

2015.07.25
梅雨が明け、今年もまた暑い夏がやって来ました。この時期の地鎮祭は(当然)炎天下や台風のケースがあるのですが、幸いここ最近の地鎮祭では、祭儀の開始と同時に、(炎天下にも関わらず)涼しい風が吹き始め、閑静な住宅街の中で小鳥の鳴き声が響き渡ったり、朝方からの雨が止んで、急に晴れ間が広がったりと、まさに「天の気」を感じさせるような(静かなる)経験をさせていただきました。天地(あめつち)の偉大さとは、決して、遠い山々や海や森だけに在るのではなく、この都会の日々の生活の中にも在るのだと、あらためて実感します。「天の気」と「地の気」を肌で感じられる瞬間が、いつも、ここに、在ります。
確かに地鎮祭には儀式(=形式)と云う面もあると思います。けれども、その土地の神様に対して、心を込めて御挨拶を行う「礼の精神」と知れば、実はとても大切な行為であることが解かります。地鎮祭の最中に感じられる日の光、雨の音、動く雲、そよぐ風、鳥や虫の声、街の喧騒、車の音、子ども達の声の中には、何か普段とは違う意味合いを感じます(まるで誰かの声の様です)。
建設業とはまさに「礼」に始まる仕事です。この無為自然な土(地球)の上に、人為的な創造物を建てさせていただくに当たり、「礼」を尽くす。その思いをもって建設作業を行うこと自体が(ある種の)「神事」ではないかとすら感じます。あらためて、お客様のお蔭で地鎮祭という場を経験させていただけることに、心から深く感謝をいたします。
このようにして考えて見ると、建設業とはまさに「人を造る仕事」であると、意を強くするのです。確かな技術と共に、「礼の精神」の宿る人を育てること。とても地道であり、土(泥)まみれになる仕事ですが、(だからこそ)その中に「光を観る」ことが出来ます。日々、炎天下(あるいは極寒)の中で、静かに、コツコツと、建物を造り続ける人々の中で放射する美しい光を・・・。日々の暮らしや仕事中に存在する「観光」が、今ここに在ります。
丸二では毎年、安全衛生大会を行っていますが、その際には、優秀な協力会社の表彰と共に、素晴らしい職人の方々への表彰も行っています。光を当てれば反射する。その光は(更に)土や建物へと放射される。全ては「礼」の文化であり、古き良き日本人の心の記憶なのでしょう。日本の町工場や日本の建設現場には、今も大和(ヤマト)の魂が息づいていると感じます。この大切な文化を守って行くことも、私たち建設会社の役割なのでしょう。
さて最近、古い日本の映画を観ることがあるのですが、その中での私のお気に入りの監督は、溝口健二です。日本映画と云えば、普通は黒澤明あるいは小津安二郎が有名ですが、私の場合は溝口健二、次に成瀬巳喜男です。もちろん鑑賞した作品の本数がまだ少ないので、また変わっていくかも知れませんが・・・。けれども、溝口健二の作品の中にある独特の空気感は、古来の日本人が持つ霊性、幻想性、ナイーブな精神性を感じさせるものであり、常に人間を俯瞰する目と超越した視線を感じさせます。
私が観たのは「雨月物語(1953)」「山椒大夫(1954)」「近松物語(1954)」「赤線地帯(1956)」の(戦後に撮られた)4本で、これから観る予定の作品は、「祇園の姉妹(1936)」「残菊物語(1939)」という戦前から戦時中に掛けての作品です。ちょうどその時代のドイツやイタリアでは、大指揮者トスカニーニやフルトヴェングラーが歴史的な録音を残しています。この最も苦しく、最も悲惨な時代の中にて、後世に残る大芸術が生まれていたことを思うと、あらためて「文化」とは不思議なものだと感じます。
溝口健二の作品には、湖や海、そして舟が出て来ます。その幻想的な美しさの背後に横たわる恐ろしさは、日本人の持つ神秘性と結びついています。理屈や論理だけでは決して分からない「目には見えない世界」の映像化。誰の心の中にも宿っているであろう(美しくも儚い)光の粒を、動くフィルムに念写したかの様な異様なる映像美です。その光の粒が1つの固まりと成って、静かな湖面を移動する舟に乗って、ゆっくりと霧の中へと進んで行く・・・。これが「生きる」ということなのでしょうか。黒澤明監督の映画「生きる」は、「動」の物語でしたが、溝口健二の作品は、「静」の物語であり、人間の根源的な「生死」の物語が「静止(=微速前進)」している世界の様に写ります。永遠に湖面を移動し続ける舟に乗って、私たちは生きているのかも知れません。
人は、目には見えない「光」を心の目で「観」て、それを作品に投影しようとします。音楽も、映画も、そして建築も・・・。もしそうであるならば、「光を観る」ことのできる人を造ることが一番大切なことなのでしょう。丸二は「人を造る建設会社」と成り、この日々の暮らしの中に、たくさんの光を集めた建物を造り続けたいと思います。日の光と土と雨に感謝をして・・・。ありがとうございます。
2015.07.13
6月末から7月を迎え、国内では新幹線内の焼身自殺、国外ではギリシャのデフォルト危機が発生しました。個人的な問題も国家的な問題も、「精神(こころ)と経済(お金)」という視点で見れば、人類すべての共通の課題なのでしょう。その後の「なでしこジャパン」のワールドカップ準優勝で(多少)心が和みましたが、今度は中国株の一時的な急落が発生し、今までの大きな時代の潮流に変化が訪れた様な気がします。もちろん日本経済もその影響を受けると思いますが、それでも他国の状況に比べれば、本当に恵まれている状態に在ることは変わりません。否むしろ、世界情勢が厳しく成れば成るほど(相対的に)安心で安全な日本に対して、人や投資が集まって来るはずです。だから、ここがチャンスだと思います。流れが変わる時こそ、千載一遇の時。現象面に惑わされず、本質面を観つめる時です。
1999年製作のベルギー・フランス映画「ロゼッタ」をDVDで観ました。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと主演女優賞を受賞した映画ですが、非常に貧しい環境に暮らす一人の娘(ロゼッタ)が、なりふり構わず、今日一日を生きる為に、懸命に職を探す物語です。彼女の夢はただ「まっとうな生活」をすること。普通に働き、普通に食べ、普通に寝ること。彼女にとって「生活」とは「今日の生命」そのものであり、その生活との最後の決別の淵に、微かな希望の光が予感されます。私たち日本人は、あの東日本大震災を経て、日々生きている(生かされている)ことへの喜びと感謝を実感しました。その時の気持ちを忘れないで、自分自身の生命を(もっと)大切にして、「それでも恵まれていることに気づき、今日に感謝し、今日を楽しむ」道を行きたいものです。ただ現実には、「今日に感謝し、今日を楽しむ」道を歩めない物語(人生)が多いです。最近、夏目漱石の「こころ」を読み直しましたが、この小説もまた、人間の持つどうしようもない「こころ」の闇に焦点を合わせた、ひとつの悲しき物語です。
夏目漱石の「こころ」には(何かよく分からないけれども)得体の知れない部分が在るような気がしていました。今回は(同時に)いくつかの解説本にも目を通したのですが、この小説(=手記)の書き手は「私」であり、その対象は「先生」です。そして、最後の「先生と遺書」の書き手は「先生」です。つまり、この物語は全て「私」と「先生」の主観だけで書かれた世界と成ります。主観とは、あくまで本人が「そう感じた」「そう思った」ことであり、必ずしも本当の真実・事実との整合性は問われません。場合によっては、思い違いがあったり、虚偽があったり、妄想があったり、誤解もあるでしょう。あるいは、あえて書かなかった事もあると思います。そのような前提で「こころ」を読んでみると、また更に得体の知れない想像が生まれて来ます。
ある解説には、先生の親友であるKが命を絶ったのは、先生にお嬢さんを奪われたからではなく、道を外してしまった自らの生き方への惜別であり、その実行のきっかけ(証拠)として、たまたま(その晩、隣の部屋の)先生が西枕で寝ている姿を見たことを挙げています。あるいは、先生とお嬢さんとの結婚を知る数日前に、そもそもKはそれを実行する意思があったという解説もありました(先生の部屋とKの部屋の間の襖の僅かな開きに意味があると)。しかしながら先生自身は、(Kのお嬢さんへの思いを知りながら)Kに黙ってお嬢さんとの結婚を決めてしまったことが、Kの運命につながったと信じているようです。その罪の意識が、今度は自分自身の人生への惜別と成ります。でも本当のことは、分かりません。
また、どうしても不可解なのは、先生と結婚したお嬢さん(静)のことです。静は、先生から結婚の申し入れを特に異論なく(喜んで)受け入れます。けれども、その直前まで、Kの部屋でKと二人切りで楽しそうにおしゃべりをして、二人で外を歩いたりしています。先生はその姿を見たことで焦り、静の母親(奥さん)に「お嬢さんをください」と申し込みます。奥さんも、その申し出をその場で了解します。このような流れを見ると、静も奥様も、Kの静への気持ちを知りながら(あるいは利用しながら)、先生との結婚を望んでいたように感じられます。そのような経緯があってKの死と成れば、静も(先生と同様の)ある種の罪の意識を持ったはずです。けれども、この手記における(その後の)静の人生の中には、全く罪の意識への影は見受けられず、さらには先生も自らの罪を妻には話さぬようにと釘を刺します。それは妻にも罪の意識を共有させたくないという愛情の現れだと思うのです。けれども本当はそうではなく、「自分は罪を償ったが、君はどうする」という意志表示の反転とも受け取れます。結局、先生は遺書を青年(私)に託し、後に青年(私)の手記(小説「こころ」)によって、全てが公開されたのです。
