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冨田勲×初音ミク ~イーハトーヴ交響曲~

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昨夜、念願のコンサートへ行くことが出来ました。冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の演奏会です。昨年の初演を収録したCDを聴いてから、言葉では言い尽くせない感情を抱いていたのですが、今回、生の実演に接することができ、本当に良かった。冨田勲氏は(以前にも本ブログでご紹介しましたが)電子(シンセサイザー)音楽の文字通り(世界的な)パイオニアです。私が(確か)小学生か中学生の頃、(家にあった)冨田勲の「惑星」をレコードで聴いて、「これは何十人、いや何百人の人が演奏しているのだろうか」と思いながら、LPのジャケットを見ると、飛行機のコックピットのような巨大な機械のお化けに囲まれて、薄いサングラスをかけた怖い顔の男の人が「ひとり」だけ写っていたのです。けれども「まさか、この人ひとりで演奏している訳はない」と勝手に決め付け、たくさんの人が変な機械を一斉に操作して、音を出しているシーンをイメージしていました。その後、「多重録音」という方法で、音をテープに重ねて行く録音技術があることが分かり、冨田勲さんが本当にたったひとりで、このレコードを造り上げたことをやっと理解したのです。それでも、「あれだけの音響をどうやって・・・」という不思議さは今でもあります。たぶんきっと、目には見えない小人たちが、冨田さんの周りで(飛び回って)手伝っていたに違い無いと、密かに思っています。
そして、その「怖い顔の男の人」の姿が、今まさに、目の前にありました。昨夜のコンサートの会場は、渋谷のBunkamuraオーチャードホールで、妻を誘って二人で行きました。幸い台風の影響にも遭わず、無事に会場へ着き、席に座っていると、私の横の通路をゆっくりと大きな人が通り過ぎました。その人は、私たちの5列くらい前の席に座ったのですが、すぐに「冨田勲だ」と分かりました。昔から写真でしか見ることが出来なかった方が、すぐ目の前にいるということに少なからず興奮したのですが、その穏やかで柔和なお顔を見て、「あのレコードの写真の人と会えたのだ」と、心静かに感謝をいたしました。その後、冨田勲さんは何度かステージに上って(けっこう長く)お話しをされ、幾度も万雷の拍手を浴びました。今年で81歳。とても元気で、朗らかで、ユーモアがあって、素敵でした。
演奏会の前半は、冨田勲さん作曲の数々の映画音楽をはじめ、新日本紀行や大河ドラマのテーマ音楽、ジャングル大帝の音楽等が演奏されました。指揮者は河合尚市さん、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団。その後、冨田勲さんも話されていましたが、とても重厚なサウンドで、弦も美しく、素晴らしかった。そして休憩を挟んで、いよいよ「イーハトーヴ交響曲」です。この曲は、宮澤賢治の世界の音響化であり、賢治の目指した理想郷「イーハトーブ」を描く音楽絵巻です。冨田勲さんは10年ほど前に、東北大学の元総長、西澤潤一氏より「雨ニモマケズ」に曲を付けて欲しいと依頼を受けていました。それから時が過ぎ、2011年の東日本大震災が発生しました。冨田さんは、少年時代に経験した三河地震(1945年1月)を思い起こし、賢治の古里、岩手へ行き、被災を受けた東北を目にして、「今こそイーハトーヴの音楽を」と、心に決めたそうです。そして2012年11月、曲は無事に完成し、初演を迎えたのです。
「イーハトーヴ交響曲」の素晴らしさの1つに、歌と合唱があります。昨日は、慶応義塾ワグネル・ソサィエティー男性合唱団、聖心女子大学グリークラブ、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団による合唱でしたが、先ずは冒頭の、少年少女たちの合唱による「種山ヶ原の牧歌」から、もう心は「イーハトーヴ」へと飛んで行きました。それくらい美しく透明で見事な歌声でした。この曲をはじめ、「星めぐりの歌」等、宮澤賢治自身が作った曲もあります。さらにはフランス人作曲家ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」も引用され、「イーハトーヴ」全体を支えます。