

2013.10.26
今年は10月に3つの大型台風が発生し、日本各地に大きな被害をもたらしました。特に伊豆大島は大変な状況と成り、犠牲に成られた方々には、心より御冥福をお祈りいたします。ここ数日、日本列島に近づいていた2つの台風は、かろうじて進路変更があり、上陸は避けられたようです。それでも長時間の大雨の影響は在るのでしょう。また今朝の未明には、福島県沖で大きな地震がありました。あの3.11の余震とのことです。2年以上が経っても、まだ余震が続いている・・・。これからは地震や災害があるたびに、その地域内の原発の具合が重大な確認事項に成ります。そのような社会構造を造り上げてきたのは(他ならぬ)私たち人間の総意の結果ですので、誰の責任と言う発想ではなく、常に危機意識と防災意識を持って、あらゆる機関や地域や国同士が協力して、対応していくことではないかと思います。
世界経済においては、米国のデフォルトは一時的に回避されましたが、根本的な問題が解決した訳ではありません。米国債を大量に保有する日本にとっても大きな火種ですが、相対的に見て、日本という国に対する信用は強く、最も厳しい財政状態にも関わらず、世界経済を支える役目が回って来そうな気がします。中国や韓国という近隣国との関係性は悪化したままですが、米国やプーチン大統領のロシアとは、強固な絆があるように思え、今はそちら側と力を合わせて行くのが自然だと思います。それまでは近隣国に対する緊張感を持って、経済的にも防衛的にも、シビアな対策が重要だと思います。
また来年4月から消費税が8%に成りますが、国民の所得(賃金)が本当に上がってくるのかどうかがポイントだと思います。同時にインフレ傾向が持続していくと成ると、先々の物価上昇を意識して、早めの消費活動も生まれるのでしょう。理屈通り行けば、消費が増え、税収も増え、国も国民もハッピーに成るという図式だと思います。けれども、そのように上手く行くのかどうか・・・。ただ、人間が生きて行く上で絶対的に必要不可欠な「衣(医)食住」の分野は、ますます重要に成って来ると思います。中でも「食」と「住」はその「要」ではないでしょうか。
最近、自然界の動きに数々の異変が起き始めていますので、今後は食糧難が起こるのかもしれません。健全な「食」によって「医」への負担が減ることも考えると、生命と健康のための「食」は最大の関心事です。同時に、3.11や今回の台風被害を見ても分かる通り、「住宅(建物)が人間の生命を守っている」ことに改めて気づかされます。今後もこのような自然災害の増加を想定すると、ますます強固な建物への志向は、先ず何よりも優先されるべき時流に成るのでしょう。ついに家は「夢のマイホーム」時代から、「家族の生命を守る」時代に変化して来たと思います。地震(耐震性能)だけでなく強風、突風、竜巻、津波、水害、液状化、火災、爆発、放射線等に対してどれだけの耐久力があるのかどうか。そういう総合的な視点で、自然の猛威に耐えられる建物に暮らすことが、何よりも優先される時代に成ったと思います。よって、私たち建設会社の役割はますます重要に成って来ました。同時に職人不足等の問題解決も急務です。世の中のニーズに応えられるよう全力投球です。
先週の土日は、「第13回加子母森林ツアー」に(約20名の参加で)行ってきました。本ツアーを始めて5年と成りますが、のべ250人以上の方々を岐阜県加子母の裏木曽の山へお連れしたことに成ります。加子母の山は、伊勢神宮の御遷宮のために使われている「ひのき」の産地で、強度も高く、色も独特のピンク色で、自然の猛威に対抗できる力を有した特別な「ひのき」が育つ森です。加子母の山を管理する加子母森林組合も、日本全国の中で有数の森林組合で、夢の「四世代複層林(4世代のひのきが同じ森に同居すること)」にも取り組んでいます。丸二の建築は、このような日本の精神の中心的存在である「伊勢神宮」をお守りしている、強固な「加子母ひのき」による家造りや、最強固な建築工法である「鉄筋コンクリート造」に「ルネス(逆梁)工法」「外断熱工法」「パワー・コンクリート工法」を付加させて、あるいは建物を強化するリフォーム等で、さらなる安心・安全・快適を実現しています。
時代は移り変わります。時代と共に、建築も変化して行きます。大自然との総和する中で、丸二が取り組み続け来た建築技術が必要な時代に成って来ました。そのような使命感を持って、世の中に貢献して参ります。
※オール加子母ロケのTVドラマ(TBS)が放映されます!
