社長ブログ

大和の国へ

2015年が始まり、約一月が過ぎましたが、既にいろいろな出来事が発生しています。1月17日は(1995年の)阪神淡路大震災発生から丸20年の日で、あの日、日本が受けた大きなショックと悲しみを(再び)思い起こしました。高いビルや高速道路が次々と倒れ、街が火の海と化し、多くの方々が亡くなった1995年1月17日。今思うと、あの日、あの時、神戸(淡路)から何かが動き始めたのかも知れません。同年3月20日には、地下鉄サリン事件が発生し、残念ながら13人の方々が亡くなりました。その日から上九一色村への強制捜査までの間、日本は震撼の日々でした。今から20年前の1995年とは、まさにそのような恐怖と戦慄の年だったのです。それから16年後(2011年)の3月11日には、東日本大震災が発生します。このようにして繰り返される大きな悲劇を経験しながら、それでも私たち日本人は、この日々を超えて、今日も前へ向かって歩んでいます。
安倍首相の中東訪問後、イスラム国による日本人人質事件が発生し、未だに緊迫した状況が続いています。日本にとって良い形で解決することを心から祈っていたのですが、今の世界情勢はそんなに甘くは無いのでしょうか・・・。いずれにしても、これから日本がテロの標的に成ったのは事実で、この恐怖を日本人全員が肌で感じなければ成らないと思います。随分と長い間、私たちは平和で安全な日々を享受して来ました。一歩国外へ出れば、日々の生存に対する不安と恐怖が横たわる世界が確かに存在していたのに・・・。私たち日本人は、自国の本当の良さ(ありがたさ)を知らずに、日々の感謝を忘れていたのではないか。そのような自問自答が、今回の人質事件を契機として、一人ひとりの心の中で(嫌でも)起き始める様な気がします。世界の現実に遂に巻き込まれ、その恐怖の実体をこの目で見て、肌で感じて、それでも(他国に比べれば)平和なる日々の生活を与えられていることに、深く感謝したいと思います。
一方、このような大きな事件と並行して、国内でもいろいろな悲惨な事件が起きています。人それぞれの人生には様々な困難や苦労が伴いますが、世界に生きる人々から見れば、それは(多分、きっと)幸せなる悩み事の一つ一つなのかも知れません。今回のような人質事件、あるいは阪神淡路大震災や東日本大震災等の多くの人命を失う自然災害が起こる度に、(確かに一瞬ですが)私たちは(ハッと)平常心を取り戻し、(この日々への)深い感謝の祈りを思い起こしたりします。けれども、また日常の生活に戻ると、再び小さな不平不満と批判の蓄積が始まり、「この安全なる社会(国)に生きていること」への感謝の心を忘れて行く。この堂々巡りを食い止めて行かないと、また何かが起きて来るような気がします。今の自分と今の自国を信じて(もっと好きに成って)、感謝の日々を送りたいと思います。
最近は円安のおかげもあって、海外から日本に来る観光客が増えています。日本、日本人、日本の製品、日本の所作、日本の社会、日本の四季を見て、喜んだり、驚いたり、感動したり、感心したりして笑顔で帰って行くようです。日本の地方(田舎)も実は人気の様で、いろいろと智慧を絞って工夫している町や村にも多くの外国人観光客が訪れるように成って来ました。外から見れば、日本は本当に幸福な国ではないでしょうか。このように立派な国土や社会を築いたのは、私たち日本人の先祖の努力であり、その背景には、皇室や神社やお寺のような八百万の精神世界が在り、それら全てに美しき日本の四季(自然)が彩りを添えている。この他国には無い独自の規律と風情が総和して、現在の日本と言う(類稀なる)国が成立しているのではないか。日本の原点とも言える「和の力」がその求心力であるとすれば、今こそ日本は、その「和の力」でひとつに成るべきなのでしょう。月並みな言い方ですが、「チームワーク」です。日本人が本当に力を発揮するのは、皆の心がひとつに成った時。世界が最も恐れるのは、日本(日本人)が(正しい道で)ひとつに成ることです。国内においては、いろいろな意見や考えがあるのはとても良い事ですが、(これからは)それらを総和させ、お互いに力を合わせる(協力する)次元まで昇華させて行くことが大切だと感じます。「大和(ヤマト)」とは、(そもそも)そういう意味では無かったでしょうか。政治家も、評論家も、TVキャスターも、新聞記者も、大企業も、中小企業も、私たち国民みんなが、いろいろな意見の上で、協力し合って、ひとつにまとまって行くこと。そして「良き日本」を造って行くこと。そのような「チームワーク(和)」を目指したいと思います。
これは会社や組織も同様で、「正しい道の上で(チームが)ひとつに成る」ことが、圧倒的な力に成ると思います。正しき理念の下で、正しき道を歩みながら、皆の心をひとつにして行くこと。私たちも、このような王道の経営を志しながら、日本がさらなる王道の道を行くことに心から期待し、協力して行きたいと思います。
さて、話は変わりますが、年明け早々の1月3日(土)、「エレファントカシマシ」の新春ライブ2015を観に、妻と2人で日本武道館へ出かけました。クラシックのコンサートは慣れているのですが、エレカシ(のような日本人ロック!)のコンサートは初だったので、少々心配でした。けれども「行きたいものは行きたい」と勝手に2枚を購入し、(ロックもエレカシも全く知らない)妻を連れて、久しぶりの武道館へ。席が2階だったので、ステージからは遠かったのですが、自ずと爆音からも多少の距離があり、万が一の為に持参した耳栓(!)も使わずに、しかもずっと座ったままの鑑賞ができました。でもまあ、とにかく凄かった。
エレカシの好きなところを一言で言うのは難しいのですが、今日のブログの流れから言うと、彼らが「日本を大事にしている」「日本が好き」という面もあるように感じます。ロックに限らず、今の日本人の歌には横文字が多く、あるいは日本語なのに(わざと)英語っぽく歌う人が多いです。その方が確かに格好良く聞こえます。でもエレカシの場合は、(もちろん多少の横文字はありますが)基本は日本語による日本の歌(ロック)で、特に初期の頃には文語調の歌詞も多く、「若い日本人が古い日本語で日本の歌を朗朗と大声で歌う(がなる)ロック」という異質な様相を呈していたようです。その声は合唱の様なノン・ビブラート(ストレート)歌唱で、まるで唱歌の様でもあり、浪曲の様でもあり、時に演歌の様でもあります。実際に生で観た印象としては、歌舞伎の様でもありました(見得を切る!)。
全ての歌の作詞作曲を手掛け、自ら歌う(がなる)宮本さんは、森鴎外や永井荷風や夏目漱石等の明治の文豪が大好きで、あるいは浮世絵、古墳、富士山、古地図、散歩、火鉢、急須が趣味で、海外にも(好きでないので)ほとんど行かないらしい。よって、今の欧米文化に染まっている音楽シーンの中では、決して「売れる」「格好良い」「トレンド」路線にはいないことが分かります。それでもデビューから25年が過ぎ、「悲しみの果て」や「今宵の月のように」等の大ヒット曲も生まれ、今年の目標は「稼ぐ!」とのこと。何て正直で素直で気持ちの良い目標でしょう。ヒット曲を作ろうと思えば(いくらでも)作れる才能があるので、今年はきっとやるでしょう。武道館の天井には大きな日の丸の国旗が掲揚されていましたが、エレカシのステージと不思議な調和感を醸し出していました。
「稼ぐ」あるいは「ヒット」という言葉から連想するのは、(意外にも)音楽の父「バッハ」です。バッハは生涯で1000曲以上という膨大な量の音楽(一曲自体も長大)を作曲していますが、実はそのほとんどが(自分の創作意欲から生み出したのではなく)領主や伯爵等の時の有力者からの依頼による作曲でした。要は、自分が書きたい曲を書いたのではなく、依頼者(発注者)に頼まれて、依頼者が希望する曲を書き続けたのです。それは生活のためでもありました。後のベートーヴェン以降に成ると、自らの芸術表現としての作曲活動が始まりますが、バッハの時代は仕事としての職業的作曲活動だったのでしょう。バッハは多くの雇い主等からの注文(頼まれ事)に応え、その注文者が気に入る(喜ぶ)商品を提供し続けました。自分が好きでも、発注者が気に入らなければお金に成りません。つまりバッハは、相手に「ウケる=ヒットする」曲を書き、生活費を稼いでいたのです。バッハの没後、長大なる時を超えて、それらの1000個以上の職業的(生活のための)商品の1つ1つが、実はとんでもない芸術作品だったことが分かりました。
エレカシのヒット曲も、実は、CMやテレビドラマの主題歌として依頼されたものです。相手(注文者や大衆)が気に入るものを創造しようとする時に、きっと何か特別な力が宿るのでしょう。ある意味、これは「マーケティング」に通じる道です。企業はつい自分たちの思考だけで商品やサービスを開発してしまいますが、本当は顧客の期待に応えることが本線です。最近では、コンビニで薬も買えて、カラオケもできるようになったそうです。願わくば、これらの商品やサービスが(バッハのように)とんでもない「本物」であることを目指したいものです。「日本」の持つ独自の安全性と平和性の上に、未だその陰に隠れている「ポテンシャル」をもっと生かせば、まだまだ新たなマーケットは創造されていくと思います。依頼する者と依頼される者が、協力して何かを生み出すことで、無尽蔵の付加価値が生まれるでしょう。そうすれば、海外からの観光客はさらに増加し、「観光立国」と言う新たな日本の時代も始まると思います。世界で起きているテロや紛争も、その根本的な真因は経済的な困窮に在ると思います。テロや外国からの策略から自国を防衛する対策を強化しながらも、日本が良き雛形と成り、良き見本を示し、その普遍的なビジネスモデル(ソフト)を世界へ提供し、(宮澤賢治の言う)「全体幸福」の安定社会を導いて行く。そのような両面に向けての並行作業が大切なのではないかと思います。日々、いろいろな事が起きますが、やはり日本のことが好きな自分自身を発見します。この時代、日本に生きる幸せを感じます。

