社長ブログ

オンリーワンの道へ

今朝のワールドカップ「ブラジル対コロンビア戦」で、ブラジルのネイマール選手が相手選手の膝蹴りで(腰を)骨折したそうです。結果はブラジルの勝利でしたが、ネイマール選手の本大会の残り試合への出場が絶望的と成り、ブラジルにとっても、サッカーファンにとっても、なんとも悔やまれる事態に成りました。サッカーであれ、何であれ、これからの新しい時代を切り拓いて行くのには、その分野での若きスターの存在が必要不可欠です。まさにネイマール選手は、世界のサッカー界の若きスターでしょう。今後の選手生活に影響のない怪我であって欲しいと思います。ブラジルは、かつて多くの日本人が夢を賭けて向かった地。日本とは地球の反対側という位置関係にありますが、直線距離(思いの距離)にしたら(むしろ)近い国かもしれません。共に次代を担う若き世代を育てて、この地球運動の左右のバランスを保って行きたいものですね。
このようにして、どのような国でも、どのような分野でも、常に若き世代の勢いが誕生するものですが、なかなか実際の現実社会では、新しき者の中に希望の光を見出すことよりも、過去の栄光に縋りながら、時代の変化を極度に恐れ、既得権益を守る意識を優先させることの方が多いように感じます。年齢と言う物差しにおいては、確かに(一生)年長者を超えることは不可能ですが、人間の「中身」という視座を持つことが出来れば、若者にも同様のチャンスが与えられるべきでしょう。幸いスポーツの世界では、「勝負」という客観的な評価基軸が存在するため、若手の台頭への道がオープンに拓かれています。これは素晴らしい事だと思います。
そこには、「競争社会」という一面が表現されていますが、(同時に)この世界を形造っている「ありとあらゆる(森羅万象の)」領域において、優秀な人材に光を与え、評価すると言う意味においては、「みんな」が(何かしらの領域で、既に)光り輝く「勝利者」であると言えます。要は、受験や出世や試合や運動会(という、ごく一部の領域)で一番に成った人だけが「勝利者」ではなく、既にみんなが(何かしらの競争に勝っている)オンリーワンの存在であると云う事。ただ、自分が一番の試合(競技)が、全くメジャーでは「無い」だけのことだと思います。だから競争とは、(突き詰めれば)結局「共生」であり、全員の存在価値の「実現」だと思います。
ただ、この「全員がオンリーワン」を勘違いして、自身を成長させる努力をしないことは、また別の問題と思います。「オンリーワン」とは、あくまで(天から与えられた)「素地」としての備えであり、それを現実生活の中で、発露させ、活用し、さらに磨き続けることが生きる上で最も大切なことだと思います。良く言う「競争ではなく共生」とは、確かに真理と思いますが、それは、「人との競争を主題に置くのではなく、それをある種の副旋律(あるいはベンチマーク)として活用し、自身のオンリーワンの発見と開発と成長に生かし、さらに磨きを掛け、社会の為に役立てること」ではないでしょうか。ネイマール選手は、まさにそのようにして、若くして「個」として確立しています。みんなが(それぞれの領域で)自身のオンリーワンを磨き続け、一番の「個」として存在することで、その「総和」が良き社会を形造る。誰ひとりとして、「オンリーワン」を持っていない人はいないでしょう。持っているが故に、生きている(生かされている)。人類全員、絶対的に(誰にも)負けない何かが在る。それがたまたま、誰にでも評価できる領域(試合)になっていないだけ。ただそれだけのこと。
この世界では、ネイマール選手という超有名なオンリーワンも存在すれば、一方、地球のどこかで目立たずに生きるオンリーワンもいます(ほとんどの人がそうでしょう)。そこに宇宙的な意味での「差」は存在しないと思います。もし違いがあるとしたら、自身の「オンリーワン」の素地に気づき、そのことに(心から)感謝し、それを磨く努力をしているかどうかです。だから私たちが「生きる」とは、(他者に負けない)自分にしかできない何かを発見し、それを育てていくこと。仮に誰にも気づかれず、全く評価されなくても、お天道様は知っている。そう信じて生きて行くこと。そのようにして、この日々を超えて行くこと。そのような人々が光り輝く「場」こそが、本来の地球の在り様だと思います。その「光」を独り占めにして、他者に与えることを恐れることが、格差、差別、戦争に結び付いているに違いありません。子どもたちの未来や、若い人達の希望にこそ光を当てて、彼らの経験不足の面をサポートしながら、みんなが光輝く世界を作って行く。それこそが、今の大人たちの役割なのかもしれません。
さて、ワールドカップの日本代表についてですが、FIFAの世界ランキングで46位の日本が、それより(相当)上位の3チームに勝つことができなかったのは、確かに実力の通りであり、最も可能性の高かった結果だったと思います。サッカー素人の私としては、日頃のマスコミの報道だけの情報によって、日本と同グループの他国3チームの実力は同格か僅差程度なのだろうと、勝手な思い込みをしていましたが、今に成って各国のランキングを認識し、(今さらながらに)そもそもが確率の低い厳しい戦いだったことを理解しました。そういう意味では、(むしろ)よく健闘した方なのかもしれません。ただ、どんなに実力の差があっても、それ以上の力を発揮することも可能なのが勝負の世界です。日本のサッカーファンは、(まさに)「そこ」への大きな期待を掛けていたのでしょう。日本にとっての「そこ」とは、やはり「和の力」ではなかったでしょうか。チームワーク、あるいは勝利へ向けて「みんなの心」が1つに一致団結すること。「個」では負けても「和」では勝つ。その可能性は絶対に在ると。今回の3試合を経て、私たちが感じた何とも言えない喪失感とは、むしろ勝敗よりも、日本独自のオンリーワンの「和の力」が封じ込められたことだったような気がします。
3試合を通しての日本代表チームの姿は、確かに何かチグハグな感じで、本当に全員が勝利を望んでいたのかと思う程のカオス(混沌)状態だったように見えました。日本のマスコミ報道も、「互角に戦える」「勝てる可能性が高い」という印象を国民に煽りすぎたのでは無いでしょうか。確かに希望的観測も大事ですし、楽観的なのはとても良いことなのですが、決して現実を見失ってはならない。むしろ、ランキング上位の相手チームの方が、実力が上にも関わらず、下位の日本相手に謙虚な姿勢で、緊張感と危機感を持って、懸命に戦っていたのではないでしょうか。日本代表としては、本来なら負ける相手だけれども、その中にでも、どこかに勝機は在るはずだ。そういう厳しい現実(事実)を正直に直視した上で、それでも勝つ確率を1%でも高めて行く努力をしていたのだろうか。要は圧倒的な「弱者」として、なりふり構わない程の懸命さを持って、本当に「勝ちたい!」と熱狂する選手だけを集めたチームだったのかどうか。「大丈夫、勝てる」という事実誤認の空気(ムード)の塗り重ねが、日本代表チームを取り巻くすべての環境をミスリードしてしまったような気がします。
日本は目を覚まさなければ成らないと思います。サッカーは負けても次の大会がありますが、国家運営や個人の人生では、そうは行きません。私たちは今、本当の現実を直視しているのだろうか。本当に事実と真実を認識できているのだろうか。あらゆる危機を想定できているのだろうか。そのための計画と準備を行っているのだろうか。その上で、そうはならないように努力をしつつ、明るく感謝して生きているのだろうか。ワールドカップで他国の試合等を見ていると、生活が苦しい国の選手たちの方が、とても明るくニコニコしていました。何があっても驚かない程の厳しい現実を生き抜きながら、あるいは覚悟をしながら、懸命に闘い、けれども同時に幸福な心で生きている・・・。
日本は平和すぎたのでしょうか。勘違いし過ぎたのでしょうか。このままでは負けてしまう。今回のワールドカップを見ていて、そういう危機感が募りました。だから今こそ目を覚まし、幻想を捨て、現実を直視する。その上で、(楽観的に)何が在っても明るくニコニコ、感謝の心で生きる。そういう方向転換の為に、今回の敗戦は大きなシグナルと成ったと思います。かつて蒙古襲来の時に神風が吹いたように、日本は純粋な心で1つにまとまると、実力以上の「風」が味方する国だと思います。今の日本人にとっての純粋な心とは、まさに「感謝の心」ではないでしょうか。世界で一番恵まれているのに、現実から目を背け、日々の小さな出来事に心を奪われ、暗い顔をして、夢と希望を失っている日本人。今こそ、日本独自の強み、「オンリーワン」を思い出し、感謝して、それに磨きを掛けて行こう。「和の国」への回帰を、今こそ。

