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かぐや姫の物語

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子どもの頃、地元(吉祥寺)の古い映画館でディズニー作品や東宝映画(ゴジラ)等を見て以来、私は映画ファンに成りました。古い名作(洋画)の2本立ても、良く見に行きました(「シェーン」や「エデンの東」等もその頃に見ました)。中学生頃からは、封切したばかりのロードショー作品を見に、新宿や渋谷にも行くように成りました。そこには「新作映画が見られる!」という喜びと好奇心がありました。当時見た映画の中で、特に強い印象が残っているのは「ロッキー」(渋谷東急だったかな)と「未知との遭遇」(新宿プラザ劇場)です。私の映画による「感動の原体験」は、(今思うと)ここに在ったように思います。その後、たくさんのアメリカ映画を見て、徐々にヨーロッパ映画やマイナーな映画、内省的な映画へと興味の方向が変わり、「哲学的」とか「難解」とか言われる作品群の方に心は惹かれて行きました。実際、自分自身の好きな映画の多くは、そのような傾向のものです。
けれども、映画における「感動の原体験」と成ると、今でも(あの時の)「ロッキー」や「未知との遭遇」の記憶が蘇ります。部屋にポスターを貼ったり、下敷ケースにチラシを入れたり、今思うと気恥ずかしいのですが、(それくらい)いつも頭の中に映画がありました。もちろんサントラ(レコード)も買って、何度も聞きました。当時は、今のようにビデオ等が無い時代でしたので、映画を追体験するには、サントラのレコードを聞く以外無かったのです。その分、音だけで映像をイメージする訓練が出来たのかもしれません。とにかく勉強よりも映画でした。そのようにして、大学では映画研究会で映画を撮り、社会に出てからも映画好きはそのままです。もちろん昔ほど見に行く機会は減りましたが・・・。
サントラと言えば、私がクラシック音楽に興味を持ったのも、映画音楽からでした。「2001年:宇宙の旅」の<ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)>、「時計じかけのオレンジ」の<第9(ベートーヴェン)>、「地獄の黙示録」の<ワルキューレの騎行(ワーグナー)>等、みんなサントラで初めて聞いてから、「全曲聴いてみたい!」の一心で、(勇気を振り絞って)吉祥寺駅前の(今はもう無い)新星堂クラシックレコード店へ足を向けました。決して学校の音楽の授業からでは無かったのです(音楽の通信簿は「2」でしたから!)。当時は、ベートーヴェンもモーツァルトも全く知りませんでした(クラシックは嫌いでした)。けれども映画のおかげで、人類至宝の芸術との出会いが実現したのです。そこから映画とクラシック音楽という大海への漂流の始まりです。
「イメージ(想像)すること」「見えない力を感じること」「俯瞰して見ること」「クローズアップして見ること」・・・映画を通じて学べたことはたくさんあります。けれどもテレビドラマからは(あまり)在りません。それはきっと「深み」の問題だと思います。クラシック音楽が数百年以上も生き続けているのは、そこに本物の深みが在るからではないでしょうか。深みとは感覚的な世界ですので、確かに比べられる性質のものではありません。それでも尚、人類は残すものと残さないものを明確に「仕分け」しているように見えます。その仕分けの根本原理は、「見えない世界とのつながり」ではないかと想像します。
この世の中のすべての物事や事象、あるいは構造は、2つの力で構成されています。善と悪、男性と女性、昼と夜。すべて表と裏、陰と陽です。多くの映画やドラマ、音楽、演劇、絵画は、見える世界(聞こえる世界)を描きます。なぜならば、見えない世界(聞こえない世界)を描いても、受け手には見えない(聞こえない)のだから意味がない(=売れない)と思うからです。確かにその通りであり、見えない世界を描くことは無理ですし、無駄です。手間暇掛ります。なかなか理解も得られません。けれども本物のクリエーター達は(そのような風潮の中においても)(仮に分からなくても構わないから)もう1つの世界観(サブテキスト)を作品の中に組み込もうと戦います。なぜならば、表と裏の両面を描かなければ、偽物だと「知っている」からです。両方の力を含めることで、本物の芸術作品と成り、それが受け手側に(なんとなく)独特の雰囲気(魅力)を与えるのではないでしょうか。それが数百年後も生き続けることによって、自然界の普遍的な構造を「有していた」という意味において、いつか必ず証明されるのでしょう。
そのようにして最近のいくつかの映画を観た時に、実は日本映画の良質化を感じています。軽い気持ちで見た「陽だまりの彼女」などは、単なるアイドル映画だと思っていたのですが、(表側のストーリーと並行する)生きる意味と幸福についての寓話として、とても面白かった。作り手の素直で純粋な意識がそのまま画面に出ていて、こちら側もとても気持ち良く感動できたのです。原作を全く知らなかったので、後半の展開には驚きましたが、大好きなビーチボーイズ(ブライアン・ウィルソン)の名曲「素敵じゃないか」が、重要な役目を果たしていて、それも嬉しかった。かつて「こんな音楽、犬にでも食わせておけ!」と罵詈雑言を浴びたアルバム「ペットサウンズ」第1曲目のこの曲が、このようにして今の若い人達の前に(突然)現れたこと自体も驚きです。この映画自体が(いつまでも残る)名作に成るかどうかは分かりませんが、あの頃、目を輝かせてロードショーを見に行っていた時代の「感動の原体験」がちょっと蘇ったのも事実です。若いカップルばかりの映画館で、ちょっとキツかったですが・・・。