ところで、この手記を書いている時点の「私」は、一体どこで何をしているのでしょう。そしてなぜ手記を書いているのでしょうか。一説によると、先生の死後、「私」は未亡人となった静と結婚し、今は子どもがいる状態であるとする解説があります。いろいろな文脈から、そう読み取れるそうです。仮にそうだとすると、先生亡き後、妻は青年と再婚し、平穏な日々を暮らしているはずです。青年(私)にとっても、手記を書き、先生の遺書を公開する理由はないはずです。ところがある解説では、この手記は、青年である「私」の遺書ではないかとするものがあります。「こころ」とは、静という女性を巡って、K、先生、私が自決する物語であると。この説はとても飛躍し過ぎていると思いましたが、先生から「静には黙っていて欲しい」という約束を破ろうとする「私」の心境を思うと、Kや先生とまた同じ、「私」自身の辞世の物語のような気もします。
小説「こころ」は、当初は3つの物語で構成される予定だったそうです。その最初の物語が「先生の遺書」というタイトルであり、この「先生と遺書」が(連載等の都合により)あまりにも長くなってしまい、結局「先生の遺書」がそのまま「こころ」に成ったそうです。夏目漱石は、人間の持つ「こころ」の恐ろしさや弱さを、いくつかのエピソードを通じて描こうとしたのでしょう。ところが、最初の「先生と遺書」の物語のみで、その全てが完結してしまいました。「こころ」の弱さやエゴあるいは罪悪感は、現代を生きる全ての人々にとっても共通のテーマです。幸い、小説「こころ」には(このようなテーマを扱っているのにも関わらず)変な暗さや重苦しさは在りません。否むしろ、不思議な爽快さに満ちています。それは漱石自身が、この暗きテーマと相反する「生命力」を描いているからではないでしょうか。もっと言えば、生きる苦しみを超えた先に在る「生きる力」の崇高さ(こそ)を想起させているからではないでしょうか。漱石はこの悲しき物語を通じ、「だからこそ」生きて行く道の大肯定を論じているような気がします。Kも先生も私も、静のように胸を張って生きて行けば良い。「生きる」こと自体に価値がある。それが既に贖罪である。「こころ」という小説には、なぜか「反転」の力を感じます。そう思うと、この物語は強き女性(奥様、静)の物語であり、不思議な寓話なのかも知れません。
さて、このようにして小説「こころ」への個人的な感想を書いて来ましたが、(実は)この物語のもう1つの主役は、先生とKが下宿した(奥さんとお嬢さんの)家(間取り)です。この物語のクライマックスは、全てこの家の中で起きています。ある解説書には、(想像される)この家の見取り図(間取り)が掲載されていました。先生の部屋とKの部屋との位置関係や動線、あるいは奥様の部屋の位置などが、もしその図の様に成っていなければ、Kの事件はきっと起きなかったのでしょう。きっと漱石の頭の中には、家の見取り図が明確に在ったはずです。人と人との位置関係や距離とは本当に怖いものです。当然、住まいの間取りや配置は、そこで生活をする人々の様々な人間模様へと転写します。よって、そこに暮らす人々に良き転写を起こすことも、私たち建築業の大きな役割です。同時に、いかなる環境においても強き「こころ」を持つこと。ここが恵まれている今の日本の(逆説的な)弱点かも知れません。
2015.05.30
先日(5月25日)、埼玉の北部~茨城にて震度5弱の地震があり、東京もかなり揺れました。一瞬「またか」という意識が頭を過りましたが、幸い全く大きな被害はなく、安心しました。このように、震度5前後の地震が起きても、ほぼ問題の無い(小難で済む)国というのは、実際世界でどのくらいあるのでしょうか。あらためて、地震国であり、火山国であるが故に強靭な国造りが行われて来た我が国土に、ある種の畏怖の念すら覚えます。今回の箱根や桜島、あるいは鹿児島の口永良部島の火山活動等も、未来の大きな地震や噴火を小難にする(回避する)為の大自然の計らいのような気がします。
あの3.11以降、私たち日本人の防災意識は確実に上がって来ており、これから始まる(かもしれない)地球規模の地殻変動に向けての準備が(精神的にも)整いつつあると感じています。けれども、その根底においては、今のこの日本に生きている(生かされている)ことへの感謝、大自然の恵みへの感謝、地球(大地)への感謝が大切ではないかと思います。それは、資本主義的な経済活動を第一とする日々の生活においては(むしろ)不要な要素なのかも知れません。もっと言うと、そのような意識を捨てて行かなければ、現実的な成功が難しいという面もあるでしょう。けれども、今こうして、遂に大地自らが(何かしらの)意思表示を開始した21世紀の初頭において、私たちの価値観が(少しずつ)逆転し始めていることも事実だと思います。
さて最近、「がんばる」という言葉を使わない方が良いのでは・・・という考えが徐々に浸透して来ているように感じます。現在放映中の堺雅人さんが精神科医を演じているドラマでも、それが1つのテーマの様です。私も今まで「がんばる」という言葉への多少の違和感を持っていました。「我を張る」なんて、何かエゴ的な匂いを感じていたからです。けれどもよく調べてみると、「がんばる」の語源は「我(われ)を張る」であり、この意味は「信念を貫いて仏道修行に励む」と言う仏教用語だった様です。「我=私」を正しい道(真理)に置く(張る)こと。要は、「間違った道に張るのではなく、正しい道に張りなさい」という感じなのでしょうか。現在使われている「がんばる」には「努力する」という意味があり、その点は間違ってはいないと思いますが、問題なのは、その「努力」という言葉の裏腹に、自分自身の希望や他者からの期待に応え「ねばならない」という強迫観念が付いていることです。そして実際に、その強迫観念に負けてしまう人が増えているということです。だから「がんばって」と言う言葉の中には、ある種の危険性が孕んでいるのです。
けれども本来の「がんばる」とは、正しい道を堂々と行くことであり、そこには(自分を含めた)誰かからの強迫観念など存在せず、むしろ「無為自然」なる清々しい心境が付随しているはずです。つまり、今の私たちの「がんばる」とは、人間(自分自身や他人の誰か)に向けて「がんばる」ことであり、本当の「がんばる」とは、(人間の人智を超えた)道(=天)に向けて「がんばる」という意味ではないかと気づいたのです。もしそうであるならば、自分自身や他人からの圧力(強迫観念)に向けて「がんばる」のは確かに間違いでしょう。胸を張って(堂々と)、我を(正しき)道に置き(張り)、その道を歩むことに日々努力を重ねて行く。そのような意味の本来の「がんばる」を胸に置いて行きたいと思います。あの有名な老子も、きっと、「(一般的な意味での)がんばる」を無視し、「無為自然」の道を行くことに「(本来の意味で)がんばった」のでしょう。
今の日本の姿も、過去の様々な艱難辛苦を超えながらも、常に、道(=天)に向けてがんばって来た結果ではないでしょうか。決して、地震や火山と戦って来たのではなく、それを「あるがままに」受け入れながら、努力を重ねて来た結果、震度5の地震があっても、大きなニュースに成らない程の強靭さを身に付けたのだと思います。「正しい道」とは、人間によって造られるものではなく、人間によって変えられるものではなく、ただ「あるがままに」受け入れ、努力を重ねて行くしかないもの。それが、「正しい道」を行くという意味であり、「その道を行く(張る)」という決心覚悟こそが、本当の「がんばる(そこに私を張る)」の真意である。日本は「あるがまま」を受け入れることで、強い国に成って来たと思います。そして、これからも更に強い国に成って行くと思います。その基礎には、「あるがまま」を受け入れながら、努力を重ねて来た素晴らしい国民性が在ると思います。この国民性こそを国の宝(最高の資源)として捉え、継承し、育てて行きたいと感じる今日この頃です。
※クーベリック指揮の「英雄」
私がクラシック音楽に興味を持ったきっかけは、2つあります。1つは映画のサントラ盤からで、キューブリック監督の作品に使われていたクラシック音楽の全曲が聴きたくなり、初めてレコード屋さんのクラシック売り場へ行って、先ずはベートーヴェンの第9を買いました(確かショルティ指揮のものでした)。そしてもう1つは、シンセサイザー音楽のパイオニアである冨田勲氏のレコード「惑星」を聴き、その原曲を聴いてみたいと思って、ホルストのレコードを買ったのです(確かオーマンディ指揮だったと思います)。そのようなところからクラシック音楽に入って行き、今に至るのですが、その初期の頃はやはりベートーヴェンの交響曲が大のお気に入りでした。第9はもちろん、有名な5番の「運命」にも感動し、6番「田園」や7番にも夢中に成りました。しかしながら、もっと有名な3番「英雄」だけは、なかなか分からなかったのです。多くの評論家たちが、極めて革新的な音楽であり、ベートーヴェンの最高傑作としていたにも関わらず、私は何回聴いても退屈で、ダメでした。