創造の原点

梅雨に入り、大雨と蒸し暑さの季節に成りました。今年の夏は冷夏らしいとのお話をお聞きしましたが、日本固有の四季のリズムに乱れが生じて来ているのは確かに事実だと思います。先日は関東でも竜巻が起きました。この自然界は常に移ろい変化していくものですから、私たち人間も、その変化の本流に気づいて、生き方や考え方をより良く進化向上させていかなければ成らないのでしょう。本当に地球全体で物事を考えて行かないと、間に合わない状況に来ていると感じます。
今、サッカーのワールドカップがブラジルで開催されており、日本代表は2戦を終えた段階で(残念ながら)良い結果を出せていない状況です。普段はサッカーに全く興味の無い私でも、この時ばかりはTVやニュースを見て、日本を応援します。今回の日本代表の苦戦については、いろいろな方々の評論や評価がありますが、やはり勝利(=結果)というゴールを目指して、みんなで全力を出し切る姿勢や意識の中に、一点の曇り(影)も在っては成らぬという物事の道理を、俯瞰的に感じ入ることが出来ます。
「ゴールを決める」という共通の目標に向かって、チーム全員の意識が一体と成って、清浄な心の総和の状態に在る時、そのチームは実力以上の力を生み出すのでしょう。諸外国のチームの試合を見ていると、(そこには)なりふり構わない程の強烈な目的志向を感じます。もちろん、その結果としての勝利もあれば敗戦もあります。ただ、その敗戦には悔いや悲壮感は感じません。今回の日本代表の戦いが(もし)このまま終わってしまうと、きっと何か悔いや不自然さが残りそうな気がします。目的志向ではなく、手段志向になってはいないか。本当に全員の心(意識)がひとつに成っているのか。これは、私たち自身の仕事や人生に対する共通の問いでもあります。
私たち日本人は、(要するに)余りにも満たされている世界に生きています。ほとんどの国民が毎日水が飲め、ご飯が食べられて、寝る場所があります。いつ銃弾が飛んでくるかという不安もありません。世界中には、それすらも約束されていない国々がたくさん在るのに・・・。今回の開催地であるブラジルも非常に治安が悪いそうです。それでも国家の威信のために、無理を承知で、ワールドカップを実現させてしまった力があります。なりふり構ってなんかいられない。そういう背水の陣の強さがあるのでしょう。
かつてブラジルで本場のサッカーを学び、日本のサッカー界に大きく貢献した三浦カズ選手は、残念ながらワールドカップへの出場という夢を(事実上)叶えることが出来ませんでした。私は、カズ選手の実力や人柄については全く無知ですが、ただ、何か(他国の選手が持っている様な)強烈なスピリットを感じます。サッカーに奉仕するという命がけの姿勢。未だに選手として、ストイックに全力を出し続ける男。なぜ彼がワールドカップに出場できなかったのか、本当の真実は分かりません。けれども、彼のスピリッツこそが、今の日本代表に必要なもののような気がします。結果はお天道様が出してくれるのだから、自分たちは(結果を恐れずに)ただ最善を尽くすのみ。そういう境地こそが、きっと第3戦に奇跡を生み出すのでしょう。本当に「全員」がその境地に成れば、奇跡は起こる。
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さて先日、大林宣彦監督の最新作「野のなななのか」を観ました。2年前の「この空の花~長岡花火物語」の衝撃を受け、次回作に対する期待値は(コアな映画ファンの間でも)大変なものに成っていましたが、その中での「野のなななのか」の公開です。この映画は、北海道の芦別を舞台にした「古里映画」という装いをしていますが、実際は、極めて異質で特異な作品で、人間の「生き死に」と「輪廻転生」を描いた新たな表現芸術でした。実は(正直言って)「この空の花」で受けた衝撃感、圧倒感、爆発感は皆無だったので、そのような意味では裏切られた感がありました。けれども同時に、「この空の花」とは真反対へ向おうとする極めて異質で特異な世界観がそこに在ることに気づきました。「この空の花」を陽とするならば、「野のなななのか」は陰の世界。私は多くの人に「この空の花」を見るように勧めましたが、「野のなななのか」ではそうはいかない。人には勧められない(苦すぎる)。でも自分だけはクセになる。そのような摩訶不思議な映画でした。
タイトルにある「なななのか」とは四十九日のことです(7×7=49日)。一人の老人の死を通じて、生者と死者が共に生きながら(輪廻転生の中で)命を繋いでいく。その物語は、決して重苦しくなく、悲壮感もなく、けれども(ある種の)異常な表現方法によって、芦別の美しい自然と混然一体と成ったワンダーランドと化して浮かび上がります。その背景には、(前作同様に)戦争、震災、原発という悲惨な現実が同居しつつ、中原中也の詩と「野の楽師」による死と生の匂いが全編に漂い続けるのです。
大林監督は、前作「この空の花」と「野のなななのか」を「シネマ・ゲルニカ」と表現しています。「ゲルニカ」とは、画家ピカソがスペインのゲルニカの里の戦渦の様を描いた作品ですが、その凄まじいばかりの様相を直接的に描くのではなく、あえて抽象的な表現に昇華させた傑作です。目を背けたいものをそのまま描いては、人は実際に目を背け、記憶の彼方へと消え去ってしまう。よって、この現実を未来永劫、人類の記憶に残す為には、まったく違う姿・形(虚像)として描き、けれども見る人の心の中に真実(本質)の記憶を刻み込むしか方法はない。まさにピカソの絵は、そのような役割を果たし、同時に2つの大林作品、「この空の花」と「野のなななのか」も、美しき「作り物」としての「虚像体験」という姿・形を取りつつ、後世(=子どもたちの未来)へ向けて、戦争や震災の悲惨さ(本質)の記憶を遺そうとする挑戦なのです。
この映画は(実は)自主映画であり、自主配給・自主上映によって運営されています。よって、公開する映画館も極めて少なく、しかも独立系の小さなシアターしかありません。けれども東京では、今回も(「この空の花」と同様に)「有楽町スバル座」という(古き良き)由緒あるロードショー館にて公開されました。これはスバル座の支配人と大林監督の個人的な友情関係があってのことらしいです。そのようにして、大手メジャー映画とは全く違う苦難の道を歩みながらも、(確かに)多くの人々への大きな影響を与え続けている創造活動というものに、私は大きな共感を覚えるのです。サッカーも映画製作も経営も、共に思いを共有し、ゴールへ向かって突き進む過程に中で、何か特別な力が与えられるのでしょう。だからこそ、最後まで諦めず、今できる事への全力投球しかありません。その為にも、心を1つにすること。それが全ての創造の原点だと思います。