そして、本交響曲の最大の見どころは、ソロ歌手として「初音ミク」が出演していることです。出演と言っても、初音ミクさんは、ヴァーチャル・シンガーですので、舞台上部のスクリーンの中で、歌って踊ります。冨田さんは、賢治の描く異次元世界を歌い上げられるのは初音ミクしかいないと決断し、オーケストラと初音ミクの共演という世界初の試みに挑戦し、遂に成功しました。指揮者の棒に合わせて歌い、踊る技術には相当な苦労があったようです。初音ミクは、「注文の多いレストラン」では「出られない・・・」と歌い、「風の又三郎」では(又三郎と成り)「どっどど、どどうど、どどうど、どどう」と歌います。このようにして、この交響曲は多くの人々の智慧や作品や技術による統合芸術と成りました。みんなで助け合って、力を合わせたのです。まさに「合唱」ですね。冨田勲という一人の人間の夢と志と芸術性の下で、「全てがひとつに成る姿」が(期せずして)現実化したのでしょう。「合唱」は「合掌」にもつながります。この祈りはきっときっと、遠い銀河の先まで届いていると思います。
そして、交響曲の終盤に置かれている「雨ニモマケズ」の合唱は、CDで聴いた時とは全く違う、深い感動がありました。一言一言の賢治の言葉が胸に突き刺さったのです。死を覚悟して、自身の手帳に書き遺したメモが、このように後世になって世の人々に知られるように成り、日本人の生きる力に成るなど、賢治自身も夢にも思っていなかったのではないでしょうか。合唱が(とても丁寧に)「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と歌う時、人間の「生」とは何かを感じます。生きていること自体、その全てがいかに素晴らしくて、尊くて、幸福なものなのか。賢治の理想とする人間像が、「雨ニモマケズ」で歌われて、この交響曲は全ての山場を終えますが、その後から終曲までの間に響いている声は、東北で生命を落とされた方々の遺言のように聞こえます。そして、私たち一人ひとりが、「そういうものに私は成りたい」と願う時、新しい世界は幕を開けるのでしょう。そのようにして、この音楽はいつまでも、一人ひとりの心の中に生き続けるのです。
さて、この「イーハトーヴ交響曲」の生演奏を聴きながら、私は涙を流しました。本当にポロポロと・・・。それは、本交響曲の最大の山場とも言える5曲目、「銀河鉄道の夜」でした。以前のブログでも書いたと思いますが、ここで描かれる物語世界を表現できる言葉はありません。音楽のベースに(大好きな)ラフマニノフの交響曲第2番の有名な第3楽章(アダージョ)がありますが、この曲と「銀河鉄道の夜」を融合させた発想自体と音楽的展開に本当に驚きました。まさに数多くのクラシック音楽を変容させて来たトミタ・ワールドの真骨頂です。親友カンパネルラと共に銀河鉄道の旅を続けるジョバンニは、二人で共に過ごせる時間を心から嬉しく感じていたと思います。その感情の波が音楽と同化しながらも、ジョバン二が後に知ることに成るカンパネルラの死への悲しみが含まれて行きます。そして初音ミクは、異次元空間から、「ケンタウルス、露を降らせ・・・」と何度も声を発します。途中、鐘の音が聞こえ、合唱による巨大な讃美歌が入り、「もうよい、お前の務めは終わった。その地を離れてここにおいで・・・」と、天上からの優しい声が響き渡ります。その声は、カンパネルラの(自己犠牲による)死と浄化を暗示させ、ジョバンニに成り替わった少年少女たちに「カンパネルラー!!」と叫ばせます。そしてその叫びに呼応するかのように、「ジョバンニー!」という声が木霊します。このようにして、銀河鉄道の車輪の回転運動のようなメロディーが(永遠に)繰り返されながら、遠い銀河を駆け抜ける列車の映像がコンサート会場の壁全体に投影されました。そこには、宮澤賢治の宇宙しか、在りませんでした。すべては「ケンタウル祭」の夜の出来事。ジョバンニとカンパネルラの友情と別れ。生と死。この地と銀河。永遠に続く列車の車輪の音。みんなみんな、(多分きっと)私たちも繰り返しているかもしれない物語・・・。あの震災を目にした冨田さんが心に定めた音楽が、「いま、ここに」在りました。その温かく遠くを見つめる目線は、カンパネルラを思って遠い銀河を見つめるジョバンニの澄んだ目と重なります。きっと冨田勲さんは銀河からの声を聴いたのです。そして、その声を音楽にしてくれました。だから私は、「カンパネルラー」と「ジョバンニー」の声が呼応し合う時、この地と銀河は「つながっている」と確信できたのです。あの時の少年少女たちの(文字通りの)懸命の「叫び声」は決して忘れません。宮澤賢治の理想郷は(残念ながら)未だ実現していません。けれども、すぐに実現しなくても、実現させようとし続ける「行為(~ing)」こそが最も美しいのだと思います。それが日本人の美しさであり、力だと思います。