謹賀新年2015

新年明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。今年の元旦も、早朝に地元の氏神様へのお参りを行い、そのまま会社に来て、神棚の水を取り替えたり、年次計画書を確認したりと、年初めの自分自身の(恒例の)セットアップ作業を淡々と行っています。年末年始はよく晴れた日々でしたが、昨晩は強い風が吹き、深々と冷え込み、確か時計が0時を指す直前だったと思いますが、大きな揺れを感じました。震源は千葉とのことで、東京都心は震度2くらいだった様です。私自身は、もっと大きい地震のように思ったのですが、気のせいだったのでしょうか。けれども、あと数分で年越しという瞬間の地震です。2015年がいろいろな意味で「揺れる」年に成るのかもしれないと、あらためて気を引き締めると同時に、それでも今を生きている(生かしていただいている)ことへの深い感謝の念を抱きました。
年末年始のテレビ番組の荒廃ぶりは年々増すばかりで、日本古来の風習や文化を感じさせるものは、ほとんどありませんが、その中でも私自身が毎年密かに楽しみにしているのは、NHKの「ゆく年くる年」です。「紅白歌合戦」の終了後に始まり、各地の神社やお寺の様子を中継しつつ、年をまたぐ瞬間を只々静かに通り過ぎるのみ。でも、それが良いのです。今の若い人はカウントダウンが無いと新年の気分が味わえない様ですが、私は静寂なる時空の移動感覚だけで十分です。そもそも時間や空間とは、どこかでスパッと分かれているものではなく、静かに、穏やかに、只々連続して「在る」だけではないでしょうか。まるで川の流れの様なものです。ですので、地元の氏神様への御挨拶も、流れゆく日々のなかで、行い「続けて」行きたいと思います。その根底にある思いとは、常に「感謝」しかありません。今を生きている(生かしていただいている)ことへの深い感謝しかありません。
今、会社には私一人だけなので、好きな音楽を(小さな音量で)聞きながら、このブログを書いています。私自身が編集してi-podに入れたいくつかの曲の中から、日本の唱歌である「朧月夜」も流れています。菜の花畑や、朧月や、そして里わの火影・・・。見たことのも無いのに、日本の原風景が目に浮かぶようです。寂しいような、悲しいような。でも、嬉しいような、楽しいような。日本の風景の中には、いくつもの種類の感情と風情が映り込み、それが八百万の神や日本の四季と相まって、混然一体と成って存在しているのでしょうか。それを曖昧と言うのか、情緒と言うのか。「日本の美」とは単純な言葉では表現できない難しさがあります。けれども、なぜか大晦日の夜に、人々が地元の神社やお寺へ足を向ける情景を見るだけで、そこに確かなる理解が生まれるのです。日本は大丈夫。日本に生まれて良かったと。この美しき日本の心が永遠に続くことで、きっと世界は丸く収まって行くのだろうと。
他に流れて来た曲は、ホルストの惑星や、バッハ、ヘンデル、モーツァルト。エレカシの「夢のちまた」や「うつらうつら」。それに卒業式の定番の「大地讃頌」。雅楽の「秋庭歌一具」やシューベルトの「冬の旅」もありました。このようにジャンル的には一見メチャクチャの様ですが、自分の中では一貫性があり、特に違和感はありません。多分、内省的な音楽ばかりなのでしょう。自分自身の生まれながらの性格である「内向性」に(子ども~学生の頃)苦しんだ時期もありましたが、今ではそれを100%認めてしまい、素直な自分自身を生き抜く道を歩んでいます。最近、「内向型人間の時代-社会を変える静かな人の力」という本も買いました。まだ読み始めていませんが、時代を切り拓いた大人物の多くは、実は内向型人間だったとのことです。自分自身の人生に花を咲かせるには、結局、自分自身の中に内在する「何か」との対峙が必要なのでしょう。ならば内向型であるが故に、私はその「何か」と日々向き合っているのかも知れない。そう思うことで、この性格にも深く感謝することが出来ます。
さて、2015年は「揺れる年」に成るのでしょうか。もし、そうであればチャンスです。外圧によって固定化された物体に振動エネルギーを加えれば、その物体は本来の姿に戻ろうとするはずです。人間も社会も地球も、きっとそのようにして良き方向へ変化し始めるのでしょう。固定化に慣れてしまった人間にとっては、確かに怖いという面もありますが、あの3.11以後、私たちは既に大変化を開始しているはずです。この流れをみんなの力で、良い方向へ向けて行きましょう。私も、丸二も、お客様と地域の為に、魂を震わせて、努力を続けて行きます。今年も何卒よろしくお願いいたします。