11月11日(月)夜9時から(TBS系列で)特別ドラマ「命~天国のママへ~」が放映されます。10月にオール加子母ロケを行った(加子母を舞台とする)作品ですが、撮影隊と地元加子母とのパイプ役を加子母森林組合の内木組合長が行い、加子母にとっても思い出深い作品に成ったそうです。津川雅彦演じる山守(林業)の家の苗字が「内木」なのですが、これは実際に、代々加子母の山を守ってきた山守の家柄である内木組合長の「内木」から取ったものです。その他、加子母の中にある本当のお話や風習を、内木組合長をはじめ加子母の方々から聞きながら、脚本に活かしたそうですので、加子母文化を体験できるドラマに成っていると思います。主人公も設計事務所の建築士(萩原聖人)で、現在の林業が抱える問題点にも触れていて、まさに私たち丸二・加子母連携事業が意図してきた延長線上に生まれた作品のような気がして成りません。その他、木村多江、矢田亜希子、上條恒彦などが出演しています。木村多江さんも実際に木の伐採を行ったそうです。いろいろな意味で楽しみな作品ですので、ぜひ皆様、ご覧ください!!
2013.10.09
少し前ですが、パキスタン南部で大きな地震があり、海上に小さな島が出現しました。ニュースで現地の人達が上陸している様子が映し出されていましたが、映画やアニメでしか見たことの無い異変がこのように数多く起こって来ると、いよいよ世界全体の問題として、取り組んで行かなければ成らないと感じます。今後は海面の上昇が起こると予測されており、これはまさに各国共通の危機に成るはずです。日本の3.11の津波が、その警告に成ったはずですが、それでも防災対策の歩みはなかなか進みません。結局、国も個人も、経済的な問題があるので、景気対策や財政改善を先行せざるを得ないのが実情です。同時に、不況は戦争やテロを誘発しやすいので、防衛対策も並行して行かなければ成らないでしょう。おそらく戦後最大の難題に直面する世界を、私たちは目撃するのかもしれません。
けれども、そのような大きな歴史的な転換と共に、私たちの日常は淡々と前に進んでいます。日本に限って言えば、確かに厳しい社会情勢ですが、戦時中の暮らしに比べれば、本当に天国のような世界です。懸命に(努力して)生きて行こうとする限り、道はあるからです。他の国には無い(何か)根源的な強固な基礎(基盤)が横たわっているような気がします。そう捉えれば、地球規模的な難題に向かうことが出来る国は、日本をおいて他に無いと思います。ケネディ大統領の長女であるキャロライン・ケネディ女史が駐日大使として赴任されることに成りましたが、ケネディ女史は「日本以外の赴任は考えられない」と発言されたそうです。私たちが知らない「日本」という国が存在していて、世界が「日本」と言う国に、「何か特別なもの」を期待しているように思えて成りません。その力に成れるのなら、人生を掛けてでも日本に行きたい。「尽くしたい国は日本だけです」とケネディ女史は述べたそうです。私たちは、本当の日本を知らないのかもしれません。
偶然にも伊勢神宮と出雲大社の遷宮が重なった年に、2020年の東京オリンピック開催が決まり、キャロライン・ケネディ女史の日本赴任も決まりました。先日は被災地東北の楽天が優勝を決めました。10月の2日と5日には、伊勢神宮内宮と外宮における「式年遷宮」のクライマックスである「遷御(せんぎょ)の儀」が無事に営まれました。そして今、加子母の神宮備林から切り出された神宮ヒノキが、伊勢の地で美しい姿を現しています。2013年の日本は、このようにして、新しい何かを生み出そうとしている様です。そして私たち丸二も、昨日(10月8日)、おかげさまで創立60周年を迎えることが出来ました。これもひとえに、お客様、地域の皆様、関係各位、そして社員みんなのおかげです。心より感謝申し上げます。人間で言うところの還暦に当たる60年を無事に迎えることが出来ましたが、伊勢神宮の遷宮と同じ年と成り、そこには特別な思いがあります。
最近、伊勢神宮がTVで良く取り上げられています。今年の参拝客数は過去最多ペースだそうです。遷宮には一万本のヒノキが必要で、今後はその確保が大変とのことです(加子母の山の素晴らしいヒノキがそれに貢献しています)。それから、遷宮の翌年は良い年に成るそうです。来年以降、世界の中で日本の位置(役割)はさらに重要に成ってくるでしょう。私たちは、戦後最大の難題に直面する世界を目撃しつつ、もしかしたら戦後最大の幸福を掴める可能性を有しているのかも知れません。それは決して物質的な幸福ではなく、きっと精神的な意味合いを含む幸福感のような気がします。私たち丸二も、新たな次の60年を築くために、懸命に人々の生命と生活を守る建築を創造し、日本と世界に貢献して参ります。ありがとうございます。