ところで、コンサートの途中(ステージ上で)冨田勲さんが人形浄瑠璃の話をされました。初音ミクは、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃であると。人間が作った人形(バーチャル)だからこそ、人間の魂の本質をより豊かに表現できる。それが日本の文化の不思議なところであり、日本の力だと。そう考えてみると、日本に宮崎駿さんをはじめとする世界的アニメクリエーターが数多く発祥したのも、この話とは無縁ではないと思います。日本人だけが、その強き思い(願いや祈り)の本質を抜き取って、別の対象(絵や人形)に転送することができる。それは、その「思い」の根底が(常に)清らかなものだからではないでしょうか。今回の演奏を指揮された河合尚市さんからも、そのような印象を強く感じました。初演(CD)の指揮者とは違ったのですが、この「イーハトーヴ交響曲」に対する思いの強さを、本当に感じました。宮澤賢治と冨田勲の魂の中に在る純粋無垢な清らかさと同調し、共鳴し、爆発したのです。それくらい一体化していました。まさに魂の演奏でした。ほんの2時間弱という短い時間、本当にいろいろな形の日本人の魂を感じられたコンサートでした。宮澤賢治がいて、冨田勲がいて、次は私たちの世代です。この日本をつなげていくには、清らかな心が大切なようです。それさえ失わなければ、日本も、世界も、そして私たち一人ひとりの人生も、きっと良くなる。時間は掛るけれども、きっと。

宮崎駿監督と東京オリンピック2020

宮崎駿監督の引退会見を見て、とても心に残る言葉がありました。自作の映画を通じて、子どもたちに伝え続けたメッセージは、「この世は生きるに値する」だった・・・。ジブリ映画は、単なる子ども向けの冒険アニメではなく、深遠な精神性と隠喩を内在しています。私が宮崎アニメで最も関心を持ったのは、「千と千尋の神隠し」でした。あの作品を映画館で観た時、これは(人間が)考えて作ったものではなく、天空からの啓示によって創造された「ビジョン」ではないかと感じたのです。奇妙なトンネルを抜け、両親と別れて、一人生きねばならなくなった少女(千尋)は、自身の力で(懸命に)希望を見出し、元の世界へ戻ります。このような暗いトンネルを挟んで、「実」の世界と「虚」の世界が結ばれたのですが、私たちはきっとその両方を(交互に)生きながら、長き成長の旅を続けているのでしょう。そう考えてみると、千尋が迷い込んでしまった異空間世界とは、もしかしたら彼女自身の過去生の1つだったのかもしれません。今の自分は、過去の自分の積み重ねで形成されています。よって未来を創るのは、今(未来から見た過去)の生き方次第と成ります。主人公の千尋は、(いつかどこかの時代で)とても辛くて悲しい時を過ごしたのでしょう。でもその経験のお蔭があって、今の幸せを得ています。この世で生きるとは、経験を積むためのスタディであり、何一つ無駄なことはありません。長い視点で必ず帳尻が合います。今の苦しさは未来の幸福の種。苦しければ苦しいほど大輪の花が咲く。だから、この世は生きるに値する。
2020年の東京オリンピックが決まりました。先ずはお祝いしたいと思います。ただ、日本の最終プレゼンテーションをTVで見ながら、実は複雑な思いがありました。日本のプレゼンは確かにとても素晴らしく、感動的でした。一体感もありました。同じ日本人として、招致メンバーの方々の苦労と努力には心から敬意を表します。けれども反面、このまま東京に決まって良いのだろうかと云う思いもありました。福島の原発問題や東北の復興を後回しにして、(一部の地域や企業の利益の為の)イベントに注力して良いのだろうか。日本よりも経済状況の悪い国に譲るべきではないか。けれども、オリンピック開催の勢いが、かつての高度成長を遂げた日本復興のシンボルと成り、東北の復興や、更に強固な首都を造ることに繋がるのであれば、それは確かに良い事だ。けれども、今後の世界情勢の悪化によって、今度は東京がテロの標的に成るリスクも生まれるかもしれない。TV番組で、日本中が喜んでいる(様な)映像を見ながら、思考の整理が必要と成りました。