武士道と富士の山

師走の総選挙が終わり、与党が解散前の勢力を維持する形での決着と成りました。今回の選挙は、当初は消費増税の先延ばしに対する審判が大義名分でしたが、その後「アベノミクス解散」と成り、実際にはこの2年間の安倍政権全体に対する評価へと変わって行きました。アベノミクスと黒田(日銀総裁)バズーカによる円安・株高誘導は一定の効果は得たと感じますが、この異次元の金融緩和による今後の影響については、未知の世界です。実施した8%への消費増税も、駆け込み需要を喚起したものの、増税後の景気回復は鈍く、やはり10%への再増税は延期と成りました。実体経済を成長させて行く為の成長戦略が未だ明確に成っていないことも不安材料です。けれども永きデフレ不況の時代から脱出する為の起爆装置(大振動)という意味において、挑戦的な2年間だったことも事実だと思います。その恩恵を大企業が享受する中、急激な円安と消費増税による厳しい経営や生活を強いられている人々も在り、その評価は二分されているはずです。資源(エネルギー)を輸入する国として円安は苦しい。一方、消費増税が先延ばしされることで、日本の財政、増税を前提としていた社会保障の施策の遅れも課題として残ります。
ところで、与党が安定多数を確保していた状況の中で、あえて(議席を減らす覚悟を持って)解散を行った本当の目的は何だったのか。消費増税の延期に対する各会派からの反対は無く、国民生活にとっても良い判断だったと思います。憶測としては、(選挙後に)政権の連立先を再編し、安倍内閣で憲法改正の道筋を付ける為ではないかとも言われていました。もしそうであれば、今回の選挙は憲法改正あるいは集団的自衛権の是非を問うという、極めて大切な選択だったはずです。けれども、そのような争点が表に出ることは無く、投票率も(残念ながら)戦後最低という結果で終りました。いずれにしても、今回の結果は、日本の未来を決定づける歴史的選挙だったに違いありません。憲法改正については、様々な考えが在ります。平和憲法を理念として維持したいという思いもありますし、その一方、国のトップ層がそこまでにして憲法改正や国防の強化を実施しなければ成らない程、世界情勢が危険な状態に在るのだろうかという恐怖心も覚えます。共に「国民の生命と生活を守る」という目的は同じです。私たち国民は、本当の事実、真実を知らないので、なかなか正しい判断は難しい。当然、国のトップ層は本当のことは言えないでしょう。全ての情報が開示されれば、その前に(悲しいかな)人間のエゴによる混乱と策略が始まってしまうからです。首相の50カ国以上の外国訪問を経て、(国民には言えない程の)何か重大な危機と直面しているという認識を得ているのでしょうか。
結局、全ての(真の)情報を知らない私たちに出来ることは、その人の「人間性」を見極める事しかないと言うことです。国民が知りえない実情の中で、何が国民の幸福なのかを心底考えた時に、それが(仮に)今の国民にとって理解しがたいことであっても、国を思うが故の判断が取ることが、国家運営者としての責任です。そのような(表側からは見えない)深いところでの本当の責任感の有無こそを、私たち国民は見抜かなければ成りません。でもそれはなかなか簡単なことではありません。人間性と言っても、人間の心、良心の世界などは、そう簡単に見えるものでは無いでしょう。政策はもちろん大切ですが、国の運営を司る方々を選ぶに当たっては、やはり、(自己の利益や命よりも)日本という類まれなる良心の国を愛する心、国家と国民を守る心、世界平和を願う心を持った人物を見つけるしかありません。そう思うと、江戸時代の武士道の精神世界を思い出します。昔の武士、侍は、自らの命を(他者のために)捧げていました。やはりそこには、何か、目に見える世界以上のものを感じられる(信じられる)研ぎ澄まされた感性があったのでは無いでしょうか。見えない世界を信じられる人間こそが、本物ではないだろうか。私自身、そのような物差しを大切にしています。そして、目には見えない世界に対する感性が最も高い国柄が日本であり、だからこそ日本人の精神性は素晴らしいと思うのです。
日本は今、景気回復のために円安とインフレを目指していますが、やはり結局、円高・デフレへと戻って行くのではないかと思います。日本と言う国の価値である「円」は、今後(相対的に)ますます高くなって行くと思うからです。確かに国の財政は危機的状況ですが、世界各国の状況(政治・経済・治安・社会保障等)と比べれば(相対的には)、それでも日本は(国柄も含めて)最高の国だと思います。円高に成れば、輸入に頼っているエネルギーコストも下がり、物価も安くなり、国民生活にとっては恩恵に成ります。今の円安インフレ方向の中では、大企業のみが潤っていますが、その恩恵を(一刻も早く)個人や中小企業へと回しつつ、内需を充実させて行く道、日本の技術を復活させて行く道、観光立国として地方を再生して行く道を開いて行きたいものです。日本が経済的に再興することで、経済面における世界への貢献が可能と成れば、次の戦争への危惧も多少は減少すると思います。米国もEUもロシアも中国も、これからの経済成長はなかなか厳しいのではないでしょうか。そうであれば、やはり可能性があるのは、日本しかないと思います。結局そのことが、他国へ「貢ぐ」結果に成ってしまったとしても、国民の生命と生活を守り、世界平和を実現する道であれば、日本の役割として正しいのではないか。それが日本の(捨て身の)武士道ではないか。
東京に居ても、遠い彼方に富士山を見ることがあります。どう考えても、あの美しき陰影は、誰かが意志を持って制作したとしか思えない完全な姿をしています。世界中探しても、どこにも無い巨大建造物のようです。そう考えると、エジプトのピラミッドも同様な印象を覚えます。先日のあるTV番組で、エジプトのピラミッドと日本の神社との不思議な共通点を特集していましたが、今や伊勢神宮とユダヤとの不思議な共通点もよく知られているところです。日本には全ての世界へと通じる道があるように思います。日本全国には、コンビニよりも多い数の神社があり、ごく普通の一般の方々が、ごく普通に氏神様へお参りに行きます。普通の生活の中に感謝と祈りが在り、普通の風景の中に冨士山(不死山)が在る。そのような国柄としての役割がきっとあるのだろう。縁あってその国土の上で日々を生きる私たちにも、何かきっと大切な役割があるに違いない。人それぞれ違うと思うけど、きっと何か・・・。ビルの谷間から富士山が見える時、いつもそんな風に思います。やはり忍耐と努力で、この日々を超えて行くしか無いのだろう。国も個人も企業も、忍耐と努力で世界に見本を示して行くしか無いのだろう。今回の選挙の結果が、国と世界をより良い方向へ導いてくれることに期待しつつ、私たちは自立して、社会に対して良き見本を示すことの出来る人造り、会社造りを懸命に続けて行きたいと思います。

