社長ブログ

代表的日本人(内村鑑三)

温暖化の影響で温かいお正月でしたが、その後は急激な寒気がやって来ました。地球をめぐる環境の変化については、一方では「温暖化ではなく寒冷化」という説もあり、複雑な要素や情報が絡み合いながらも、いずれにしても悪化の道を辿っていると感じます。米国がシェールガスによって世界最大の産油国に成りましたが、原油価格が下落して行けば採算は合わなく成り、そして何よりも、大地に眠る埋蔵資源を採掘し続けて行くことが地球環境の悪化にさらなる拍車を掛けて行くでしょう。米国が産油国になったことで中東への関与が薄らぐ中、ロシアの影響力が増しています。これに中国が加わり、3つの大国による新たな覇権争い始まっています。その三国の共通の問題は、やはり経済(お金)だと思います。
3つの大国とも経済の先行きに大きな不安があると思います。もちろん日本も同様です。けれども今までのような小手先の修正レベルではもう大きな方向転換は難しいでしょう。大国や独裁国は力(軍事力)で事態を変えようとする可能性があります。日本はその想定の上で、防衛強化を図っている最中とは思いますが、日本が自ら軍事力を行使することは有り得ず(そう信じます)、では日本は何をもって自らこの現状を打開していくのか。当然、景気回復による経済の再生に成ると思いますが(遂に「マイナス金利」という奇策までも飛び出しました)、そもそも日本の経済力の源は何かというと、やはり「ものづくり」であり、「おもてなし」であり、結局のところ、「人」にあると思います。
NHKの「100分de名著」という本の紹介番組をよく見ますが、先月の「代表的日本人(内村鑑三:著)」はとても興味深かったです。内村鑑三という明治を生きた日本人のことを全く知らず、最初は(所謂)伝記ものかなと思ったのですが、全然違いました。この本では、代表的な日本人として、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を挙げているのですが、その紹介の視点が非常に面白く感じたのです。著者である内村鑑三は、キリスト教徒の思想家で、そういう(ある種の)信仰心、もしくは霊性という面から、この有名な5人を語っていたのです。
キリスト教徒である一人の日本人が、別の宗教観を持つ日本人に対し、心からの敬意と尊敬の眼差しで、その「人物像」を書いています。内村鑑三もキリスト教徒とは云え、教会はいらない、教義もいらないという異端な考え方を持ち、そういう意味では、八百万の神や大自然を信仰する日本神道の考えに近かったのではないかと感じます。その内村鑑三が、この5人の素晴らしい日本人について書きました。何を書いたのかと言うと、偉人伝ではなく、「天」についてです。例えば、西郷隆盛は天の声を聞き、天の命に従い、維新を成し遂げたという話です。西郷隆盛は、ひとの家を訪ねても、中の方へ声を掛けず、入り口に立ったまま、誰かが偶然出て来るのを待っていたそうです。また、靴を無くし、裸足で歩いていた時に、不審者として扱われた際も、自分が怪しい者でないことを証明してくれる人が、ここを通るのを待っていたそうです。このような西郷隆盛は、自分の欲ではなく、天の命によって生き、死んだのでしょう。この本の最後は日蓮の話ですが、まさに日蓮もそのようにして己を捨てた人生そのものだったと思います。この本は(実は)原書は英語で書かれたもので、私たちが読んでいるのは、日本語訳されたものです。つまり内村鑑三は、世界の人々に、あるいは世界のキリスト教の人々に、日本人のことを、そして日本人の知る「天」の存在を伝えたかったのではないでしょうか。
日本人の心の中に、天の概念は、今でも確かに生き続けていると思います。ただ、明治維新以降の物質文明への加速が、その天の意識を隠そうとしていたのかも知れません(西郷隆盛の危惧はここに在ったのでしょう)。けれども、今こうして世の中が大きく荒廃してくると、あらためて私たちの心の中から、何かが蘇ってくる(思い出してくる)気がするのです。日本人の本来持つ霊性が再び目覚め始めれば、また新たな智慧や技術が生まれ、天の命ずる新たな経済が発生すると思うのです。内村鑑三は、キリスト教徒という信仰の人でありながら、しっかりと「お金は大事」と明言しています。つまり、経済(お金)と道徳(天)を分けなかったのです。そしてこの5人の日本人も、誠実に経済(や政治)活動を行うと同時に、天の声に従い、自らの霊性を磨いていたのでしょう。
これからの日本や社会に必要なのは、まさにこのような価値観だと思います。経済と道徳を分けない。道徳的に生きながら、経済を高めて行く。今までは経済優先で、道徳は後回しでした。地球環境がどうなろうと構わない。お金のためなら法を犯す、嘘を言う、相手を蹴落とす。この結果が今の世の中です。けれどもこれからは、「経済と道徳を分けない」時代が始まろうとしています。だから日本人の出番なのです。きっと、天の声に一番近いのが日本のような気がして仕方ありません。番組内でこの本の解説を行っていた批評家の若松英輔氏のお話はとても分かりやすく、大変心を打ちました。内村鑑三も若松英輔氏も、早くにして妻を亡くしたそうです。その悲しみの果てに、「天」が見えたに違いありません。