ところがある時、クーベリックという指揮者の「英雄」のレコードを聴いた瞬間、「この曲すごい」と感じられたのです。その時の感触は(うまく言えませんが)この大河の様な音楽が、自分自身の体の中で、心地良く(ゆったりと)流れ始めたという感覚です。そしてその瞬間から「英雄」が大好きに成ったのです。クーベリックのレコードの演奏が良かったのか、あるいは、クラシック音楽を聴き続けて来た過程の中で、たまたまそのレコードを聴いている最中に、(理解可能となる)ある段階が訪れたのか・・・それは分かりません。でも、その後も、別の指揮者による演奏を聴いて、突然好きに成ることが多々あり、やはりそれぞれの演奏の中には、何か目には見えない波動というか、力があるのだなと理解することができたのです。
そして今、あらためてクーベリックの「英雄」をCDで聴いてみると、本当に素晴らしい演奏で、再び感動しました。当時感じた感覚も(確かに)蘇って来たのですが、同時に、この演奏が極めてオーソドックスなもので、全く奇を衒ったものでもなく、まるで指揮者の存在を感じさせない程、「英雄交響曲」の「あるがままの姿」を写し出していることにも気づきました。自分自身の個性に執着せず、聴き手の反応への強迫観念も無く、只々純粋に、ベートーヴェンの「英雄」に向き合うのみ。音楽そのもの(=道)だけに自身を置くのみ。そこには、只「無為自然」の清々しい心境だけが在り、その波動が聴き手の心の中で共振します。クーベリックは決してがんばること無く、純粋に、正しい道を「張っていた」のではないか。そんな風に感じ入りながら、ベートーヴェンの最高傑作「英雄」に浸ることが出来ました。
2015.05.23
日々の経営活動に関わる様々な種類の数字の統計を集めて、時に俯瞰して見てみると、自社の大局(体質)と方向性を正しく掴むことが出来ます。それには、1カ月や2か月、あるいは1年や2年と言った程度の長さでは無く、最低でも5年以上の時間軸の中で積み重ねられた統計数字が必要に成ります。丸二でも、長い間の統計的な数字の蓄積活動によって、今では自社の正しい現状把握による方針決定を行えるように成りました。その方針とは、今日明日のためではなく、極めてロングスパンの性質を帯びるもので、実際に結果が見えて来るのには相当な時間が掛ります。けれども、長時間を掛けた地道な(小さな)行為の継続(積み重ね)が、ある時点を超えた時、目に見える巨大な変化と成って現れることを経験的に理解できたのです。不思議とそれまでの努力の時間(蓄積)が長ければ長い程、その効用は力強い安定感と持続性を保有しているものです。「継続は力なり(忍耐と努力)」は、本当だと知りました。人間の体の場合も、日々の小さな運動や食事に対する配慮等の積み重ねによって、安定した健康体が持続して行きます。経営も人生も、長い、長い時間を掛けて、日々の懸命な(小さな)努力を継続して行くことが、本当の道なのでしょう。これが自然の摂理なのですね。数字も人間も、この大自然の中で生かされている存在であると知れば、なるほど納得です。
さて先日は、大阪市にて「大阪都構想」の是非を問う住民投票が行われましたが、反対多数という結果で終りました。大変な僅差だった為、存続が決まった大阪市としては、賛成した方々の思いも含めて、山積している様々な問題の解決に向かって行くのではないかと思います。東京で生活している者としては、今回の「大阪都構想」の真意について、深い認識が出来ていなかったと反省するのですが、大阪市民としても、そのような面があったのでしょうか。大阪市の廃止によって、二重行政(コスト)を解消するという方策は、そもそも戦略(目的)だったのでしょうか。あるいは戦術(手段)だったのでしょうか。もし戦略(目的)であったのならば、「二重行政の廃止という目的だけで、大阪市を捨て去ってしまうのは惜しい(困る)」という答えだったのでしょう。否そうでは無く、大阪都構想(二重行政の解消)はあくまで戦術(手段)で、その真の目的が存在し、その実現のために「大阪は都に成らねばならぬ」という(大きくて抽象的な)「筋道(大義)」が在ったのであれば、その戦略(目的)が広く伝わらなかったのかも知れません。けれども7年以上という月日を掛けても「伝わらなかった」という可能性は極めて低く、そこに「筋道(大義)」は(もしかしたら)無かったのかも知れません。
大義(大欲)を抱き、その実現のために、日々の具体的な(小さな)改善(実感)を積み重ねて行くこと。そのエネルギーの蓄積が(いよいよ)大きな「山」を形成した時、構想の実現に向けての爆発が起きるのでしょう。やはり、何かを成し遂げるには、時間を掛けてでも(小さな)努力を積み重ねて行くことしかありません。遠回りの様ですが、それが一番の早道。あとは忍耐と努力のみ・・・。ただ、この場合の「忍耐と努力」とは、決して「苦」ではなく、むしろワクワク、ドキドキの入り混じった「楽」としての性質を帯びているような気がします。「諦めないで、続けて行くこと」と「それが出来る自分自身」に、ある種の心地良さを感じるからです。もしその「大義」が、自然の摂理(道理)に叶っているのならば、物事は(時間差をもって)必ず成就すると思います。この「時間差」への認識を忘れないで、この日々を懸命に生きて行くことの大切さを(数字という結果が出る)経営活動から学ぶことが出来ました。もちろん問題は、常にこの「時間差」ですね。良い薬は長く続けることで根本的な治癒を促しますが、そこまで待てないのも人情です。それがある種の「篩(ふる)い」に成っているのでしょう。健康も人生も経営も、基本は同じ。一過性の短期的成功ではなく、永続する長期的な成功を実現するには、大きくて抽象的な視点と共に、長い、長い「助走期間」が必要なのでしょう。これはとても面白い道理(ルール)だと思います。
さて話しは変わりますが、アメリカの60年代以降に活躍したバンド「ビーチ・ボーイズ」の元リーダーである(今年73歳の)ブライアン・ウィルソンが、ニュー・アルバムを発表しました。私は、高校生の頃からクラシック音楽が好きだったのですが、姉等の影響で、いくつかのブリティッシュ(英国)ロックにも興味を持ち、特に当時人気のポリス(スティング)のレコードは随分聞いたものです。けれどもその後、なぜだか米国の昔のおじさんバンドである「ビーチ・ボーイズ」に行き着いたのです。所謂オールディーズ系に嵌った訳でもなく、ビートルズが好きに成った訳でもなく、ダイレクトに「ビーチ・ボーイズ」に心を奪われました。以前にも本ブログに書いたと思いますが、「ビーチ・ボーイズ」は兄弟と従弟と友人の家族バンドで、その長男であるブライアン・ウィルソンがリーダーで、全ての楽曲の作曲者でした。もし彼が、このような気楽で大衆的なサーフィン・ミュージックで満足さえしていれば、その後の悲劇は起こらなかったのでしょう。けれども彼の人間としての本質は、極めてピュアなる「芸術家(アーティスト)」だったのです。
今年の夏に、ブライアン・ウィルソンの伝記映画が公開されるそうです。世界中にはとても多くの有名なミュージシャンがいると思いますが、彼の様に、多くのドキュメンタリー作品や伝記、あるいは書籍が出されている人は、それほど多くないと思います。そこに流るる彼の物語とは、才能があるのに(あるが故に)、家族や世間との狭間で悩み苦しむ孤独な男の姿であり、(同時に)廃人に成ってでも、自らの理想(音楽的探究)を追い求め、いよいよ人生の集大成に向けて、それを加速させている現在の姿だと言えます。言葉は悪いのですが、まるで子どものような純真性のまま生き続けてしまい、その分、きっと多くの損や裏切りに遭って来たのではないかと想像します。私自身は、彼のコンサートを2度観ることが出来ました。2回とも、ソロとして日本公演に来た時でしたが、もうけっこうな歳なのに、本当に元気な姿で、心から感動しました。
そして、今回のニュー・アルバム「No Pier Pressure」ですが、本当に儚くも美しい、見事な音楽です。明るいのに悲しく、優しいのに深い。彼の最高傑作である「ペット・サウンズ」や「スマイル」とはまた違う、自らの(長い、長い)悲しみや絶望を超えた先に見えた、極めて平凡で、極めて自然なる「静観の世」に浮かぶ、まるで彼岸から聞こえて来るような和声の響きです。確かにとても地味な音楽ですし、ヒット曲も生まれないでしょう。それでもきっと彼にとっては、(この長い、長い道のりを懸けた)真の成功への到達点ではないのかと・・・。学生の頃、初めて彼らの音楽に接した時、(私はきっと)サーフィン・ミュージックの「ビーチ・ボーイズ」を聞いたのではなく、ブライアン・ウィルソンの魂(精神)の声を聴いたのだと思います。その明るくて呑気な音楽の陰に潜んでいる、どうしようもなく暗い慟哭の声を聴いたのだと思います。その慟哭の叫びが、今こうして、(長い、長い時間を経て)美しく清らかなる音響と化している。まるで「人生とは、こんなものだよ」と言われているかのように。そうか・・・人生とは結局のところ、自己との対峙であり、自己との和解へ至る道なのか。長い、長い時間を掛けての終わりなき旅なのか。そのための小さな一歩一歩の積み重ねこそが、最も美しい。そして我が長い、長い道のりは、まだまだ続く・・・。