伊勢神宮と夕陽に浮かぶ富士の山

先々週末、会社の創立60周年記念の社員旅行で(一年遅れで)伊勢神宮をお参りして来ました。創立50周年の時も伊勢神宮へ参拝に参りましたが、今回再び伊勢の地に戻ってくることができ、心から嬉しく、感謝の思いで一杯です。伊勢神宮は、昨年は「式年遷宮」という重要な一年でしたが、今年は「おかげ年」とのことで、「おかげさま」「ありがとうございます」という感謝の念を納めるには、最適だったと思います。当日は天候も良く、外宮と内宮のそれぞれで特別参拝をさせていただき、また新たな始まりへ向けて、清らかな風を感じて来ました。やはり内宮は多くの参拝者で賑わっており、やや観光地化している印象もありましたが、先にお参りした外宮の方は(静けさの中に)幽玄な御神木の姿とキラキラとした光線を感じ、不思議な幻想性を感じました。もっとも私自身、特殊な霊感のような力は全く無い体質なので、只そのように感じただけです。10年毎に社員全員で伊勢参りに行くという丸二の周年の旅を今後も長く続けて行きたいと思います。10年間の無事に対する感謝の御礼参りのために・・・。
さて、今回の伊勢旅行では(前回と同じく)鳥羽の観光ホテルに宿泊したのですが、ちょうど満月の日の夜で、夜空にオレンジ(柿)色の月が浮かんでいました。これが何とも言えない種類の色彩で、まるで絵の具で描いたような月でした。また、帰りの新幹線の窓からは、夕暮れのシルエットに浮かぶ美しい富士山が見えました。なぜだかいつもよりとても大きく感じました。伊勢参りという特別な時間を過ごしたからかも知れませんが、目にする風景が古代の日本の原風景のように感じられ、ちょっとしたタイムスリップを経験した様な気がします。日本の本来(古来)の風景とはどのようなものだったのか。もっと美しくて、輝かしいものだったのではないか。風も水も清らかに流れ、花や草木からは芳醇な香りがしたのだろうか。そのようなことなど、全て忘れてしまったかのように、私たちはこの日々を努力と後悔と自問自答の末に、超えて行く。その悪戦苦闘の姿を、自然界は悠久の時を超えて、いつまでも支え、助け、見守ってくれているのに、人間の意識はそこに追いつかない。そしていつかは自然界が豹変する姿に驚愕することに成る。もしこの「富士(不死)の山」が火を噴けば、この町はどうなってしまうのだろうかと、目の前を猛スピードで過ぎゆく風景を見ながら、ある種の畏れを抱いたのです。
以前読んだ本に、浮世絵師の歌川広重の作品「東海道五十三次」には(日本の未来への)予言が隠されているとありました。53の宿場と出発地の江戸(日本橋)と到着地の京都(三条大橋)を合せて、合計55枚の浮世絵による連作ですが、その1枚1枚が、4年毎の先の未来を意味していて、その該当する年(前後)に日本に起きる事象を暗示した図柄や象徴が描かれていると。たとえば15番目の宿場である「蒲原宿」の絵は雪景色なのですが、この蒲原は温暖な気候のはずであり、雪は(まず)降らない地域です。それにも関わらず、広重がこの地を雪景色として描いたのには、この15番目の絵の該当年(易年)が「1857年」に当たったからで、そして(その後の)実際の1857年、江戸に大雪が降りました。広重はまだ未来であるこの年が大雪の年と予知し、15番目の「蒲原宿」を(地域性を無視して)雪景色にしたのではないだろうか。そのようにして4年毎の先の未来に起きる現象を(不可解な姿や形や表現で)一枚一枚の中に書き込めたという話です。この予言説については、単なる偶然として片づけることも可能です。ただ最近、このことを思い出したのは、実は御嶽山の噴火があったからです。この広重の予言の解釈をそのまま受け取ると、最後の55枚目の京都(三条大橋)の絵は西暦2013年に当たり、その絵に隠されている意味が「火山の噴火」でした。この本の著者は、その火山を「富士山」ではないかと見ています。今年は(1年後の)2014年ですし、噴火したのは御嶽山ですので、微妙な違いはありますが、何となく自分の中で広重の予言と符号したのも事実です。これから本当に富士山の噴火があるのかも知れません。そのような感覚で富士山を見たからでしょうか。その姿に異様な大きさと圧力を感じました。
日中関係、日韓関係、日米関係、日露関係。アベノミクスの評価。景気の先行き。為替の動向。増税の是非。社会保障の行く末。今後の日本。今後の世界。墨絵の様な大きな富士の影を見ながら、私たちは広重の描いた浮世絵以降の未来を今から歩み始めようとしています。このような大きな大転換期に、(昨年)伊勢神宮と出雲大社の遷宮が重なりました。2020年には東京オリンピックが開催されます。福島の原発事故の影響は未だ完全には収束せず、新たなエネルギーへの展望も見えてきません。このような閉塞感を打開する為のマグマが徐々に膨張して来ているのは事実ではないかと思います。そのマグマのエネルギーが良いエネルギーとして爆発するか、悪いエネルギーとして爆発するか。あるいは、小さなエネルギーとして小出しに出て来るのか。最後は、私たち日本人の意識と行動の問題で決まる様な気がします。自分自身の精神(良心)は自然界とつながっていると(私は)思いますので、この汚れた心を磨き、キレイな良心を見つけ、その声に素直に従って行くこと。良心を裏切らないこと。良心に嘘をつかないこと。世界の行く末や、日本の景気や、伝染病の今後等、とても大きくて難しくて、自分一人ではどうしようも無い事象に向き合う為に、先ずは、自分自身の胸の中に在る「良心」を見出すこと。その一人ひとりの意識改革が在れば、きっと広重の予言は外れてくれるだろう。伊勢神宮で感じた清らかな風と光が、そう諭してくれている様に感じました。
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話しは変わりますが、最近好きに成った(日本のロックバンドの)「エレファントカシマシ」の宮本浩次さんが作る歌には、古き日本の「泥臭い土の匂い」がします。私の部屋のCDボックスの99.9%は、クラシック音楽で、基本的にそれ以外は(ほとんど)聞きません(昔から自分自身の好きな音楽を追求して来た結果が、たまたまクラシック音楽だったというだけですが・・・)。街を歩けば、確かにいろいろな種類の音楽が耳に入って来ます。中には「上手く」作られた音楽もあります。でも、自分自身の魂にはなかなか届きません。いずれ消えゆくものだと感じるからです。もちろん、世の全ての音楽を聴いていないので、ただ単純に出会いが無いだけかも知れません。でも、彼の歌だけは、ロック嫌いの自分自身の耳と心に迫ってくる。なぜだろうか。最近、彼らの4枚目のアルバムである「生活」(1990)を聴いて、腑に落ちました。今から24年も前、昭和のバブルの真っ只中で、一人の24歳の若者が作った暗く儚き歌。絶叫と絶命の果ての深く深く落ち行く諦観の暗闇(ドブ)の向こうに、夕陽に浮かぶ富士の山が見える。お前はなぜに引きこもる。お前はなぜに生きるのか。小さき花を見るために・・・。つまらぬときに口ずさむ、やさしい歌を知らないか。流るるドブの表をきらりと光る夕陽あり。俺はこのため生きていた。ドブの夕陽を見るために。それでも生きようか死ぬまでは。残った余生には希望を持とうか。ある秋の夜ひとりで火鉢を抱き、いまだに死ねぬ哀れなる虫の音と・・・。
絶対に売れないであろう音楽。聴き通すこと自体が息苦しい音響と(決して耳触りの良い言葉だけではない)激しい言霊の炸裂。これはロックなのか、フォークなのか、演歌なのか。あるいは唱歌なのか、童謡なのか、和歌なのか。はたまた浪曲なのか。否きっと、叫びなのだろう、怒声なのだろう。時はバブル、世の人々が浮世離れの狂乱に現をぬかしている時、人から離れ、人を嫌い、ひとり自身の「生活」だけに目を向ける男。その反抗的で厭世的で奇怪な姿勢に決して親しみを覚えることは出来ないが、彼の言う「死に至る道が生活」とは、まさにその通りだとも思う。彼の初期の歌には、日本古来の風景や文化が映り込み、日本文学の香りが漂う。東京に生まれながら「ビルを山に見立てる」男。月の夜や富士の山を愛し、火鉢に手を当て、夏目漱石や森鴎外を読む男。東京がかつて江戸であったことを思い出させるこの不思議な感覚は何だろうか。彼の眼には、この日々の喧騒も、遠い歴史の風景と重なって見えているのかも知れない。そう思うと、この東京が江戸として栄えた永き時代は、貴重な文明遺産そのものだったのだろうと思う。鎖国によって、西洋化を遅らせた静止の文明こそが、この日本を「和の国」たらしめているのかも知れない。今や世界的に和食文化が注目を浴び、多くの外国人が日本文化や四季折々の自然風景を味わうために、日本へ観光のために訪れる時代。私が好きな歴史上の人物は、(昔から)徳川家康(と宮澤賢治)と決まっているのですが、あらためて江戸時代の歴史的意義を再確認しました。
その後、(やはり)彼らは所属事務所から契約解除を言い渡され、さらなる絶望の底に落とされます。けれども、その深い悲しみと苦しみの永き日々を超え、今では「胸を張って出かけよう」「人生って素晴らしい」と多くのファンに向かって(ただ愚直に)歌い(叫び)続けています。当然ロックバンドですから、激しい曲も多く、一体彼(彼ら)が本当は何者なのか、未だ捉えきれない面もあります。けれども、古き日本の文化を愛する心の中に、きっと美しき魂の鼓動が存在し、その波動が我が心と共鳴しているのだろうと想像します。最近、彼の歌を聴いた後は、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」(ピアノ:リヒテル)を聴きます。この清らかに流るる音の芸術もまた格別で、我が音世界の陰陽のバランスを整えてくれます。熱情と静寂の間にある、我が道を見つけ、胸を張って(ゆっくりと、そして愚直に)歩んで行く。そして、この世の素晴らしさ、人生の素晴らしさを感じ入るのです。昨夜は永き友との愉しき晩秋の一夜を過ごし、今朝は眩き朝焼けの赤き空に向かって歩いた。今の日本に生まれ、この世の幸福に気付くことの出来る自分自身に感謝すらしたい。彼の歌の中に「いい季節だ。どこへ行こう。不忍池など楽しかろう。雨になれば水が増して、さぞ水鳥もおどろくだろう(「夢のちまた」より)」とありますが、時間を作って(今度は)上野にでも行って見ようかと思う、今日この頃です。

自立と丸二の道

御嶽山の噴火後、2つの大型台風(18号、19号)が日本列島を横断し、自然の猛威が継続中です。これらを単なる自然現象と捉えるか、あるいは大自然からの警告と捉えるか。物事の見方は人それぞれですが、3.11を含めての大きな時代の流れと捉えれば、きっとそこには何かしらの予兆が含まれている様な気がします。日本経済の先行きについても、日本だけの世界であれば、きっと良い方向へ向かうと信じられるのですが、今は全てが複雑に関係し合っている世の中ですので、他国の苦境が日本にも大きく影響するでしょう。よって未来のことを正確に予測することなど全くもって不可能に成って来たと思います。もしそうであるとすれば、むしろ答えは簡単で、今できることを懸命にやる以外ありません。
過去の成功体験が通用せず、(その上)未来を読むことさえも出来なければ、私たち人間は、素直に今を生きるしかありません。否、本当はいかなる時代においても、「今を生きること」しかなかったのかも知れません。そのことにやっと気づきました。私たち一人ひとりが、今の生き方に応じて、それぞれの未来を手にする。だから全体として良い時代(社会)とか、悪い時代(社会)とかと言う概念は無くなって行くような気がします。そもそも、この世界には「私の人生」しか存在しない(知覚できない)のだから、「私の人生」にとって良いことは良く、悪いことは悪いという当たり前の評価しかありません。この世の中には、多数の人間が存在しているのですから、評価は未来永劫一致しないに決まっています。他人からの評価を得る為に、「私の人生」を売り渡すのではなく、「私の人生」を真っ直ぐに歩んでいく。だからこそ、今を生きる。
「私の人生」を歩むとは、「私の課題」を歩むことであり、「他者の課題」を歩む(介入する)ことではありません。人は自分自身を仕上げることに全力を傾け、自分自身を仕上げることによってのみ、(本当の意味で)他者に貢献することが出来るのではないかと思います。それは(決して)自己中心的に生きると言う意味では無く、(むしろその真逆で)みんなで自立し合うことであり、お互いがお互いの自立を応援し合うことのような気がします。他者や社会に依存する意識のままでは、この世界はいつまで経っても本当の自由、本当の幸福を実現できないと感じます。戦争や自然災害も、そのような個人の自立を促す為のシグナルの様に感じます。これほどまでに先行きが不透明な時代(=視界ゼロメートル)に成ったという現実を見れば、「今」と「私」を観ることに全神経を集中する以外に道はありません。
人生とは、「今」の連続であり、未来は永遠に届かない(北極星に向かって歩くような)ものです。ならば、「今」と「ここ」を「幸福」にすることしかありません。それが真の自立であり、その自立を実現する根元的エネルギーこそが「感謝の力」ではないかと思います。私たち丸二は、「感謝の心」をとても大事にしています。お客様や縁ある方々への感謝と共に、自然の恩恵への感謝、そして今ここで生きている(生かしていただいている)ことへの感謝。その意識が、瞬時に「今」と「ここ」を幸福にし、一人ひとりを自立へ促すと考えます。言い方を変えると、不平不満があるという時点で、自分は何かに依存していることに気が付くのです。つまり、相手(他人や社会)が「こうしてくれない」「ああしてくれない」と思う時点で、その相手に従属している(支配されている)自分自身を認めてしまっているからです。よって、「全てが自分の責任」という認識は、決して重い責任論ではなく、むしろ極めて明るく幸福感に満ちた(心、軽やかな)自立心の現れではないかと感じます。「全てが自分の責任」と思える人は、どのような時代になっても、幸福な人生を歩む成功者だと思います。
これからの時代の経営において、最も重視すべき点は、社員の人間性に在ると思います。その人間性という基礎の上に、素晴らしい智慧と技術が乗るのです。とは言え、個人の人間性は本人の課題です。会社としては、社員一人ひとりの真の自立を応援することしか出来ません。けれども、そのような応援こそが最も大切だと思います。実際には、人間の成長は日々の仕事の中で培われていくものです。ただ、人によっては、技術やノウハウ等のスキル面の成長だけで終って行くケースが多いと思います。けれども本当は、仕事ほど自分自身の人間性を成長させ、自分自身の自立を促すものはありません。その機会(チャンス)を与えることは、経営として充分可能ではないかと感じています。建設業は、建物の建設と同時に、自分自身の建設もできる素晴らしい仕事です。スキル面の成長という半分と同時に、もう半分の人間性の向上(自立)までを共に応援し合える企業文化を築いていくこと。そして、お客様と地域社会に大きく貢献して行くこと。これが私たち、丸二の道です。