2013.09.16
昨夜、念願のコンサートへ行くことが出来ました。冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の演奏会です。昨年の初演を収録したCDを聴いてから、言葉では言い尽くせない感情を抱いていたのですが、今回、生の実演に接することができ、本当に良かった。冨田勲氏は(以前にも本ブログでご紹介しましたが)電子(シンセサイザー)音楽の文字通り(世界的な)パイオニアです。私が(確か)小学生か中学生の頃、(家にあった)冨田勲の「惑星」をレコードで聴いて、「これは何十人、いや何百人の人が演奏しているのだろうか」と思いながら、LPのジャケットを見ると、飛行機のコックピットのような巨大な機械のお化けに囲まれて、薄いサングラスをかけた怖い顔の男の人が「ひとり」だけ写っていたのです。けれども「まさか、この人ひとりで演奏している訳はない」と勝手に決め付け、たくさんの人が変な機械を一斉に操作して、音を出しているシーンをイメージしていました。その後、「多重録音」という方法で、音をテープに重ねて行く録音技術があることが分かり、冨田勲さんが本当にたったひとりで、このレコードを造り上げたことをやっと理解したのです。それでも、「あれだけの音響をどうやって・・・」という不思議さは今でもあります。たぶんきっと、目には見えない小人たちが、冨田さんの周りで(飛び回って)手伝っていたに違い無いと、密かに思っています。
そして、その「怖い顔の男の人」の姿が、今まさに、目の前にありました。昨夜のコンサートの会場は、渋谷のBunkamuraオーチャードホールで、妻を誘って二人で行きました。幸い台風の影響にも遭わず、無事に会場へ着き、席に座っていると、私の横の通路をゆっくりと大きな人が通り過ぎました。その人は、私たちの5列くらい前の席に座ったのですが、すぐに「冨田勲だ」と分かりました。昔から写真でしか見ることが出来なかった方が、すぐ目の前にいるということに少なからず興奮したのですが、その穏やかで柔和なお顔を見て、「あのレコードの写真の人と会えたのだ」と、心静かに感謝をいたしました。その後、冨田勲さんは何度かステージに上って(けっこう長く)お話しをされ、幾度も万雷の拍手を浴びました。今年で81歳。とても元気で、朗らかで、ユーモアがあって、素敵でした。
演奏会の前半は、冨田勲さん作曲の数々の映画音楽をはじめ、新日本紀行や大河ドラマのテーマ音楽、ジャングル大帝の音楽等が演奏されました。指揮者は河合尚市さん、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団。その後、冨田勲さんも話されていましたが、とても重厚なサウンドで、弦も美しく、素晴らしかった。そして休憩を挟んで、いよいよ「イーハトーヴ交響曲」です。この曲は、宮澤賢治の世界の音響化であり、賢治の目指した理想郷「イーハトーブ」を描く音楽絵巻です。冨田勲さんは10年ほど前に、東北大学の元総長、西澤潤一氏より「雨ニモマケズ」に曲を付けて欲しいと依頼を受けていました。それから時が過ぎ、2011年の東日本大震災が発生しました。冨田さんは、少年時代に経験した三河地震(1945年1月)を思い起こし、賢治の古里、岩手へ行き、被災を受けた東北を目にして、「今こそイーハトーヴの音楽を」と、心に決めたそうです。そして2012年11月、曲は無事に完成し、初演を迎えたのです。
「イーハトーヴ交響曲」の素晴らしさの1つに、歌と合唱があります。昨日は、慶応義塾ワグネル・ソサィエティー男性合唱団、聖心女子大学グリークラブ、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団による合唱でしたが、先ずは冒頭の、少年少女たちの合唱による「種山ヶ原の牧歌」から、もう心は「イーハトーヴ」へと飛んで行きました。それくらい美しく透明で見事な歌声でした。この曲をはじめ、「星めぐりの歌」等、宮澤賢治自身が作った曲もあります。さらにはフランス人作曲家ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」も引用され、「イーハトーヴ」全体を支えます。そして、本交響曲の最大の見どころは、ソロ歌手として「初音ミク」が出演していることです。出演と言っても、初音ミクさんは、ヴァーチャル・シンガーですので、舞台上部のスクリーンの中で、歌って踊ります。冨田さんは、賢治の描く異次元世界を歌い上げられるのは初音ミクしかいないと決断し、オーケストラと初音ミクの共演という世界初の試みに挑戦し、遂に成功しました。指揮者の棒に合わせて歌い、踊る技術には相当な苦労があったようです。初音ミクは、「注文の多いレストラン」では「出られない・・・」と歌い、「風の又三郎」では(又三郎と成り)「どっどど、どどうど、どどうど、どどう」と歌います。このようにして、この交響曲は多くの人々の智慧や作品や技術による統合芸術と成りました。みんなで助け合って、力を合わせたのです。まさに「合唱」ですね。冨田勲という一人の人間の夢と志と芸術性の下で、「全てがひとつに成る姿」が(期せずして)現実化したのでしょう。「合唱」は「合掌」にもつながります。この祈りはきっときっと、遠い銀河の先まで届いていると思います。