芸術と道標

昨年の暮れに、NHKの「新・映像の世紀(第3集)~時代は独裁者を求めた」を見て、あらためて戦争の悲惨さと愚かさに恐怖しました。同時に、あの時代、民衆が独裁者を求めざるを得ない程、世界が異常な空気に包まれていたことにも感じ入りました。今の平和な日本に生きる身としては、本当の意味でその実感を持つことは出来ないと思います。けれども、私たち人間には想像する力があります。過去から学び、想像力をもち、二度とあのような時代に戻らないことを決心する以外ありません。日本も苦しい戦争の時代を経て、やっと平和な道を歩み始めたばかりです。この道を歩いて行きたいと思います。
番組の中で、ヒトラーがアメリカの自動車王であるフォード氏の本を読み、激しく心酔していたことを知りました。そのフォード氏が反ユダヤ主義であったことが、実はヒトラーのその後に大いに影響を与えたと言うのです。もしそうであるならば、仮にフォード氏が反ユダヤ主義ではなかったとしたら・・・と、思わずにはいられません。そしてフォード氏もナチス政権を支持しました。ヒトラーはポルシェ氏と共に自動車開発を始め、民衆が乗れる車の普及のためにフォルクスワーゲン社を造り、以後、様々な技術革新に力を入れました。大陸間弾道ロケット等の開発も世界に先行しました。そしてこれらの技術は、ドイツ敗戦後、米ソに奪われて行ったのです。
言うまでも無く、ヒトラーは選挙によって国民に選ばれ、正式な手続きによって首相となり、議会によって「全権委任法」を成立し、合法的に独裁を手にしました。このことは未だに信じがたい事実です。その結果が、第二次世界大戦とユダヤ人迫害へと向かいます。彼には何か集団催眠的な能力があったのでしょうか。たった一人の男の偏執狂的な思想によって、国家が崩壊して行く怖さ。同時に、そこから多くの技術革新が生まれたと言う事実。ココ・シャネルも彼に協力したそうです。また、アウトバーン建設を全て人力で行わせ、多くの失業者を救ったという面もあります。これらの力が、「善だけ」の方向へ向かっていたとしたら、世界は大きく変わっていたのかも知れません。
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その時代のドイツには大指揮者フルトヴェングラーがいました。フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンのシンフォニーはまさに神憑り的で、未だに多くの(当時の)実況録音盤が世に遺されています。中でも、戦後再開されたベルリンフィルとの復帰演奏会(1947年)での交響曲第5番は、言葉では表現できない程の精神の爆発が在ります(この曲の私のベスト盤です)。そのフルトヴェングラーも、ヒトラーに対して批判的立場でありながら、ナチス政権のための演奏会に協力せざるを得ず、それが故に(後に)親ナチスというレッテルを貼られ、一人の芸術家として極めて苦しい状況に追い込まれました。番組の中でも、ナチスの大きな旗の下で「第9」を指揮するフルトヴェングラーの姿がありました。けれども政治と音楽は全く無関係です。彼のベートーヴェンを聴けば、それが分かります。全人類の平和を願い、苦悩から歓喜へと至る道を歩むベートーヴェンとフルトヴェングラーの精神は、時代を超えて確かに共鳴し合っていたのです。
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さて、年が明けて(昨年のお正月に引き続き)今年もエレファントカシマシの新春ライブ(東京国際フォーラム)へ行って来ました。クラシックコンサートが基本の自分自身にとっては、勇気がいることですが、何でも経験です。でも、もう少し音量を下げて欲しいなとか、ゆっくり座って聞きたいなと、素直に感じるところもあります。ただ彼らの場合は、余計な演出も無く、静かに聴いて終わって拍手という曲も多く、そういうところが好きです。
今回のコンサートは、昨年発売されたニューアルバム「RAINBOW」からの全曲と共に、いくつかの古い曲(「偶成(ぐうせい)」「曙光(しょこう)」「おはようこんにちは」等)を聴くことができました。特に嬉しかったのは、「偶成」という曲です。歌う前に「お正月には相応しくないけど、聞いてください」との説明がありましたが、とても長く、内省的で、物寂しく、儚く、けれども美しい曲です。この曲は彼らの(今から25年程前の)4枚目のアルバム「生活」に収録されたものです。この「生活」というアルバム自体、(全く人には勧められない)異様な陰鬱性に満ちていて、通常のロックとは別物の(例えば)唱歌のような、演歌のような、あるいは浪曲のような慟哭の叫びで、そこで歌われている内容も、孤独な一人の青年の(日々の)苦しい生活や暮らしばかりです。
作詞作曲の宮本浩次氏がまだ22、3歳の頃に、なぜこのような暗く老成の曲を書いたのか。そんな興味もあって、彼らの音楽に興味を持ったのですが、今回は生でその中の一曲である「偶成」を聴くことができ、静かなる感激と深い感動を覚えました。そしてここで気づいたのは、彼らの音楽は「歌曲」なのだと言うことです。己の偽ざる内面(心境)を、腹の底から、大きな口を開けて、時に慟哭の叫びと共に、朗朗と歌い上げること。要はシューベルトの「冬の旅」と全く変わらないのです。ここに何かクラシック音楽と通ずる世界観が在る様に感じました。「偶成」という曲では、最後に「ああ うち仰ぐ空のかなたに きらりと光る夕陽あり」「流るるドブの表を きらりとさせたる夕陽あり」「俺はこのため生きていた ドブの夕陽を見るために」と歌われます。時はまさにバブル絶頂期。その時代の波に乗ることができなかった一人の孤独な男が、静かに夕暮れ時のドブを眺めている・・・。確かにお正月向けの曲ではないですね。
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「歓喜とは、苦悩を超えた先に在るのだ」とベートーヴェンの音楽から学びました。「歓喜とは、今すでに此処に在るのだ」とモーツァルトの音楽から学びました。両方とも真理の様な気がします。石川啄木の詩にも、宮澤賢治の童話にも、深い悲しみの底に横たわる大いなる喜びの芽を感じます。きっと音楽も含めて、全ての芸術はそのような構造に成っているのでしょう。そしてその構造は、私たちの人生や自然界とも相似形のはずです。だからこそ私たちは、優れた芸術に涙を流し、美しい自然に感動するのです。そして私たち一人ひとりの人生もまさに芸術そのものなのです。
人は、我が苦悩の先に在る喜びに向かう途中で、今すでに此処に在る喜びに気づきます。その道は一人ひとり違います。けれどもそれが故にオンリーワン(オリジナル)の道なのです。きっと優れた音楽や詩や絵画たちは、私たちの良き道標となって、その歩みを助けてくれているのかも知れません。ナチスの旗の下でベートーヴェンを振るフルトヴェングラーにも、50歳に成っても益々鬼気迫る演奏を見せるエレカシにも、「やらねばならぬ」という天に向けての強烈な意志を感じます。多くの人の人生のために(自らが)良き道標に成ることが芸術家の使命なのだと思います。ヒトラーにも素晴らしい絵の才能があったそうです。その能力を世界のための「良き道標」に使う道もきっとあったのでしょう。けれどもそれが叶わない時代だったのかも知れません。
今の日本に生きている(生かしていただいている)ことの幸せをあらためて感じます。エレカシの歌詞には、「富士山」「武蔵野」「お日さま」「月の光」等がよく出てきます。日本の原風景に対する憧れが、世界の良き道標に成る時代が来ることを予感します。今年はいろいろな意味で、あらゆることが反転し始める年に成ると思いますが、日本人が「感謝と報恩」さえ忘れなければ、時代の良き道標と成って、「歓喜の歌」の鳴り響く日本や世界を造り上げることができると信じます。そういう道を愚直に歩んで行きたいと思います。

