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浅田真央選手とロシアの大地

今朝のニュースで、ソチ・オリンピックの浅田真央選手のフリーの演技を見ました。涙が出ました。一日前のショートの演技を終えてから、きっと息すらも出来ない程の極限的な24時間を過ごされたことと思います。その深い、深い精神の闇の中から(自らの意志の力で)脱出することなど、通常の人間では不可能です。その闇を遂に自力で破り、平常心を取り戻し、その結果としてのフリーの演技は、何と自己ベスト更新だったそうです。しかも史上初の8回の3回転ジャンプを決めました。残念ながら(競技としての)メダルは逃してしまいましたが、「人間の強さ」としての(目には見えない)金メダルを授かったような気がします。それは、決して誰も(物理的に)手に入れられない種類のものでしょう。本当に見事でした。心から拍手と賛辞を贈りたいと思います。
浅田真央選手のフリー演技の音楽は、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」でした。私が大好きな曲です。ショートの方はショパンの「ノクターン」でしたが、ショパンの音楽はどうも苦手です。「別れの曲」の印象が強く、どうしても寂しさや悲しさをイメージしてしまうからです。ラフマニノフはロシアの作曲家です。同じロシアで有名なのはチャイコフスキーですが、私はチャイコフスキーよりもラフマニノフです。なぜかと言うと、音楽的には分かりませんが、ラフマニノフの方が「深い」気がするからです。浅田真央選手が選んだ「ピアノ協奏曲第2番」がその代表曲ですが、「交響曲第2番」も素晴らしいです。特に第3楽章のアダージョは心が洗われる音楽です。私が学生時代に製作した8mm映画にも、このアダージョを使ったことがありました。
ロシアの作曲家と言えば、ストラヴィンスキーも好きです。「春の祭典」や「火の鳥」が有名ですが、「原始主義」と呼ばれる作風で、当時のクラシック音楽界においては超異端的な存在でした。それは音楽と言うよりも、原始的な激しいリズムによる音響絵巻の様なもので、所謂メロディーらしきものは(ほとんど)在りません。「春の祭典」の初演時は、遂に観客が(演奏中に)怒り出し、劇場内が大混乱に成りました。それでも私はこの「春の祭典」が大好きです。荒涼とした寒い寒いロシアの大地の奥深い「地底」から湧き上がる様な「超大なエネルギー」を感じるからです。浅田真央選手の精神にも、きっとこのような根源的なエネルギーが宿っていたのではないでしょうか。
ロシアの映画監督では、何と言ってもタルコフスキーです。このブログでも紹介した「惑星ソラリス」「ノスタルジア」「サクリファイス」の監督です。その映像の美しさには、本当に凄いものがあります。同時に、「音」に対する感性が独特です。水が流れる音、火が燃える音等、自然界に存在する「静寂なる自然音」を、まるで日本人が秋の虫の声に感じる様な「わび」「さび」の世界として表現しています。西洋の人なのに東洋の美意識が宿っているかのようです。最近DVDでタルコフスキーの初期の作品「僕の村は戦場だった」と「アンドレイ・ルブリョフ」の2本を観ました。共にモノクロの作品ですが、美しい映像と共に深い精神性を感じます。完全に商業主義に背を向けた作品ですが、このように完成後約50年が過ぎても未だに生き続けています。こういう「信念」の映画作家が、今は本当に少なく成りました。
また先日、妻と一緒に試写会に行き、もうすぐ公開のアニメーション映画「ジョバンニの島」を観ました。これは北方四島の1つである色丹島が、(終戦後)ソ連軍に占領された時の物語です。シベリアに連れて行かれた父親に会いに兄弟が雪の中を行くのですが、あらためて大切な家族を分断してしまう「戦争」の理不尽さを感じました。しかしながら本作では、ソ連軍あるいはロシア人を決して批判的には描いていません。そこにはロシア人の女の子との心の交流や、ソ連軍の寛大な措置も在り、現在の北方領土問題に対する問題提起と言うよりも、むしろロシアとの友好に力点が置かれているように感じます。
この物語の底流には宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」が在ります。ジョバンニとは、「銀河鉄道の夜」の主人公の名前です。よって、世界全体の幸福を願った宮澤賢治の精神が、本作の真の主張ではなかったのではと感じます。日本とロシアの関係は、アメリカとの関係よりも薄く感じられますが、地理的にも近く、民族的な親近感もあり、また何か似たような「自然観」を共有している観もあり、これからもっと友好を深めて行ければと願います。ロシアのソチにて、遂に浅田真央選手の「心の地底」からの巨大エネルギーが爆発しましたが、あのフリー演技後の、悲しみと喜びと入り混じった何とも言えない表情は、これからの日本に何かを与えたのではないでしょうか。過去の艱難辛苦の全て含めて、喜びへ転化させること。日本もロシアも、きっとそれが出来ると思います。