2015.05.07
今年のゴールデンウィークは好天に恵まれて、各地の行楽地も賑わいを見せた様です。TVニュースを見ると、どこへ行っても大変な人混みの様子でしたが、街や観光地に活気が生まれて来るのはとても良いことだと思います。目につくのは、やはり外国人観光客の姿で、日本の「観光立国」へ向けての大いなる一歩が踏み出されたような気がします。今朝のニュースでは、「世界経済フォーラム(WEF)」が6日に、最新の「旅行・観光競争力報告書」を発表したとのことで、そこで日本は141カ国中9位でした。ちなみに1位はスペインで、次いでフランス、ドイツ、米国、英国、スイス、オーストラリア、イタリアと続き、9位に日本、10位にカナダです。日本は、文化的な観光資源、安全、衛生、交通インフラなどの評価が高く、価格競争の点は評価が低かった様です。それでも世界9位とは、自分自身のイメージよりも随分高く、今後の更なるランクアップに期待が持てます。
最近のいくつかの経済番組を見ても、日本の様々な分野における技術力やマーケティング力の進化には目を見張るものがあります。地方の落ちこんでいた大型フラワーパークを再生させた女性理事長は、年上の造園職人たちを抑えながら、素晴らしい立派な藤の花を再生し、一気に入場者数を増大させることに成功しました。また、ある地域では、病院と地域とが一体と成って、元気で健康な人達が集まる場(コミュニティー)としての病院造りを実践していました。また、今や日本の伝統工芸とも言える、(お菓子の)飴にコーティングを施したオリジナル・アクセサリーを販売する女性経営者には、思いもよらない発想力を感じました。そして、ホンダのビジネスジェット機が遂に販売開始と成りましたが、創業者本田宗一郎氏の夢が今ここに叶ったことを、一人の日本人として喜びを感じました。
これらの進化の過程には、確かに多くの人々の協力があったと思いますが、やはり、ただ一人の個人の強き思いこそが、それらの全ての核と成って、突進し続けた結果ではないでしょうか。これもTVで見たのですが、破綻寸前だったユニバーサル・スタジオ・ジャパンを再生し、ハリーポッターを誘致し、大成功を納めた盛岡氏の思いにも、相当なものがあったのではないかと思います。ホンダのジェット機にしても、本田宗一郎氏の強き思いが、未だに会社のDNAとして残り、生き続けていたのではないでしょうか。少し大げさな話ですが、戦後の日本の繁栄と平和も、(功罪含めて)いろいろな要因があったと思いますが、今になって見ると、やはり昭和天皇の存在無くして在りえなかったと感じるのです。その思いを今上天皇が引き継いでおられる姿も同時に感じるのです。この日本には、何か営々と継続して行く(善良な)意志の力が在り、その積み重ねが「ここぞ」という時に発露する仕組みが在るのではないかと感じます。
さて一方、ゴールデンウィークに発生した不安材料としては、箱根の火山性地震があります。噴火警戒レベルも1から2へ引き上げられましたが、昨年の御嶽山の様なことがあるので心配です。しかしながらゴールデンウィーク直前という時期にも関わらず、正しい情報を公開したという意味においては、むしろ安心感があります。今後も日々の観測情報を分析することで、的確な判断が下せるのでしょう。過去の失敗をすぐに活かせる風土が生まれつつあると思いました。一方、先月ネパールで起きた大地震ですが、被害状況は日に日に拡大しており、救出活動と同時に、生存者への支援を急ぐ状況と成っています。この地震の直前には、日本の茨城県でイルカ(カズハゴンドウ)が約150頭打ち上げられ、まさに3.11直前の様相が再現され、内心では防災意識を強化している最中のことでした。被災された方々への心からの御冥福とお見舞いを申し上げます。
ネパールは政情不安の地域であり、復興への道のりは厳しいと言われています。それでもあの3.11の経験からか、略奪等は少ない様とのことです。ニュースでは、(多分)ドローンからの映像でしょうか・・・上空からの街の被害状況の映像が鮮明に映し出されていました。崩壊した街の様子や倒壊した世界遺産を見ると、そこには人々の大きな精神的ショックが発生している様に想像できます。けれども、この上空からの映像自体には、そのような部分までは映らず、ただ淡々と事実のみを映しながら(落ち着き払ったかの様に)飛行していました。よく星空を見ながら、「宇宙(空)から見たら、自分の悩み事なんて、ホントにちっぽけだよな」と思うことがあります。でも実際の現実(地上)では、あれやこれやと右往左往の日々が在ります。今の自分自身の窮状を、時に俯瞰する目で眺めてみることで、落ち着いて全体像を把握できるはずです。
今の日本の現状も、(短期で見れば)一見とても複雑で障害が多い様に見えますが、よく俯瞰して見ると、この戦後の繁栄と平和は日本の有史以来、もっとも良き時代であり、ありがたい時代であることが分かります。でも日々の日常のレベルまで視点を下げると、当然、個人個人いろいろな問題や課題と直面中で、そのような感覚は全く持てないものです。けれども、時に視点を上空へ飛ばし、鳥の目と成って全体像を俯瞰して見ると、景色は一変します。全ては繋がっていて、全ては続いていることが分かるからです。だからこそ、過去の戦争の記憶や、日本の伝統工芸や、日本人らしいDNAが、これからも大切に残して行くべきものだと理解できます。伝統の力、継続する力が、必ず次の未来の財産と成り、日本を守って行く・・・。外国人の方々が日本へ向ける視線は、まるで異次元を見るような目です。それは決して奇異なものを見る目では無く、「信じられない」という枕詞が付く、敬意を込めた驚きの声です。多分きっと、それは目に見えるものへの驚嘆ではなく、そこに至るまでの時間とその裏側に流るる精神を「見た」からだと思うのです。「観光立国」とは日本の道だと思います。都会も地方も全てが「観光」の対象に成ると思います。そこに流るる日本人の精神を見せれば、それが「観光」に成るからです。「世界の鏡」と言われる日本、日本人、そして私自身に成りたいと思います。
※コルボ指揮:バッハ「ヨハネ受難曲」
今年のゴールデンウィークは、2年振りに、クラシック音楽のお祭りである「ラ・フォル・ジュルネ・ジャパン(熱狂の日)」に友人と行って来ました。今年のお目当ては、コルボ指揮のバッハ「ヨハネ受難曲」です。以前はフォーレの「レクイエム」で大感動して、今回はいよいよバッハです。今までこの「ヨハネ受難曲」の全曲(約2時間)を聴き通したことは無かったので、少々心配でしたが、とても素晴らしい時間を体験できました。バッハの音楽には何か幾何学的(数学的)な美しさが在り、それは音楽と言うよりも、音の図形、あるいは音の彫刻の様な印象があります。それは時に、人間の感情から切り離された「自然現象」の様でもあり、冷徹な「宇宙の摂理」の様でもあります。しかしながらこの2時間に身を浸している間、「宇宙の摂理」と「人間の感情」はそもそも一体であり、宇宙全体の中に人間の魂が含まれているという優しい感覚を味わうことが出来ました。バッハの音楽もモーツァルトの音楽も、人間業を遥かに超えた世界観が在ります。今回は、その遠き世界観にほんの少し近づけた様な気がしました。もう相当の年齢の指揮者のコルボさんでしたが、演奏後には万雷の拍手を浴びて、何回も何回もステージに出て来てくれました。ここにも、異文化を理解し、素直に受け入れられる日本人のDNAがあり、とても素晴らしい時間でした。
2015.04.04
チュニジアの博物館テロ、そしてドイツの旅客機墜落事故・・・。共に日本人も犠牲に成りました。地中海を中心にして、ヨーロッパ全体からロシア、中東、北アフリカに至る地帯では、嫌な事件や事態が頻繁に発生している様な気がします。また日本人が巻き込まれることも多々あり、いよいよ他人事では無くなって来ました。このような事故や事件で亡くなられた方々への御冥福を心よりお祈りいたします。今後は日本同様、ヨーロッパでも地震や火山噴火の懸念があるとのことで、その際には(地震国、火山国である)日本ほどの防災意識が無いだけに、より大きな影響を及ぼすことに成ると予測されます。先日、日本政府が南海トラフ巨大地震に関して、発生直後に国や自治体が行う救助活動や物資輸送の計画を公表しました。発生から72時間で負傷者の生存率が大幅に低下するため、その前に、全国の警察や消防、自衛隊から最大約14万人の救助部隊を、中部から九州にかけての沿岸10県に派遣するとのことです。南海トラフ巨大地震とは、東海、東南海地震などが同時発生するマグニチュード9級の大地震で、津波などにより最悪で32万人以上の死者が出ると想定されています。このような強い防災意識を持ち、待ち構えていることによって、実際に有事が回避されることが在ると思います。日本は今後、テロや不測の事態に対する出来る限りの想定をしつつ、可能な限りの準備をしておくことで、被害を最小に食い止めることが出来ると思います。
