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未来への情緒

ベルギーのブリュッセルで連続テロ事件が発生しましたが、今度はパキスタンでも大規模なテロが発生。現在のヨーロッパから中東、南アジア地域は非常に不安定な状態だと思います。特に(今後は)日本からヨーロッパへの旅行者が減少するのではないでしょうか。そのようにして考えて見ると、世界広しと云えども、安心して行ける国や地域がどんどん狭まって来ている様に感じます。日本の場合は(ここ数年)海外からの来日観光客が急増していますが、間違いなく「安心・安全」も大きな要素になっているはずです。2020年オリンピックが東京に決まった理由の中にも、そのような面が多分に在ったのでしょう。
けれどもこのままの世界情勢が続くとなると、今後のオリンピックの開催地決定は非常に難しい課題に成って来るのではないでしょうか。日本としては、先ずは2020年の東京オリンピックを無事に終了させなければ成りません。そういう意味では、今回のオリンピック開催によって、首都東京の防衛インフラが(図らずも)整備されることと成り、それはそれで一つの幸運と呼ぶべきなのでしょう。物事に偶然は無いのだから・・・。
それでも日本と云う国が盤石と云う訳では決して無く、常に様々な大きな課題を抱えています。特に今の子ども達を取り巻く環境に対しては一抹の不安を覚えます。イジメ、虐待、誘拐、自殺、待機児童問題・・・。戦後の経済成長と共に生じて来た様々な弊害が大きな塊となって、未来の子どもたちの行く手を阻んでいるかの様に見えます。けれどもこれらの重大な問題の数々も、他国の実態に比べれば(まだまだ)素晴らしい状況であることも同時に認識しなければ成りません。
そもそもこの世の社会とは、全てが完璧にまとまることは無いはずです。1つが成り立てば、1つは我慢しなければならない。その連続です。人の人生も同様で、全てが完璧に恵まれた状態は決して訪れないでしょう。必ずどこかで解決すべき課題が発生するからです。むしろ人生とは、自らの課題を解決する為の大舞台(ステージ)であり、課題(問題)無き人生は、生ける屍と同意であり、全く無意味(無駄)な人生でしょう。国家も同様で、次から次へとやってくる課題に向き合っていく為に存在しています。日本の場合も、重大な課題との闘いの日々ですが、それでも他国よりも安全で安心な国家です。そのことへの深い感謝を忘れてはいけないと思います。その上で起きている問題を共に共有し、共に解決をしていくことが大切だと思います。
今、大人達が子ども達に教えるべき事は、他殺も自殺も等しく殺人(罪)であるということではないでしょうか。また、他人を傷つけることも自分を傷つけることも等しくイジメ(罪)ではないかと。他人の命も自分の命も全く同じ、天から授かった大切な宝物(預りもの)です。この与えられた生命を何よりも大事にすること。(他人のであろうと、自分のであろうと)ひとつの生命を傷つけた罪を償うとは、(法的な意味だけでなく)本当に大変なことだと思います。このような道徳的な観点から、物事の本質や厳しさを教えて行くことが大事だと思います。そこから子ども達の本来の「生きる力」が本領発揮するのではないでしょうか。
最近、俳人、尾崎放哉に関する小説(「海も暮れきる」吉村昭 著)を読み終えました。尾崎放哉とは、種田山頭火と並ぶ自由律俳句の俳人で、かなりのエリートでありながら、突然、その安定した職と生活を全て捨て、妻とも別れ、最後は小豆島の庵寺で孤独な病死を遂げました。酒癖が悪く、自分の体をイジメ抜いた人だと思います。有名な句は、「咳をしても一人」です。彼の人生の末路において、病気で体が全く動かなくなっても、それでも尚生きようとする強烈な苦しみと痛みの中で、かつて自らが傷つけた我が生命の最後の光を観たのだと思います。そこには只、後悔と懺悔しかなかったのではないでしょうか。本当に壮絶な死だった様です。人間は、仮に人からイジメられても、自分までが自分自身の生命をイジメてはいけないと思います。人様がちゃんと叱咤、罵倒してくださるのだから、自分だけは自分自身の生命を優しく守るべきです。