ただ1つ確かなのは、東京でオリンピック関連施設等の建設が始まると、東北をはじめとする全国の建設作業者が東京へ集中します。それにより東北の復興はさらに遅れてしまう可能性があります。現時点で、建設作業者の人手は不足気味です。リーマンショック以降、多くの建設業者が廃業をしたからです。再び景気が回復して行けば、ゆるやかに人手は戻って来るのですが、オリンピックという大事業に成ると、それに追いつけるかどうか。国や地方が建設業者を大事にして来なかったツケが、結局自分自身の首を絞める状況を招いてしまいました。けれども日本の建設業者は、そのような状況の中においても、再び新たな道を探して、社会に貢献します。つまり日本の再建は、建設業者の手によって実現するのです。東京オリンピックが決まった以上、日本中の建設業者が(今こそ)立ち上がり、東京オリンピックの成功と東北の復興と第2の高度成長への狼煙を上げなければ成りません。さらには(今後、予測されている)大地震等の災害にも(各地域で)備えなければ成りません。そのような方向性を持って、私たちはこれからの時代を切り拓いて行くのです。結局最後に社会を支えるのは、(かつて)3Kと言われたアナログの仕事なのです。現代の若い人たちには、ここに気付いて欲しいのです。宮崎駿監督の仕事は、毎日、紙とペンに向き合うアナログ作業です。最後は人の「手」を超える仕事はありません。
いずれにせよ、2020年に日本は立ち直っていなければならない。今回、日本はそういう約束を世界とした訳です。これは重いことです。退路を断ったと言えます。2020年まであと7年しかありません。その間に、首都を(大地震に強い)強固で安心安全な都市に再生し、東北の被災地の復興を完全に終え、福島原発の汚染水問題も(除染技術等で)完全に収束させ、さらには全国的な経済成長を軌道に乗せ、財政再建の目途を付ける。これが出来ないと日本は信用を失います。でも同時に、このような約束をしたことで、実現する可能性も高まります。私たちは、これから7年の日本が、(一部の利益ではなく)全体の利益に成る様に注意しながら、2020年を迎えて行きたいと思います。
さて、オリンピックの最終プレゼンテーションを見ながら、もう1つ感じたことがありました。それは、このような素晴らしい一体感を持って事に当たれば、日本は(間違いなく)勝てると言うことです。日本はチームワークの国であると云うことです。お互いの役割を認識してチームプレーに徹すれば、数十倍の力を発揮するのです。これを外交にも生かして欲しい。同時に福島の問題についても、このような一体感で臨んで欲しい。国と東電と地元が一体と成って取り組めば、もっと早く解決の道は生まれたはずです。「オリンピック」で出来て、「フクシマ」で出来ないはずはありません。また、今回のプレゼンの最初を飾った高円宮妃久子様のスピーチは本当に素晴らしかった。東日本大震災における各国からの支援に対する感謝の意を表されたのですが、心が震えるお言葉でした(ここで「日本に決まった」と感じました)。世界の(日本の)皇族に対する尊敬心は、想像以上のものがあります。それだけに今回の決定は、日本の国民全員の大きな責任に成ったと感じます。でも、それで良いと思います。これから日本は(歴史に残るであろう)非常に大きな難局を乗り越えて行くでしょう。それが「戦争」でなく、「オリンピック」で良かったと言えるようにしたいのです。私は1964年の東京オリンピックの年に生まれました。ですので、日本の成長と共に自分自身の成長もあります。日本中の人々が「2020年をどのような状態で迎えるか」と云うビジョンを持って、この7年間を生きてはどうでしょうか。今の自分とは全く違う(より素晴らしい)自分自身に成っているかもしれません。そう考えるだけで楽しいです。だから、この世は生きるに値するのです。

美しいビジネス

昨日の埼玉から千葉にかけての竜巻被害は大変なものでした。ニュースの映像を見ただけでも、暴風の激しさが分かります。あの関東大震災から90年の日の翌日に、「風」という形で自然の猛威を見せ付けられましたが、確かに世界的な天候異変はますます進行しているようです。「もう時代に追いつかれた」とNHKのインタヴュー(7月)で語っていた宮崎駿監督が、引退を表明されました。常に時代の先を生き、未来への警告を発し続けてきた人が、現実のスピードに追い付かれてしまった。それほど時間軸が加速しているのであれば、私たちも今すぐ真剣に自然界と向き合わなければ成りません。映画「風立ちぬ」で予兆された「風」の猛威が、映画の公開直後に現実化しました。
