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恩師と可睡と再び「かぐや姫の物語」

喪中のお葉書で、恩師が亡くなられたことを知りました。私の小学校時代の先生で、私自身の幼少期における精神的支柱とも言える存在でした。先生から教わったこと、山ほどあります。そのほとんど全てが、今現在の自分自身の根底に息づいていると思います。私のような、おとなしくて、目立たなくて、成績も(可もなく不可もなく)ごくごく普通の子どもに対しても、多くのことを真剣に、時に厳しく、時に優しく教えてくださいました。あの時、先生がおっしゃっていたことは、今思うと、子どもに話すようなレベルの内容では無かったように思います。所謂、先生が生徒に対して「ああしなさい、こうしなさい」という種類のものでは無く、もっと広くて大きくて深いものでした。
先生の専門は歴史(日本史)でしたが、その歴史の授業においても、単なる年表的な説明ではなく、例えば合戦の風景や情景がありありと思い浮かべられるような、まさに「物語絵巻」を見ているかのような臨場感があったのです。またクラスの中で何か問題が起こると、授業を止めて、その事柄について真剣に叱り、同時に包み込むような優しさで(何時間も)語りかけてくれました。先生のお宅にも何度も友達と遊びに行きました。このクラスには、多くの教育関係の方々が授業見学に来られていましたが、学業と心の教育の両立が成されていたと云う意味において、(今から思うと)随分時代の先を行っていたように思います。そして多くの同級生たちは(その後)優秀な進路へと進んで行きました。
先生との思い出の1つに、移動教室で日光へ行った時のことが在ります。泊まった宿泊施設の部屋がとても広く、2段ベッドが(確か)10台くらい有って、ひと部屋20名くらいでワイワイと騒いでいました。そこへ先生が入ってきて「静かにしなさい」と注意されたのですが、その際、あまりにも部屋が散らかっており、それぞれのベッドの上もグチャグチャ状態で、先生から「何だ、この汚い部屋は!」とさらに厳しい雷を落とされました。ところが、その中で1つだけキチンとしたベッドがあり、先生から「そこは誰だ」と聞かれたのです。それは私のベッドでした。自分はただグチャグチャ状態が嫌いなだけで、好きでキチンとしていただけでしたが、「僕です」と答えると、「トモキか。偉い」と言われました。ただ、それだけのことでしたが、自分の心の中に、何か小さな灯りが燈ったような気がしました。先生はそう言って部屋を出て行きました。みんなは静かに身の回りを整理し始めました。
身の回りをキレイにしなさい。両親に感謝しなさい。先生に教わった2年間の中で、今でも心に刻まれている大切なことです。私という、弱くて小さな生命の一番奥底に記憶された2つの規律は、その後の人格形成の種と成りました。その後も、素晴らしい恩師との出会いがあり、事に応じて、「身の回りをキレイにしなさい」「清浄感を持ちなさい」「掃除をしなさい」「靴を揃えなさい」「ゴミや不要なものはすぐ捨てなさい」「自然の恵みに感謝しなさい」「太陽に感謝しなさい」「食べ物に感謝しなさい」「挨拶をしなさい」「時間を守りなさい」「約束を守りなさい」と、教わり続けました。それら全てが、あの頃「先生」からいただいた「種」に与える「水(養分)」に成っていたのではないか。ああ、そうだったのか・・・。
清き水は淀みなく流れ続けます。身の回りを清浄感で保つということは、まさに自分自身の人生に淀み(停滞)を作らないためです。ゴミはもちろん、使わない物も、すぐに捨ててあげること。それによって、その物(物質)はいったん壊され分解されますが、すぐに新たな物体として再生され、別の人々の生活のお役に立ち、また新たな生命(価値)を生き始めます。使わない物を使わないまま放置しておくことは、物に宿る生命を殺していることなのです。だからこそ、使わないものは(できるだけ)持たないようにする。使うものは、長く大切に使い続ける。それが本当の「もったいない」の心。地球環境が大変に成って来たのは、このような意識を人類に気付かせるためだったのではないか。3.11が起きても、なかなか直らない心の習慣。そのような時代を生きて行く上で、「先生」の教育は、未来の子ども達を救って来たのではないかと、ふと思います。