そして、交響曲の終盤に置かれている「雨ニモマケズ」の合唱は、CDで聴いた時とは全く違う、深い感動がありました。一言一言の賢治の言葉が胸に突き刺さったのです。死を覚悟して、自身の手帳に書き遺したメモが、このように後世になって世の人々に知られるように成り、日本人の生きる力に成るなど、賢治自身も夢にも思っていなかったのではないでしょうか。合唱が(とても丁寧に)「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」と歌う時、人間の「生」とは何かを感じます。生きていること自体、その全てがいかに素晴らしくて、尊くて、幸福なものなのか。賢治の理想とする人間像が、「雨ニモマケズ」で歌われて、この交響曲は全ての山場を終えますが、その後から終曲までの間に響いている声は、東北で生命を落とされた方々の遺言のように聞こえます。そして、私たち一人ひとりが、「そういうものに私は成りたい」と願う時、新しい世界は幕を開けるのでしょう。そのようにして、この音楽はいつまでも、一人ひとりの心の中に生き続けるのです。
さて、この「イーハトーヴ交響曲」の生演奏を聴きながら、私は涙を流しました。本当にポロポロと・・・。それは、本交響曲の最大の山場とも言える5曲目、「銀河鉄道の夜」でした。以前のブログでも書いたと思いますが、ここで描かれる物語世界を表現できる言葉はありません。音楽のベースに(大好きな)ラフマニノフの交響曲第2番の有名な第3楽章(アダージョ)がありますが、この曲と「銀河鉄道の夜」を融合させた発想自体と音楽的展開に本当に驚きました。まさに数多くのクラシック音楽を変容させて来たトミタ・ワールドの真骨頂です。親友カンパネルラと共に銀河鉄道の旅を続けるジョバンニは、二人で共に過ごせる時間を心から嬉しく感じていたと思います。その感情の波が音楽と同化しながらも、ジョバン二が後に知ることに成るカンパネルラの死への悲しみが含まれて行きます。そして初音ミクは、異次元空間から、「ケンタウルス、露を降らせ・・・」と何度も声を発します。途中、鐘の音が聞こえ、合唱による巨大な讃美歌が入り、「もうよい、お前の務めは終わった。その地を離れてここにおいで・・・」と、天上からの優しい声が響き渡ります。その声は、カンパネルラの(自己犠牲による)死と浄化を暗示させ、ジョバンニに成り替わった少年少女たちに「カンパネルラー!!」と叫ばせます。そしてその叫びに呼応するかのように、「ジョバンニー!」という声が木霊します。このようにして、銀河鉄道の車輪の回転運動のようなメロディーが(永遠に)繰り返されながら、遠い銀河を駆け抜ける列車の映像がコンサート会場の壁全体に投影されました。そこには、宮澤賢治の宇宙しか、在りませんでした。すべては「ケンタウル祭」の夜の出来事。ジョバンニとカンパネルラの友情と別れ。生と死。この地と銀河。永遠に続く列車の車輪の音。みんなみんな、(多分きっと)私たちも繰り返しているかもしれない物語・・・。あの震災を目にした冨田さんが心に定めた音楽が、「いま、ここに」在りました。その温かく遠くを見つめる目線は、カンパネルラを思って遠い銀河を見つめるジョバンニの澄んだ目と重なります。きっと冨田勲さんは銀河からの声を聴いたのです。そして、その声を音楽にしてくれました。だから私は、「カンパネルラー」と「ジョバンニー」の声が呼応し合う時、この地と銀河は「つながっている」と確信できたのです。あの時の少年少女たちの(文字通りの)懸命の「叫び声」は決して忘れません。宮澤賢治の理想郷は(残念ながら)未だ実現していません。けれども、すぐに実現しなくても、実現させようとし続ける「行為(~ing)」こそが最も美しいのだと思います。それが日本人の美しさであり、力だと思います。