感謝と報恩の年

新年明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
とても暖かい年末年始で、穏やかなお正月を迎えることができました。昔のお正月はもっと深々とした寒さがあって、それはそれで独特な趣きと風情があったのですが、実際に生活する上では、確かに陽気の良い方がありがたいものです。けれどもこれが地球温暖化による異常気象の一端と成ると、そんな事も言っていられません。昨今の気温上昇の影響で、各地の名産物にも様々な変化が起きているとのことで、例えばワインの産地も今や北海道へと移り変わって来たそうです。地球環境の変化は、今後も人々の生活や経済にも大きく影響して行くと思われます。
丸二の経営理念の冒頭に「自然の恩恵に感謝できる会社造りを目指す」と在ります。当社が使用する全ての建築建材の元は自然界の中に在り、私たちは仕事の為にそれらの資源を(自然界に対して)無料無断で使わせていただいている。その自覚と感謝を忘れない・・・。この思いが(結果的に)現場での無駄使いを最少にして、品質の向上と省コストへと結び付けていると思います。自然界(地球環境)への謙虚な姿勢を持つことが、企業として、あるいは経営者として一番大切なことです。現在の自然環境の悪化は、まさに企業経営者の意識の総和の結果でしょう。私たち人間の生命や生活の元である自然界の資源をこのまま破壊し続けて行けば、地球環境の悪化と共に、自ずと経営自体にもその咎めが来るはずです。
昨年のクリスマスの際、ローマ法王がこのように述べたそうです。「現在の人類はもはや末期的状況にあり、このままでは来年は見るも無残な有様になるでしょう。各地で戦争が続いています。世界は飢え、焼け焦げ、混沌へ向かっているのです。もはやクリスマスのお祝いなど、今年(2015年)で最後になりそうです」と・・・。とても厳しいお言葉ですが、現在の(特に)西洋圏(ヨーロッパ)の状況を見ると、確かに同感の思いがあります。けれども一方、我が国日本では、穏やかなお正月を過ごし、東京オリンピックへ向けて、ゆるやかな成長ムードの中にあります。もちろん世界情勢の影響も大いに受けて、再び混沌とした状態に戻る可能性も在ります。しかしながら、それでも他の国や地域に比べれば、別次元とも云える程の安心で安全な社会です。
昨年は外国人の来日観光客数が大幅に増加しましたが、世界の中で最も安心で安全な国への観光は今後も益々増えて行くと思われます。もちろん安心と安全だけでは無く、日本の四季折々の美しい自然、和の文化、美味しい食べ物、あるいは世界で最も長く続く皇室の存在や八百万の神という独特な宗教観、コンビニより多い神社やお寺、そして何よりも日本人一人ひとりの人間性(良心)が、外国人の方々にとっては極めて魅力的(摩訶不思議?)な「光」に「観える」のではないかと感じます。逆に言うと、日本人にとっては当たり前のことに成ってしまい、そこに感謝が不足しているのかも知れません。私たちは(今こそ)深く感謝しなければ成らないのでしょう。日本に生まれて本当に良かったと。本当にありがたいと。
今年の年初の経済は、日本・米国・中国の同時株安でスタートし、未だその状態が継続中です。為替も円高傾向に振れつつあり、もし今後もそう成れば、景気の先行きに対する不安感が増して来るでしょう。けれども一方で、様々な経済指標がどうなろうと、日本という国の持つ(本質的な)魅力自体が失われる訳ではありません。むしろ相対的に高まると思います。最も怖いのは、日本人が感謝を忘れてしまうことです。欧米や中東、あるいは中国や朝鮮半島に暮らす人々の毎日の生活を思う時、日本人が感謝を失い、自信を失い、後ろ向きに成ってはダメだと思います。今こそ、この国に生まれたことへの感謝の思いを強く持ち、一人ひとりが世界の良き見本と成る道を行く時です。
2020年の東京オリンピックを契機として、東京が名実ともに国際都市と成り、そして日本が(外国人にとっての)「憧れの国」に成ることが、日本のみならず、世界の安定と成長に大いに貢献することに成ると思います。東京オリンピックに関しては、様々な問題や課題が山積しているのは確かです。けれども、ここを乗り越えて行けば、千歳一隅のチャンスを手にすることが出来るのではないでしょうか。日本の国柄と智慧で、それは充分可能だと思います。そしてその源泉はやはり「感謝」しかないと思います。今年は「感謝と報恩」の一年にしたいと思います。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

大晦日(自由について)

今日は2015年の大晦日です。今年もおかげさまで素晴らしいご縁に恵まれた良い一年でした。これも全てのお客様並びに関係者の皆様、地域の皆様のおかげと、心から感謝いたします。本当にありがとうございます。年末のTV番組の中では、世界の異常気象を取り上げていましたが、地震、洪水、竜巻、山火事、気温上昇等、人間の日々の生活を脅かす自然災害が世界中で頻発していることがよく分かります。これも元を辿れば、人類が有限な地球資源を「我れ良し」の姿勢で(自由気ままに)使い続けて来た結果なのでしょう。その恩恵を受けて生活をしている身としては、とても複雑な思いがあります。
自由という言葉にはとても難しい面があります。例えば、この有限なる地球資源を大切に守って行こうとする自由もあれば、どんどん勝手に使い果たしてしまう自由もあります。人類には、そのどちらも選択できたのだと思います。けれども選択には必ず因果応報が付いて回ります。結局、資源を使い果たして異常気象を招いているのも、人類の自由な選択の結果なのでしょう。人間がいかなる智慧を使っても資源を活用できない(ある種の物理的な)不自由があったのなら、逆にこのような異常気象はなかったと思います。そういう意味で人間とは、因果応報付きの自由を持たされているのでしょう。
心理学者アドラーの法則で言うと、今の自分の現実はすべて自分自身の自由な選択によるものだそうです。引きこもりの人は、不安だから外に出ないのではなく、外に出たくないという目的達成のために不安という感情を(自ら)生み出していると言います。また、いつも怒っている人は、「怒りたい」という強い感情(=目的)があり、そのために怒る相手(対象・事象)を一生懸命探しているとのことです。少し難しいですが、「あのことが起きたから、こうなった」というのは逆で、本当は「こうなりたいから、あのことが起きた(起こした)」と言う訳です。つまり共に「こうなりたい」という目的は達成されているのです。そこには選択の自由があります。
私たちの人生は、全て「やろうと思えばやれる自由」が与えられています。だからこそ、この自由なる身の中で、自らの意識と行動を静観し、良いと思える道を選択して行かなければ成らないのでしょう。私たちはそこを見られている(試されている)と感じます。逆に言うと、不自由とは、「私はそれを選択しない」という意志の表れなのかも知れません。多くの過去の偉大な賢者たちが、極めて不自由な生活をしているように見えても、それは本人が自ら選択した道であり、本人にとっては正しい道を行く喜びの日々だったのではないでしょうか。
NHKの「100分で名著」という番組で、今回は「良寛さん」を取り上げていましたが、その清貧なる生活の姿の中に、良寛さんの嬉々とした喜びを感じました。このような生き方を選択できるのも人生なのですね。地球の異常気象がますます加速して行けば、日々の生活を守ることが第一に変わって行きます。あるいは、隣国の指導者が誤った選択をすれば、生命を守ることが第一に変わって行きます。このような時代の中で、私たちの自由なる意思が選択すべきは、良いと思える道(良心の道)を行くことと、安心安全な生活(住まい・暮らし・家族・経済)を守って行くことだと思います。明日から2016年が始まりますが、この我が身に自由を与えられていることへの深い感謝と、その自由を正しく理解し、正しい道を行くことで、日々の喜びを感じて行きたいと思います。来年も何卒よろしくお願いいたします。ありがとうございます。