御嶽山噴火

アベノミクスや東京オリンピック等のプラス面の陰には、消費増税や人手不足等のマイナス面が存在しています。全てはプラスとマイナスの2つの力が働いているからでしょう。これから始まる大きな時代の潮流(激変)を想像すると、プラス面とマイナス面の双方共、かつてない程の巨大な力として現れて来るような気がします。その両面双方の中に、実は大きなチャンスが(共に)眠っている様な気がします。プラス面をさらに活かすチャンスと、マイナス面を逆手に取るチャンス。時代が大きく動く時、このようにしてチャンスは「二乗」以上と成って倍増化するのかもしれません。だからこそ、これから始まる大激変は(多くの人々にとって)それぞれの人生のクライマックスを形成するのではないかと思います。
そして事業においても、人生においても、このチャンスを活かす道はただ1つの様な気がします。それは「極める」こと。自分自身が歩む道を極めること。周囲の現象に囚われず、自らの道を極めること。言い換えると、自己(=人間とは)を追求し続けること。これしか無いのではないでしょうか。今回の大激変(大震動)の目的は、ありとあらゆる社会全体に満ちた贅肉を削ぎ落とし、全ての物事や人間の本質(本性)を暴くことに在るのではないかと感じています。つまり、私たちの化けの皮が剥がされることに成るのだと。正体を曝されるのだと。それは一見、怖いことの様に思えますが、もしその本質や正体が純粋なものであったのなら、あるいは美しいものであったのなら、それは「発見」という言葉に転じます。
もっと純粋に、もっと素直に、もっと良心の声のままに、道徳心と感謝の心をもって、正しい(と信じる)道を行く。そのような道を極め続けている人や会社は、いつか発見されるに違いありません。「極める」にゴールなどは無く、永遠に届かない北極星に向かって歩むことと同じなのかもしれません。であるならば、「向かって歩く」という意識と行為こそが「極めの道」なのでしょう。そう思うことが出来れば、私たちの様なレベルの人間でも(今すぐ)その道を歩み始めることが出来ます。人生は誰かとの競争では無く、自分自身をより良くするための道程です。今の時代は大きなチャンスに満ちていると感じます。千歳一隅のチャンスが巡って来た。そこに気づくことが出来るかどうかの分水嶺だと思います。
昨日、(突然)御嶽山が噴火しました。登山中の方々や地域の方々への被害が最少で済みます様、心からお祈りしています。丸二と縁ある(岐阜県)加子母も、御嶽山から近い地域ではありますが、特に被害は無いようです。3年前の3.11を経て、日本の国土の大振動が増幅し始めていると言われ、地震のみならず火山の噴火への警鐘を鳴らし続ける識者や専門家が多数いましたが、今回このような形で(突然の)顕在化と成り、しかも日本の中央に位置し、日本三大霊山の1つと言われている御嶽山の噴火として現れ、ある種の緊張感が走ります。今のところ、水蒸気噴火と言う形であり、マグマの流出の可能性は低いとのことですが、他の火山への影響は(当然)出て来るのでしょう。
以前のブログで、霊山とは(山自体が)神聖な御神体であり、人間がむやみに足を踏み入れてはならない清浄な場であるという内容を書きましたが、御嶽山も(きっと)そのような意味があるのかも知れません。今回の噴火のレベルで納まるかどうかは、これからの私たち日本人の意識と日々の行い次第に成ると思います。日本の国土は、(まさに)龍体のように連なる「山々」という自然の御神体に支えられています。だからこそ、山の声を聞き、山の意志を理解し、素直に修正して行く努力が必要なのでしょう。これから始まる火山噴火の流れは、白山、立山等の他の大霊山へとつながり、最後には「富士山」へと向かうはずです。今回の御嶽山の周囲は木曽(裏木曽)であり、日本の檜の大産地です。裏木曽加子母の山にも(伊勢神宮のための)神宮備林(国有林)があります。風土的にも、歴史的にも、信仰的にも、日本の守り神である御嶽山の地で、今回(前兆なく)噴火が始まったことは、重く受け止めなければ成りません。
それでは一体、山の声、山の意志とは何なのでしょうか・・・。それは決して大げさな対策を講ずるという意味では無く、実は(個人個人の)極めて小さな意識や小さな行為の継続、あるいは追求ではないかと感じるのです。例えば、身の回りを掃除することとか、笑顔を大切にすること。感謝すること。道理やルールを守ること。そんなことの日々の積み重ねの様な気がします。要は、かつての日本人が最も得意としていた道徳的な意識のことです。しかしながら(欧米化された)現代の日本の中では、そのような文化は既に薄れて来ています。道理(自然の摂理)が分からない。全ての自己流の(自分にとって都合の良い)解釈で生きる。日本人が日本の本質(正体)に気づき、そこを極めて行くこと、追求して行くこと。今回の噴火を、その為のシグナルだと気づくことが出来れば、これから大いなるチャンスが巡って来ると思います。
日本が日本を極める道と、人間が人間を極める道は、(何か)同質のような気がします。けれども、(例えば)米国が米国を極める道と、人間が人間を極める道は、(何か)異質のような気がします(そこに、違和感のようなものを感じます)。この何か分からないけれど、日本という国には他国とは違う独特の精神(日本的良心)が存在しているようです。武士道、道徳心、感謝道。これら「日本的良心」を追求する生き方、経営、国家運営への転換期に来ているのは間違いないと思います。今、世の中では、いろいろなニュースや出来事が多く、あるいは日々の生活や仕事においても、ますます厳しい時代の到来を感じさせます。けれども、それらの現象を自分自身への「シグナル」と変換することが出来たのならば、一人ひとりが「日本的良心」への追求へと(自然に)向かえるような気がするのです。その向かう行為さえ始まれば(そして、続ければ)、それは既に「成功」ではないだろうか。等しくみんなに大いなるチャンスが巡って来る時代の始まりではないか。