ところで、コンサートの途中(ステージ上で)冨田勲さんが人形浄瑠璃の話をされました。初音ミクは、日本の伝統芸能である人形浄瑠璃であると。人間が作った人形(バーチャル)だからこそ、人間の魂の本質をより豊かに表現できる。それが日本の文化の不思議なところであり、日本の力だと。そう考えてみると、日本に宮崎駿さんをはじめとする世界的アニメクリエーターが数多く発祥したのも、この話とは無縁ではないと思います。日本人だけが、その強き思い(願いや祈り)の本質を抜き取って、別の対象(絵や人形)に転送することができる。それは、その「思い」の根底が(常に)清らかなものだからではないでしょうか。今回の演奏を指揮された河合尚市さんからも、そのような印象を強く感じました。初演(CD)の指揮者とは違ったのですが、この「イーハトーヴ交響曲」に対する思いの強さを、本当に感じました。宮澤賢治と冨田勲の魂の中に在る純粋無垢な清らかさと同調し、共鳴し、爆発したのです。それくらい一体化していました。まさに魂の演奏でした。ほんの2時間弱という短い時間、本当にいろいろな形の日本人の魂を感じられたコンサートでした。宮澤賢治がいて、冨田勲がいて、次は私たちの世代です。この日本をつなげていくには、清らかな心が大切なようです。それさえ失わなければ、日本も、世界も、そして私たち一人ひとりの人生も、きっと良くなる。時間は掛るけれども、きっと。
2013.09.09
宮崎駿監督の引退会見を見て、とても心に残る言葉がありました。自作の映画を通じて、子どもたちに伝え続けたメッセージは、「この世は生きるに値する」だった・・・。ジブリ映画は、単なる子ども向けの冒険アニメではなく、深遠な精神性と隠喩を内在しています。私が宮崎アニメで最も関心を持ったのは、「千と千尋の神隠し」でした。あの作品を映画館で観た時、これは(人間が)考えて作ったものではなく、天空からの啓示によって創造された「ビジョン」ではないかと感じたのです。奇妙なトンネルを抜け、両親と別れて、一人生きねばならなくなった少女(千尋)は、自身の力で(懸命に)希望を見出し、元の世界へ戻ります。このような暗いトンネルを挟んで、「実」の世界と「虚」の世界が結ばれたのですが、私たちはきっとその両方を(交互に)生きながら、長き成長の旅を続けているのでしょう。そう考えてみると、千尋が迷い込んでしまった異空間世界とは、もしかしたら彼女自身の過去生の1つだったのかもしれません。今の自分は、過去の自分の積み重ねで形成されています。よって未来を創るのは、今(未来から見た過去)の生き方次第と成ります。主人公の千尋は、(いつかどこかの時代で)とても辛くて悲しい時を過ごしたのでしょう。でもその経験のお蔭があって、今の幸せを得ています。この世で生きるとは、経験を積むためのスタディであり、何一つ無駄なことはありません。長い視点で必ず帳尻が合います。今の苦しさは未来の幸福の種。苦しければ苦しいほど大輪の花が咲く。だから、この世は生きるに値する。
2020年の東京オリンピックが決まりました。先ずはお祝いしたいと思います。ただ、日本の最終プレゼンテーションをTVで見ながら、実は複雑な思いがありました。日本のプレゼンは確かにとても素晴らしく、感動的でした。一体感もありました。同じ日本人として、招致メンバーの方々の苦労と努力には心から敬意を表します。けれども反面、このまま東京に決まって良いのだろうかと云う思いもありました。福島の原発問題や東北の復興を後回しにして、(一部の地域や企業の利益の為の)イベントに注力して良いのだろうか。日本よりも経済状況の悪い国に譲るべきではないか。けれども、オリンピック開催の勢いが、かつての高度成長を遂げた日本復興のシンボルと成り、東北の復興や、更に強固な首都を造ることに繋がるのであれば、それは確かに良い事だ。けれども、今後の世界情勢の悪化によって、今度は東京がテロの標的に成るリスクも生まれるかもしれない。TV番組で、日本中が喜んでいる(様な)映像を見ながら、思考の整理が必要と成りました。
ただ1つ確かなのは、東京でオリンピック関連施設等の建設が始まると、東北をはじめとする全国の建設作業者が東京へ集中します。それにより東北の復興はさらに遅れてしまう可能性があります。現時点で、建設作業者の人手は不足気味です。リーマンショック以降、多くの建設業者が廃業をしたからです。再び景気が回復して行けば、ゆるやかに人手は戻って来るのですが、オリンピックという大事業に成ると、それに追いつけるかどうか。国や地方が建設業者を大事にして来なかったツケが、結局自分自身の首を絞める状況を招いてしまいました。けれども日本の建設業者は、そのような状況の中においても、再び新たな道を探して、社会に貢献します。つまり日本の再建は、建設業者の手によって実現するのです。東京オリンピックが決まった以上、日本中の建設業者が(今こそ)立ち上がり、東京オリンピックの成功と東北の復興と第2の高度成長への狼煙を上げなければ成りません。さらには(今後、予測されている)大地震等の災害にも(各地域で)備えなければ成りません。そのような方向性を持って、私たちはこれからの時代を切り拓いて行くのです。結局最後に社会を支えるのは、(かつて)3Kと言われたアナログの仕事なのです。現代の若い人たちには、ここに気付いて欲しいのです。宮崎駿監督の仕事は、毎日、紙とペンに向き合うアナログ作業です。最後は人の「手」を超える仕事はありません。