※(本文と全く関係無いですが)我が家の「じんべえ」君です。雪が大好きで、雪の後の散歩に出る時に、「早く来い!」と吠えられてしまいました。この子はきっと雪のロシアでも生きて行けるでしょう。
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レジェンド日本

2週連続の全国的な大雪の影響により、関東地方に孤立した地域が生まれてしまい、未だ大変な状況が続いています。交通やライフラインが一刻も早く復旧し、普段の日常に戻れます様、心よりお祈りいたします。このようにして、地震にしても、台風にしても、大雪にしても、数十年に一度(あるいは数百年に一度)という大きな災害が頻繁に発生し始めていますが、あらためて自然界の力の猛威を感じます。今の地球環境の状況を考えると、今後もこのような自然災害はさらに増えて行くと想定されますので、可能な限りの防災意識と防災対策が必要でしょう。地震(=揺れに対して)だけでなく、竜巻、台風、大雪、大雨、洪水、津波、猛暑、寒波、噴火、火災、粉塵、大気汚染、ライフラインからの孤立等のあらゆる自然界からの猛攻に耐えうる(トータルとしての)強固な建物が必要です。建設業としての役割はますます大きく成ると思います。
けれども一方で、このような自然界が起こす現象の1つ1つは、私たち人間の生活にとって(実は)不可欠なものでもあります。現在開催中の「ソチ・オリンピック」にしても、多くの雪が降る地域だからこそ、開催都市に成れました。雪や寒さのおかげで、スキーやスケート等のウインタースポーツも発祥しています。結局私たち人間の方の都合で、降って欲しいとか、降らないで欲しいとか、ちょうど良い量にして欲しいとか、(恥ずかしながら)ついつい思ってしまう訳です。そのような(人間の)勝手な都合を自然界が常に聞いてくれる訳は無く、だんだんと「想定外」の事が増えて行くのでしょう。先日の二度目の大雪の日の夜は、ちょうど地元の友人たちとの会(誕生日会!)があり、みんなで大雪の吉祥寺の街を歩きました。それは、それは、とても楽しかった。多くの人は家に居て、開いているお店もほとんど無い中、大雪をたくさん浴びながら、人通りの少ない街中を歩くなんて、確か小学生の頃以来です。自然界に対する畏れと共に、感謝と喜びを感じることも大切だと感じました。同時に謙虚に向き合って、防災準備をしておくことも。これから自然界との付き合い方が、私たち人間にとって重大な課題に成っていくと思います。
さて、その「ソチ・オリンピック」ですが、羽生選手とレジェンド葛西選手の大活躍には胸が躍りました。本当に良かったです(心からおめでとうございます!)。努力の成果はいつかきっと報われる。自分を信じて、決して諦めずに、前へ向かって前進するのみ。多くの人は(きっとどこかで)諦めてしまうのでしょう。羽生選手は、あの東日本大震災でスケートリンクを失いました。レジェンド葛西選手は、幾度ものオリンピックに出場しながらも、不運の連続でした。それでも二人は決して諦めず、可能性を信じて前へ進み、遂に栄光を手にしたのです。レジェンド葛西選手は、他国の選手からも尊敬され、チームの為に涙を流しました。そして私はこれを見た時、日本の行くべき姿を想起したのです。他国から尊敬される国。みんなの期待に応えようと涙を流す国。積年の艱難辛苦を乗り越えながら、愚直にただ1つの道を歩み続ける国。そこに「レジェンド日本」の姿が見えました。
世界で日本ほど尊敬されている国柄は無いそうです。その「国柄」自体が大変な価値ではないかと思います。南北、東西に長い地形で、美しい四季(自然)があり、3.11の時に「東北」が見せた素晴らしい人間性の宿る国。(他国に比べて)国からの支援が少ない中、自身の純粋な思い(夢)だけでオリンピックを目指す人たちがいる国。ああ、日本の良さをもっと世界に知ってもらいたい。自然信仰が残り、自然を大切にし、自然界と共に生きようとする日本を知ってもらいたい。東日本大震災から始まった自然界からの大試練を乗り越えて、真の世界の雛形に成り、他国を正しい道へ導く役割を果たす。日本は、それが出来る国だと思います。レジェンド葛西選手の涙を見て、それが揺るがない確信と成りました。
※武蔵野市吉祥寺南町(井の頭通り)の現場です。おかげさまで無事完成し、引渡しが終わりました。お客様に心から感謝いたします。