けれども、本ブログで本当に書きたいのは、実は見たばかりの「かぐや姫の物語」です。これはスタジオ・ジブリの高畑勲監督の渾身の一作。ジブリと言えば、大ヒット中の「風立ちぬ」公開後に引退を表明された宮崎駿監督が有名ですが、もう一人の雄が高畑勲監督です。何度か予告編を見た時から、「これは・・・」と(なんとなく)異質な世界観を感じていたのですが、実際に本編を見て、非常に心を打たれました。圧巻でした。昨年の「この空の花~長岡花火物語」を見た時の衝撃とはまた違うのですが、誰もが持っている記憶の扉をこじ開けられたようなショック感と言ったら良いか・・・そういう種類の衝撃でした。アニメだとか実写だとか、そのような問題では無く、そういう手法を超えた次元に在るとすら感じました。そのような意味で言うと、宮崎駿監督作品は見事なアニメ映画であり、この「かぐや姫の物語」は見事な体験映画と言えます。物語は当然、「竹取物語」そのものですので、誰もが知っているストーリーであり、特別目新しいものではありません。オリジナルの人物も登場しますが、極めて原作に忠実でした。
高畑勲作品の作画は、宮崎駿作品あるいは一般的なアニメとは全く違う、草書体のような世界です。全てを描かない。描かないものを描く。「無」を描く。まるで消去法です。時に雑な印象すら覚えます。けれども人間の記憶の世界とは、まさにそのようなもので、非常に曖昧かつ無地や白紙部分が多く、極めて不明瞭で不明確です。見方によっては、どの様にでも見えてしまう。それはまるで、細部に渡って(固定化された)明瞭な物質で埋め尽くされた「偽物細工」へのアンチテーゼかのようです。色即是空、空即是色。在るものは無く、無いものは在る。高畑監督の作風には、そのような仏教的、老子的な世界観が込められているのかもしれません。かぐや姫が疾走するシーンの激しい墨絵的表現などは、本当に凄かった。
人生とは「苦」である。けれども、その「苦」の経験を通じて、生きることの素晴らしさ、色彩ある世界の素晴らしさ、喜怒哀楽の素晴らしさ、これら全ての経験を「味わい尽くす」ことで、人間は成長をして行くのでしょう。そのような「経験」への憧れを抱き、そのような「経験」を求めて、人間は(多分、自らの意志で)生まれて来たのにも関わらず、今度は「辛い」「苦しい」「逃げたい」「帰りたい」と不平不満を言う。なのに、静かで、穏やかで、無色透明で、起伏の無い、思考(意識)だけの満ち足りた世界にいると、今度は「もっといろいろな経験がしたい」「生を謳歌したい」「あえて苦しい状態を味わってみたい」と言う。結局、人間はどちら側に居ても、「苦しいから」とか「つまらないから」と言って、「いま、ここ」を否定してしまい、もう一方(向こう側)への憧れを持ち続ける。この堂々巡り。このような憧れと後悔の繰り返しこそが、かぐや姫(=全生命)の「罪」なのかもしれません。
「いま、ここ」を肯定し、現在の「生」を生き切ることが、このような負のループから抜け出すことに成る。物語の中には、「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」や「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」等の「偽物細工」が出てきます。本物の「生」とは、「いま、ここ」を味わい、思う存分、生きる喜びを実感すること。まさに、現世と大自然への大讃歌。そのような強いメッセージを本作品から感じ取りました。
私たちの中には、自分自身が経験した過去の記憶が全て在り、その結果としての「今の私」が此処に存在しています。それら全ての経験を、肯定的に受け入れて行くことで、「今の私」はより良く成長していくはずです。この映画(物語)の真の意味は、私たち全ての人間の中に在る普遍的かつ共有の記憶の再現ではないでしょうか。だからこそ、作画は(あえて)余白が在り、曖昧模糊としていたのではないか。余白とは、一人ひとりが実際の(自分自身の)経験で補筆して欲しい・・・そのような意図を感じました。
3.11以降、日本映画は良質化し始めたような気がします。それは、製作者が勇気を持って、「見えない世界とのつながり」を含め始めたからだと思います。「かぐや姫の物語」のクライマックスである、月から天人が降りてくるシーンの表現方法と超然とした(摩訶不思議な)天上の音楽(調べ)には、過去の映画音楽の常識を超えた「非常識」が在りました。人生とは、どこにいようと極楽であり、幸福なのだ。そのことが驚天動地の音楽表現によって明らかにされたかのようです。そしてまたここに、私自身の新たな「感動の原体験」が発生し、「かぐや姫の物語」は、私の「名作」と成りました。
映画から学んだこと。それは、まるで映画を見るがごとく生きるということ。映画の主人公に成りきって、その環境や境遇を(思う存分)生き切ること。そのように演じている自分自身の姿を(自ら)客席から(俯瞰して)見つめながら、自分自身を応援してあげること。その喜びも、悲しみも、苦しみも、映画の中で「演じている」体験の1つ1つに過ぎない。本当の自分は、「いま、ここで」、自分自身を応援している。だから安心して、人生を味わおう。映画の主役に成り切って、演じてやろう。そうすれば(人間誰もが)人生そのものを「感動の原体験」にできる。だから私たちは、喜びの心で生きて行く。建築の中に「見えないもの」を込めて行く。大自然を愛して行く。そのようにして私たちは、今、生きているという感触を掴んでいる。