オレの道

ソニーが上場以来初の無配になると発表しました。かねてからの業績の苦しさに付いては新聞紙上等で知っていましたが、今回の初の無配とは、とても大きな決断だったのではないかと思います。私自身にとってのソニーと言えば、ウォークマンであり、ベータマックスであり、CDの開発でした。それらは、常に新たな世界を切り拓く憧れの存在であり、他社はソニーの後を真似して行けば良かった。けれども時代は変わり、消費者のニーズが「ハード」から「ソフト」へと移り変わる過程の中で、ソニーも「モノ造り」から「ソフト産業」への時代の流れに(流されて)付いて行った様に思います。
先日、あるTVニュースで、既に廃れてしまったはずのVHS(磁気)テープが、最先端コンピューター装置の記憶媒体として復活を遂げていることを知りました。記憶媒体と言えば、今やディスクの時代のはずですが、本当に安全に記録を残す為には、むしろ高品質の磁気テープの方が適していることが分かり、最新の大型記憶コンピューターには、かつてのVHSテープが採用され始めて来たとのことです。このニュースにはとても驚きました。
そして、その磁気テープですが、かつては大変多くのメーカーがビデオテープやカセットテープを製造販売していたのですが、その後のCDやDVDの時代が始まると共に、製造中止を選択して来ました。ところが、その中でたった一社だけ、未だに磁気テープの開発を続けている企業があったのです。富士フィルムです。よって、最新大型記憶コンピューターの採用される磁気テープは、全て富士フィルム製です。もちろん注文殺到でしょう。富士フィルムでは、テープの時代が完全に終わっていたのに、より品質の高い磁気テープの開発に懸命に努力し続け、遂に新しい素材の開発にも成功したそうです。そこには一体どのような経営判断があったのでしょうか・・・。時代の流れをどれほど大きな視点で見ていたのでしょうか。ここに「モノ造り」への執念を感じたのです。
その番組では、他にも、(既に廃れてしまった)ポケベル技術を活用した「防災ラジオ」が、全国の自治体から注文が殺到していることも報じていました。ポケベルの電波は、現在主流の携帯電話よりも強力な為、どのような場所でも届くそうです。それは、有事の際の防災情報の装置としては、最大の利点です。このようにして、確かに時代の流れと共に、価値が薄れてしまった技術はあるのですが、その中に、きっと何かオリジナルの強みがあり、その強みを発見し、それを信じて、磨き続けている人たちがいる。その努力の結果が、ある日の突然の爆発を生むのではないでしょうか。まるで映画のようなドラマです。信じる力の素晴らしさ。巨大な時間軸でモノを見られる見識力。そして継続する意思の力と日々の努力。決して諦めないこと。他者の目や評価を気にしないこと。ソニーの無配のニュースや、旧技術の復活のニュースを見て、経営や人生についての思いを巡らしました。
ところで(話は変わりますが)、やはり人生とは映画のようなものだと、あらためて感じます。まさに自分自身が主役の映画です。100人いれば100の映画、1000人いれば1000の映画が、同時並行的に上映されているようなものです。ここで凄いと思うのは、自分自身以外の人は全て脇役として(自分の映画の為に)出演してくれている訳ですが、その脇役の人も、自身が主役の映画に(同時に)主演している最中です。つまり、自分が主役の作品で演じている行為が、(同時に)他人の映画の中での脇役の演技にも成っているという、まさに奇跡的な連動性を有しているのです。この完璧なまでの整合性を考えた時、人智を超えた摩訶不思議な世界観の存在を感じます。
もちろん、以上は私の勝手な想像に過ぎません。けれども、その様に捉えることで、ありとあらゆる出来事の意味や価値を正しく認識することができ、(同時に)不安や恐れに意味がない事も分かります。つまり、この人生が自らを成長させるための自作自演の物語であると気づくことが出来るからです。人生を生き切るとは、自作の物語の主役を演じ切ること。自分の歩む道とは、実は(既に)自分自身が脚本を書き、自分自身が監督をし、自分自身が主役を演じる映画の下書きであり、実際に日々歩み続ける行為こそが、映画の完成なのでしょう。そこに自身が求め続けていた経験の全てが在るのでしょう。
大体の映画はハラハラドキドキします。あるいは笑ったり、泣いたりします。そういう物語でないと面白くないからです。遊園地に行っても、ジェットコースターに乗ったり、お化け屋敷に入ったりして、ドキドキ感を味わいます。せっかく来たのだから、大いに体験してみようと思うはずです。人生もきっと同じで、せっかくの人生なのだから、いろいろな経験をしてみたい。だからこのような(苦しい)経験を自分自身に課してみよう。それを経験できたら(乗り越えたら)もっと成長できるはずだ。そのような脚本を自らが書いて、自らその場面を演出し、そして主役である「私」が「私」を演じる。そこに結果に対する不安や恐れは(本来)不要なはずです。だって、自分が書いた映画の中の予定通りのシーンの1つに過ぎないのだから。
私たちは、以上のような人生構造を忘れているが故に、苦しい場面が来ると(つい)そこから逃げ出そうとします。せっかく(長蛇の列を並んで)最高の遊園地に入れたのに、(怖くて)何も乗らないで帰ろうとします。でもよくよく考えて見ると、そのシーンを書いたのは自分自身なのだから、必ず(最終的には)良い結果が待っているに決まっています。自分の人生をわざと悪く書く人はいないでしょう。逆に、あえて超苦しい物語を書くチャレンジャーもいるでしょう。その苦しい経験の先に、とてつもない超感動が待っているからです。その実体験を味わいたいからこそ、苦難の物語を書いたのではないでしょうか。
でも現実に生きる私たちは、実際にはそうは思えず、そのシーンの撮影の直前に逃げ出してしまいます。でも、そこから全ての物語は狂って行く。時には、この映画(人生物語)そのものから(自らの意志で)降りてしまう人もいます。それは、数億倍という高い倍率で手に入れた映画化権を、撮影途中で放棄してしまうようなもの。自分自身の人生物語を造りたくて仕方ない人が、他にもたくさんいるのに・・・。映画化権を与えてくれた奇跡に対しての不義理に成ると思います。
生きていると、自身の映画と他人の映画を(どうしても)比べてしまいます。他人の人生の方が良く見えてしまうからです。でもそれは、その人の映画の全編を見ていない上での勝手な判断です。映画の全てを鑑賞できるのは自分自身の映画だけです。他人の映画は、自分が脇役で出演した時のシーンしか見ていません。それ以外の大半のシーンは決して分からない。だから、他人の本当のことなど永遠に分からないと思います。
それに、もし自分自身の映画の脚本を自分の意志で書いたのだとすれば、そもそも他人と比べようが無いはずです。悲劇を演じている役者さんと、喜劇を演じている役者さんを比べて、喜劇を演じている役者さんの方が幸福だという比較は全く無意味です。お互いに、今回はそのような物語に(好きで)出演しただけです。自分が演じたい役を演じただけ。孤独を克服する役をやりたいと思い、苦しい物語を演じている人と、のんびりした人生を味わいたいと思って、お金持ちを演じている人を比べる意味はありません。
むしろ、苦しい物語に身を置いている人の方が、素晴らしいチャレンジャーかもしれません。自分の意志で、あえて苦労を経験してみようとする凄い人です。だから今の自分の境遇や環境が悪いと思うならば、それは自分自身がファイティングマンであることの証明ではないか。だからこそ、人生に文句を言う必要はなく、自身が決めた環境設定を(むしろ)誇りに思っても良いのではと思います。
私が思うに、全ての人の映画にはある共通テーマが在る様に思います。それは愛と善で生きることではないかと。実際の映画も様々な分野や物語があります。戦争物や恋愛物、悲劇や喜劇、サスペンスやホームドラマ・・・。けれどもどのジャンルのどの映画も、最終的には「愛」や「善」を描いていると思います。私たちも、自分が体験したいジャンルを選択しながらも、最終的には「愛」や「善」で生きることの出来る自分自身を造る為に、映画に主演していると思います。その作品意図を早く理解して、物語が予定通り、あるいは予定以上の素晴らしい出来映えに成る様に、この日々を生きて行こう。あらゆる挫折や悲しみも、乗り超えて行こう。自分自身が書いた脚本以上の感動を味わうために・・・。
自分自身を生きること。個人も企業も自分自身(自社自身)を生き切ること。仮に生きにくい時代に成ったとしても、時は必ず移り変わり、必ず変化し続けて行く。だからいつか必ず「オレ(わたし)の時代」が来ると信じて、この日々を懸命に超えて行くこと。生きにくい時代の中で得た経験こそが、自分の映画の最大の見せ場です。だからこそ大きな感動が生まれます。個人も企業も、自分自身を信じて、自分(自社)の物語を創造して行こう。時代の流れを正しく認識しながらも、自分(自社)のオリジナルの価値を追求(求道)して行こう。そこから生まれる困難や苦労こそが、求めていた経験であるのだから。ソニーの生きる道と、富士フィルムの生きる道を見た時に、(決して比較では無く)個人も企業も1つの生命体として「生きている」のだと感じました。「流される」生き方もある。「貫く」道もある。そして私は「貫く」道を行く。世界でたった1つのオリジナルの映画、それが「オレ(わたし)の道」だから。