数日前のNHKスペシャル「MEGAQUAKEⅢ 巨大地震 南海トラフ 見え始めた”予兆”」を見ました。南海トラフ地震については、以前より重大な予兆が出ていると聞いていましたが、もうすでに「スロー・クエイク」と呼ばれる(岩盤がゆっくりと動く)現象が確認されているとのことです。これは、東日本大震災の1か月以上前より、震源地の東側で発生していた現象と同じものだそうです。南海トラフ地震の想定規模はマグニチュード9。もしそのような巨大地震が発生したら、四国、大阪、名古屋から東京湾まで(広範囲にわたって)大きな津波が発生し、甚大な被害をもたらします。
それにしても、CGで見る(地震の引き金と成る)地下プレートの動きは、まるで生き物の様です(龍がゆっくりともぐり込んで行く姿に見えます)。私たちが立っている地面は、動いていない様に見えて、実は動いている。そのような当たり前のことに、今頃になって気付かされています。そんな私たち人間達の愚かさ、うかつさ、無神経さに、地球という生き物が反応して、様々な現象を起こしているのかもしれません。けれども私たち人間は、目先の事ばかり追いかけてしまい、未来のことや全体のことを後回しにしてしまいます。この堂々巡りが終わるまで、自然の猛威は加速していくのでしょう。
昨夜のNHKニュースでは、大地震発生後のゼロメートル地帯への注意喚起を行っていました。津波が来る前に堤防が崩壊して、海水が街へ流れ込むという想定があるからです。起きて欲しくはないですが、そういう可能性を想定して、短い時間で避難場所へ行く意識の準備をしておけば、大難が小難に成ると思います。昨日の竜巻を見て、今後は巨大暴風に対する防災対策も必要と感じました。また、福島の汚染水流出は、時間が経つに従って、巨大な問題に成って来ています。原発事故はまだ終わっていない。むしろ状況は悪化している。日本全国、あるいは世界中、打つ手が見えない問題が山積しています。
そのような状況の中、否、そのような状況だからこそ、私たちは時間を掛けて「回り道」をすべきと思います。人間は苦しくなると、すぐに良くなる起死回生のウルトラCを探します。けれどもそれらは全て一過性のもので、時間が経つと逆効果に成るものがほとんどです。すぐに楽になりたいという「エゴ」を辛抱して、他者に依存するのではなく、時間を掛けて自力を付けていくことです。その間は確かに苦しいですが、自力で得たものは一生の宝物に成ります。もし他者に依存してしまうと、一生、自分の人生を(他者に)支配されたままです。だから一気に良くしようと思わずに、あえて少しずつ(丸二では「1mmの前進」と言います)改善していくこと。一歩ずつ、足を踏みしめて、ゆっくり登ること。できるだけ長期の視点で(少しずつ良くなる)計画を立てて行くこと。国の財政問題も同様に、少しずつ良くなる方向性を示すこと。そのために10年、20年、あるいは50年、100年のビジョンを示すこと。
良く成り始めると不思議に(勝手に)スピードが上がって、思わぬ速さで達成することもあると思います。日本の場合は、根本的な治癒として、経済(景気回復)が大切だと思います。景気を回復させることで、税収を上げることが、本来の自然治癒だからです。国としては、どうしても大手企業の景気回復を優先させます。それが早く効果が見えるからです。けれども日本は中小企業で支えられている国です。本当は時間を掛けてでも、中小企業を良くする政策が必要です。同時に、私たち中小企業の経営者が、この現状を打破していくことです。過去の経験が役に立たない時代では、むしろ小さな会社の方がオリジナルな道を開拓できます。チャンスなのです。このような混沌の世の中は、必ず新しい世の中へと向かいます。その新しい世の中において、自然界との総和を実現しながら、人々のお役に立てる「美しいビジネス」を今から始めていくこと。それは、確かに気が遠くなるほどの道のりですが、その方向へ向かって行く一歩一歩を楽しむことができれば、「意外と早かったね」と成る様な気がします。大自然から愛させるビジネスを目指して・・・。だから、日々1mmの前進です。