地球さんへ

5月はゴールデンウィークがあった為か、営業日数が少ない分、とても忙しい感覚がありました。国民としては、休日が多いことは(当然)喜ばしいことですが、国全体の経済力(生産力)という面においては、近年の日本の国力の著しい低下傾向を見ると、むしろマイナスに働いているのかもしれません。確かに休みが増えると、観光、レジャー、グルメ等に対する消費は増えると思いますが、その効果は限定的であり、常に人気次第で持続性も無く、これからの日本の未来を築く様な根本的な新技術や新産業への活力まで結びついていないと思います。要は(日本の最高の強みである)経済力と技術力を軸とした「国力の回復」に向けて、国家の全資源が総動員できていない現実があると思います。
今、原発に対する様々な議論が再燃しています。漫画「美味しんぼ」の表現や、大飯原発の再稼働を認めない判決も出ました。原発(=放射線)は人間の生命に関わる装置であり、人間が全てをコントロールできる様なものではありません。しかしながら地球の内部にある(有限資源である)化石燃料を(今まで通り)掘り続けることも、もうすでに限界です。化石燃料を掘り続けることは、地球(自然界)を傷つけることになるからです。でも一方で、原発利用は人類の生命を脅かすことになります。私たち人間は(長い時間)このジレンマの中で(主義主張とエゴと欲に飲まれながら)化石燃料と原子力発電の間を右往左往して来ました。原発も事故など起こるはずが無いという建前でした。しかしながら実際に(ソ連、アメリカ、日本で)重大な原発事故が起きてしまった。ならば、これから行くべき道は、化石燃料から原発を経由しての、(人も自然も傷つけない)「第3のエネルギー」と成ります。
それは、化石燃料や原発を「止める」という捉え方ではなく、次代へコマを「進める」という概念のような気がします。一刻も早く原発に依存しない社会、けれども自然環境をも壊さない社会を実現する為には、みんなで「第3のエネルギー社会」を目指して行かなければなりません。そのような方向性とビジョンを共有して、今現在の人間社会を(現実的に)支えてくれている様々なエネルギー(化石燃料や原発)への「感謝」の思いも共有しつつ、その上で、「さあ、次へ行こう」と。「賛成」vs「反対」という対立構造から、「共に地球の未来を創ろう」とする人類共通の目標に向かって、お互いの考えや立場を理解し尊重し合いながら、もう1つの新しい社会への進化を目指していく。私たちは過去と現在を肯定的に理解し、その上で、一致団結して(一刻も早く)人も自然も傷つけない新エネルギーを開発・稼働することが大事だと思います。
そのような基本技術はすでに存在していると聞きます。その技術が世に出ると困る産業もあるのでしょう。しかしながら最大の問題は電力コストの様です。先日のNHK番組では、ドイツの再生可能エネルギーは世界一進んでいるが、その分、電力コストが上昇してしまい、多くの企業の工場が次々と隣国に移転しているとのことでした。その隣国では原発による電力供給がなされていて、電力コストが安いからです。よって、現在のような世界的な不況下において、再生可能エネルギーへの転換は容易ではないのも事実です。そのような現実をお互いに共有しながらも、全地球的な見地で物事を捉えて、大きな流れを造って行きたいものです。その流れの中で、それぞれが「第3のエネルギー時代」への適応能力を高め、コストを下げる仕組みを開発して、経済システムを再構築して行く。それだけの時間軸には、まだ間に合うのではないでしょうか。
このようにして考えて見ると、この社会というものには必ず(矛盾する)2つの力が存在していることを感じさせます。陰と陽があって、はじめて全ての物質や思考が発生しているのではないかと。エネルギー問題にしても、化石燃料と原発という(大きく分けて)2つの力が在りますが、お互いに主義主張を持っています。大切なのは(そこで戦い合うのではなく)その2つの力を融合させて、第3の「何か」を(早く)生み出すことではないでしょうか。お互いの力を合わせて、新たな技術、発想、生命を誕生させること。世の中の仕組みの中に(もし)そのような側面が在るとしたら、戦争を経験したことで、戦争を終わらせる(=戦争エネルギーを別のエネルギーへ昇華させる)ことも可能なのかもしれません。要は、その力の(見た目の)現象ではなく本質(真因)を見抜くこと。
私たち人間が現実を生きるとは、このような矛盾する力の中で、いかに自らと社会を進化向上させていくかということなのかもしれません。逆に言うと、矛盾する力(=解決が困難な課題)があるからこそ、次の何かが生まれる訳です。結局のところ、なぜ地球が宇宙空間で浮いているのかも分からない人間に、世の中で起きている森羅万象を都合よくコントロールする力は在りません。そのことに気づけば、大切なことは外界を変えることではなく、自身の内面を変えて行くことしか無いのではと分かります。その思考の根本には、大自然への感謝、大地への感謝が在ります。そもそも「地球」にとっての真の平和とは、実は「人間がいないこと」なのですから・・・。けれどもそれでは宇宙自体の存在否定です。私たち人間は、この美しい地球上に(無料で)生活させて頂けていることへの感謝の心と謙虚さを決して忘れてはいけないと思います。だからこそ、無料で住まわせていただいていることへの替りとして、(この地球上で)次から次へと起こる矛盾する現象に真摯に向き合いながら、そこで味わう困難と悲しみを乗り越え、そこから新しい「何か」を生み出して行く。それが人間の進化向上とつながり、地球(自然)に一歩近づくことに成り、それが地球自身の真の平和に成るのではないだろうか。それこそが、私たち人間が地球に住まわせていただく為の許可証ではなかったのか。
つまり、私たちの人生とは、目の前で起きて来る(答えの出しようのない)矛盾や困難を乗り越えながら、新たな「何か」を創造して行くことなのかもしれません。もし、そのような「矛盾」や「困難」が無ければ、生きる意味の否定にすら成りかねません。人間が進化向上することができれば、地球にとっても(人間が)「無害(無為自然)」な存在に成るのでしょう。地球さんは、そのような(私たちの)進化向上を加速させるために、あえて(人間にとって)厳しい現象や現実を用意しているのかもしれません。と言うことは、(逆に)そこを乗り越えることができれば、それこそが地球さんが最も喜ぶことであり、同時にその結果として、今の私たちには不可能だった問題解決が(次々と)出来て行くのかもしれません。戦争や原発も(もしかしたら)その為に地球さんが用意した(私たちへの)重大課題だったのかもしれません。
未来の子どもたちと未来の地球さんの為に、私たちができることは、やはり(大自然に対する)感謝と謙虚ではないかと、あらためて感じます。その「感謝の心」と「謙虚な思い」を最も強く持っている国民が日本のような気もします。日本にもいろいろな問題が山積していますし、危うい面もあるように思います。それでも(他の国や地域に比べれば)幸せな世界に生きています。毎日のテレビ番組のプログラムを見れば、呆れて物が言えないレベルであることは確かに事実ですが、かと言って、国民全てが無知で無教養という訳では無く、きちんとした時代認識ができている若者も多く見受けます。むしろ大人たちの方に問題があるのかもしれません。今、私たちは(せっかく)厳しい時代を生きているのですから、そこから得られるものを極めて大きいと思います。しかも過去の歴史という蓄積経験も持っています。いよいよ進化向上のための大舞台が出来たのではないかとすら感じます。先ずは、そこへの感謝から始めたいと思います。

