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お日さまへ手を合わせる

この度の熊本大地震で被災された多くの方々に心から御見舞を申し上げます。一刻も早く、救援救助、復旧が進むことを心から祈るばかりですが、実際の現場はそれどころでは無いのかも知れません。これだけ大きな余震が続くことは今まで無かったことで、先ずは大地が落ち着くことを祈りたいと思います。被災地では車中泊によるエコノミー症候群が多発しているとのことで、大きな余震が続いている中、自宅に戻れない状況があるのでしょう。体を動かしたり、水を飲んだりと云う普段の日常生活では当たり前のことが出来ない状況ほど、苦しいものは無いのかも知れません。この毎日の普通の生活への感謝と共に、早期に余震が落ち着き、多くの方が安心して自宅へ戻られることを心から祈ります。阪神淡路、東日本、そして九州熊本と、日本列島は常に大きな地震と共存しながらも、それでも必ずや大難を乗り越えて行くはず・・・。熊本への思いを持って、この日々を懸命に生きて行きたいと思います。
この熊本の大地震発生の直後には、南米のエクアドルでも大きな地震がありました。その後の報道によると死者が507人、負傷者は4000人超に上っているそうです。まだ救助の手が届かない場所が多く、被害はさらに拡大すると思われます。日本は昔から地震大国ですから、あらゆる面での地震対策を行ってはいますが、それでも実際に発生すれば、常に想定外の被害や問題が起きてしまいます。まして元々地震の少ない国や地域の場合は、もし震度5以上の地震が発生した場合、街や地域あるいは国家全体が崩壊する危険性もあると思います。今後、大きな地震が日本列島のみならず地球全体に拡大して行く可能性もあるとのことで、熊本とエクアドルの復旧・復興と共に、他の国や地域への拡大が無き様、心から祈りたいと思います。  
実際にこのような場合、私たちは「祈る」ことしか出来ません。でも人間の祈りには、確かに何か大きな力が内在していると感じます。多くの人の祈りの思いが無数の束に成れば、目には見えない大きな力と化して、きっと何かしらの物理的な作用を及ぼすと思います。只そう信じ、祈り続けることで、この日本と云う国はここまでやって来たのでは無いでしょうか。前のブログに書きましたが、「お天道様が観ている」という情緒的発想は、日本人特有の(所謂、宗教とは全く別物の)信仰心、祈りと同意のような気がします。西洋人の云う祈りとは、自身が信仰する宗教の主に向けられたものと思いますが、多くの日本人の場合は、例えばお天道様をはじめ、大自然とか、山々とか、森の木々とか、風とか、空とか、月とか、海とか・・・あるいはご先祖様を含めた(ある種)大いなる抽象的なる大自然、森羅万象に向けた祈りのように感じます。ここは大きな違いです。この自然信仰という意識を、日本人は(特に誰にも教わらずに)生まれつき、心の中に宿しているのではないか・・・。
この日本人特有の祈りの根源は、やはり「感謝の心」ではないかと思います。日本人は(漠然とした感覚だと思いますが)「生かされている」と云う発想を(心のどこかで)認識しているのだと思います。その思いが、自分以外の全ての象徴たる大自然やご先祖様へ向けての「ありがたいなあ」という心境を醸造しているのでしょう。そのような日本人的遺伝子の(過去から現在に渡る)無数の束の蓄積が、今の日本国を造っているのではないでしょうか。映画「男はつらいよ」の第39作目「寅次郎物語」では、寅さんが、甥の満男の「人間は何のために生きてんのかな」という問いに対し、「生まれてきてよかったなって思うこと、何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのかな」と答えます。本当にそうだと思います。阪神淡路大震災、東日本大震災、そして今回の熊本大地震で被災された方々も、そして日々の生活の中で個人的絶望に苦しんでいる人も、きっと「生まれて来てよかったな」と思える日が来ることを信じて、この日々を懸命に生きているのだと思います。どんなに辛くても、朝が来れば、空にお天道様がちゃんとある。そのお日さまに向かって、そっと手を合わせる。その美しい姿を、この大自然(森羅万象)は必ず見てくださっている。そう信じます。
今回の九州の大地震の震源が(長期的に)日本列島を北上する可能性があると言われています。また火山の噴火にも連動すると思われます。あらためて日々の防災意識と共に、この我が身が(今日も)生かしていただいていることに心から感謝し、心の底から「ありがたいなあ」と思える日々を(自らの力で)創造して行きたいと思います。