さて、最近感じる時代の変化とは、街を歩けば、多くの人々がスマホ等で様々な写真を撮り、気楽にネットに投稿していることです。どんなこと(事実)も隠せない時代に成って来たのでしょう。けれども、一瞬の画像と短い文章だけでは、本当の正しい(深い)情報はなかなか伝わらないものです。そこにはある種の(意図的な)加工も含まれているからです。最近、ある報道番組の放送中に、司会者と解説者との間で衝突が起きましたが、今のTVという媒体の中では、お互いの中に在る(それぞれの立場の)深い真実を語ることは不可能なのでしょう。世の中には、「美味しい」「不味い」とか「良い」「悪い」等の一言では、説明し尽くせない森羅万象の世界が広がっています。時には、時間を掛けて物事を洞察したり、ゆっくりと本を読んだり、静かに人の話を聞いたり、あるいは一切の情報を遮断したりすることが必要なのかも知れません。つまり、一番大切なことは、自分自身と向き合う時間を持つことです。ネットの先に在る(おぼろげなる)他者ではなく、今ここに在る自身の心(実在)です。今の社会は、おぼろげなる他者との表層的な関係維持の為の漏電作業に(つい)追われてしまい、最も大切なる実在する自分自身の心(良心)のことを忘れてしまっています。便利にはなったけれど、心は虚ろになっている。心が空虚になっている。そのような心の隙間に(すっと)闇が入り込んでくる。日本の安全神話が崩れ始めているのは、決してシステムの老朽化ではなく、人心の荒廃に在ると思います。
だからこそ、自分自身の感性や本能、良心の声に耳を傾ける意識と習慣が大切ではないかと思います。その為の日々の暮らしの中の環境も大切です。身の回りが整理整頓されていて、掃除の行き届いている(清浄な)部屋に居ると、心は自然と自己の内面(良心)へと向かいます(これが風水の基本的な考え方です)。私がクラシック音楽を好むのは、多分、自分自身と向き合う時間を欲しているからかも知れません。クラシック音楽は、一曲一曲が、非常に「長大」です。気楽に聴くことも難しく、真剣にスピーカーに向かっていなければ、音楽を理解(把握)することができません。これは、クラシックファンの人でなければ、完全な難行苦行でしょう。それでも、それだけの時間を確保したいとする気力の源泉は、音楽を通じて、自己との対話を求めているからではないかと感じます。音楽を聴きながら、実際は、自己との自問自答を繰り返しているのだと思います。このようにして、本を読んだり、音楽を聴いたり、自然の中を歩いたりしながら、先ずは自分自身の本心と向き合うこと。その自立した自己の上に、社会との良き関係性を築いて行くこと。日本人一人ひとりが、このような素晴らしい自己の内面を大切にすれば、個人的な危機も、国家的な危機も(きっと)回避できるように成るのではないか。とにかく(あの3.11以後の追悼の日々の時に様に)一旦静かに、落ち着いて、自分自身と向き合うこと。きっとそこから、本当の感謝の心が発生して、自ずから歩み進む道が見えて来ると思います。
先程、「長大」な音楽という文字を書きながら、ドイツの作曲家、ワーグナーの「パルシファル」を思いました。ワーグナーに随分凝ったのは(確か)大学生から20代の頃で、あの暗闇の中を果てしなく続く巨大な無限旋律のうねりに魅了されていました。確かにワーグナーの音楽には、何か特別な、ある種の霊的な作用があったような感じがします。一度それに憑かれると離れられなく成る様な不思議な力です。彼の音楽に心を奪われ、全てを失ってしまったルードヴィヒ2世の堕ち行く人生を見ても、そのように感じます。その後、私のワーグナー熱も(自然と)冷めてしまい、最近はほとんどCDを手に取ることが無くなっていましたが、その中で、彼の最後の作品である「パルシファル」だけは、いつまでも心に残り、時より聴いていました。「パルシファル」は非常に宗教色の強い作品で、キリスト教的な思想を描いた祝典劇なのですが、最近の研究によると、ワーグナーは40歳代から仏教に傾倒していて、その価値観を「パルシファル」に採用していたという事実を知りました。確かに、その音楽の流れの中に、仏教的な静寂、無の世界観が在るのは事実です。まるでお経の様な声と流線的に動き続ける和音、清浄を極めた無限旋律の重なりが延々と(果てしなく)続く異界の音響空間です。怪しげな霊的世界や魔物が住んでいそうな幽界を(楽劇という形式で)描き続けて来たワーグナーが、最後の最後に、仏教的な思想とそこに在る「光の道」を見つけ、それを無限旋律の集大成としてこの世に遺したのかもしれません。私自身も、そのような面に感応して、「パルシファル」だけは、いつまでも聴き続けているのかもしれません。
ワーグナー自身が建設して、自作の楽劇のみしか演じられない(ドイツの)バイロイト祝祭劇場では、毎年夏に「バイロイト音楽祭」が開催されます。第二次世界大戦が終結し、その後に音楽祭が再開された1951年は、(超有名な)フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの第9の歴史的演奏で開幕し、クナッパーツブッシュ指揮による「パルシファル」が上演されました。この時の「パルシファル」の録音(CD)が残されており、最近初めて聴くことが出来たのですが、本当に、久しぶりに心が震えた演奏でした。ワーグナーと仏教との関連を知った後だったからかもしれませんが、まさに仏教的な深遠さ、悠久さ、響き、光の道を感じたのです。録音もデッカの技術陣による素晴らしいもので、モノラルですが、今から60年以上前の録音とは思えない程、非常に美しく臨場感のある音響でした。ワーグナー指揮者として最高峰のクナッパーツブッシュが指揮した多くの「パルシファル」の中でも、最も演奏時間が長く(4時間32分)、まさに深遠なる仏教観へと誘われます。ちょうど最近、「ヴァーグナーとインドの精神世界」という本も見つけたので、これから読んでみたいと思います。
最近のTVでは(昔、流行った)心霊現象を扱う番組が(再び)増えて来ている様ですが、以前と大きく違う点は、今は「写真」ではなく、「ビデオ(動画)」に写り込むケースが多くなったということです。しかも驚くほど「鮮明に」です。もちろん本物かどうか判らない面もあると思いますが、でももし本当であれば、現代は「見える世界」と「見えない世界」とがどんどん接近して来ており、その境界線が曖昧と成って、まさに混然一体と成ってきたのではないかと思うのです。昨夜は、元野球選手の清原和博氏の特集をTVで観ましたが、とても厳しい逆境の中で、自死を思いながらも、四国八十八か所のお遍路を経て、自身の生き方を見直し、改め、感謝の心で新たなる道を歩み始めようとする姿がそこに在りました。最近は高齢者も若い人も、鬱病が増えていると言われていますが、それと同時並行して、確固たる自分自身を確立し、真の意味での「自立」を成し遂げることが最大の人生テーマに成って来たとも思います。そのような中で、日本の精神文化が再び花開く道も見えて来るのでは無いか。今、世界で起きていること、日本で起きていること、そして自分自身に起きていることの真因を捉えて、それを自らの生き方の修正へと反映させ、自立へ導いて行くこと。そのように(自己の中で)意識決定が出来れば、全ては意味のある良き出来事に反転するはずです。最近、街を歩くと多くの外国人を目にします。彼らの表情を見ると、私たち日本人にとっては当たり前の日常の景色が、彼らにとっては(まさに)奇跡であり、不思議であり、感動であることが解かります。だから自信を持って、胸を張って、生きて行こうと思うのです。それが今の日本人の「光の道」だと思います。
2015.03.26
免震ゴムのデータ改ざん事件が発生し、以前の姉歯事件同様の大きな問題と成っています。建物の構造計算上のトラブルは、住む人(利用者)の生命に関わるため、非常に厳しい状況ではないかと思います。姉歯事件の場合は、一人の(個人の)設計者に起因するものでしたが、今回の場合は信頼性の高い大手メーカーの製品で、より根の深い病巣を感じます。一人の個人も、名のある大企業も、決められた法律や法規、取り決め事を守らないと、一瞬で崩壊する時代に成ったのでしょう。逆に言うと、真面目にコツコツ、社会的ルールや規律を守り続けている人や企業に対しては、「光」が当たる時代でもあります。「愚直に生きること」が評価される社会への移行が始まるのでしょうか。そのような意味では、むしろ「大安心」の時代が始まったと観るべきなのでしょう。
さて、最近のTV番組の中で、素晴らしい日本人の姿を観ました。ある小児科専門の外科医の先生は、他の病院に見放されてしまった難病の子ども達に対して、「絶対に何か方法はある」とその可能性を探し続け、最後には極めて難しい手術を成功させていました。元来の性格である心配性のおかげで、手術を行う前までの徹底した準備を行い、「実際に手術を行う時には、既に手術は終わっている」と言います。準備、準備、準備の繰り返しで、先生のノートには、手術の手順が克明に書かれており、それを何回も何回もペンで追いかけていました。心配性とは一見マイナスの性格のように感じますが、それを準備、段取りの徹底という習慣に反転させることで、自信と挑戦のエネルギーへと転換しているのです。心配性だからこそ、常に最悪を想定し、最悪を想定するからこそ、そのための完璧な準備を行う。よって物事が成功する。心配性と挑戦性という両極二面性を持つ素晴らしい人でした。