「ルルドの水」と「菜の花や月は東に日は西に」

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今朝(5日)、ガタガタとした揺れを感じて飛び起きたところ、さほどの大きな地震ではなくてホッとしたのですが、念のためTVを付けたら、東京23区(千代田区)で「震度5弱」でした。揺れ自体はそんなに激しく感じなかったのですが、「震度5弱」とはとても大きな数字です。確かに揺れ方が(今までとは違う)ちょっと変な感じがしました。最近は岐阜の方でも「震度3」程度の群発地震が起きていましたが、このような小規模の地震が小出しに起きることで、むしろ巨大な地震エネルギーが発散してくれるのであれば、(人間にとっては)ありがたいことです。
日本の場合は、元々が地震国のため、他国に比べれば建物の耐震性は(非常に)高くて安全です。けれども、昭和56年(1981年)以前の旧耐震基準の建物もまだ多くあり、その耐震化を進める努力が進んでいます。また都内には木造住宅密集地域も数多く有り、そこでは災害時における火災の問題が心配です。昨日は新潟の海岸で(5名の方が亡くなるという)悲しい事故がありましたが、津波、台風、豪雨を含めての水の事故にも気を付けなければなりません。どんなに準備や対策をしても、自然の猛威(地、火、水、風)を恐れる気持ちは大切だと思います。
この連休中にも山の事故が(数件)起きていますが、私たち人間は「山を恐れる(畏れる)気持ち」を決して忘れてはいけないと思います。それは、山の厳しい天候的な面だけではなく、もっと神聖なもの、つまり、自然界に対する畏れ(信仰心)の様な種類のものです。日本の山々の中には、古来より「霊山」として地域の方々に敬われている山や森があります。そこにはむやみに人は入らず、この地を護っていただいていることへの感謝の祈りを捧げるのみです。つまり、山や森そのもの(全体)が「御神体」ですので、(当然)人間が土足で入る様な場所ではありません。けれども今の現代人は、そのような(自然界への)畏怖の念を喪失していまい、どこへでもレジャー感覚で入り込んで行くようになりました。あの富士山に登る事さえも、本当に良い事なのかどうか分かりません。
最近のニュースで、エベレスト登山の為の入山料が(日本円で)約250万円(ネパール側)と知りました。これは、確かに(人間的な経済感覚としては)非常に高い金額ですが、(人間が)世界最高峰の「聖地」に立ち入るには、それくらいの意識と覚悟と心構えが必要なのでしょう。「険しく危険」という理由だけでなく、決して気楽に立ち入る様な場所では無いという自覚です。富士山も同様に、否それ以上の意味合いが在る様に感じます。ある程度の高額な入山料を取り、山を汚さない意識を共有する必要があるのではないかと思います。
今回の韓国の客船沈没事故は、明らかに人災の様ですが、その後の地下鉄追突事故もきっとそうでしょう。けれども日本でも、2005年にJR福知山線脱線事故で、乗客と運転士合わせて107名が死亡しています。これも人災でした。日本の方が安全対策や救助対策のレベルは高いと言われていますが、人間である以上、絶対的な完璧は存在しません。ありとあらゆる完璧な対策を講じて、それでやっと半分。残りの半分は、大自然の摂理に委ねられているのではないでしょうか。合理的な考え方では、そのような目に見えない不確定な領域は無視すべきでしょう。けれども、私たち日本人の心の奥底には、何か・・・そのような深い部分にある「祈りというもの」が(まだ)いくらか残っているような気がします。4日には、インド西部マハラシュトラ州で列車が脱線し、少なくとも18人が死亡、112人が負傷しました。特定の宗教を持たず、八百万の神(森羅万象)を畏れ敬うという(世界的にも珍しい)自然信仰の国である日本が、それでも他国に比べれば、安心安全な国でいられるのは、自然界やご先祖様への「祈り」の文化が残っているからではないかと感じます。
今、建設業界では人手不足が大きな課題に成っていますが、外食産業やサービス業、物流等も同様で、大手牛丼店でも人手不足による一時閉店が起きています。世界的には仕事がなく、失業者があふれているのに、日本は真逆の状態です。人手不足も確かに大きな問題ですが、それでも仕事がない、やることが無いよりとても幸せなことです。あとは、方法論で解決して行けば、また新しい発想やシステムや意識改革が生まれて行くでしょう。このようにして、日本はいつも様々な苦境を経験しながらも、その中で必ず不思議な力が働き、逆の良い方向へ向かって行きます。
最近、奇跡の水として有名な「ルルドの泉」を描いた映画「聖処女」(1943年)を(DVDで)観ました。フランスのピレネー山脈にある小さな村ルルドに実在した少女ベルナデットが、ある日、村外れのマッサビエルの洞窟で白衣の聖女(聖母マリア)を幻視し、土を掘るように言われます。そこから湧き出た泉の水で、死にかけた赤ん坊の命が救われます。無学なベルナデットは、聖母マリアのことが誰だか分からず、最初は「あれ」と呼んでいました。その後、聖母マリアがベルナデットに「自分は無原罪の御宿りです」と伝え、そのことから、ベルナテッドの前に姿を現しているのは「聖母マリア」であることが判明します。しかしながら、何時の世でもこのような人は社会から隔離されてしまい、最後は修道院に入り、35歳で、肺結核で亡くなりました。
聖母マリアは、この少女の前に18回も姿を現したそうです。その後、聖母が現れた場所には聖母像が建てられ、やがては大聖堂が建てられ、今や世界中から巡礼者が後を絶たず、ルルドの水の「奇跡」を求めて多くの人々が集まって来ます。ルルドでは、これまで約2,500件の「説明不可能な治癒」が起き、その中でも「奇跡」と公式に認定された症例は68件在るとのことです。無学でしたが、心の清らかな一人の少女が見たものが、本当に何(誰)であったのかは、今では分かりません。それに、本当に「見た」のかどうかも分かりません。けれども、そこで起きた数々の「奇跡」が事実である以上、きっと「何か」と出会ったのは本当なのでしょう。
もしこれが日本だったら、聖母マリアではなく、誰だったのかと想像します。けれども、なかなか出て来ません。日本の場合は、そのような存在は、特定の人物や姿ではなく、何か自然界の中に溶け込んでいるような感覚があるからです。日本の場合は、森羅万象のありとあらゆるものの中に、既に「それ」は含まれている、宿っている、たたみこまれている、漂っている。例えば、小さな菜の花の花びら1枚に在り、夏の草原を爽やかに吹く風の中に在り、秋の夕暮れに鳴く虫の声に在り、野山を銀世界に変える雪の結晶に在る。私たちが「そこに在る」と感じれば、そこに出現する。きっと松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村のような俳人たちは、そこに在る「それ」を見て(あるいは聞いて、触って、感じて)限られた数の中に「文字として」転写したのではないでしょうか。たった17文字の中から、(私たちが)そこに漂っていた空気、風、色、音、感情、思い、想念を感じと取ることが出来るのは、日本人が共有する「それ」が普遍性を持って、媒体化されているからかもしれません。
ちなみに私が知っている数少ない俳句の中で、一番好きなのが、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」です。とても分かりやすくて、その光景がイメージしやすくて、春の夕暮れに、黄色い菜の花の咲く田園の向こう側で、オレンジ色の夕日が沈んで行く時、反対側の空には、丸いお月様が光り始めている・・・。本当の解釈は違うのかもしれませんが、大自然の雄大さと美しさの中で、夕暮れ時の侘しさと、太陽と月が彩る宇宙とが混然一体となって、私(人間)と自然界を優しく結び付けてくれる様な、そういう思いやりを感じるのです。きっとそこには、何か、特殊な(目には見えない)意志が存在しているのではないかと。
日本の文化について、私は全くの無知ですが、日本人の心の中に在る「自然界の中に何かが在る」という思いの積み重ねが、今の日本を形づくっているのは間違いないと思います。私も「それ」を大切にして行きたいのです。日常の生活でも、人間関係の中でも、仕事においても、経営においても。もし日本の気象や経済や事故等が、すべて日本人の想念の総和によって引き起こされているとするならば、みんなで「それ」を意識して行くことが出来れば、きっと今を乗り越えられるのではいかと。「それ」とは、人によって表現は違うと思いますが、時に「心」であり、時に「愛情」であり、時に「思いやり」であり、時に「感謝」だと思います。
日本中、否世界中の地震や事故や不況や悲しい出来事を、全て幸福な出来事に変えてしまおう。そのためには、何か大きな運動を起こすのではなく、私たち個人の日々の、ごく日常の極めて小さな事柄、小さな場所、小さな出来事、そのような細事の中に「それ」を見出していくこと。例えば、(道や外に)ゴミを捨てないとか、人に優しく接するとか。これをみんなでやって行けば、きっと世界は今を乗り越えられると思います。「ルルドの水」は、フランスのルルドまで行かなければ、手にすることは出来ませんが、自分自身の心の中に「新しい意識」を宿すことは(誰にでも)今すぐに出来ます。それはまるで、「ルルドの水」を体内に持つが如くです。私たちは日本的な「森羅万象」という1つの軸を(心の中に)持つことで、一瞬にして、世界中のどこへでも行けるのかもしれません。それが、私たち日本人のDNAの中に隠されているとしたら、何かワクワクして来ます。そういう意味合いの俳句があったら、面白いですね。
※最近の音楽DVD
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基本的にクラシック音楽が好きなので、ロック系、しかも日本人アーティストの音楽は全くと言って聞くことが無いのですが、最近、何となく気になって買ってみたライブDVDがなかなか良かった。「エレファントカシマシ25周年ライブ」です。名前は知っていますが、実際の曲までは良く知らず。その上、とにかく男性的なロックで、自分の好みとは正反対。けれども、何か感じるものがありました。もの凄い顔をして朗朗と歌を謳い上げ、叫ぶボーカルの男(宮本浩次さん)の姿は、「うまい」とか「すごい」とかいう生易しい表現よりも、まるで「鬼神」の様で、そこには生身の「狂気」を感じました。同時に不思議な「童心」も・・・。多分、作られた(演出された)ものではないような気がします。聞くところによると、人生で最初に買ったレコードが、ベートーヴェンの「運命」だったとのこと。昨年、宮本さんは急性難聴になり、耳が聞こえない恐怖を味わったとのことですが、髪の毛もぐちゃぐちゃなので、見た目もまるでベートーヴェンの様です。
本来、真の芸術家とは、ある種の狂気を持って、自らの作品造りに没頭し続ける者で、最近の芸能人的なアーティストは、どちらかと言うとタレントであり、流行をうまくキャッチしてヒットを飛ばすことが上手です。けれども芸術家とは、そういう流行を追うことよりも、物事を「探求する」方向へ全エネルギーが向かうので、必ずしも生前に認められる訳ではありません。むしろ不幸な一生の人が多いです。この「エレファントカシマシ」の場合は、もう大変メジャーなバンドですから、もはや不幸なはずはありませんが、けれども、「探求者」の道を歩んで来たような印象を受けました。
世相への皮肉を込めた激しい曲もありますが、その根底には、「挫折や悲しみを乗り越えて行こう」「胸を張って生きて行こう」「素晴らしい人生を送って行こう」「音楽って素晴らしい」というような、極めて純粋無垢で前向きな意識が感じられます。曲想も独特かつ個性的で、歌詞には日本文学の匂いもします(森鴎外や夏目漱石等が好きらしいです)。クラシック音楽を聴く自分が好きに成る音楽(家)は、やはり「求道者」的な人が多いです。これだけメジャーなプロのバンドなのに、観客に対して「たくさん練習して来ました」と言うのは、とても奇異な感じがしますが、実際は本心なのでしょう。常に最善を追求して行くことが、この人たちにとっては、当たり前の事なのではないか。見習うべきことがたくさんあるように感じました。

生きよう!