先週の土曜日、とても尊敬するある方の新築祝いのために、静岡県の可睡という地に(その方の親友の方々と一緒に)日帰りで行ってきました。新しい住まいはとても美しく、超シンプルで、(隅から隅まで)清浄感で満ち溢れていました。いかに「持たないか」を追求すると、このような良き姿・形に成るのでしょう。このような良き生活・人生に成るのでしょう。家そのものが、住む人の生き方を証明していました。良き建築は良き人生の写し鏡。であるならば、自身の家の状態、部屋の状態は、自分自身の心の写し鏡と成ります。そのように気づいた時、身の回りの状態こそが、「私の心」の投影と分かります。だからこそ、身の回りの整理整頓こそが、自身の心磨きに成るのだ。ああ、そうだったのか。日光で先生から言われた一言が、またここで起動したのです。
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可睡には、東海道一の禅の修行道場である「可睡斎」が在ります。此処は、悠久六百年の歴史を刻む、徳川家康公が名づけた古刹。現在は、曹洞宗・専門僧堂として多くの雲水(修行僧)が修行をしています。当日は、この「可睡斎」も案内していただき、午後の温かい陽だまりの中で、美味しい精進料理をいただき、寺院内をゆっくりと見学いたしました。紅葉がとても美しく、この世のものとは思えない風景と建物の中で、本当に「居睡り」をしたく成る様な場所でした。数人の僧侶の方が、場内をホウキで掃いていました。とても静かでした。同じ日本なのに、どうしてこんなに違うのだろうか。場所のエネルギーとは、きっと在るのだろう。可睡には、ほんの半日しかいませんでしたが、古代日本の太古の風と風景を感じました。
前回のブログで紹介した映画「かぐや姫の物語」からも、そのような太古の風を感じました。「竹取物語」とは、平安時代に書かれた日本最古の小説(しかも、SF小説)です。映画の画面からも、日本の原風景の「風」あるいは「匂い」を感じます。それらは、きっと今の日本でも(本当は)感じられるはずのものです。その「感じられる」感性をいかに呼び戻すか。そのスタートラインこそが、「身の回りをキレイにすること」あるいは「大自然や両親に感謝すること」ではないでしょうか。映画「かぐや姫の物語」の主題は、人生讃歌であり自然讃歌です。「生きている手応え」や「生きる喜びと幸せ」を感じたい。それは苦労を乗り越える経験からしか得られない種類のものです。かぐや姫は言います。「私は生きるために生まれてきた」と。かぐや姫は、鳥や虫や獣や草や木や花を愛し、あらゆるものを大切にしていました。育ててくれた両親(翁と媼)への感謝も、最後の最後まで忘れませんでした。乗り越える為に必要なものとは、いつの世でも「感謝」と「清浄感」ではないか。
丸二の理念の基本は「自然の恩恵への感謝」です。現場の基本は「6S(整理・整頓・清掃・清潔・親切・速度)」です。「現場は心の鏡」という合言葉もあります。全てが「感謝」と「清浄感」の追求です。結局のところ、お客様の喜びと幸せ、社員の喜びと幸せを願う時、最後は「感謝」と「清浄感」に行き着きます。そして、そのルーツこそが「先生」の教えでした。私は、亡き恩師への恩返しとして、これら全てを守り続けて行こうと思います。先生、本当にありがとうございました。
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※「かぐや姫の物語」ですが、老若男女、全ての方に見ていただきたい映画です。見た方の半数は、「日本昔話みたい。竹取物語そのまんま。特別面白くなかった。絵もそれほどでもなかった」という感想で、もう半数は「何か物凄いものを見た。なぜ竹取物語で号泣してしまったのだろう。涙が止まらない。アニメ史上の快挙。映画史上の大傑作」という感想のようです。私の場合は完璧に後者でしたが、みなさんはどうでしょうか。すでに日本人の誰もが知っているストーリーです。しかもアニメです。ですので、前者の感想の方が(一見)説得力があります。けれども私は後者でした。それがなぜだか未だに頭の中で整理が付かないのです。上手く説明ができないのです。でも、心の深い部分で感じています。多分、きっと・・・生きるために生まれてきたことを、私も「思い出した」のだと。