また、もう一人は中小企業の経営者で、汚れた水を浄化することのできる特殊な粉末を開発し、発展途上国の汚れた川の水をきれいな飲料水にすることによって、社会貢献とビジネスの両立を実現している方でした。当初はお金儲け(だけ)の為にいろいろな事業を行っていたのですが、全て失敗の連続で、その後に発展途上国の小さな村の村長さんや村民の方々との出会いによって、「人の役に立つことをしたい」という考えに変わったそうです。その後、この粉末の需要が増え、発展途上国の方々にも収益が上がる仕組みを考え、世界の貧困な地域での安全な水の普及に努力されています。一時的な形で終ってしまうボランティアではなく、永続するビジネスという仕組みの中で、全ての人が(少ない負担で)喜びを得られる道を開拓しているのです。「社会貢献なんて言葉は大嫌い」などと言いながら、お金儲けを追求していた人が行き着いた場所が、真の社会貢献であったという、これも両極の思考の一体化ではないかと、とても不思議に面白く感じました。
また他の番組では、世界で最も早く日付が変わる国である(太平洋の小さな島国の)「キリバス共和国」の現状を紹介していました。ここは第二次世界大戦時に日本の統治下にあった場所で、戦後も日本からの援助が行われ、キリバス国民の日本に対する感謝の思いが、とても強く感じられました。日本の援助により完成した(島と島との間を結ぶ)「連絡路(コーズウェイ)」は、日本語の歌にも成っていて、今でも毎日ラジオから流れているそうです。キリバスの若者たちの夢は、日本語を学び、日本で漁師に成ることです。TVではその夢を果たそうとする明るく元気な若者たちの姿を追っていました。このようにして、知らないところで、日本はとても良い事をしている・・・。日本に感謝し、日本を尊敬し、日本に憧れている人々がたくさんいる・・・。その事実を知れば知る程、私たち日本人は、襟を正して、見本と成る姿を見せて行かなくては成らないと感じました。キリバスの島は、年々の海面上昇によって、いつか国土が失われてしまうそうです。そのための移住先も既に確保しているとのことでした。それでも明るく前向きに生きている人たちの姿を見ると、私たちの方も学ぶべき点があると感じました。
地球温暖化による海面上昇、迫り来る大地震、難病を治す医療、発展途上国への支援・・・これから日本(日本人)が果たせる役割はまだまだたくさん在ると思います。日本の技術、日本人の智慧と良心はまさに地球(世界)の宝です。その宝物を与えて頂いたことへの感謝の心と謙虚さを決して忘れないで、更なる大欲を持って、日本人として恥ずかしくない行動をして行かなければと思います。その先に、世界から尊敬され、感謝される「黄金の国ジパング」が見えて来ると期待して・・・。
※海面上昇に思う
上記のキリバス共和国における海面上昇の件は、決してこの地域だけの問題では無く、これからの地球全体に及ぶ重大な危機の1つではないかと思います。日本においては、大地震に対する防災意識は他国よりも高く、建築的にも(まだ完璧では無いですが)耐震性能も高く、過去の経験からの様々なシミュレーションと準備が行われています。海面上昇に対しても、3.11の津波によって大きな危機意識を持つに至りましたが、津波の場合は、あくまで一時的なもので、必ずしも被害に遭うとは限りません。けれどもこれが海面上昇と成ると、世界中の海抜の低い地域の全てが(ゆっくりとですが)水没して行くことに成ります。
もちろん今日、明日の事では無いので、慌てる必要は無いと思いますが、既にキリバス共和国の様に、別の国のある地域(土地)を購入することで、確かな準備を始めている国もあります。実際どれくらいの海抜まで海水が上昇してくるのかは分かりませんが、津波の被害を受けた東北のみならず、全国の海沿いのエリアにて、建築不可地域の設定等が必要に成って来るのではないでしょうか。突然襲ってくる地震の様な災害が(確かに)一番怖いのですが、でも本当に怖いのは、ゆっくりと、少しずつ、近づいて来る、静かなる恐怖です。知覚しているのに、まだ先のことの様に思えてしまい、実際に近づいて来た時にはもう、「時すでに遅し」という状態が多いものです。先ず認識をして、最悪を想定した上で、今から出来る事を(ゆっくりと、少しずつ)進めて行くこと。この様な準備の力と災害の力が相殺されて、無難に成ることも有るのではないかと思います。
また火山の噴火についても、これから頻発する可能性が高いと言われています。日本の場合は、昨年の御嶽山の噴火で、そのような意識が目覚めましたが、地震に比べればまだ危機意識は低いものと思われます。けれども火山噴火の影響は極めて大きく、街は焼け、火山灰に埋もれ、都市機能は停止し、噴火自体も長期化することが多い様です。日本は地震国であり、火山国であり、そして島国です。日本がこれらの自然災害に対してどのように向き合い、どのように準備をし、どのように対応して行くのかを世界が見守っていると思います。そして、その日本の姿勢が世界に対しての良き見本、良き雛形に成るはずです。建築も深く関わることですので、今後の日本の総合的な防災戦略に注目して行きたいと思います。
2015.03.11
昨日3月10日は、1945年の東京大空襲から70年の日。私自身、そのことをほんの数日前からの新聞やニュース等で認識したという事実が、この「70年」と言う年月の長さを物語っています。今日の3月11日も、70年後には、風化した過去の記憶に成ってしまうのでしょうか・・・。70年と言うと、確かに遠い昔の様に感じますが、もし私があと20年程早く生まれていたとしたら、その大空襲の日を確かに生きていたのです。20年として考え直してみると、非常に短い時間です。宇宙創成の時間軸から見たら0.1秒にも満たない誤差でしょう。そのほんの一瞬の差で、戦争や災害や恐慌等という壮絶な過去を生き抜いた人々がいる・・・。今の私たちに出来る事は、その歴史を風化させること無く、未来へ語り継ぐことしかありません。私たち人間は(個人も国家も)経験から学ぶ以外に、道は無いと思います。
東京大空襲では、一夜にして約10万人の命が奪われました。日本が戦争に巻き込まれた経緯については、きっと様々な事情があったことと思います。その評価や責任論等については、今でも多くの検証や論説が行われています。しかしながら私が思うに、その時代を生きた全ての人々は、その人自身の苦しい状況の中で、その日々をただ懸命に生きるしかなかったのだと思います。現在の平和なる日々を享受している私たちには、到底理解できない種類の恐怖の日々だったと思います。そこには只々、畏敬の念しかありません。戦争を題材にした小説や映画も多くありますが、どの立場から見ても、善と悪の狭間で苦しむ人間の姿が見えます。戦争という極限状態の中で、人間はその本質(正体)を現し、もがき、苦しみ、悲しみ、嘆きます。でも同時に、その正体の更なる奥底に光り輝く魂の姿も浮かび上がるのです。その「光」こそを、私たち後世を生きる者たちは、決して絶やさず、未来へと繋いで行きたいと思います。
けれども戦争は今も続いています。テロも地域紛争も戦争であり、日本国内で起きている様々な凄惨な事件も、ある種の(個人的)戦争の1つ1つでしょう。もっと言えば、心の中で人を恨んだり、怒ったり、批判すること自体も(既に)戦争への発火点なのかも知れません。そう思うと、この世の中で生きて、日々の生活という行為の中に、(広い意味での)戦争に巻き込まれる可能性は誰にも等しく在るように感じます。心の戦争状態を回避するには、先ずは自分自身の心の中を穏やかにすることであり、同時に相手からの(マイナスの)思いや攻撃を防御しながら、不干渉を決め込むことしか無いと思います。国の防衛という意味においても、自ら戦争を行わないという強き意志(穏やかさ)と同時に、相手からの攻撃を逃れる為の術(防衛)の二段構えが必要なのでしょう。世界が経済的に困窮して来ると、再び大きな戦争が起こる下地が生まれて来ます。その時、日本が戦争と不干渉な状態でいられる為に、今から最悪を想定して、あらゆる準備が必要なのでしょう。
東日本大震災から今日で4年ですが、なかなか思うように復興は進んでいません。福島の原発事故の影響も暗い影を落としています。戦後復興の時は、「経済成長」という巨大な波の力がありましたが、今回の震災復興の時代背景に、もはやその波の面影は無く、引き潮に足を攫われないのがやっとの状態です。それでも復興を実現させる為に「経済成長」が必須と成れば、国はあらゆる手段を駆使して、その波を(技術的に)起こそうとするでしょう。その波は戦後復興期とは違い、極めて人為的(人工的)なものに成らざるを得ず、きっと様々な障害(事態)が付随して来る様な気がします。とは言え、このまま復興ままならぬ状態を放置しておくことも出来ず、いろいろな面で苦しい判断が続くでしょう。つまり、これから始まる出来事とは、人間が人為的(人工的)な大波(経済成長)を実際に起こせるのかどうかという事であり、もし仮に起こせたとして、全ての人々がその波に乗れるのかどうか、その波は人々(生命)を傷つけないのか、その波はいつまで持つのか、その波が終わった後に世の中は落ち着く(安定する)のかどうかという難題を孕んでいます。