歩みを止めない

今年もあと二十日で大晦日を迎えますが、この一年を振り返ると、様々な出来事が高速で(目の前を)過ぎ去って行った様に感じます。凄いスピードで、凄い密度で、一気に(知らない間に)時代の重要な分岐点を通過して行く。「気が付いたら過ぎていた」「ふと窓の外を見たら、まったく違う景色になっていた」・・・まさに、そのような一年でした。今後も時代のスピードはもっともっと加速し続けて行くのでしょう。こうなってくると目先の物事や利益をいくら追いかけていても、もはや変化の高速スピードに追い付いて行くことはできず、何をやっても「遅かりし」の状況に成ってしまうでしょう。
テレビ番組や雑誌、あるいはネット等で取り上げられている新しい商品や人気のお店等を見ても、その人気がこの先10年以上続くのだろうかと考えてしまいます。10年、20年、30年と長く続いて行くものには、間違いなく普遍的かつ本質的な価値が内在されていると思います。今見直されている日本の「和」の文化こそ、普遍的かつ本質的な価値があります。けれどもその普遍的かつ本質的価値さえ在れば生き残っていける程、世の中はそうは甘くないのも事実です。その時々の時流に乗って行かなければ、継続が難しい面も確かにあります。
大切なことは、普遍的かつ本質的な価値を強固な基礎として、その上に時流を乗せて行くという「二重構造」を持つことだと思います。けれども(今年の様に)上に乗せる時流のスピードがどんどん加速してくると、それはもう目先の一瞬の移動距離が(今までの1km、2kmから)100km、200kmになって来てしまい、そうこうする内に基礎(長距離)の普遍的かつ本質的価値とそんなに変わらない時間軸に成ってしまう(一体化してしまう)気がするのです。今までは、時流さえ追いかけていれば、なんとか間に合い、むしろ(その方が)上手く行った時代でしたが、これからは普遍的かつ本質的価値の方が、時流そのものに成る(一体化する、時流を飲み込んで行く、時流を追い越して行く)様に成ると思うので、要は一気に基礎側(普遍的かつ本質的価値)に比重(主導権)が移ったのではないでしょうか。
このまま時流だけを追いかけて行けば、異常な速度で激しく移り変わる窓の景色に(秒単位で)対応しなければ成りません。それは人間の能力ではもう不可能な領域です。けれども、基礎側の方を完全に確立させることができれば、どこをどのようなスピードで走ろうと、まるで天からの視座(俯瞰)のごとく、間違いの無い方向へゆっくりと進み行く自らの姿を(感覚的に)観ることができると思います。つまり今年は、その「上」と「下」とが(知らない間に)逆転した一年だったのではないでしょうか。出来事のスピードが加速すればするほど、比重はどんどん基礎側(意識の世界)へと移動し(重心が下がり)、基礎の安定こそが(自分自身や会社の)安定、成長、平静と成るはずです。
基礎側である普遍的かつ本質的価値とは、一体何かと言うと、とどのつまり「人間性」ではないでしょうか。会社で言えば、社員ひとり一人の人間性です。会社や組織とは、結局のところ、構成する社員(メンバー)全員の人間性の総和であると思います。その基礎を強固なものにして行くことが最も大切な時代に成って来ました。今年発生した杭工事の不正問題は、言うなれば、「基礎」に対する軽視無視であり、人間性の否定と理解します。このような事が同じ建設業界で起きてしまったことを心から恥ずかしく思うと同時に、私たちは自分自身の人間性を磨いていくことに更に意識を向けて行きたいと思います。建設業は、最後は「人」です。本物の人造りこそが、本物の建物造りであり、普遍的かつ本質的価値であり、新しい本流です。
※モーツァルトとRAINBOW
音楽の場合、普遍的かつ本質的な方向へ向かって行くと、どんどん純化されて行き、美しい輝きと深い瞑想性を保つようになって行きます。モーツァルトやバッハの音楽には、潜在意識に刻まれて行く程の高い次元で、そのような響きが含まれているのでしょう。ベートーヴェンの場合は、むしろその一歩手前で踏みとどまり、自我との闘いと向き合っています。そのどちらも崇高かつ力強い魂の力を感じます。
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モーツァルト: アヴェ・ヴェルム・コルプス
クーベリック指揮/バイエルン放送交響楽団
私がモーツァルトの曲で(実は)一番好きなのは、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」というほんの3分程度の小さな宗教曲です。この曲の美しさと静かな瞑想性には、何とも言えない感動を覚えます。最近、何かのCMで使われていたような気がしますが、この曲を聴くと一瞬思考が止まり、静かな寂寥感と幸福感とが入り混じった不思議な感覚に成ります。まさに覚醒の音楽です。モーツァルトの人生は、決して幸福なものではなかったと思います。その人柄にもいろいろと問題が多かった様です。けれども彼が天上世界に流るる音を集めることができたのは確かだと思います。その音を譜面に書き写し、この世で音化させた功績は大変なものだと思います。
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エレファントカシマシ:RAINBOW
私が密かに聴き続けている日本のロックバンド「エレファントカシマシ」の最新アルバム「RAINBOW」はとても素晴らしいです。エレファントカシマシは、結成から既に25年を超え、アルバムも今回で22枚目とのことです。つまり彼らは結成から25年以上(継続して)新しい音楽を造り続け、新しい歌を歌い続けているのです。まさに音楽が人生そのものですね。ニューアルバム「RAINBOW」を聴くと、今までとは違う、浮遊するスピード感と鮮やかな色彩感覚、それに静かな瞑想性を感じます。アルバム全体が1つの世界観で統合されています。
今までのエレカシを(自己と闘う)ベートーヴェン的と言うならば、今回のエレカシは、そこからモーツァルトやバッハの棲家が在る(自己と離れた)世界へと向かう中間地点を歩いている印象があります。エレカシの歌には「歩く」という言葉が数多く出て来ます。「雨の日も、風の日も、晴れの日も、霧の日も、歩みを、歩みを止めません」と歌われる世界観は、まさに「歩く瞑想」です。私たち人間は、この日々の生活を懸命に生き抜くことでしか、目覚めることはできない。決して山に籠ったり、自分探しの旅に出ることではなく、この毎日の生活、毎日の仕事、毎日の暮らしという日々の「日常」を懸命に歩いて行くことが、実は最も素晴らしいことである。歩いて、歩いて、歩き続けて行けば、きっとどこかでフッと違う次元へ行くことができる。どんな時代の中でも、この日々の地道な努力と歩みを止めさえしなければ、必ず自身の基礎は固まり、覚醒の道が開けて行く・・・。「RAINBOW」は、そういうアルバムです。