実は、尾崎放哉の本を読むきっかけは、渥美清さんが尾崎放哉を演じることを夢見ていたと知ったからです。渥美清さんも尾崎放哉も、同じく結核を患っており、渥美さんは「自分は、結核の人の咳ができます」と話していたそうです。孤独な俳人でもある渥美清さんの人間としての凄みが此処に見えてきます。最近の新聞に、寅さんの舞台である柴又が、「重要文化的景観に申請される」とありました。あの下町情緒を守る為とのこと。とても嬉しいことです。この「情緒」という言葉、大好きです。今の時代、この情緒が失われて来たのではないでしょうか。その事と子ども達の抱える不安感は、決して無関係では無いと思います。
今の子ども達に「情緒」という感性は残っているのでしょうか。先日、都電荒川線に乗りました。未だに東京に路面電車があることが素晴らしいと思います。この小さな電車が古い家々の軒の間をゴトゴトと走り行く風景には、ノスタルジア、懐かしさ、そして風流を感じます。ほっとします。もしかしたら、今の子ども達には、この「ほっとする」という感覚が無いのかも知れません。最近の住宅販売で、高尾山の近くの大規模マンションが完売したそうです。そこには「ほっとしたい」現代人の渇望が見え隠れします。逆に言うと、自然、懐かしさ、ノスタルジア、風流さという感性自体を感じられない日本人が増えて来ることが、一番の恐怖です。日本の町並みの中に情緒を取り戻して行く努力が、未来の子ども達の心を守る道のひとつかも知れません。
日本人の情緒の源流と云えば、例えば、仏壇(御先祖様)へ手を合わせたり、太陽(大自然)へ手を合わせたり、神社やお寺へ手を合わせることでしょう。これは信仰と云うよりも、ある種の文化であり道徳です。郷土愛や国を愛する心も同じ源流でしょう。また日本人は、虫の音、風の音、波の音、雪の降る音等の自然界の(微細な)振動エネルギーを感じるだけで、自らの魂を震わすことが出来ます(これも情緒だと思います)。西洋の場合は、それに代わる振動エネルギーとして、クラシック音楽が開発されたのだと思います。これは(ある種の)霊媒としての大作曲家(バッハ、ハイドン、モーツァルト・・・)を経由して、天から降りて来た振動エネルギーを音化させたものでしょう。日本と西洋との違いがありますが、音から感情を感じられるのは、同じく「情緒」だと思います。秋の夜長の虫の音に、情緒(特別な感情)を感じられる日本人のオリジナルな感性こそを、大事に継承して行きたいものです。情緒ある国柄は、きっといつまでも安心で安全で守られて行くと思います。

お遍路が一列に行く虹の中

政治、企業、芸能、スポーツ等のあらゆる分野で、様々な形の不正や違反、ミスやトラブルが露呈している昨今ですが、同時にその事象に対する「必要以上の」社会的干渉にも、何か妙な違和感を覚えます。自らが犯した罪やミスは、いつか必ず(「因果応報の法則」により数倍に成って)本人に跳ね返って来るのであれば、もうそれで良いのではないでしょうか。それよりも何も、人を批判できる自分自身なのかどうかが問題です。この毎日を全て「善」で生きている人など、そうはいないでしょう。大なり小なり、人や社会に迷惑を掛けながら、その反省の繰り返しです。仮に、社会を揺るがす程の大きな罪は無くとも、日々の生活の中で、(例えば)ゴミを落としてしまったとか、こぼした水を拭くのを忘れてしまったとか、ついあの人に嫌なことを言ってしまったとか、そう云うホンの小さな「微悪」までを含めれば、やっぱり自分は完全な善人ではないと感じます。みんな等しく、反省の身です。