経済成長という魔物を人間の力だけでコントロール出来るものなのかどうかは分かりませんが、前回の戦後復興の経済成長が(地球環境へ)与えた負の影響を考えると、今回は自然災害の増加という形と成って、地球(自然界)からの反応が多発する様にも思います。今の私たちに大切なのは、良いか悪いかという評論ではなく、既に私たちは「そこ」に来ているという現状認識であり、世の中の現実を直視し、その波に乗る為の懸命な努力をしつつも、その波の有無に関わらない別次元において、精神的な心(人間性)の成長を目指す道を行くという、二段構えではないかと思います。東日本大震災以後の本当の復興とは、日本人をはじめとする人々の精神的な向上ではないかと思います。この厳しい現実を懸命に生きながら、そこに在る大いなる矛盾や不条理と戦いながらも、それでも自分自身の心を磨き、人間的な成長を目指して行くこと。これからの時代は、そのような時代ではないかと感じます。
人間的成長と言うと、とても難しく感じてしまいますが、でもそれは(多分きっと)「生きている幸せを忘れない」ということの様な気がします。70年前の大空襲、あるいは4年前の大震災で亡くなられた方々の(私たちに対する)共通の思いとは、「生きている幸せを忘れるな」だと感じるのです。「俺は今日も生きている(生かされている)」という自己認識を、日々感謝の心で持つことが出来たのなら、それに勝るものは他に無く、それこそが真の成功者ではないのかと。このような意識を持った人々が、集まる家族、集まる会社、集まる地域、集まる国、集まる世界が正に理想郷ですが、先ずはそれを願うよりも前に、自分自身の心的宇宙を「生きている幸せ」の粒子で一杯に満たすことだと思います。私たち丸二は、良き建築を造るには、(個人の)良き心的宇宙が必要であると考えています。他者に依存するのではなく、自分自身の日々の仕事や生活の中にて、我が心を懸命に磨いて行くこと。むしろそのような思いと行為こそが先で、その後に「経済成長」が付いて来るのかも知れません。いろいろな面で未知なる時代が進行中ですが、ある意味、面白い時代の様にも感じます。全ては、過去の苦難の道を乗り越え、未来へ希望を繋いでくれた先人達のお蔭です。
2015.03.09
趣味が映画とは言いながら、最近は映画館に足を運ぶ機会はそれほど多くは無く、時々スカパーやWOWOW等で録画したものを見たり、お気に入り映画のDVDを繰り替えし見たりが多いです。それでも「これは」と思う作品があれば、映画館に行き、幸いにして「良き映画」と出会えたら、その上映期間中に何度も見に行くことがあります。それでも大抵は多くて3回までですが、たまに4回以上という作品も出てきます。4回目でも「素晴らしい」とか「もう1回見たい」と感じられれば、それは自分自身にとって特別な映画なのだろうと思います。もちろん個人的な趣味嗜好なので、多くの方が共感する映画とは限りません。むしろヒットしていないものの方が多いでしょう。でも確かに、自分自身にとって特別な映画がこの世界には存在しているのです。
DVDを含めて4回以上見た映画の共通項を考えて見ると、「音と映像」に鍵があるように思いました。ストーリー性もしくはテーマ性よりも、そこに流るる感情や風景や自然音等の世界観が、私自身の意識と感応したかどうか。つまり理屈では説明が出来ない感覚的な面の方が優位に在るのです。例えば、「主人公の生き方に共感できなかったから、ダメだった」とか、「先が読めてしまったので、つまらなかった」とか、「とても考えさせられた」という感想は皆無で、むしろ「音楽」に浸る感覚に近いのかもしれません。音楽に理屈や説明は不要であり、そこに流るる音響世界の中で、なぜか涙が流れたたり、なぜかワクワクしたり、なぜか元気に成ったりするものです。
最近、ロシアのタルコフスキー監督の代表作「ノスタルジア」をブルーレイで鑑賞しました。それまでの通常DVD版よりも当然画像が鮮明で、見事な映像美でした。とはいえ、今までの古く霞んだ映像の中にも幻想性と郷愁性(ノスタルジー)が在り、共に価値があると感じました。映画「ノスタルジア」は、まさに静寂なる異次元世界の中に生息する音と映像の流れに身を委ねるしか方法は無く、一般的な意味での面白い映画では(決して)無いでしょう。そこに流るる音とは、水や空気の悲しき和音であり、虫の音や風鈴の音、あるいは夕暮れ時の草原を渡り行く風の音に、「郷愁」や「情緒」を感じられる日本人の感性に近いものが在ります。そう思うと、今の日本はなぜにこれ程まで騒々しく成ってしまったのだろうと、ふと考えさせられます。
ここ最近、外国の方々が日本の田舎や農村を訪れるように成って来たと聞きます。私たち日本人が忘れてしまった、日本の美の本質がそこにあるのかも知れません。イタリアの巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」や「イノセント」もブルーレイで観ましたが、そこに映し出される言葉では言い尽くせない程の「退廃的な美」の世界も、日本の夕暮れ時に聞こえる虫の声には(永遠に)敵わないのかも知れません。遠いロシアに生きた映画作家の心象風景の中に(日本の黒澤映画からさえも感じられない)日本的な美の極致を見出すとは、何か不思議な感覚がします。映画「ノスタルジア」の冒頭のファーストカットを観れば、他の名作映画が束に成っても敵わない程の高次のエネルギーを感じます。そこには、母国ロシアに生きる家族への郷愁の祈りが映し出されていると思うのですが、とても一人の人間が意図的に造ったものとは思えません。何か別の高次の力が画面全体を覆い尽くしている様にも感じ、そこに畏怖の念すら感じるのです。
夏目漱石などの日本の文学作品を読んでいる際にも、そのような畏怖の念を感じることがあります。最近は、森鴎外の「青年」という地味な文学小説を読みましたが、そこにも特別な力を感じました。日本語という、世界で最も高次なる「言語の海」を最大限に駆使し、この世の森羅万象の一切合財を表現することの出来た明治の文豪達の作品には、外国文学の表現領域とは別格の世界観が内在されており、それと同時に、日本語の存在(そのもの)への畏怖の念へと結ばれている様に感じます。世界の中で、日本語を理解し得る人々の数は、決して多くは無いでしょう。真に正しく日本を理解するには、日本語を理解することが条件と思うのですが、そう成ると、日本を本当に理解できるのは、私たち日本人しか居ないのかも知れません。そのような中で、今や日本人から日本的な世界観が失われ、外国の映画や作品の中に、日本的な美意識への憧れを感じることが、時にあります。私たちは、今一度、この騒々しい日々の生活から、静寂さと美しい心を取り戻さなければ成らないと思います。
例えば、和歌や俳句の世界とは、(きっと)このような日本の美意識の全てを凝縮し、未来の日本人へ向けて送信されたある種の信号だったのではないかと感じます。国語や古文が嫌いだった自分自身にとって、それらを正しく理解する為の術は無いのですが、今に成ってみると、そこに内在する静寂さと情緒を感じることは出来ます。この遺伝子は現代の日本人の全てに受け継がれていると思います。今の厳しい世界情勢や経済情勢の中で、あるいは危機的な地球環境の中で、私たち日本人が果たす役割とは、科学と非科学の融合を実現することの様な気がします。日本とは不思議な国で、東洋的な神秘性と西洋的な優れた科学技術の両面を持ち合わせています。戦後60年の資本主義社会においては、特に西洋的な面が強化されたと思いますが、神秘性(精神性)が衰えた訳では無いと思います。東日本大震災を経由して、新たなる精神性の目覚めが始まり、優れた技術と美しい精神によって、これからの世界へ貢献できると思います。確かに部分だけを見ると、いろいろな嫌な事件や問題も起きていますが、それでも全体を観れば、日本は今でも非常に「良き国」だと思います。
この今の日本の中で、「古き良き日本」を思い出す土壌を造ることが大事だと思います。それは、決して回顧主義的な逆戻りでは無く、日本人の本質的な遺伝子(精神性)を再認識する為のものです。先日のTVでは、ある地方の過疎化した町が、人通りの全く無い商店街を、昭和初期の頃の懐かしい街並みに変えたことで、多くの観光客で賑わうように成ったと報じていました。そこには懐かしさと同時に、新しさも内在している様に感じました。「ノスタルジー」と言うと、やや後ろ向きの印象がありますが、今の日本にとっては実は大きな気づきへと繋がる道に成ると思います。映画「ノスタルジア」を観ながら、日本の美について、日本の未来について、そして映画全体を支配していた水の音について、心静かに、あれこれと考えてみました。