内側の時代へ

フランス、パリにて大変なテロ事件が発生しました。多くの市民の方々が巻き込まれ、命を落とされ、負傷いたしましたが、今後も引き続き厳重な警戒体制が必要なのでしょう。テロ集団側は、今度は米国、ワシントンを狙うとの声明を出しているとのことで、欧米諸国(キリスト教圏)対イスラムの戦いは、このまま無限に続いて行く様相です。ここに大国、ロシアや中国が複雑に絡み合い、世界の新たな覇権争いが繰り広げられて行くのでしょう。フランス大統領が「フランスは戦争状態」と発言しましたが、そうは成らないことを心から祈ります。
そのような中、我が国日本も、確かに世界の一部として、その渦中に巻き込まれているのですが、それでも他国の状況に比べると、まだ安心で安全な状況を維持していると思われます。日本には特定の(1つの)国家的宗教は無く、八百万の神が在り、国民の多くは日々の日常の中で神社やお寺で手を合わせたり、自宅の神棚や仏壇に手を合わせたり、山や自然に特別な思い(畏敬の念)を持って生活をしています。ここに戦いという概念は存在しません。在るのはただ「感謝」ばかりです。けれども今、近隣国からの(物理的な)圧力や今回のようなテロ行為を目の前にして、ここで正しく対応して行かないと、国は守れないと思います。そういう危機感は在ります。
日本が世界の争いに巻き込まれない為には、目に見える(現実的な)防衛と目に見えない(精神的な)防衛の両面が必要だと思います。目に見えない防衛とは、まさに日本人の心の在り様です。今、国内では様々な事件や事故、災害が発生していますが、これらも大いなる気づきの1つ1つではないでしょうか。日本人の心の「建て直し」を(厳しく)促されていると感じます。最後に国を守るのも、自分自身を守るのも、一人ひとりの心の在り方1つで決まると思います。つまりは、良心に従って生きて行くということ。この精神を肝に銘じて生きることではないかと、あらためて実感します。
国内で起きている様々な出来事の1つとして、今、日本の建設業界では、先月発覚した大型分譲マンション(横浜市)の傾斜事故をきかっけとした、杭工事の不正問題が在ります。姉歯事件の時もそうでしたが、日々誠実に仕事をしている多くの業者や施工管理者、職人の方々にとっては、何とも悔しいばかりです。この厳しい業界で日々の仕事を全うしている人は、「(心から)良いものを造り、喜ばれたい」という思いひとつで、雨の日も風の日も、懸命に努力を続けています。「お客様の大切な財産を造らせていただく」という思いを決して失ってはいません。今後もこの心を強く持って行くことが大切だと思います。丸二の合言葉の1つである「迷ったら良心に問え」には、そのような思いが詰まっています。
それにしても、世界の情勢がこのまま行くと、相対的には、日本への信用が日々高まっていくと思われます。本当は我が国の財政状態もとても厳しいのですが、それでも他国に比べれば(日本は債権者が国民という事もあって)安心感は強いのでしょう。その結果として(今後は)「円高」に向かうのは自然の成り行きと感じます。けれども現在の景気浮揚の大前提は、政策的な「円安」「インフレ誘導」であり、この矛盾(衝突)が一体どのような形で現実化して来るのかは、それはそれで見てみたいと率直に思います。もしまた円高に戻れば、日本の輸出型産業は大きな打撃を受け、その関連の中小企業にも影響は出て来ます。産業の中心も「内需型」へと移行して行くでしょう。また、中国をはじめとする海外での人件費の高騰により、日本の製造業の生産拠点がいよいよ国内へ回帰しつつあるという潮流も生まれて来ているそうです。今回のようなテロ行為が海外で多発すれば、日本から外国への旅行者も減少するでしょう。逆に海外からは(相対的に安全な)日本への観光が増加していくと思われます。
こうして見ると、日本は新しい形の国内循環型の時代に戻って行くような気がします。それは江戸時代の鎖国とは随分違いますが、日本が自国を見つめ直し、その本来の文化や創造力を内側に蓄えて行く時代に成って行くのではないかと。そのような新しい日本の姿を観に、外国の方々が多くやって来るのが理想形です。2020年の東京オリンピック開催については、どちらかと言うと不安材料の方が多いと思いますが、これも日本の1つの運命と思い、(これを機に)日本が日本自身を見つめ直すための転換点に成ればと期待します。
人間も、国家も、やはり内側への意識が大切だと思います。外側でいろいろなことが起きると、どうしても意識が外へ向かって右往左往してしまいますが、そのような時だからこそ、地道な日々の生活の中で、自分自身の生き方や人生を見つめ直す時だと思います。建設業界も、今回の杭問題を契機に(また一歩)前へ進んで行くと思います。人生も同様で、起きたことを素直に見つめ直し、今日の日に生かしていくことの繰り返しです。外側が目まぐるしく動く時には、奇異なウルトラC(奇跡)などを期待せず、自らのこの日々の日常を、出来得る限り、誠実に生きて行くことしか無いと思います。けれどもその日々の積み重ねこそが、いつか(後に振り返って分かるような)目に見えない本物の奇跡を醸造して行くと思います。