いずれにせよ、2020年に日本は立ち直っていなければならない。今回、日本はそういう約束を世界とした訳です。これは重いことです。退路を断ったと言えます。2020年まであと7年しかありません。その間に、首都を(大地震に強い)強固で安心安全な都市に再生し、東北の被災地の復興を完全に終え、福島原発の汚染水問題も(除染技術等で)完全に収束させ、さらには全国的な経済成長を軌道に乗せ、財政再建の目途を付ける。これが出来ないと日本は信用を失います。でも同時に、このような約束をしたことで、実現する可能性も高まります。私たちは、これから7年の日本が、(一部の利益ではなく)全体の利益に成る様に注意しながら、2020年を迎えて行きたいと思います。
さて、オリンピックの最終プレゼンテーションを見ながら、もう1つ感じたことがありました。それは、このような素晴らしい一体感を持って事に当たれば、日本は(間違いなく)勝てると言うことです。日本はチームワークの国であると云うことです。お互いの役割を認識してチームプレーに徹すれば、数十倍の力を発揮するのです。これを外交にも生かして欲しい。同時に福島の問題についても、このような一体感で臨んで欲しい。国と東電と地元が一体と成って取り組めば、もっと早く解決の道は生まれたはずです。「オリンピック」で出来て、「フクシマ」で出来ないはずはありません。また、今回のプレゼンの最初を飾った高円宮妃久子様のスピーチは本当に素晴らしかった。東日本大震災における各国からの支援に対する感謝の意を表されたのですが、心が震えるお言葉でした(ここで「日本に決まった」と感じました)。世界の(日本の)皇族に対する尊敬心は、想像以上のものがあります。それだけに今回の決定は、日本の国民全員の大きな責任に成ったと感じます。でも、それで良いと思います。これから日本は(歴史に残るであろう)非常に大きな難局を乗り越えて行くでしょう。それが「戦争」でなく、「オリンピック」で良かったと言えるようにしたいのです。私は1964年の東京オリンピックの年に生まれました。ですので、日本の成長と共に自分自身の成長もあります。日本中の人々が「2020年をどのような状態で迎えるか」と云うビジョンを持って、この7年間を生きてはどうでしょうか。今の自分とは全く違う(より素晴らしい)自分自身に成っているかもしれません。そう考えるだけで楽しいです。だから、この世は生きるに値するのです。
2013.09.03
昨日の埼玉から千葉にかけての竜巻被害は大変なものでした。ニュースの映像を見ただけでも、暴風の激しさが分かります。あの関東大震災から90年の日の翌日に、「風」という形で自然の猛威を見せ付けられましたが、確かに世界的な天候異変はますます進行しているようです。「もう時代に追いつかれた」とNHKのインタヴュー(7月)で語っていた宮崎駿監督が、引退を表明されました。常に時代の先を生き、未来への警告を発し続けてきた人が、現実のスピードに追い付かれてしまった。それほど時間軸が加速しているのであれば、私たちも今すぐ真剣に自然界と向き合わなければ成りません。映画「風立ちぬ」で予兆された「風」の猛威が、映画の公開直後に現実化しました。
数日前のNHKスペシャル「MEGAQUAKEⅢ 巨大地震 南海トラフ 見え始めた”予兆”」を見ました。南海トラフ地震については、以前より重大な予兆が出ていると聞いていましたが、もうすでに「スロー・クエイク」と呼ばれる(岩盤がゆっくりと動く)現象が確認されているとのことです。これは、東日本大震災の1か月以上前より、震源地の東側で発生していた現象と同じものだそうです。南海トラフ地震の想定規模はマグニチュード9。もしそのような巨大地震が発生したら、四国、大阪、名古屋から東京湾まで(広範囲にわたって)大きな津波が発生し、甚大な被害をもたらします。
それにしても、CGで見る(地震の引き金と成る)地下プレートの動きは、まるで生き物の様です(龍がゆっくりともぐり込んで行く姿に見えます)。私たちが立っている地面は、動いていない様に見えて、実は動いている。そのような当たり前のことに、今頃になって気付かされています。そんな私たち人間達の愚かさ、うかつさ、無神経さに、地球という生き物が反応して、様々な現象を起こしているのかもしれません。けれども私たち人間は、目先の事ばかり追いかけてしまい、未来のことや全体のことを後回しにしてしまいます。この堂々巡りが終わるまで、自然の猛威は加速していくのでしょう。