2015.02.07
日本人人質事件が最悪の結果と成り、とても大きなショックを感じています。キリスト教側とイスラム教側との戦いと言われていますが、日本もその枠組みの中に(遂に)巻き込まれてしまったのでしょうか。本来、日本はそのどちらでも無い訳で、出来る限り静観の立場で行きたかったと思うのですが、国際社会を取り巻く情勢が許さなかったのでしょうか。20年前(1995年)の地下鉄サリン事件の際に感じた戦慄的な恐怖が再び蘇りますが、今回の場合はそれ以上の世界的規模です。中東における(事実上の)戦争状態は止まらないのでしょう。最近の原油安についても、輸入国である日本の経済面にとってはプラス要素ですが、中東の産油国や石油メジャーにとっては大きな打撃と成り、いよいよ地球を掘削するエネルギー時代の終焉を迎えるのかも知れません。そうなると今後の中東情勢は更なる混乱と成り、けれども同時に、世界的に新たな水素エネルギー等の普及が始まることで、地球にとっては大変な朗報と成り、資源の無い日本にとっても未来へのプラス材料に成ると思います。
日々現実に起きている出来事には、厳しい側面の方が多いのですが、その中にも未来へのプラス因子が宿っていると思います。もちろん変化する過程においての混乱や混沌を避けることは出来ませんが、その中に「光り輝く姿」を観る目を持つことが出来れば、個人の未来も、国の未来も、地球の未来も、きっと「光り輝く姿」へと(一歩一歩)向かうに違いない。だからこそ、懸命に、日々の生活の中に自らの「光る輝く姿」を見つけて行く。世界で起きている事件を冷静に注視し、正しく認識しながらも、心(感情)まで奪われずに、日々の自分自身の生活と意識こそを見つめ直して行く。その個人の意識の集合体が結局、世界全体(意識)を形成して行くのであれば、一人ひとりの(心の中に)「光」を内在させることで、世界も変わって行くのかも知れない。全ては己の内面(心)の映し鏡なのだから。
さて、先日のブログでバッハのことを少し書きましたが、やはりクラシックの王道はモーツァルトとベートーヴェンです。モーツァルトの音楽は、まるで天から降って来た神の声の様であり、ベートーヴェンの音楽は、人間の生きる(苦悩から歓喜へと至る)道、まさに魂の叫びそのものです。音楽的にはモーツァルトの方が遥かに崇高であり、人間的にはベートーヴェンの方に共感を覚えます。モーツァルトは、いろいろな書物(記録)を見る限り、人間性にはかなりの問題があった様です。それにも関わらず、彼が五線譜に記した音楽の調べは、この世のものとは思えない程、美しく、清らかで、完璧でした。専門家の意見としては、その作曲の速さと量は尋常ではなく、人間が「考えて」書ける次元を遥かに超えていたとのことです。おそらくモーツァルトは(本当に)何も「考えずに」五線譜に音符を書いていたのではないか。ただ(勝手に)頭の中で鳴っている音を、音符として記録しただけではないか。もし、本当にそうだとすると、彼の音楽は(正しい意味で)彼が創作した音楽と言えるのかどうか。もしそうではないとしたら、一体「誰の」音楽なのか。
ベートーヴェンの音楽は、彼が実際に生きた人生の中の苦悩から発生した(まさしく)人間ベートーヴェンの魂の音響と言えます。人間誰しもが味わう艱難辛苦より引火した「爆発的感情」の渦は、多くの人々の魂と共鳴し、さらには(第九のように)人類全体の共有財産にまで拡大し続けました。この音響の震源地は、まさにある一人の男の魂にあったと実感できます。ところがモーツァルトの音楽の場合は、そうではなく、元々(ごく当たり前に)空気中にあった粒のような感覚がするのです。そこには特別の苦労の影も無く、物語性も無く、いつも同じ姿のままで在り、常に誰に対しても(同じ様に)微笑み、ふわふわと浮かび続けている。あまり頑張ってない様に見えるし、あまり努力もしていない。ただ、そこに「在る」のみ。例えば、モーツァルトの音楽を耳にした時、「よくあるメロディーだな」と思うのですが、よく考えて見ると「まるでモーツァルトみたいだ」と感じているのです。結局、あらゆる音楽の起源として「モーツァルトが在る」ことを認めてしまっている。宇宙創成から存在していた音楽(音の粒子)を、その後に生まれた一人の人間が作ったはずはありません。モーツァルトの音楽は、モーツァルトが生まれる以前から在ったのではないか。それでは、一体「誰の」音楽なのか。
私たちは建設会社ですので、日々、建物を造り続けています。建物を造る為には(宇宙創成から)地球上に存在している様々な素材を使わせていただき、それらを(人間が勝手に)加工して、建材として活用しています。ですので、私たち人間が建物を造っている様に見えますが、実際には、建物の原始的状態は、宇宙創成から「在った」のではないか。私たちは決して「ゼロ」から建物を生み出しているのではなく、与えられた自然界の資源を組み立てる過程の中でのみ働かせていただいている。そう思うと、音楽にしても、建物にしても、全ては既にこの世界に存在していて、(そもそも)新しいものは無いと言えるのではないか。問題は(それを)いつ誰が気づき、いつそれを取り出す(ダウンロード)のか。モーツァルトの場合は、彼が生きた時代に、彼がそれを取り出した(ダウンロードした)。そのような役割(通信回線)を担ったのでしょうか。エジソンもきっとそう。ノーベル賞を受賞した方々も、きっとそうなのでしょう。人類が幸福に生きて行く為に必要な智慧や資源は、すでにこの宇宙全体に浮遊して(用意されて)いる。人間には、その智慧(電波)を受信して、ダウンロードする力が在る。だから、現在の世界を取り巻く様々な問題や紛争や貧困の解決策も本当は(既に)「在る」のではないか。ただ、それを取り出せる人が(まだ)いない。あるいは、取り出せたとしても、今すぐ活用(導入)できない。もっともっと多くの人々が気づくことで、そのダウンロードされた新ソフト(新たな智慧)は普及拡大するのではないか。
そして私たちが「気づく」ために必要なものこそが、「信じる力」だと思います。100%信じた上で、考えて、考えて、考え抜くこと。信じる力の原点は、先ずは自分自身を信じること(=自信)。モーツァルトもベートーヴェンもエジソンも、人並み外れた自信を持っていたと思います。自分自身の中に在る「何か」を信じ切っていたと思います。それは(時に)周囲からは変人と映ったと思います。それでも構わず己を信じ続け、その強き意識が、空気中に浮遊する智慧の粒と化学反応をし、素晴らしき音楽や、素晴らしき発明に至ったのではないか。その智慧の源泉は、そもそも自分の中に在ったのではなく、実は空気中に在った。そのことを肌身で感じられた人物こそが、偉大なる謙虚さを身に付けるのではないか。これは「私の作品ではなく、頂いた作品なのだ」「頂いたアイデアなのだ」と。
この世界をより良くする為に必要なのは、一人ひとりが自分自身を信じて、自分自身の内面を成長させて行くことではないかと思います。その結果、宇宙創成から空気中に在る「何か」と結びつき、世の為、人の為に成る「何か」をダウンロードできる。自分自身の外側で起きている事象の中に「光り輝く姿」を観るとは、実は、己の中に在る「光り輝く姿」を観ていることと同意ではないか。その意識的行為の先に、空気中との通信回線へと通じる雲の合間が見えて来る。やはり、とどのつまりは、「己の内面を磨け」と言うことなのでしょう。世の中の事象の中を懸命に生きながら、(同時並行で)己の内面を磨くことで、己の中に「光輝く(何かの)姿」を観て行く。それが自分自身の人生と自分自身を取り巻く全世界をより良くする為の素晴らしき智慧のダウンロードと結びつく。だから、やはり、どのような時代でも、自分自身を信じて、心の中に「光り輝く(己の)姿」を観て行くことなのでしょう。まるで、モーツァルトの音楽の様な光を・・・。そんなことを思う日々です。
※私が好きなモーツァルト
私が特に気に入っているモーツァルトの音楽は、交響曲第36番「リンツ」と第39番です。もちろん有名な40番や41番「ジュピター」も大好きですし、傑作の多いピアノ協奏曲もよく聞きます。それでも、今でも一番思い入れがあるのが、私がまだ(確か)高校生の頃に買ったブルーノ・ワルター指揮/コロンビア交響楽団のレコード(1960年:ステレオ録音)です。これが私にとっての初めてのモーツァルトでした。ワルターは古い指揮者で、一般の方にはあまり有名では無いと思いますが、フルトヴェングラーやトスカニーニと同様に、戦時中を生きた大指揮者です。幸いワルターの場合は、その最晩年にステレオ録音が残され、特にモーツァルトの交響曲の素晴らしいステレオ録音はまさに人類の至宝と言えます。その中でも、第36番「リンツ」と第39番はとても美しく、清らかで、今でも自分自身の心を温かく浄化してくれるのです。また最近では、クラリネット協奏曲もよく聴きます。レオポルト・ウラッハ(クラリネット)/アルトゥール・ロジンスキー指揮/ウィーン国立歌劇場管弦楽団の1954年のモノラル録音は名盤です。毎朝の目覚ましに、このクラリネット協奏曲の第1楽章が流れるようにしていて、とても爽快な朝を迎えています。やはり朝はモーツァルトですね。