愛すべき今日

先月の大雨による鬼怒川の決壊で、大変多くの方々が被害に遭われましたことを、あらためて心よりお見舞い申し上げます。今回の災害を振り返ってみると、人為的な要因もあった様ですが、東日本大震災の時と同様、水の猛威の前に人間は成す術も無く、ただ鎮まるのを待つ他ありませんでした。防潮堤にしても堤防にしても、「万が一」の防災意識が無ければ、その整備や管理には(なかなか)本腰が入らないものです。実際に、このような大自然の猛威に対抗して行くだけの智慧と財源が不足しているのも事実でしょう。今後は、人が居住するに相応しい安全な地域と避けるべき危険な地域とを明確に調査区分し、(数百年を掛けてでも)自然と共生できる社会を造り上げて行くべきなのでしょう。当面は出来る限りの防災対策を強化しながら、最悪のケースを想定しつつ、そうは成らないための準備と計画の継続だと思います。
ところで「自然との共生」と言うと、一見とても優しくて耳触りの良い言葉ですが、実際には「A(自然)とB(人間)がお互いに歩み寄って共存して行くこと」では無く、「絶対的なA(自然)に対し、B(人間)が完全に合わせること」でしょう。自然側が人間側に歩み寄って来る訳が無いからです。人間(人類)の出方次第で、自然界は(その反射としての)対応を(自動的に)決めているだけです。だから「自然との共生」とは、人類の(自然界に対する)「無条件降伏」とすら言えそうです。そこには、人間の都合等に一切耳を貸さない厳格さと凄みが在ります。つまり「自然との共生」とは理念とかビジョンのためのお題目ではなく、人類全体としての「義務」なのかも知れません。
日本は(先の戦争で)「降伏」によって、(結果的に、後に)「幸福(平和)」を手にした類稀なる国です。東日本大震災も、今回の洪水も、自然界からの(ある種の)警告であり、日本人に対し「自然界への降伏」を呼びかけているような気がします。自然の猛威が減少する暮らし方や生き方を(先ず日本から)始める道が示されている様に感じます。私たち人間が、真に降伏すべき相手は「他国」では無く「自然界」なのでしょう。その分、自然界への敬意や畏怖の念が本物であれば、自然界は必ず応えてくれると思います。そういう意味で最も「信頼」できる相手です。ところが、これが人間同士、国同士と成ると、そうは行かないのが現実です。
先月は、懸案の「安保法案」が大混乱の末に可決されましたが、「言うことを聞かない」「話が通じない」「信頼できない」「暴力的な」相手が存在する現実を目の前にして、「平和国家である日本は、これからどうすべきか」が問われている様な気がしました。安保法案の賛成派も反対派も、「日本を守るために」という(方法論としての)指向性は共通していると思います(お互いの持つ情報と判断基準が全く噛み合ってないと感じますが・・・)。先ずは、とにかく、現在の正しい情勢(=真実)を(国全体で)共有し合うことが大事だと思います。
さて、この一カ月は、ラグビーのワールドカップで日本代表が大活躍をしましたが、日本人と日本を愛する外国人の混成部隊が1つの大和魂と化して、巨大な相手に立ち向かって行く姿は、あまりにも感動的でした。その中心的存在である五郎丸選手は、「今を変えなければ、未来は変わらない」という信念の下で、自分自身と闘っていたとのことです。やはり、日々の努力が明日(未来)を造るのですね。だから、今を大事に、今できる事に最善の努力をし続けること・・・これ以外の成功法則は無いのでしょう。個人も会社も国家も、目の前にある困難や苦労こそが(実は)後の「上昇」の種であると知り、同時に、目の前にある順調や成功が(実は)後の「落下」の種であると気づくべきでしょう。今回、ノーベル賞を受賞された大村智氏も、「人の役に立つこと」だけを考え、日々地道な努力(苦労)を積み重ねて来たとのことです。日本は今、大いなる上昇の種をたくさん生み出していると言えます。
3.11直後のあの日々を、もう一度、思い出したいと思います。全ての日本人が謙虚に成って、質素に成って、深い祈りを捧げ続けました。街の灯りを少しだけ落として、贅沢を(気持ち)節制し、喧騒の中にも静けさを設け、うるさいTVがやや落ち着きを取り戻し、人々は家族や仲間と共に今日の日を生きられる実感を味わいました。あらゆることを、他者のせいにせず、ただ淡々と現実を受け入れ、目の前にある今日を懸命に生きました。そこには、日本人の「こころ」がひとつになった日々があったのです。ラグビーの日本代表が(世間から注目されることもなく)こころひとつにして、大変厳しい日々の練習(訓練、修行)と懸命に闘い続けた4年間も、きっとそこから始まっていたのでしょう。日本人は、あの日々を忘れてはいけないと思います。きっと自然界はそこを観ていると思います。
※「ロマンティック」と「愛すべき今日」
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クラシック音楽が好きで、時々、古い録音のCDを買うのですが、今回はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」/ヨッフム指揮&アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1975年)を聴き、とても感動しました。ライブならではの臨場感と高揚感があって、この曲の素晴らしさがとても良く分かりました。ヨッフム指揮のブルックナーは、他にも5番、7番、8番、9番の(晩年の)ライブ録音がありますが、全部大好きです。ヨッフムの奏でる音楽は、決して美音ではなく、ゴツゴツした岩山ように感じられます。まるで外観を飾らない「無骨な人間」の姿の様です。けれども、その内側(内観)には、美しく優しい川が流れているような気がします。外観が洗練されていても、すぐに飽きてしまうモノが多い中で、決して地味で目立ちませんが、いつまでも光り輝く存在だと思います。
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日本のロックバンドの「エレファントカシマシ」も(相変わらず)地味で目立たない存在ですが、ごく普通の人と同じような苦労と挫折に幾度と無く遭いながらも、遂にデビュー25周年を超え、先月には新曲「愛すべき今日」を発表しました。「どんなときも歩くのさ 雨の日も風の日も」「現れろ 新たなる 闘いの神よ」と歌われる歌詞には、「どんなに苦しくても、今日の日を生きて行こう」とする前向きな根本思想を感じます。そこには(少し大げさですが)宮澤賢治の「雨ニモマケズ」にも通じる世界観が在る様な気もします。悩みや苦労は絶えないけれど、それでも今日と言う日を愛し、この日々を(努力して)歩いて行こう・・・。この様なあまりにも無骨すぎるテーマに対し、今の若い人はセンスを感じないのでしょう。でも、私は好きです。
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2つのデザイン