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(映画「心」)
韓国船の沈没事故では多くの犠牲者が出ています(早期の救出を心からお祈りいたします)。先のマレーシア航空機の行方不明事件もそうでしたが、海の上の事故への対応はなかなか思うように進みません。だからこそ、常に事故への防止対策や事故を想定した訓練が必要なのでしょう。今回の韓国船においては、(事故当時)操舵室に船長がいなかったらしく、そのような「過信」が今回の事故の根底にある様な気がします。日本から購入した船に増築をしていたとのことで、乗客の事を心から考えていたならば、そのような危険な行為はしなかったと思うのです。
前のブログで紹介した映画「この空の花~長岡花火物語」の中で、「想像力」という言葉が多く出て来ました。想像力とは、相手の気持ちを考えて、思いやること。想像力が無ければ、相手の立場に立つことはできないからです。「もし自分だったら・・・」と想像する力を失ってしまうから、きっとこのような事故や事件が多発するのでしょう。想像力を奪われることが、人間にとって、一番の不幸なのだと思います。沈みゆく船から逸早く逃げ出したのが船長だったという事実を知ると、まさに「想像力」の問題ではないかと思います。
みんなが相手の立場になって考えられる社会になれば、きっと世の中はもっと良く成るでしょう。けれども、だんだんと物事が分かるようになって来て、慣れて来ると、なぜかこの「過信」が心の中で増長してしまい、遂には傲慢と成り、初心や謙虚さを失って行きます。成功者なのに(なぜか)良い晩年を迎えられない人たちが(確かに)いるのも、(無意識の内に)傲慢になり、謙虚さを失っている自分自身に(最後まで)気が付かないからではないでしょうか。もちろん、謙虚さと自己卑下とは違います。自己卑下は自分自身へのイジメですが、謙虚さは森羅万象への感謝です。生きて行く過程の中で、あらゆるものへの感謝の心を大きく持って、他者への想像力(思いやり)を高めて行くこと。これが(人類共通の)人生の目的の1つではないかと感じます。
最近、DVDで映画「心」(1973年)を鑑賞しました。これは夏目漱石の小説「こころ」の中の(主に)「先生の遺書」の部分を映画化したもので、新藤兼人監督の作品です。他に「こころ」の映画化は、市川崑監督による名作がありますが、新藤監督の「心」は、原作をベースにしながらも、独自のイメージと映像で脚色したものです。けれども、夏目漱石の描く原点から外れてはいないと思います。人間の持つ根源的なエゴと欲と葛藤を、美しい自然美を背景に表現していました。
結局、人間の成功や幸福とは何かを追求していくと、自分自身の「心」、つまり「良心」との対峙を乗り越えて行かなければならないことに気づきます。何よりも恐ろしい存在は、他の「誰か」では無く、(実は)自分自身の「良心」ではないのかと。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」は、「そういう者に私は成りたい」と結ばれていますが、「そういう者」とは「デクノボウ」であり、「無欲」で、「自分を勘定に入れない」人のことです。夏目漱石の「こころ」の「先生」は、「そういう者」に成れなかった自分自身を、最後に(自ら)罰したのではないでしょうか。
それでも人間は「生きて行くべき」だと思います。良心の呵責に苛まれること自体が、自分自身の「良心」の存在を「肯定」していると思うからです。今回の韓国船沈没事故で、多くの学生が被害に遭った高校の(引率をしていた)教頭先生が、自殺したそうです。良心の呵責、あるいは責任の重み。でも、そのような「生身の体験」を通じて、自分自身の「良心」と対峙(格闘)することこそが(もし)「生きる」ことだとしたら、あるいは(もし)そのように捉えることが出来たならば、今を生きて、今出来ることを精一杯、懸命にやっていく道が在ったのではないか。そのような経験を乗り越えたからこそ、他人の痛みを感じられる「想像力」を持つことが出来るのではないか。
起きた事や終わった事に(いつまでも)クヨクヨしたり、自身や他者の失敗を(いつまでも)責めたりしても、そこには何一つ人間らしい「想像力」は生まれません。「今」という現実を直視し、ありのままを受け入れて、その上で自分自身の「良心」の声を聞きながら、前へ向かって歩いて行こう。そういう自分自身を見出すことが出来れば、胸を張って歩いて行ける。自分を評価するのは(決して)他人ではなく、自身の「良心」だと思うからです。人間は自分の良心から(永遠に)逃げられないと思います。死んでも逃げられない。ならば今、ここで、「良心」と仲良くすれば良い。「良心」はいつも、懸命に生き続けようとする「私」を(誰よりも)愛し、応援してくれていると思います。
宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」も、高畑勲監督の映画「かぐや姫の物語」も、「生きろ!」を主題にしていたと思います。夏目漱石の「こころ」も、(逆説的に)きっとそうなのでしょう。「かぐや姫の物語」の中に、「生きる為に生まれて来たのに」という(かぐや姫の)台詞がありました。私たちは(みんな、みんな)生きる為に生まれて来た。だったら、素直に生きれば良い。生きて、生きて、幸せを感じること。幸せとは、相手の幸せを祈ること。喜びとは、相手の喜びを願うこと。これが「想像力」です。「未来の子ども達が安心して暮らして行ける世の中を遺して行こう」が、映画「この空の花~長岡花火物語」の主題でした。未来の子ども達の人生を想像すると、今たくさんの心配事が在るからです。だから、今こそ、大人達が正しい人生観を示し、「生きる喜びと幸せを」伝えて行く時なのでしょう。