大地讃頌

今年の夏は(例年以上の)息苦しい程の暑さを感じます。お盆休みの間には、海や川の「水」の事故が相次ぎ、また西日本各地では猛烈な雨量を伴う台風に見舞われ、大変な被害が起きています。特に広島市北部の大規模土砂災害では、(今日現在で)死者39人、行方不明者51人まで拡大しており、救出活動も困難を要しています。土石流(「土」)には、一瞬の内に全てを飲み込んでしまう恐怖が在ります。時間的にもまだ明け方だった為、逃げる余裕は全く無かったのでしょう。日本の防災対策は地震に対しては日頃から意識が在るのですが、津波や水害への意識は今まであまり無かった様に思います。今後は、地震、津波、豪雨、水害、竜巻、火災、山崩れ、火山の噴火等の想定される全ての自然災害への防災意識が必要ではないかと思います。同時に、それらのあらゆる種類の自然災害に耐えうる住宅や街づくりも重要です。このような自然災害は、地球環境の変化に伴って現れて来ていると思われますので、今後もますます増加傾向に成るのでしょう。都会でも、猛烈な豪雨による水害の可能性が在ります。
またTVでは(毎日のように)殺人事件、紛争(戦争)、疫病(エボラ出血熱)等の嫌なニュースが流れていますが、これらも地球規模の変化と連動している様に思え、今後も増加していく可能性が在ると思います。私たち人間の生命の「土台」とも言える「大地(=地球)」が病気に成れば、当然、私たちの生活に関わる全ての土台(基本)が根底から崩れ始め、(当然)人間の精神や免疫力にも大きな影響を与えるはずです。そのような大きな時代の潮流を見ずに、ただ目先の対応のままでは、この悪い流れを改善することは出来ないのでは無いでしょうか。今、発生している全ての事象を「総和の目」で見る力こそが、求められているのではと強く感じます。
私たちは、この地球(大地)が無ければ生きては行けません。水や空気が無ければ、数分で全員死亡です。それにも関わらず、この大地や太陽や空気、つまり大自然への日々の感謝を忘れているのではないでしょうか。全てが当たり前だと思ってはいないだろうか。実は少し前に、「大地讃頌」のCDを買いました。数年前に娘の中学校(私の母校です)の卒業式にて、生徒たちが一生懸命に合唱していた「大地讃頌」を聞き、深く感動を覚えたからです。とても美しく豊かな起伏に溢れた曲想で、母なる大地への感謝を大いに歌い上げた素晴らしい音楽です。いつの頃からか、学校の行事等で歌われ始めたのですが、確か自分が子どもの頃には歌っていなかったと思います。実際にCDを買って知りましたが、この曲の正式な曲名は≪混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」≫の中の≪第7楽章「大地讃頌」ロ長調≫で、大木惇夫氏が作詞、佐藤眞氏が作曲したカンタータの一部でした(1962年作曲)。
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佐藤眞:「土の歌」
東京混声合唱団・東京交響楽団・山田和樹(指揮)
「土の歌」全7楽章は、第1楽章「農夫と土」、第2楽章「祖国の土」、第3楽章「死の灰」、第4楽章「もぐらもち」、5楽章「天地の怒り」、第6楽章「地上の祈り」、第7楽章「大地讃頌」で、私たちが知っている「大地讃頌」は、実は、カンタータ「土の歌」の「終楽章」のことだったのです。本来はオーケストラと混声合唱の曲ですが、一般的にはピアノ伴奏版が使われています。購入したCDは、オーケストラ版のコンサートのライブ録音で、とても素晴らしいものでした。同時に、初めて「土の歌」全曲を聴くことで、この音楽本来の意味をも理解することが出来たのです。第1楽章から第5楽章に至る中では、大地の恵み、土と人間の暮らし、天災と人間の悪、そして原爆と戦争への怒りが、時に暗く、時に激しく、恐怖の音と成って表現されていました。そして第6楽章「地上の祈り」が始まり、大地への祈りと感謝、そして反戦への思いが、瞑想的な静けさと宇宙全体へと響く様な音楽美の中で、歌われるのです。そして、その静寂の後、静かに・・・「大地讃頌」が始まります。この一連の流れ、特に第6楽章「地上の祈り」から第7楽章「大地讃頌」への移行があって、この音楽全体の持つ本当の意味が解るような気がしました。
☆第六楽章「地上の祈り」
美しい 山河(やまかわ)を見て
美しい 花を見て
大地の意(こころ)を信じよう
恩寵(おんちょう)を
自然に享(う)けて感謝しよう
ああ
戦争の
狂気をば
鎮(しず)めたまえ
剣の乱れ
爆弾の恐れを
さけたまえ
天意にそむく
動乱を
おさめたまえ
ああ 戦争の
狂気をば
鎮めたまえ
地の上に花さく限り
よろこんで日ごと営み
悲しみも耐えて生きよう
ああ 栄光よ
ああ 地の上に平和あれ
☆第七楽章「大地讃頌」
母なる大地のふところに
われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ
大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ
平和な大地を
静かな大地を
大地をほめよ たたえよ土を
恩寵(おんちょう)のゆたかな大地
われら人の子の
大地をほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を
たたえよ ほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を ああ
たたえよ大地を ああ
第7楽章「大地讃頌」は、まさに大地への限りない讃歌です。学校の卒業式に「なぜ、大地の歌なのだろう・・・」という疑問があったのですが、実は「大地」とは、「この世」であり、「今」であり、「ここ」であり、「現実」であり、「自身の存在理由」の比喩であることに気がつきます。それら全てが、大自然から与えられた「恩恵」であることにも気づきます。人を傷つけてしまったり、自分をも傷つけてしまう子ども達の多い時代だからこそ、大地の恵みによって生かされている自分自身に気づき、その与えられた「生命」を大切にする心を持とう。そして「今」と「ここ」を大切にして、これからの日々を超えて行こう。そのような願いが込められている様な気がしたのです。このことに人間が気づかない限り、地球は私たちに警告を発し続けるのでしょう。それでも気づかなければ、自然界は遂に人間を(大地から)排除してしまうかもしれない。実は、この第7楽章「大地讃頌」の後に「第8楽章」の構想もあったそうで、それは「人間を排除した地球に平和が訪れる」という内容だったそうです。けれども作者は、地球がそうは成らない様にとの希望を持って、第7楽章「大地讃頌」を終曲にしたそうです。
私たちは、今や重大な「分水嶺」に立っていると思います。第7楽章の「大地讃頌」の意識を持って、大地を愛し、大地に感謝し、自然界の恵みに感謝できる様に成らない限り、自然の猛威は終わらないのかも知れません。大自然のエレメントの1つである「水素」が、次代のエネルギーと医療の「本命」と成る産業革命以来の大革命が、これから起きようとしていますが、もしこれが実現すれば、私たちの生活や経済は大転換し、世界平和と長寿命をも可能にすると言われています。けれども、それを実現するには、先ずは、私たち人類の「人心改革」が大前提でしょう。この大地を愛し、大自然からの恵みと与えられた(自分自身の)生命への感謝を持つことが、今こそ問われているのでないかと思います。「土」も「水」も、人間の生命にとって極めて大切な恵みですが、時には人間の生命を奪う怖さも持ち合わせています。大自然への畏敬の念を持って、大地(いま、ここ)への感謝を・・・。そのような思いを強く持った、今年の夏です。