丸二の通信誌である「ニコニコ通信」第109号の社長コラムを書きました。「(要旨)戦後70年の8月が終わり、季節は秋へと移り変わりましたが、この夏は、これまでの日本とこれからの日本をよく考える機会と成りました。70年前の今頃、日本人は一体どのような日々を送っていたのでしょうか。敗戦への落胆と、終戦への安堵が入り混じっていたのでしょうか。敗戦国としての未来に対する不安と恐怖に苛まれていたのでしょうか。あるいは戦後の復興を信じ、既に前向きな一歩を踏み出していたのでしょうか。今の私たちにはとても考えられない程の毎日がそこに在ったのだと思います。そしてその困難の日々を乗り越えた先に、遂に素晴らしい経済発展と70年間の平和を実現することが出来ました。戦争と戦後の苦労を経験した先人達に対して、あらためて深い感謝の念を表したいと思います・・・」。
戦後70年の夏は、とても暑い毎日でしたが、あらためて「あの戦争」を思い出す機会と成りました。国会では「安保法案」の審議が継続中であり、これからの日本の平和と安全について、国民一人ひとりがよく思考すべき環境が生まれていたのでしょう。公開中の映画「日本のいちばん長い日」を観ましたが、あらためて昭和天皇の強い意志によって、日本の戦争が終わったことを認識しました。もちろん「降伏」ですから「敗戦」です。けれども、広島と長崎に原子爆弾を落とされても尚、もし徹底抗戦を続けていたとしたら、日本の国土は全てが焦土と化し、米ソによって分断されていたのかも知れません。惜しむらくは、2つの原子爆弾が落とされる前だったら・・・と思うこともありますが、原爆が落とされた後でさえも、(終戦を告げる)玉音放送を阻止する勢力が在ったことを考えると、それは不可能な現実だったのでしょう。
広島、長崎、そして沖縄。この地の人々の尊い生命の上に、今の私たちの平和と安全が在るのだと思います。今上天皇が(自らの生命を賭して)日本各地への慰霊の旅を続けられているお姿を見るたび、この日本に生まれて来て本当に良かったと実感します。世界各国の中で、これほど国民の幸福を思い、そのことだけに「生き切る」存在が実在する国は、日本しか無いのかも知れません。最近の中国の景気悪化による世界同時株安の際、(実体経済が必ずしも良くない)日本の「円」が買われましたが、それは「経済面の信用」を超えた「精神面(国柄)の信用」にこそ起因するものと理解します。これからますます世が乱れ、不安と混沌の時代に成れば、日本(円)に対する信用がさらに高まって行くと思われます。遂に世界が窮した時、世界は(結果的に)日本に敬意を表することに成るのでしょう。
けれども、「円高」は現在の日本の経済構造上は決して望ましいものでは無く、そこにジレンマは在ると思います。自国の通貨(信用)の価値が高まることが自国の発展と逆行してしまうとは、何とも皮肉なことです。当面の円安政策は理解できますが、その時間的猶予の最中で、円高によって豊かに成れる国造りへと舵を切って行くべきと思います。日本は物質的な資源の無い国です。けれども精神的な資源、あるいは技術的な資源、加えて豊富な水と森林に恵まれています。そういう観点からもう一度、日本の内需に活力を生み出す道はいくらでもあるように思います。日本の歴史、文化、芸術、遺産、言語、自然、技術、そして人。画家のゴッホは、日本の浮世絵の大ファンだったそうですが、今を生きる私たち自身こそが、あらためて自国の価値を再認識すべきなのでしょう。それが円高で豊かに成れる国造りへの最初の一歩では無いかと思います。
ところで最近、東京オリンピック関連で2つの大きな問題(国立競技場とエンブレム)が発生していますが、その双方とも「デザイン」という要素が絡んでいます。建築の場合、デザインとコストの間には密接な関係があるので(特に公共工事の様に予算が決められている場合は)施工コストの裏付けのあるデザインを選択しなければ成りません。ザハ氏による当初のデザインは、まさに宇宙的な流線型アートであり、それ自体は大変素晴らしいものだったと思います。けれども、その後の修正、修正で当初の美観と機能は失われ、それでも尚予算が合わず、結局中途半端なシロモノに成ってしまいました。募集する側に確かな予算意識があったのなら、このような事態には成らなかったと思います。
デザインとコストの問題は、実は建築の世界ではよくあることです。やはりデザイン募集の段階から施工のプロフェッショナルが関わることが大事でしょう。あらためての再コンペに向けて、ザハ氏は日建設計とチームを組んで応募する様です。今度は予算の枠内で、どのような新しい提案が出て来るのか、それはそれで楽しみです。この一連の問題は、(残念ながら)日本の信用を大きく損なう結果に成ってしまいましたが、それでもまだ「(オリジナルの)良いものを造りたい」という思いが底流にあったことは1つの救いだったと感じています。けれどもエンブレムの方は(同じデザインの問題でありながら)その様相は真逆で、そこに「良いものを造りたい」という作者の強い思い(志)を(残念ながら)感じることが出来ませんでした。ザハ氏の(当初の)デザインと佐野氏のデザインを並べて見れば感じます。共に「問題のデザイン」ではありますが、「志」が違うのです。
日本人が「志」を失うことが、最も恐ろしいことです。戦争と戦後の復興を経験した先人達が、想像もつかない程の艱難辛苦を乗り超え、築き上げた現在の平和と繁栄の上に胡坐をかき、ただ「うまいことやる」だけの人間が増えて来てしまったのかも知れません。でもそのような日本の恥ずかしい部分を(オリンピックという世界的事業の手によって)白日の下に晒すことに成るのであれば、それはそれで良いことなのかも知れません。日本人が自国の「恥の文化」を思い出すことが、今、必要な時だからです。けれども今回の東京オリンピック開催を招致する際に使用していた(五色の桜の花が美しい環になった)招致用エンブレムには、強い「志」を感じました。当時、美大の学生の方がデザインしたとのことですが、ここにはまだ日本人のオリジナリティと美意識が生きていると感じました。全てが悪く成っている訳では無い。否むしろ(底流では)良い潮流が生まれて来ている・・・。だから恥を晒しながらでも、日本から人心改革を始めよう。志ある者たちが舞台へ上がれる時代を築いて行こう。今の私たちに出来る(先人達への)恩返しは、これしか無いと思います。
※メンデルスゾーン作曲:オラトリオ「エリヤ」
(サヴァリッシュ指揮:ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ放送合唱団)
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あまり有名な曲ではなく、今回初めて聞いたのですが、非常に素晴らしかった。「エリヤ」とは、旧約聖書の「列王記(上・下)」に登場する預言者のことで、古代イスラエルを舞台にした物語です。ユダヤ人であるメンデルスゾーンは、「エリヤ」以外にも「聖パウロ」「キリスト(未完)」というオラトリオを書きました。私が好きなメンデルスゾーンの曲は、交響曲第3番「スコットランド」、同第5番「宗教改革」、ヴァイオリン協奏曲、フィンガルの洞窟などの代表作ばかりですが、それぞれの中に流れている独特の哀愁と懐かしさは、日本人の感性とどこかで繋がっているように感じます。これから、「聖パウロ」と交響曲第2番「讃歌」も聞く予定です。

広島、バッハ、8月

ドイツのピアニスト、ヴィルヘルム・ケンプ(1895年11月25日-1991年5月23日)は大の親日家で、1936年の初来日以来、10回も来日したそうです。1954年には広島平和記念聖堂でのオルガン除幕式に出席し、記念演奏を行い、その録音による売上金は全額、被爆者のために寄付されました。その時の実況録音(CD)には、ケンプのオルガン演奏と肉声メッセージが吹き込まれています。日本もドイツも共に敗戦国と成り、厳しい戦後を乗り越えて来ましたが、共に西洋芸術と大和文化という深い「精神性」に守られたことで、今日の奇跡的な復興と発展を授かったのではないかと感じています。
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その広島での録音ですが、先ずは広島世界平和記念聖堂(幟町カトリック教会)の荘厳なる鐘の音に始まり、続いて、ケンプのオルガン演奏によるバッハのコラール「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」(BWV639)が演奏されました。この「BWV639」は、タルコフスキー監督の代表作「惑星ソラリス」でも使用された、短くも儚き、宇宙からの囁きのような音楽であり、その響きの中に、ケンプという一人の人間の(深く温かい)祈りの声が織り込まれているような気がしました。今から70年前の8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。そして9日には長崎・・・。広島、長崎、そして福島。この日本では未だに核の苦しみが続いています。けれどもこの70年に及ぶ一人ひとりの祈りの声の総和によって、この国は応援され、浄化されているような気がします。
戦争を忘れない。忘れないことによって、二度と戦争を起こさない。その思いは、皆同じだと思います。けれどもその方法論については、様々な考え方があり、(どの時代においても)なかなかまとまらないものです。戦争を知らない私たちに出来ることは、「戦争を忘れないこと」「戦争を起こさないこと」「戦争を仕掛けられないための(現実的な)方法論を持つこと」ではないかと思います。この世の中は、実際にはなかなか思い通りには行きません。他国はこちらの都合通りに動いてくれないからです。理想の未来を思うことと、同時に、最悪の事態に対する想定と準備への並行作業が大切だと思います。それによって、(逆に)現実的な理想の未来への道が拓かれると思います。
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さて最近、タワーレコードより復刻されたケンプのCD、「主よ、人の望みの喜びよ~ケンプ、バッハを弾く」もとても素晴らしかった。これは晩年のケンプが弾くバッハの小品集で、特にコラール「主よ、人の望みの喜びよ」のピアノの響きは、とても美しく、宇宙的な拡がりをもって、私の心に届きました。バッハの音楽には「祈り」があります。その祈りは、決して特定の宗教と結びつくような種類のものではなく(むしろ真逆で)全ての人類一人ひとりの精神(こころ)と宇宙(大自然)をつなぐ物理的な「信号音」のような気がしてしまうのです。人間が考えて作った音ではなく、元から自然界で響いていた音。モーツァルトの音楽にも同様のものを感じますが、そこには人間の手が加わっていない「天然の響き」が在ります。
もうすぐ終戦の日から70年、8月15日が来ます。その前の8月12日は、乗客乗員520人の命が失われた日航機墜落事故から30年です。8月はお盆の月で、古来より、こちら側と向こう側との扉が開く、人間と精霊との交流の時。ご先祖様や過去の出来事に対する感謝の祈りを捧げ、そこから新しい道を歩んで行く季節です。この暑い日本の夏、国も個人も、自らの過去と歴史を振り返って、向こう側から聞こえる信号音に耳を傾け、これからの間違いのない道を歩むべく、努力の日々を積み重ねて行きたいと思います。日本の8月とは、きっとそのような月なのでしょう。ケンプの広島での演奏を聴きながら、心静かに、日本と世界の良き未来を願います。