消費増税と量から質へ

今年の春は、美しい桜の開花と共に、消費増税が実施されましたが、今のところ大きな反動は無い様子で、日本人の(良い意味でも、悪い意味でも)適応能力の高さを感じます。これから私たち国民が、消費増税の影響を受けない為には、先ずは景気を良くして、収入を上げて行く道が在るでしょう。当然、政府はそのような方針を取っていますし、多くの国民は景気回復への期待を高めているところです。けれどもその一方では、「消費をしない」という最も単純明快な道が在るのも事実です。
実際に、まったくモノを消費(購買)しないで日常生活を行うことは不可能ではありますが、今まで以上に「無駄なものは買わない」「自分でできることは自分でやる」という発想は生まれて来るのかもしれません。案外そういう「質素・倹約・自給自足的・自立生活」自体に楽しみや喜びが生まれてくると、非消費型生活への加速が(今回の消費増税を機に、逆説的に)始まって来るのもしれません。
只、いずれの道にしても、「必要不可欠なモノ(サービス)」「どうしても欲しいモノ(サービス)」以外への消費行動は減少するでしょう。将来的に人口が減り、少子高齢化と成る国の中で、さらに消費税が上昇方向と成れば、マクロの経済は収縮して行くはずです。その中で、必要な業種、会社、お店と不要な業種、会社、お店とがさらにハッキリ分かれて来るに違いありません。要は(今は)何もかもが「多すぎる」のです。そのような意味において、人口減少の方向は、その「多すぎる状態」に対する反動として、自然界の調整機能として働き始めたのかもしれません。もう一度、社会のバランスを正常に戻す為の大自然の摂理なのでしょう。
今現在、建設業界のみならず、多くの業界で人手不足が起きていますが、これも案外すぐに落ち着いて来るのかも知れません。よく考えたら「要らない」ものが多いことに気づき始めるからです。みんながお互いに無理(無駄)をし合っている。だからこれからは、適正なバランスの中で、本当に人々の暮らしを守り、楽しくするモノやサービスだけが生き残るでしょう。企業活動も、拡大路線よりも持続路線の方に価値観が移行すると思います。それはむしろ地域と共に生き続ける中小企業の得意技です。
さらには、これから生き残るモノやサービスについても、その業種(商品)の外面的な内容と言うよりも、むしろ内面的な精神(思い、動機)の方に焦点が当てられて来る様な気がします。つまり、その商品(サービス)に「良心」が内在しているのかどうかです。自社の商品やサービスを買う(利用する)人々の「健康」や「安全」や「幸福」を(心から)思った上での提供活動なのかどうか。当然、ビジネス活動ですので、「売れるから売る」訳ですが、けれどもその中にも「良心」という視点をどれだけ含められるか。現在、スマホ等で氾濫している情報や、TVの娯楽番組もある種のサービス商品ですが、それが本当に利用者(視聴者)に対する「良心」の上に成り立っているのかどうか。「利用者が見る(使う)から提供する」と言うのは、確かに間違ってはいません。けれどもその中に、提供者側の「良心」あるいは「良識」を感じさせない限り、いずれ間違った道を行くような気がします。
文字通り「量から質へ」の時代が始まったのではないかと思います。消費税が上がることで、住宅、建設業の在り方にも変化が生じて来るでしょう。本当に良心的な会社(理念、人柄)なのか。良心的な商品(価格、品質)なのか。そういう厳しいお客様の期待に応えられる企業でなければ、消費増税後の新しい価値観による社会の中では持続して行かないでしょう。このように(確かに)厳しい時代ではありますが、(でも)逆に言うと、今すでに「良心的な会社」にとっては、ワクワクと楽しい時代の始まりです。
会社の「良心」とは、その会社の経営者と社員の人間性の総和だと思います。丸二の経営理念の中にも「社員の人格造り」という大きな柱が在ります。もちろん、まだまだ未熟です。けれども日々「1mmの前進」を大切にして、みんなの人間性(人間力)を高め、今の時代を超えて行こうと思います。建設業ほど「良心」の測られる仕事は無いでしょう。全て、完成後に「解かる」からです。そのような持続的な責任を持ちながら、長い間、地域で信用を保ち続けて行く建設業は、本当に一人ひとりの人間を成長させるものです。「良心」を育む場として、最高の仕事だと思います。丸二は、そのような意識を持ちながら、いよいよ始まった「良心経営」の時代へ向けて、最善を尽くして参ります。
※最近買った映画DVD
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2年前(震災の翌年)、何度も映画館に通って観た映画「この空の花~長岡花火物語」が遂にDVDとなり、また家で2回も観てしまいました。普通、映画は一度見ればストーリーも分かって、すぐに2回目、3回目とは成りにくいものです。それなのにこの映画は、まるで好きな音楽を聴く様な感覚で、観れば観るほどに、感動が増して行きます。去年の夏には、とうとう実際の「長岡花火」も観に行きました。戦争や震災で亡くなった多くの人々の事を、私たちは決して忘れない。長岡花火は(観光用ではなく)慰霊の花火、祈りの花火。未来を生きる子どもたちに、もう二度と戦争を味あわせてはいけないという必死の思いが「花火」と成り、あの「3.11」を経て、かつて戦争で死んだ子ども達を「2011年」に蘇らせるのです。そして死者たちは「一輪車」に乗って浮遊移動し、再び過去へと帰って行く・・・。大林宣彦監督が重病によって生死を彷徨った後に生まれた作品です。
※最近の写真
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池袋の立教大学前の現場、完成間際です。
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井の頭公園の夜桜です。キレイでした。
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武蔵野桜まつりへ。市役所前の桜の道。
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府中市の木造住宅の上棟です。夕日を背にする職人さん。
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その木造住宅のまわりを散策。懐かしいポストが。
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美しい花と青い空。東京にも身近に自然が。
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長閑な小川が流れていました。静かです。

春と生命産業

今年も4月と成り、桜の花が舞い上がる季節がやって来ました。最近の世の中の変化はとても激しく、かつ(マレーシア航空機事件のように)複雑怪奇な面が多く、正しい時代の流れを捉えにくい状態ではないかと感じます。そのような時は、春に成れば桜の花が咲くが如く、素直に「自然の摂理」に従った思考や生き方をして行けば良いのでしょう。そういう意味で、「四季」のある日本は恵まれています。何となく塞ぎ込んでいる日々を送っていたとしても、だんだんと気候が暖かく成って、美しい桜の花を目にすれば、気分は不思議と変わって行くものです。時間の流れとは本当に凄い。時の流れに身をゆだねる、水に流す・・・そのような自然界に在る「流れ」への意識さえ忘れなければ、自分自身の心を整え直すことは充分可能なのでしょう。そして今年も素晴らしい春がやって来ました。
現在の社会情勢や国際情勢、あるいは目の前の経済情勢や景気動向等、まさに先行き不透明な場所に立ち尽くしている私たちは、そのような厳しい外部環境と格闘しながらも、(その前に先ず)「自分自身」を生きて行くことに焦点を合わせるべきなのでしょう。私はいったい何のために生まれて、何のための生きているのか。少なくとも世の中と格闘する為では無いと思います。自分自身の成長の為、あるいは自分自身の幸せや生きる喜びを体感する為ではないでしょうか。外部環境とは、一人ひとりの「生きる喜び」を実現する為の時代設定(=背景)であり、舞台装置であり、物語設定だと思います。その物語が佳境(クライマックス)に入れば、自ずと「カタルシス」が起こり、自分自身の内側に感動や歓喜、生きる喜びが爆発するでしょう。この時代を生きている私たちは、相当ビッグなドラマを期待して生まれ出でたのではないでしょうか。時代が大きく進化進展する超激変期の中で、自分自身を生かしてみたい。まさに勇者の集まりです。
そのような激変期の中で、建設業の役割はますます重要に成るはずです。新しい時代造り、新しい国造り、新しい都市造り、新しい街造り、新しい住環境造り、新しい自分造り。それら全てを包み込む「生命場」を造ることこそが、建設業の使命です。建設業は、常に華やかな新ビジネスや花形産業の陰に隠れてしまいがちですが、人類が存在する限り永遠に存在し続ける「生命産業」の1つです。その建設業に今、人手不足の波が来ています。これは世の中の構造バランスを整える為の「平衡機能」の作動ではないでしょうか。世の中を陰で支えている「基礎」としての建設産業が手薄と成れば、社会全体の安定が維持できない。この不均衡の象徴として人手不足が現れたとすれば、この不均衡は必ず(早急に)是正されます。それは社会全体の根幹を揺るがす国家(人類)的な問題だからです。人間の生命に関わる職業、「生命産業」へのシフトが始まったシグナルです。
モノ造りの技術には、大きいも小さいも関係ありません。これからの「生命産業」としての建設業を支えるのは、お客様(住む人々)とより近い存在である「中小の建設会社」による「身近で親切なモノ造り」ではないかと感じます。激しい時代の変化に機敏に順応しながら、住む人の生命を(身近な存在として)守って行くことの出来る存在。そのような思いの強さこそが、この「生命産業」の核に成ると思います。
時代を超えて生き続けて行くものには、本質的な価値が在ると思います。短期的な(浮き沈みの)波ではなく、長期的な波に身をゆだねて、時間と共に生きて行くこと。昇る時は昇り、下がる時は下がる。けれども長期の波の方向はゆるやかに昇っている。自分自身をそのような「長期で昇って行く波」に置くこと。それが出来れば、短期の波に一喜一憂はしなくて済みます。世の中の動きに惑わされず、自分自身の長期の波に乗って行くこと。丸二の場合は建設業という悠久に続く波に乗りながら、お客様への思いやりを大事にして、自己の自立と成長を確立していく道を歩んで行きます。
※最近の写真
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中野区大和町にて地鎮祭を行い、(その後)中野サンプラザにてお客様との昼食会を行いました。写真は(その時の)窓からの街並みです。
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地元、武蔵野市吉祥寺本町で地鎮祭です。とても暖かい日でした。お客様のために、一生懸命に「良き建築」を造らせていただきます。
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渋谷区神宮前にて地鎮祭です。素晴らしい青空の日でした。日頃から「良きご縁」をいただいている設計事務所様からのご紹介です。