前回のブログで寅さんのことを書きましたが、映画「男はつらいよ」のエンディングでは、必ず(旅先からの)寅さんの葉書が届き、そこには毎回「今はただ、後悔と反省の日々・・・」と書かれています。確かに寅さんの場合は「その通り!」と思いますが、私もたいして変わりません・・・。寅さんのように、心から素直に、「ありのままの恥ずかしい自分自身」を観ることが出来れば、日々一歩一歩、明日を信じて、前へ向かって歩いて行けるのだと思います。その歩く道とは、決して誰かとの競争では無く、自分自身(良心)との対話の道だと思います。誰かに追い抜かれても、誰かを追い抜いても、それは自身の人生とは無関係な現象でしょう。単なる風景の一つに過ぎないのかも知れません。皆それぞれ歩く目的が違うからです。只、他者の歩き方(生き方)を見て、学ぶことは大事だと思います。最近の建設業界では、大手ゼネコンによる施工不良問題がいくつか明らかに成りましたが、そこから自社の品質管理の点検と確認を行うことが本線であり、他社を批判する必要はありません。
最近、『お遍路が一列に行く虹の中』という俳句を知りました。とても美しくて、神々しくて、清らかな句だと思います。実はこの句の作者は、渥美清さんです。寅さん演じる俳優、渥美清さんの素顔は、知れば知る程ミステリアスです。決して自らを語らず、人と群れず、孤独や芸術を愛し、そして誰にも知らせずに死んで行きました・・・。その彼の唯一の趣味が俳句だったそうで、小さな(素人の)句会に真面目に顔を出し、一人離れた部屋の向こう側で、静かに空を見つめながら、沈思黙考していたそうです。句会の後の食事会にも出ず、いつもさっと姿を消していました。寅さんとは違う様な、否、寅さんのような・・・。ちなみに俳号は「風天(フーテン)」でした。
野山の道を、お遍路が一列に行く風景は、一人ひとりが前を向いて、我が人生(道)を歩み続ける姿に思えます。一人ひとりの人間としての差など無く、人生を歩むという一点において、皆同じ。その人々の一列の白い線が、神々しい七色の虹の中へ入って行く・・・。本当に明るくて、色鮮やかで、けれども心静かな余韻を覚えます。世の中が騒がしい時代だからこそ、私たちは観るべき視点を「外側への干渉」から「内側への観照」へと切り替え、この美しき一列の中の一人に(そっと)加わりたいと願うのです。冷たい雨が上がり、その先に映る「虹の中」に入れば、きっと素晴らしい天上の音楽が聞こえていることでしょう。私の脳内では、モーツァルトのシンフォニーがキラキラと鳴っています。
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※モーツァルト: 交響曲第36番「リンツ」、 第38番「プラハ」、 第40番、
第41番「ジュピター」
シューリヒト指揮/パリ・オペラ座管弦楽団(SACD)
私がモーツァルトで一番好きなのは交響曲ですが、特に後期6大シンフォニーは本当に最高です。先日、シューリヒト指揮の超名盤がSACDで出たので、買って聴いてみましたが、本当にモーツァルトの音楽が「今この瞬間に!」生まれたかの様な感動と、降り注ぐ光の束を感じることが出来ました。録音は1961年~64年ですので、もう50年以上も昔ですが、やはり本物はいつまでも残り続けるのですね。他の演奏ではワルター、クリップス、ベーム、C・ディヴィスも好きですが、同じく古い録音ばかりです。会社も50年以上、100年以上永続することによって「本物」に成ると思います。そして丸二はまだ62歳。まだまだ先は長いですが、100年企業を目指して、「丸二の道」を歩んで行きます。

3.11と永遠の寅さんへ

3月に入り、春の声が聞こえて来ましたが、あと数日で東日本大震災から丸5年を迎えます。今年の3月11日は、5年前と同じ金曜日・・・。当日は、心静かに「あの日」のことを思い出し、あらためて亡くなられた方々への追悼の意を(心中で)表したいと思います。今の私たちに出来る事と云えば、ただ思い出すことしかありません。被災地においては(いろいろな事情で)なかなか復興が進まない状況もありますが、それでも前へ進んで行くしか無い。2011年3月11日以降、私たち日本人の全体意識は、確かに進化向上の兆しを見せているはずです。