歴史

溝口健二監督の映画「山椒大夫」は、森鴎外の小説の映画化でしたが、私自身原作は未読であり、映画を観て初めてこの有名な物語の内容と題名の意味を知りました。鴎外の本は、随分昔に(確か教科書で)「舞姫」や「高瀬舟」、そして最近になって「青年」を読んだ程度で、「舞姫」のあまりにも悲しい最後(結末)に胸が苦しく成った記憶が残っています。一方、好きな小説家の夏目漱石については、一冊一冊の読後感として、独特な爽快感を感じていました。きっと当時の自分には、森鴎外の小説の中に蠢く、ある種の重苦しさ、暗さ、固苦しさ、厳格さが受け入れ難かったのだろうと想像します。そして確かに、映画の「山椒大夫」も暗く、悲しい物語でした。
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私が好きなエレファントカシマシの歌の中に、森鴎外を歌った曲があります。タイトルは「歴史」。とてもロックとは思えないその歌詞には、「名作『山椒大夫』そして『渋江抽斎』に至って輝きは極限。そう極限に達した凄味のある口語文は最高」と、「山椒大夫」が出て来ます。相当、変わった歌ですね。「山椒大夫」は、まさに日本の歴史の暗部に光を当て、格差社会や人買い、奴隷の世界、そして家族の愛を生々しく描いた作品です。それが日本の歴史の中のひとつの真実であり、どの時代にも共通する人間の本性でもあるのでしょう。森鴎外の作品は、夏目漱石の様な個人主義的物語とは全く別の趣があります。
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歴史とは、いったい何だろうかと考えます。私の恩師は歴史の先生でした。私は国語と歴史が大の苦手で、成績も悪く、けれどもその恩師の授業だけはとても面白かった。試験やテストの為の記憶させる授業ではなく、その歴史の瞬間を臨場感ある物語のように語ってくれたのです。テストの点は悪かったけれど、授業は楽しかった・・・。今思うと、まるで「講談」のようでした。歴史を観るとは、起きた事実の裏側に潜む「真実」を追求することだと思います。その真実の発見により、人は歴史から学び、過去よりも良い未来を築くことが出来るのだと思います。私の尊敬する人の多くは、歴史を良く知り、深い歴史観を持っています。ただ歴史を(知識として)知っているという意味では無く、そこから人間としての生き方、人生観、国家観、そして経営の本質までを見出しています。
今、この国を動かしている方々の中に、深い歴史観を持つ人物が(数多く)存在すれば、国は正しい方向へ向かうと思います。それは教科書に書いてあるような意味の「歴史」では無く、その時、その人が、どのような思いや志で、その決断をしたのかへの認識力だと思います。深い認識力とは、言いかえれば「哲学」です。哲学とは、決して人間の歴史だけから導かれるものでは無く、大自然の営みや宇宙創成の仕組みに対する探求心、もっと言えば信仰心さえも含まれるのでしょう。そのようなマクロ的な認識力を持つ人物が、この時代には求められていると思います。
戦後70年という節目の夏が来て、昭和天皇の玉音放送の原盤が公開されましたが、原音は今まで聞いていた音声よりもややピッチが高く、思った以上にクリアーな音質でした。もし70年間、広島と長崎に原爆を落とされた以降も、あの戦争が継続されていたとしたら、今の日本も世界も絶対に無かったのだろうと、ふと思います。わが身の犠牲を覚悟の上で、降伏を決意し、1945年の8月15日にこの玉音放送を公布した時、日本の復興、日本の未来が決まったのかも知れません。あの戦争で犠牲に成った多くの方々と、国の大いなる決断に対し、今の私たちに出来ることと言えば、深い感謝の心を持って、その大いなる「志」を受け継いで行くことしか無いでしょう。国民を外からの攻撃から守ること。そして、もう二度と戦争をしないこと。過去のあらゆる歴史的事実から学び、この世界、この地球、この宇宙全体を司る人智の及ばぬ創造の声にすら耳を傾け、この両面の実現に対する正しい認識を(一人ひとりが)深めて行くことが大切なのだろうと思います。それこそが、新しい日本の道を開くことに成ると思います。
それにしても日本語とは不思議なものです。「降伏」と「幸福」は同じく「こうふく」ですし、「乾杯」と「完敗」も同じく「かんぱい」です。ほぼ逆の意味(状況)のはずなのに、言葉の音が同じです。でもそこにはきっと、何か深い意味があると思います。全ては裏腹、表と裏であることのシグナルでしょうか。戦争で負けた日本とドイツが、今の世界経済をリードしているのも不思議と言えば不思議です。日本語の「負けるが勝ち」には、どのような真意が隠されているのでしょうか。
冒頭で紹介した歌、「歴史」の歌詞の中には、「晩年のわずか五年間、栄達がのぞめなくなると、急に肩の荷が降りたのだろうか。小説家、森鴎外が俄然輝きを増す。彼は負けたんだろうか・・・」 とあります。現象的な敗者が、本質的な勝者へと逆転することはよくあります。人の歴史も、国の歴史も、その時点での評価と後世での評価が真逆に成ることがあります。「時」とは不思議なものです。歴史は「時」の蓄積です。全ての衣(汚れ)を取り払い、正体(本質)のみを炙り出すもの・・・。真の勝利を証明するものは、常に「歴史」です。
「歴史」とは、言い換えれば「経験」です。私たち一人ひとりも、それぞれがオリジナルの歴史(経験)の道を歩んでいるところです。国の歴史も、個人の歴史も、確かに波乱万丈よりも、苦労の少ない方が良いに決まっています。けれどもその分、貴重な経験や人間的な成長を得ることが難しく成る様な気もします。映画も同じで、主人公が様々な困難や苦労を乗り越えて行くからこそ、その姿に感情移入し、我が事の様に涙を流し、その感動から何かを掴み取るのです。映画「山椒大夫」に観る普遍的な母子の愛、兄妹の愛は、深い悲しみの果てに(無限に)広がる本当の幸福への道を指し示していると感じました。暗くて悲しい物語のラストに広がる海の情景が、そう思わせてくれました。日本も世界も、そして私たち一人ひとりも、自身の歴史(過去の経験)から何かを学び、今を懸命に生きて行くしかない。その懸命さ(今)の蓄積が、(先回りして)素晴らしい未来を建設してくれているかも知れません。希望を持って、自信を持って、未来へ「我が経験」を持参する。それが本当の意味で、価値ある人生ではないかと感じます。