3.11と追求心

今日の夜中(AM2時頃)、愛媛で震度5強という地震がありました。大きな被害にならないよう心から祈ります。東日本大震災から3年が過ぎ、この一週間は「3.11への追悼」あるいは今後の地震予知(予測)等に関する番組が多く放映されていました。その中で、特に気に成っていたのが、東大の名誉教授の先生が、「この3月中に四国で大きな地震が起こるかもしれない」と話していたことです。全国に設置されている「電子基準点(地盤の上下動を測るもの)」の動きに大きな変動が起きているからとのことでした。もしこの予測方法と今回の地震との関連性を見出すことが出来れば、今後の地震予測への大きな一歩に成るのかもしれません。けれども地震そのものを(人間が)止めることは出来ないので、予測方法の追求と同時に日頃の防災意識が大切なのでしょう。さらには、地球(大地)への感謝の念を(一人ひとりが)持つこと。本当の根っ子はここに在ると思います。
前回のブログではロシアに関する話題を書きましたが、その後ウクライナ問題が表面化し、プーチン大統領の会見も報道され、現在はクリミア半島をロシアが制圧中とのことです。東欧の1つの国(地域)が、かつての冷戦構造を思わせるような緊迫した情勢と成り、私たちには解り得ない次元で、様々な戦いが始まったようです。このような戦いが起きると、必ずメディアは「こちらが善で、こちらが悪」という構図を設定します。その(作られた)設定(=シナリオ)に乗せられて、私たち一般人は短絡的な物の見方で世論を構成してしまいます。その繰り返しの中で、時代が築かれて行く。けれどもその結果として、世の中が良く成って来たかと言うと、良くなった面と、そうではない面の両方が混在していると思います。
実は「良くなったかどうか」という評価自体も曖昧で、それはそれぞれの国、勢力、地域、個人によって捉え方は違います。これだけ凄まじい技術の進歩があっても、未だに世界では貧富の差が大きく、根本的な問題が解決されたとは言えません。けれどもそのような中でも、日本はあの戦争以降、(おそらくある種の奇跡的偶然も重なって)比較的に幸福な道のりを歩んでいるように思います。地球レベルでの環境問題や人心荒廃の影響はありますが、それでも生きる意欲さえ在れば、生きる道が在ります。
今私たちにとって大切なことは、根本(本当のこと)への「追求心」だと思います。あの3.11で東北の大地と私たち日本人の魂は大きく振動しました。その後は、復興、再生が始まりました。けれどもそれは、形あるものを復元するという物理的な問題だけでは無く、もっと大きくて深い、真の「気づき」を見つける為だったのではないかと、最近感じる様になりました。このような時にこそ、私たちは物事の本質、あるいは本当の原因(真因)を追求し、発見し、そこを是正していかなければなりません。けれども、なかなか復興は進みません。福島の現状も厳しいままです。
3月8日にNHKで放映された「未来への手紙2014~あれから3年たちました~」を見ました。映画監督の是枝裕和氏をはじめ、複数のディレクターたちが被災地の子どもたちの3年を描いたドキュメンタリーです。震災から半年後に子ども達自身が撮ったビデオレターを振り返りながら、3年後の「今」の思いを本人たちが語ります。そこには大きな試練を乗り越えた(人間としての)精神的成長がありました。それにしても、子ども達にとっての「3年」とは、非常に長い時間軸ではなかったかと感じます。3年前の顔と今の顔とが全く違うからです。震災後の日々の日常(現実)を素直に受け止めながら、これからの自身の人生に向けて何か特別な意味を含めた熱い希望や期待を胸に秘めているかのように見えました。私はこの番組を見た時、未来の日本を造り上げて行くのは、きっと3.11を経験した子ども達ではないかと感じました。それくらい強く、頼もしく思えたのです。
他にも「東日本大震災から3年」をテーマにした様々な特集番組がありました。あの日、南三陸町の防災対策庁舎から(最後の最後まで)避難を呼びかけていた女性の死には、とても辛く悲しい思いが残りましたが、日曜日のNHKの番組の中では、その娘の死を乗り越えて懸命に生きようとする母親の姿が紹介されていました。涙なくして見られませんでした。そして今、ご両親は民宿を始めることにしたそうです。民宿の名前は「未希の家」。亡くなった娘さんのお名前です。防災意識と命の大切さを語り伝えて行くために・・・。震災から半年後、私が南三陸町に行った時、目にした防災対策庁舎の姿は、今でも心に焼き付いています。その記憶は決して忘れません。
話は変わって、先日謝罪会見を行った佐村河内守氏の事の顛末に付いてですが、一般論的な意味においては、やはり本当に愚かで、恥ずかしく、考えられない出来事だったと思います。ただ、一人のクラシック音楽ファンの気持ちとしては、一つの長大な交響曲がこの日本において誕生したことに、(確かにほんの一瞬の事ではありましたが・・・)心が躍ったのも事実です。佐村河内氏のプロデュース(構想プラン)、新垣氏の作曲という「ユニット」で発表して行けば、何も問題は無かった・・・。きっと2人は日本で誕生した新スタイルの「交響曲作家」として名を残したに違いありません。本当に残念なことです。
今の時代にクラシック音楽、とりわけ長大な交響曲などを作っても、「売れる」はずありません。それでも尚、生み出したい、売りたいという極度の欲求が「狂気」と化し、18年間に及ぶ「心の闇」を生み出したのでは無いでしょうか。幻となった「交響曲第一番」ですが、作者の名義を正しく修正することで、今後の演奏会の再開は出来ないものでしょうか。音楽そのものに罪はありません。この問題の真の論点は、この楽曲自体の評価に在ると思います。作者が誰であれ、どのような経過であれ、「良き音楽」には人は集まります。「音楽」が生んだ事件であれば、「音楽」の力で解決する。コンサートとCDが再開されれば、(逆に)相当な人気に成る状況です。そして多くの関係者が受けた心の傷や多大な損害も、もしかしたら(多少なりとも)解決できるかもしれません。そういう方向へ向かってもらいたいものです。
また、最近は「STAP細胞」の論文についても、いろいろな疑惑が出ている様です。上記の(佐村河内氏の)問題は、音楽の製作プロセスや製作者自身の人間性に「巨大な(故意の)嘘・偽り」が在ったのは確かですが、完成された「音楽(=作品)」そのものに嘘・偽りは無く、新垣氏作曲による立派な楽曲として世に生まれたのは事実です。STAP細胞についても同様にして、研究発表用データや資料の不備だけの問題なのか、あるいは「発見(=作品)」そのもの自体の誤りなのか、そこが大きなポイントだと思います。マスコミや報道は、こういう問題が起こると一斉に非難や誹謗中傷を始めますが、世のため人のために(善意の意識の上で)何かを生み出そうとする「志」への最大限の「敬意」と「感謝」を払った上で、事実を淡々と公開していただきたいと感じます。
マレーシア航空機の消滅、Jリーグの浦和レッズ戦における差別的な横断幕事件、大手電機メーカーの技術漏洩事件、そして昨日のような強風や愛媛の大きな地震。最近起きている様々な事件や出来事を見ていると、何かが堰を切って崩れ始めたかのような印象を受けます。今まで隠れて見えなかったものが出てくる時代。良きものも、そうでないものも一緒に・・・。全ては「3.11」から始まったのではないでしょうか。
3月11日の午後2時46分、心の中で黙祷を捧げました。日本だけでなく、世界においても、もう二度と大きな災害が起きませんように。世界中が平和で幸福でありますように。犠牲になられた方々の願いと祈りに応えられる自分たちに成れますように。その為にも、私たちはもっともっと時代の本質を追求して、物事の根本を理解して、そして認識し、さらには共認し、大本の部分から正していかなければなりません。東北の子ども達は、きっとその伝道者に成って行くと思います。「本当の生き方」や「本当の国造り」を追求する新しい日本の始まりです。
※最近の写真
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恵比寿で地鎮祭です。お客様、誠にありがとうございます。これから誠心誠意の心で、「良き建築」を造り上げて参ります。
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加子母森林組合(岐阜県)で、ヒノキの乾燥実験の報告会です。遂に、木材の芯まで含水率20%以下を達成しました。
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加子母の隣町、下呂温泉(岐阜県)の早朝の空です。静かで、穏やかで、澄んだ空気がとても気持ち良かった。
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三鷹の現場です。とても場内が整理整頓されていて嬉しかった。もうすぐ上棟です。「良き建築」の完成まで、がんばろう!
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愛犬「じんべえ」君、井の頭公園で夕日を眺めています。何を考えているのかな。家に帰ってからのゴハンに決まってます。
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井の頭公園の夕暮れです。モノクロで撮ってみました。なかなか良い雰囲気です。レトロ等もあったので、今度試してみよう。