昨夜のNHKニュースでは、大地震発生後のゼロメートル地帯への注意喚起を行っていました。津波が来る前に堤防が崩壊して、海水が街へ流れ込むという想定があるからです。起きて欲しくはないですが、そういう可能性を想定して、短い時間で避難場所へ行く意識の準備をしておけば、大難が小難に成ると思います。昨日の竜巻を見て、今後は巨大暴風に対する防災対策も必要と感じました。また、福島の汚染水流出は、時間が経つに従って、巨大な問題に成って来ています。原発事故はまだ終わっていない。むしろ状況は悪化している。日本全国、あるいは世界中、打つ手が見えない問題が山積しています。
そのような状況の中、否、そのような状況だからこそ、私たちは時間を掛けて「回り道」をすべきと思います。人間は苦しくなると、すぐに良くなる起死回生のウルトラCを探します。けれどもそれらは全て一過性のもので、時間が経つと逆効果に成るものがほとんどです。すぐに楽になりたいという「エゴ」を辛抱して、他者に依存するのではなく、時間を掛けて自力を付けていくことです。その間は確かに苦しいですが、自力で得たものは一生の宝物に成ります。もし他者に依存してしまうと、一生、自分の人生を(他者に)支配されたままです。だから一気に良くしようと思わずに、あえて少しずつ(丸二では「1mmの前進」と言います)改善していくこと。一歩ずつ、足を踏みしめて、ゆっくり登ること。できるだけ長期の視点で(少しずつ良くなる)計画を立てて行くこと。国の財政問題も同様に、少しずつ良くなる方向性を示すこと。そのために10年、20年、あるいは50年、100年のビジョンを示すこと。
良く成り始めると不思議に(勝手に)スピードが上がって、思わぬ速さで達成することもあると思います。日本の場合は、根本的な治癒として、経済(景気回復)が大切だと思います。景気を回復させることで、税収を上げることが、本来の自然治癒だからです。国としては、どうしても大手企業の景気回復を優先させます。それが早く効果が見えるからです。けれども日本は中小企業で支えられている国です。本当は時間を掛けてでも、中小企業を良くする政策が必要です。同時に、私たち中小企業の経営者が、この現状を打破していくことです。過去の経験が役に立たない時代では、むしろ小さな会社の方がオリジナルな道を開拓できます。チャンスなのです。このような混沌の世の中は、必ず新しい世の中へと向かいます。その新しい世の中において、自然界との総和を実現しながら、人々のお役に立てる「美しいビジネス」を今から始めていくこと。それは、確かに気が遠くなるほどの道のりですが、その方向へ向かって行く一歩一歩を楽しむことができれば、「意外と早かったね」と成る様な気がします。大自然から愛させるビジネスを目指して・・・。だから、日々1mmの前進です。
2013.08.27
数日前の夜、NHKスペシャル「シリーズ東日本大震災:亡き人との”再会”~被災地3度目の夏に~」を見ました。そして少なからず驚きました。NHKがこのような番組を制作したことにです。あの東日本大震災以降、多くの人々が亡くなった家族と「再会」をしていると言うのです。「目の前で水の中に沈んでいった義母が、ある晩、先に亡くなっていた義父と仲良く一緒に、庭の窓から部屋に入って来ました」。「幼稚園で死んだ子どもが、仏壇の前に座っていて、私(母親)の方を見ていたのです」。「妻と息子2人が死んだのですが、ある日、不思議な少女に手を繋がれて、長男と二男が部屋の中に立っていました」。あくまで体験者の声をそのまま伝える形の内容でしたが、そこに必要なのは解釈ではなく、(先ずは)ありのままを受け入れることだと思いました。
その中で、とても大切な共通点を見つけました。姿を現した人々は(みんなみんな)とても素晴らしい「笑顔」だったという事です。「助けられなかった私を、許してくれているのだろうか・・・」と悩んでいる人々の前に現れて、「大丈夫。心配しないで。私は元気。だからもう悲しまないで。ありがとう」と伝える為に天上から降りて来たのでしょうか。子どもを失った親が、その時の様子を絵に描いたものを見ましたが、(その子どもたちの笑顔が)何て素敵でかわいいことか。それに穏やかで、温かい。ある晩の夕食時、亡くなった小さな息子の仏壇に向かって、「一緒に食べようね」と声を掛けた瞬間、(その子が大好きだった)アンパンマンの自動車のおもちゃの音が鳴って、ライトが点いたそうです。「お母さん、いつまでも一緒だよ・・・」。母親の目にはもう涙はなく、笑顔が戻りました。
