らしいなぁ」と感じるのです。
けれども、先祖を「思う」とは、決して暗くて悲しいことではありません。今の自分自身のルーツへの感謝であり、「見えない世界」への(日々の)ご挨拶のようなものです。例えば、富士山が世界遺産に登録されましたが、富士山を「単なる山」としてしか見ない日本人はいないでしょう。明らかに「何かが在る」と感じているはずです。「霊山」としての富士山を(心の眼で)観ているからです。太陽もそうでしょう。美しい朝日や夕日を観ると、自然に手を合わせる自分自身がいます。目には見えないけれど、きっとそこには何かが在る。その最も身近な存在こそが御先祖様であり、その「見えない世界」へのご挨拶こそが、毎朝仏壇に線香をあげることだと思います。その時の心の様相は、とても明るく、爽やかで、清々しいものです。
ところで富士山が世界遺産と成り、今後は登山客が増えて行くようですが、私自身としては、所謂「霊山」に(人間が)軽々しく足を踏み入れて良いのだろうかと考えてしまいます。誰もが「何か在る」と思う山は、きっと「霊山」であり、そこは神聖な場所のはずです。決して汚しては成らない場所です。観光気分で多くの人間が足を踏み入れて行くことを、富士山自身が望んでいるのだろうか。ふと、そんなふうに感じるのです。例えば、ある程度の金額の入山料を取るなどして、山の管理を徹底することが大事だと思います。それが日本人「らしさ」のような気がします。「見えない世界」を信じて、畏れ、敬意をはらえる日本人として。
けれども最近は、仏壇や神棚を置く家が少なく成ったようです。それでも住宅のプランニングの際には、仏壇を置くスペースについてのご相談をいただくことも多いです。目に見えない世界を意識する人は、確かに少なく成ったけれども、決してその文化が失われたわけではありません。あの東日本大震災の追悼の願いと祈りは、きっときっと、自分自身のルーツに対する供養へと結びつくでしょう。そして、かつての素晴らしい日本文化を復興させる時が来るに違いありません。
かつて、日本の家には大黒柱と仏間がありました。日本人にとって、家とは「生活」そのものであり、生活とは「感謝」そのものだったと思います。今の家族と過去の家族への感謝の心が、実は大きな「大黒柱」と成って、家系を支えていたはずです。その(一人一人、一家一家の)感謝の「総和」が、国を支えていたはずです。今の日本、確かに財政は厳しいですし、景気も悪く、問題も山積しています。けれども、世界を見回してみて、日本ほど「安心できる国」は無いはずです。結局、最終的には国民性です。「感謝」と「和」でまとまる日本が最強です。「目に見えない世界」への感謝の心を醸造していたのが「先祖供養」という行為であり、「家」という場ではなかったか。イタリア人のヴェルディの「レクイエム」から、随分話が飛躍してしまいましたが、やはり日本は素晴らしいと言うことです。