目を覚まし、歩いて行く

「パナマ文書」なる告発が世界を揺るがしていますが、要は世界の政治家や富裕層が無数のペーパーカンパニーを利用して、租税の回避を行っているとのこと。おそらく日本人もいるのでしょう。その一方で、先日初来日した「世界一貧しい大統領」として有名なウルグアイのムヒカ前大統領は、自らの報酬の9割を寄付しているそうです(報酬自体もささやかな額の様です)。この違いは(文字通り)「天地」の差でしょう。そのムヒカ氏が、あまりにも西洋化し過ぎた現在の日本の姿を観て嘆いたと聞きました。恥ずかしながら、確かにそうかも知れません。かつての日本人は、善い事、悪い事の分別を、西洋人の様な「法律」「解釈」「理屈」を超えた、「天」の視座・視点で判断していたと思うからです。それはある意味、情緒的な感性によるもので、「お天道様が見ているよ」の一言で、「よし、分かった」となる種類だったように感じます。
今回のパナマ文書の問題にしても、おそらく極めて精妙な精度で法律の目を掻い潜っているはずです。それくらいの知恵は使っているでしょう。でも問題はそういうことではなく、大切な税金を納めることを(節税を遥かに超えるレベルで)意図的に回避しようとする、その精神、「人間性」が問われているのではないでしょうか。仮に法的にはセーフであっても、「そんなみっともない事、できるか」という情緒がそこには不在なのです。このような西洋的思考による社会は、これからきっと崩れて行くと思います(既に崩れていますが)。同時に、明治維新以降、日本に深く根付いて来た西洋的な面も徐々に崩れながら、日本古来の元点、「情緒」ある文化が再浮上して来ると思います。それはきっと、とても良いことです。
税金とは国民としての義務ですが、その国を経由して、大地、天地自然への奉納(感謝)でもあります。この国土、社会、制度、文化が無ければ、私たちは日々の生活を行うことは出来ません。自国に対する様々な不平や不満があるとしても、そのような基本的精神が根底に無ければ成らないと思います。なぜかと言うと、「お天道様が観ているから」です。まさに情緒的な理由です。でも、その一言で「そうだな」と成るのが、かつての美しい日本人の姿だったのではないでしょうか。ムヒカさんはきっとそこを観たのだと思います。「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです」というムヒカさんの言葉が胸に突き刺さります。
先日、米国の外相が広島の平和公園を訪れ、原爆資料館を見学後、原爆慰霊碑に献花を行い、その後(予定にはなかった)原爆ドームまで視察しました。当然、日米両国の政治的な意図がある訳ですが、それでも素直に嬉しく感じました。過去の歴史的な背景が在る故、明確な謝罪の言葉は無くても、それでも現地で献花をし、その花輪の置き方を一寸(戻って)直す動作をした所作の中に、ほんの一縷の情感、情緒を感じました。ただそれだけの事ですが、そこに小さな感動を覚えたのです。今後もし、本当に現職大統領が来るとなれば、両国にとって大きな一歩に成るでしょう。その行為の事実はきっと原爆で亡くなった方々の魂まで届くと思います。つくづく日本人の「水に流す」という特異な習性は、世界的にも稀なる不思議現象と思いますが、けれどもその日本人的な「情緒」という感性に、いつかきっと世界が敬意(畏れ)を表する時が来ると思います。
ところで、この「情緒」と云う言葉は、世界的な天才数学者である岡潔さんの本(「情緒と日本人」「人間の建設」等)を読んで、深く心に刻まれました。日本人の数学の大家が、なぜ「論理」とは真反対の「情緒」を言うのかと驚きましたが、岡潔氏にとっては、それが全く自然なことのようです。つまり、「数」の探求によって、この世界が全て数字で表現されていることを知り、その数字を完全に理解することで、大自然(宇宙)の本質が分かったのかも知れません。その大自然(宇宙)を司る存在こそが(まさに)情緒だったと云うのでしょうか・・・。語られる言葉がとても平易な分、非常に哲学的です。
また、岡潔氏の発言の中でとても興味深いものがありました。西洋の指揮者が目を閉じて大きく手を動かしている姿を観て、「目を閉じて、むやみに体を動かしている。これでは奈落の底へ落ちる」と。そして「日本人は体を動かさずに、じっと坐り、目を開いて、何もしないことだ。日本人がこの役割をやらなければ誰もやらない(やれない)」と。つまり、「眠ったまま、体だけを動かしている人類」から、「目を覚まし、思考を動かす人類」に変われと言う意味ではないかと思います。ここで指揮者の例が出て来たのですが、確かに本当に超一流の指揮者は、ほとんど動かないと言われています。実際、何もしていないようにすら見えると。ところが、ほんの小さな指揮棒の動き一つで、オーケストラがその瞬間に劇的な大音響を発生するのです。「指揮者は汗をかくべきではない。聴衆を暖かくすることだ」と言われますが、そこには「覚醒」と「静止」の巨大エネルギーが内在していると想像します。
さて情緒と云えば、(最近お気に入りの)寅さんですね。寅さんは地道な仕事には付かず、いつも勝手気ままな旅をしているので、確かに(一見)駄目人間のように見えますが、けれども実は、誰にも真似できない物凄い「啖呵売(たんかばい)」の技量があり、日本全国どこに行っても、露店で物を売ることが出来、自力で日々の生活費を稼ぐ力を持っているのです。これは普通の人には絶対に出来ないことです。また(意外と)筆まめで、旅先からよく葉書を出します。内容は反省と後悔が多いですね。自分がお金を持っていないのに、「釣りはいらねえよ」とも言います。あるいは「これで飴玉でも買ってやれ」とか言いながら、困っている人にすぐお金を差し上げます。でも必ずその後、自分の財布の中を確認して「しまった~」となるのです。寅さんは、知人が亡くなったと聞けば、お香典を届けに走ります。病気になったと聞けばお見舞いを、良い事があったと聞けばお祝いを渡しに出掛けて行きます。全て自分の財布から、なけなしのお札を出して、しわを伸ばし、袋に入れて、飛んで渡しに行きます。自分事を後にする・・・。これもひとつの日本人的な情緒だったのかも知れません。
先日、毎年春に行う「箱根社員研修」に行きました。二日目の朝、夜明けとともに部屋の窓には箱根の山々の尾根の姿が映り始め、そして空には暖かいお日さまが昇り、次第に可愛い鳥たちの声が聞こえて来ました。毎日、東京の喧騒の中にいると、このような自然の息吹を感じるだけで心の中が浄化されて行く様です。けれども本当はどんな環境に生きようとも、心の中に「情緒」なるものを宿すことで、日々心清らかに暮らせるのではないでしょうか。「お天道様が観ている」と云う思いを決して忘れずに、この日々を(目を覚まして)懸命に生きて行くこと。きっと私たち日本人には、そういう暮らしが一番似合っていると思います。