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※池袋の立教大学の前の現場です(右が現場、左が立教大学です)。もうすぐ躯体工事が完了します。お客様に心から感謝いたします。
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雪、自然、佐村河内守さん

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予報通り、東京は雪に成りました。仕事柄、現場の事を考えると、冬の降雪は少ない方がありがたいのですが、子どもの頃を思い出すと、雪が降った時のワクワクした気持ちが蘇ります。そう言えば、夏の夕立や雷が鳴った時も、怖さと同時に、何かドキドキ感、ウキウキ感がありました。きっといつもの日常とは違う未知の体験に胸が躍ったのでしょう。昔は自然の変化にもっと敏感で、もっと素直に受け入れていたように思います。けれども今は、人間側の都合の方が優先と成ってしまい、自然をコントロールしようとさえしています。本当は人間の方が自然界に含まれている側なのに・・・。
そしてソチオリンピックが開会しました。冬のオリンピックとしては、長野オリンピック以来、日本人の活躍が大いに期待できそうです。ただいつも思うのは、相手を負かして喜びを得るというスポーツの持つ根源的な疑念を、私たちは一体どのように認識して行けばよいのかと言う点です。そもそもそのような疑念を持つ人自体、あまりいないと思いますが、世界の平和を願うオリンピックの祭典を目にするたびに、いつもそのように感じるのです。日本を代表して出場する選手の方々が、世界の選手たちと仲良く成って欲しい。オリンピックが開催される度に、世界中のアスリート達の輪が広がって、国境を越えた和になって欲しい。それが本当に期待するところです。
自然界はそれぞれの存在が、勝ち負けで争っている訳では無く、お互いが固有の価値を有し合いながら、全体が調和しています。小さな虫も、大きな山も、美しい花も、枯れた草も、それぞれが素晴らしい価値と役割を持っているのでしょう。この見事なまでに完成された雛形を、もし人間社会に転化できたならば、本当に素晴らしい世界が生まれるのではないかと想像します。けれども、そうは成らないのも世の中の現実。このような矛盾やジレンマの葛藤の中で、(それでも)少しでもより良く成って行こうとするプロセス(体験・経験)が人生の本質なのでしょう。
今、佐村河内守さんのゴーストライター問題が、世間で大きな話題に成っています。私もNHKの特集を見て、深く感動し、CDを一枚買いました。しかしながら、そのあまりにも重く、暗い音楽の様相を感じて、未だCDの封を切らないままでいました。そして今回の報道があり、驚きと共に、一人の人間の持つ絶望的な苦悩を感じました。もちろん、自身が作曲していないにも関わらず、そのように装ったことは大いなる罪でしょう。しかしながら、佐村河内さんの脳内に在る曲想イメージを指示されない限り、真の作者である方が、そのような巨大な音楽を創造することは(きっと)出来なかったに違いありません。佐村河内さんは立派なプロデューサーとして、真の作曲者と共に、良き音楽を発表して行けば良かった。譜面が書けなくても、ベートーヴェンのような悲劇性を身に纏わなくても、プロデューサーとして価値は微動だにしなかったはずなのに・・・。
この問題が発覚後、佐村河内さんは全てを真実として認めています。普通であれば、お互いによる訴訟合戦に成るところです。真の作曲者の方も、佐村河内さんの罪がこれ以上、塗り重ねられないようにと、真の愛情と勇気ある行動をされたと思います。ここで終って、本当に良かった。ここにまだ、何か一縷の救いが残っています。佐村河内さんのCDは発売中止と成りましたが、逆に注文が殺到しているそうです。確かに、社会性という意味においては間違いなく「偽物」ですが、偽物を身に纏った一人の人間の絶望が音化された芸術としては「本物」なのかもしれません。幸い、私の手元には(もう二度と手に入らない)一枚のCDが在りますので、いずれ封を切って、偽者が想起した本物、真の作者が創造した本物を聴いてみたいと思います。お互いに極度の罪の意識を抱えながら、それでも尚、良き音楽を創造しようと命を削った二人の合作音楽を・・・。
「自然に生きる」ことが大切なのでしょう。毎日、呼吸できる幸せに感謝して生きること。そのこと自体が素晴らしい奇跡的なことなのに、私たちはそれを当たり前の事と思い、常に間違った選択をしてしまいます。佐村河内さんの件は、決して他人事ではありません。みんな(大なり小なり)偽りを身に纏って生きていると思います。そのような覆いをいち早く撤去できたならば、自然に生きる道が見えてくるのでしょう。大自然から学ぶこと、まだまだたくさんあります。