浅田真央選手とロシアの大地

今朝のニュースで、ソチ・オリンピックの浅田真央選手のフリーの演技を見ました。涙が出ました。一日前のショートの演技を終えてから、きっと息すらも出来ない程の極限的な24時間を過ごされたことと思います。その深い、深い精神の闇の中から(自らの意志の力で)脱出することなど、通常の人間では不可能です。その闇を遂に自力で破り、平常心を取り戻し、その結果としてのフリーの演技は、何と自己ベスト更新だったそうです。しかも史上初の8回の3回転ジャンプを決めました。残念ながら(競技としての)メダルは逃してしまいましたが、「人間の強さ」としての(目には見えない)金メダルを授かったような気がします。それは、決して誰も(物理的に)手に入れられない種類のものでしょう。本当に見事でした。心から拍手と賛辞を贈りたいと思います。
浅田真央選手のフリー演技の音楽は、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」でした。私が大好きな曲です。ショートの方はショパンの「ノクターン」でしたが、ショパンの音楽はどうも苦手です。「別れの曲」の印象が強く、どうしても寂しさや悲しさをイメージしてしまうからです。ラフマニノフはロシアの作曲家です。同じロシアで有名なのはチャイコフスキーですが、私はチャイコフスキーよりもラフマニノフです。なぜかと言うと、音楽的には分かりませんが、ラフマニノフの方が「深い」気がするからです。浅田真央選手が選んだ「ピアノ協奏曲第2番」がその代表曲ですが、「交響曲第2番」も素晴らしいです。特に第3楽章のアダージョは心が洗われる音楽です。私が学生時代に製作した8mm映画にも、このアダージョを使ったことがありました。
ロシアの作曲家と言えば、ストラヴィンスキーも好きです。「春の祭典」や「火の鳥」が有名ですが、「原始主義」と呼ばれる作風で、当時のクラシック音楽界においては超異端的な存在でした。それは音楽と言うよりも、原始的な激しいリズムによる音響絵巻の様なもので、所謂メロディーらしきものは(ほとんど)在りません。「春の祭典」の初演時は、遂に観客が(演奏中に)怒り出し、劇場内が大混乱に成りました。それでも私はこの「春の祭典」が大好きです。荒涼とした寒い寒いロシアの大地の奥深い「地底」から湧き上がる様な「超大なエネルギー」を感じるからです。浅田真央選手の精神にも、きっとこのような根源的なエネルギーが宿っていたのではないでしょうか。
ロシアの映画監督では、何と言ってもタルコフスキーです。このブログでも紹介した「惑星ソラリス」「ノスタルジア」「サクリファイス」の監督です。その映像の美しさには、本当に凄いものがあります。同時に、「音」に対する感性が独特です。水が流れる音、火が燃える音等、自然界に存在する「静寂なる自然音」を、まるで日本人が秋の虫の声に感じる様な「わび」「さび」の世界として表現しています。西洋の人なのに東洋の美意識が宿っているかのようです。最近DVDでタルコフスキーの初期の作品「僕の村は戦場だった」と「アンドレイ・ルブリョフ」の2本を観ました。共にモノクロの作品ですが、美しい映像と共に深い精神性を感じます。完全に商業主義に背を向けた作品ですが、このように完成後約50年が過ぎても未だに生き続けています。こういう「信念」の映画作家が、今は本当に少なく成りました。
また先日、妻と一緒に試写会に行き、もうすぐ公開のアニメーション映画「ジョバンニの島」を観ました。これは北方四島の1つである色丹島が、(終戦後)ソ連軍に占領された時の物語です。シベリアに連れて行かれた父親に会いに兄弟が雪の中を行くのですが、あらためて大切な家族を分断してしまう「戦争」の理不尽さを感じました。しかしながら本作では、ソ連軍あるいはロシア人を決して批判的には描いていません。そこにはロシア人の女の子との心の交流や、ソ連軍の寛大な措置も在り、現在の北方領土問題に対する問題提起と言うよりも、むしろロシアとの友好に力点が置かれているように感じます。
この物語の底流には宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」が在ります。ジョバンニとは、「銀河鉄道の夜」の主人公の名前です。よって、世界全体の幸福を願った宮澤賢治の精神が、本作の真の主張ではなかったのではと感じます。日本とロシアの関係は、アメリカとの関係よりも薄く感じられますが、地理的にも近く、民族的な親近感もあり、また何か似たような「自然観」を共有している観もあり、これからもっと友好を深めて行ければと願います。ロシアのソチにて、遂に浅田真央選手の「心の地底」からの巨大エネルギーが爆発しましたが、あのフリー演技後の、悲しみと喜びと入り混じった何とも言えない表情は、これからの日本に何かを与えたのではないでしょうか。過去の艱難辛苦の全て含めて、喜びへ転化させること。日本もロシアも、きっとそれが出来ると思います。
※(本文と全く関係無いですが)我が家の「じんべえ」君です。雪が大好きで、雪の後の散歩に出る時に、「早く来い!」と吠えられてしまいました。この子はきっと雪のロシアでも生きて行けるでしょう。
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レジェンド日本

2週連続の全国的な大雪の影響により、関東地方に孤立した地域が生まれてしまい、未だ大変な状況が続いています。交通やライフラインが一刻も早く復旧し、普段の日常に戻れます様、心よりお祈りいたします。このようにして、地震にしても、台風にしても、大雪にしても、数十年に一度(あるいは数百年に一度)という大きな災害が頻繁に発生し始めていますが、あらためて自然界の力の猛威を感じます。今の地球環境の状況を考えると、今後もこのような自然災害はさらに増えて行くと想定されますので、可能な限りの防災意識と防災対策が必要でしょう。地震(=揺れに対して)だけでなく、竜巻、台風、大雪、大雨、洪水、津波、猛暑、寒波、噴火、火災、粉塵、大気汚染、ライフラインからの孤立等のあらゆる自然界からの猛攻に耐えうる(トータルとしての)強固な建物が必要です。建設業としての役割はますます大きく成ると思います。
けれども一方で、このような自然界が起こす現象の1つ1つは、私たち人間の生活にとって(実は)不可欠なものでもあります。現在開催中の「ソチ・オリンピック」にしても、多くの雪が降る地域だからこそ、開催都市に成れました。雪や寒さのおかげで、スキーやスケート等のウインタースポーツも発祥しています。結局私たち人間の方の都合で、降って欲しいとか、降らないで欲しいとか、ちょうど良い量にして欲しいとか、(恥ずかしながら)ついつい思ってしまう訳です。そのような(人間の)勝手な都合を自然界が常に聞いてくれる訳は無く、だんだんと「想定外」の事が増えて行くのでしょう。先日の二度目の大雪の日の夜は、ちょうど地元の友人たちとの会(誕生日会!)があり、みんなで大雪の吉祥寺の街を歩きました。それは、それは、とても楽しかった。多くの人は家に居て、開いているお店もほとんど無い中、大雪をたくさん浴びながら、人通りの少ない街中を歩くなんて、確か小学生の頃以来です。自然界に対する畏れと共に、感謝と喜びを感じることも大切だと感じました。同時に謙虚に向き合って、防災準備をしておくことも。これから自然界との付き合い方が、私たち人間にとって重大な課題に成っていくと思います。
さて、その「ソチ・オリンピック」ですが、羽生選手とレジェンド葛西選手の大活躍には胸が躍りました。本当に良かったです(心からおめでとうございます!)。努力の成果はいつかきっと報われる。自分を信じて、決して諦めずに、前へ向かって前進するのみ。多くの人は(きっとどこかで)諦めてしまうのでしょう。羽生選手は、あの東日本大震災でスケートリンクを失いました。レジェンド葛西選手は、幾度ものオリンピックに出場しながらも、不運の連続でした。それでも二人は決して諦めず、可能性を信じて前へ進み、遂に栄光を手にしたのです。レジェンド葛西選手は、他国の選手からも尊敬され、チームの為に涙を流しました。そして私はこれを見た時、日本の行くべき姿を想起したのです。他国から尊敬される国。みんなの期待に応えようと涙を流す国。積年の艱難辛苦を乗り越えながら、愚直にただ1つの道を歩み続ける国。そこに「レジェンド日本」の姿が見えました。
世界で日本ほど尊敬されている国柄は無いそうです。その「国柄」自体が大変な価値ではないかと思います。南北、東西に長い地形で、美しい四季(自然)があり、3.11の時に「東北」が見せた素晴らしい人間性の宿る国。(他国に比べて)国からの支援が少ない中、自身の純粋な思い(夢)だけでオリンピックを目指す人たちがいる国。ああ、日本の良さをもっと世界に知ってもらいたい。自然信仰が残り、自然を大切にし、自然界と共に生きようとする日本を知ってもらいたい。東日本大震災から始まった自然界からの大試練を乗り越えて、真の世界の雛形に成り、他国を正しい道へ導く役割を果たす。日本は、それが出来る国だと思います。レジェンド葛西選手の涙を見て、それが揺るがない確信と成りました。
※武蔵野市吉祥寺南町(井の頭通り)の現場です。おかげさまで無事完成し、引渡しが終わりました。お客様に心から感謝いたします。
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※池袋の立教大学の前の現場です(右が現場、左が立教大学です)。もうすぐ躯体工事が完了します。お客様に心から感謝いたします。
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