「思い出のマーニー」と今

佐世保でまた悲惨な事件が起きてしまいました。ニュース報道の中に「再び」という言葉を聞いたのですが、10年程前の小学校で起きたあの事件も、佐世保だったのですね・・・。地元の方々にとっては、本当に様々な思いがあると思います。このような「心の教育」という課題に向き合いながらも、なかなか思うように成らない現状は、(当然)ひとつの地域だけで解決できる問題では無く、まさに地球上の全ての人類に対する共通のテーマではないかと感じます。最近のニュースで見聞きするように、中東では(相変わらず)大人同士の殺し合いが続いています。現代社会では、子ども達だけでなく、大人達にとっても「心の病」が暗く影を落としているかの様です。その闇を明るく照らす術を、私たち人間は忘れてしまったのでしょうか・・・。
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先日、公開中のジブリの新作「思い出のマーニー」を観ました。とても素晴らしかった。ジブリ作品では、昨年の「かぐや姫の物語」で大変な衝撃を受けたのですが、今回はまた別の意味で、深い感動(感慨)を覚えました。多分、観る人によっては、あまり起伏の無いストーリーで「どこが良いの?」という感想が出て来るかもしれません。商業映画として「良い出来か?」と聞かれれば、「ちょっと下手かな」とも。やはり宮崎アニメと比較されれば(総合的には)そのような評価に成る様な気がします。けれども、この映画にはそれを超えるだけの「何か特別な力」を感じたのです。もちろん原作(物語)の力があったとは思いますが、そこに一般的な映画とは(あえて)別の道を行こうとするオリジナルの感性(方向性)が見えたのです。私は、人と違う道を行く人が好きなので。
その「何か特別な力」とは何か。それは「映画を映画として観て、感動したり泣いたりする」という一般的な映画鑑賞の領域を超えた「外側」に、何かもう1つの世界観の存在を感じたのです。私はそれを、ある種の「治癒行為」と呼びたいのです。映画の物語自体が、主人公の(時空を超えた)内面への旅であり、自分自身の心の治癒へと向かって行くのですが、同時に(観ている)私たち自身の内的な治癒をも起こしているかのような感覚に陥ったのです。これは錯覚だったのでしょうか・・・。それを確かめる為に、また観てみたいと思う程です。この物語は、北海道の湿地にある古いお屋敷が舞台ですが、やはり「家」という存在(場)は、人間の心、内面、精神の成長に大きな影響を及ぼしていることが分かります。良き思い出も、嫌な思い出も、「場」に宿ります。今回の佐世保の事件では、加害者である高校一年生の少女は(親とは別に)マンションで一人暮らしをしていたそうです。そこが事件の現場にも成りました。彼女にとって、その部屋(場)は、一体どのような「心象風景」だったのでしょうか・・・。
「心の治癒」とは、もしかしたら今の全ての人々にとって大切なことなのかも知れません。自分でも知らない内に、(勝手に)自分自身を傷つけているのかもしれません。今回の佐世保の事件は、極めて特殊な例かも知れませんが、私たちも、自分自身の内面に在る「心象風景」を意識して見ることが大切でしょう。それが喜びで満たされているのか、あるいは孤独の叫び声を上げているのか。「思い出のマーニー」は、映画としての評価は分かれると思いますが、自分自身の心の奥底に眠っている「心象風景」を思い出す為に、観てみるのも面白いかと思います。もしそこで「何か」を感じ、「何か」を思い出したら、きっと「外側」と「内側」とがつながり、「無色の世界」が「カラーの世界」に一変するかも知れません。「心の教育」「心の治癒」とは、(結局のところ)一人ひとりが「自力」で、自分自身の内面へ向かって旅に出る以外、道は無いのでしょう。そこで、自分自身の良心の声を聞く以外・・・。そして(自分自身の)小さな光が、(みんなの光と)束と成って、この世界の深い暗闇を明るく照らし始めるのでしょう。今、そのことを思い出しました。
ところで、(どうでも良いことですが)私のジブリ作品のベスト3です。
第1位 かぐや姫の物語
第2位 思い出のマーニー
第3位 千と千尋の神隠し
「思い出のマーニー」が第2位とは自分でも意外です。それにしても、映画の中の「空」と「水面」と「月」の映像がとても美しく、素晴らしかった。まさに心の心象風景でした。この映画の究極のメッセージは、「人を許し、自分自身を愛すること」。美しい空の色彩が、その全てを物語っていた様に思います。

内側の世界

再びマレーシア航空機の事故(事件)が起き、多くの命が犠牲に成りました。真相は不明ですが、これが大きな国際的な問題等(戦争)に発展しない様に心から祈ります。国内では多くの誘拐事件や殺人事件が発生しており、幸い岡山の事件は無事保護と成りましたが、このような普通の生活の中にこそ紙一重の危険が潜んでいることを自覚しなければ成らない時代なのでしょう。そうは言っても、怯えながら生活をする必要性も無く、それでも(諸外国よりも)安心で安全な日本に生まれたことに感謝して、自ら(何かに巻き込まれる様な)種を撒かず、この日々を懸命に生き抜いて行くことしか無いのでしょう。私たちは、どうしても世の中(外側)で起きている事象に心を奪われ、あるいは恐れ、自分自身への過度な(精神的な)負担や圧力を強いるものですが、何があっても、自分自身の心(内側)を大切にして行くことも同時に大切なことかもしれません。
先日、NHKの番組で「人手不足」を特集しており、現在、最も人手が足らない職種として「型枠大工」が紹介されていました。これは建設業者として既に実感していることです。型枠大工さんの仕事は本当に重労働ですので、長引く不況に加えて、リーマンショック以後の深刻な建設業界の低迷によって、職人たちが離れて行ったのでしょう。結局その後、景気が(ほんの少し)回復基調と成っただけで、急激な人手不足に陥りました(この2年がピークだったと思います)。最近はやっと受給バランスが取れて来たところですが、(過去の経験からすると)この景気回復がまた一段落すると、あるいは(各ゼネコンの)労務的リスク回避の為のリストラ(企業収縮)策等によって、再び「人余り」へと転じる可能性が無いとも言えません。いずれにしても、そのような流れを繰り返す過程の中でも、建設業に多くの(次代を担う)若者たちが入ってくる環境を、私たちは造って行かなければ成りません。
建設業は、(このようにして)それぞれの時代における経済面の影響を過分に受けてしまう傾向がありますが、(同時に)人間が生きて行く為に必要不可欠な産業=「衣(医)食住」の重要な一角を担っており、(この世界に人類が存在する以上)決して無くならない職業であることも事実です。どのような時代に成っても、国や地域は建設業を存続させなければ成らない。そういう意味では、外部環境の変化に無関係に、社会全体が守るべき存在でしょう。しかしながら、ここ数十年来のデジタル化時代の大波の中で、そのような本質的な認識が失われてしまった・・・。これこそが「人手不足」の真の原因だったと思います。いかなる時代になろうとも、守って行くべきものとは何か。そのような長期的視点、あるいは理念こそが大切です。まして、地球環境の激変(自然災害)の時代が始まる中で、日本の優れた建設産業の技術や人的資産が枯渇してしまっては、国家の存亡にすら関わります。かつてマスコミによって「3K」というレッテルを貼られ、それによって「若者離れ」が起きてしまったことが、(今思うと)最大のミスだったと思います。時代を超えて生き続けるアナログ的な産業(建設業、農業、林業、介護・・・)を大切にする時代がやっと始まりました。
ところで最近のニュースを見ると、これから日本中で多くの過疎の町や村が消滅すると報道しています。確かに、人が住まなく成れば、町や村は消滅するでしょう。便利と効率だけを求めた結果の当然の帰結です。結局、すべてはバランスではないでしょうか。便利と効率も大事ですが、それだけは割り切れない面も同時に大切です。陰と陽のバランス感覚。あらゆる物事には(昼と夜のような)二面性が在り、例えば人間の意識も顕在意識と潜在意識の両面があります。お互いを否定し合うのではなく、反対の性質のものをミックスして、新しい価値を生み出すこと。これが自然の摂理であり、道理ではないでしょうか。都会と田舎、デジタル産業とアナログ産業、外側と内側、肉体と精神。みんな2つで1つ。このような両面をバランス良く成長させて行く為には、やはり先ずは、自らの内側(心)を確かなもの(安心、安定)にすることだと思います。けれども、それが一番難しいですね。様々な事柄を経験できる今の時代は、自身の内側を鍛えるにはモッテコイの環境なのかもしれません。
※映画「エレニの帰郷」
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「旅芸人の記録」「霧の中の風景」「永遠と一日」「エレニの旅」等で有名なギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスの遺作「エレニの帰郷」をDVDで観ました。とても美しく、素晴らしい映画でした。主人公(映画監督)の母、エレニの半世紀に及ぶ物語。若きエレニはソ連当局に捕えられ、シベリアへ抑留された後、主人公である息子(主人公)と再会する。エレニ、エレニの夫、シベリア抑留時代にエレニを支えたイスラエルの男性、主人公、そして主人公の娘が織りなす人間模様の中で、エレニは安らかな死を迎える。ストーリーを追うとこのような説明しか出来ないのですが、実は言葉だけでは全く映画の本質に迫れないのです。アンゲロプロス監督の独特の超長回しと、(その間に)時空を超えて行く映像美の中で、現実と幻想のどちらかの見分けの付かない不思議な感覚を味わいながら、ある一人の人間の一生とその精神世界(内側)を追体験していく物語。今回は雪のシーンが多かったのですが、それがまたとても美しかった。一般的な映画とは一線を画しているので、好みは分かれると思いますが、私にとっては大切な一本の映画に成りました。交通事故で亡くなってしまったアンゲロプロス監督は、その時次回作を撮影中でした。本当の最後の作品を観たかったです。