それは円高によっても表現されていると思います。国の通貨が買われるということは、その国(国民)への信頼と尊敬を意味します。日本の経済面から言えば、円高は大いに困ることですが、他国から信頼され、尊敬される国柄を持つ国は、自ら率先して苦労を背負込む宿命に在るのかも知れません。今は国の意図的な政策によって、その流れを食い止めようとしていますが、やはり自然の力には勝てず、現在の時間的猶予に感謝しつつ、いずれは円高の日本を受容し、(今までとは違う)新たなる繁栄への狼煙を上げ、そして世界を(精神的に)支えて行かなければ成らないでしょう。日本にはそれだけの責任が生じて来たのだと思います。日本人の精神性が円高(日本高)を生み出していると思います。
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さて、前回のブログで、「男はつらいよ」の寅さんについて書きましたが、いくつもの寅さんの物語を観て行く内に、「車寅次郎という人物は確かに存在していた」という錯覚に見舞われます。同時に、彼を演じる渥美清さんという人物への興味も湧いてきました。渥美清さんは、寅さん同様、人情味とユーモアのあふれる方でしたが、非常に勉強家、読書家であり、決して多くを語らず、世間とは一線を画し、極めて質素な生活をされていたとのことです。友人関係も決して広く無く、山田洋次監督ですら、彼の自宅の場所や連絡先も知らなかったそうです。
映画、演劇、美術、俳句に精通し、藤山寛美を尊敬し、自身の映画が公開された際は、各地域の映画館へ(自分でチケットを買って)行き、お客様の反応を確かめたそうです。実際に、都心の映画館と浅草の映画館とでは、観客の反応が全く違ったそうです。寅さんの名セリフに、「てめぇ、さしずめインテリだな!」とありますが、実は渥美清さん自身が相当なインテリだったのですね。そして孤高の人でした。彼は、寅さんとして生きることに苦痛を感じていました・・・。
渥美清さんは、若い時に肺を患い、片方を全摘出しました。そして68歳で、肺癌で亡くなりました。最後の数本はとても出演できる状態ではなかったそうですが、松竹の看板映画を止める訳に行かず、癌が転移した体で撮影に臨み、48作目完成の半年後に亡くなりました。彼は死期が近づくにつれ、「魂は永遠なのか」と近しい友人に問い続けたそうです。その友人は「魂は永遠ですよ」と返すと、「本当か。証拠はあるか」と真顔で追求したそうです。寅さんとして生きた我が人生の先に、また新たなる別の人生への希望を観たのかも知れません。
ある本では、寅さんとイエス・キリストの共通点を挙げ、寅さんを神的な存在として解説していました。渥美清さんも、寅さんと一緒に人生(日本全国津々浦々)を歩きながら、真理探究の旅を続けていたのかも知れません。何本目かの映画の中で、帝釈天の御前様(笠智衆)が「仏様は愚者を愛する。だから寅は愛されておる」というようなセリフを発していました。愚者とは、心に全く汚れが無い、純粋で、清らかで、無垢な人のことだと思います。渥美清さんの心の中にいた寅さんが、渥美清さん自身の人生を導いたのだと感じます。
このようにして渥美清さんのことを知れば知る程、映画「男はつらいよ」は単なる娯楽作品ではなく、それとは全く別物(畏怖すべきもの)と感じます。天が渥美清さんの体を借りて、山田洋次監督に撮らせたのではないか・・・。もしそうでなければ48作も続くはずがありません。寅さんがもう少し長く生きて、5年前の東日本大震災を目にしたら、何をしたでしょうか。きっとお天道様に手を合わせ、一人ひとりの幸せを祈りつつ、面白い事を言ながら、みんなを笑わせ、けれども自分だけは孤独であり続けようとしたでしょう。まさに日本人の美学、此処に在り。これが美しい日本の姿です。どうか今の若い人にも寅さんを観て欲しいなぁ。