2011年3月11日の東日本大震災で生命を失った方々は、みんな何かしら大きな約束の下に生まれて、その使命を果たし、みんなで一緒に去って行ったのではないかと感じます。本当の日本を再生する為に、世界の平和を実現するために、真実の愛を教えるために。だからみんな「笑顔」だった。けれども私たちは、その意志を受け止めることが出来たのでしょうか。日本の再生に向けて、歩み始めたのでしょうか。あれから2年と半年が過ぎました。今こそ、直接の被災を受けなかった私たちこそが、震災で大切な人を失った人々を見習って、笑顔と共に前へ進む時です。NHKが(勇気を持って)このような世界を扱ったのには、それなりの理由があると思います。1つは、確かにそのような事実が相当数存在していること。もう1つは、(解釈自体よりも)そこに含まれている「意味自体」を提起するためだったのではないでしょうか。
最近買った本の中に、「人は死なない-ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」という一冊があります。これは東京大学医学部救急医学分野教授の矢作直樹氏が書いたもので、現役の東大のお医者さんが霊や魂の実在について語った内容の様です。まだ読み始めていないので、詳しくはまた別のブログで書こうと思いますが、この先生は医療の道に麻酔科から入ったようです。実は以前読んだ本で、麻酔がなぜ効くのか未だに不明である事を知りました。私たちは、全ての物事は科学的に解明されているものと信じ込んでいますが、実際は、「解らないこと」ばかりなのが実体の様です。麻酔が科学的に解明されていないからと言って、麻酔無しで手術を受ける人はいないでしょう。理由は解らないけど、実在する力に(実際は)私たちは頼って生きているのです。今の科学で解明できなくても、在るものは在る。「亡き人との再会」も、(もしかしたら)その中に含まれるのかもしれません。
死者の霊を追悼する音楽「レクイエム」は、多くの作曲家によって残されました。有名なのは、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3大レクイエムですが、最近聴いたのはブラームスの「ドイツ・レクイエム」です。レクイエムは通常ラテン語で歌われますが、プロテスタントであったブラームスは、ルターの訳したドイツ語版聖書を基に、ドイツ語で書きました。ブラームスとしては初期の作品なので、あまり有名ではありませんが、とても美しい音楽です。レクイエムと言うと、何か恐くて悲しいと言うイメージがありますが、この曲は全くそのような事はなく、とても穏やかで優しいエネルギーを感じます。こちら側だけでなく、(もし)向こう側も在るとしたら、その両方を認識することで、本当の全体世界が見えて来る。本当の全体世界が見えて来ると、不安や恐れも無くなる。その1つのブリッジ役としての「レクイエム」が在るとしたら、そこに「穏やかな音」が聴こえるのも必然でしょう。
さて、昨夜のNHK「プロフェッショナル~仕事の流儀」は、「宮崎駿スペシャル:風立ちぬ~1000日の記録」でした。すでに映画を見終えていたので、とても興味深く面白かったです。「面倒くさい、面倒くさい」と言いながらも、必死で絵や台詞を書き続ける宮崎駿氏と、零戦を開発した堀越二郎氏とがここで重なります。零戦開発者の物語を作ることで、戦争美化と言われないだろうか。でもそれに対する答えが見つからない。「作りたいから作る」としか言いようが無い。けれども絵コンテを作成中に、何かが閃き、突然(指揮者の様に)体が動き出し、(堀越二郎氏が本当に作りたかった)美しい飛行機の姿が空を舞うシーンが加わりました。言葉には表せないけど、それが答えだったのでしょう。東日本大震災発生時、スタジオジブリは数日間を休業としました。けれども宮崎駿氏は、通常通りにオフィスに出て来て、そこに居る社員たちに、「なぜ休業にするんだ!出て来られるじゃないか!向こうの方が大変なんだ!(甘えるな!)」と激しく叱責していました。その気持ち、とても良く分かります。あの日起きたことは、私たち全員の出来事。だから自分たちも一緒に乗り越えないと行けない。戦争、地震、津波、原発。全部(元は)自分たちの問題。その矛盾や葛藤と向き合え。悩め。苦しめ。
あれほどのヒット作を造り続けている人であれば、もっとのんびりと豊かな生活を送っても良いはずです。それなのに自分を追い詰め、苦しみ、もがく。カップラーメンを食べながら、「食べるのも面倒くさい」とか言って、机から離れ無い。けれども、「今こうして映画を造れるのは、本当に幸せなこと」と言う。戦争や地震で、生きたいように生きられなかった人々がいた。だから懸命に生きられる幸せを感じたい。「懸命に生きよ」・・・やはりこの言葉こそが、震災で亡くなられた方々からの(私たちへの)メッセージではないでしょうか。「亡き人との再会」をどう解釈するかでは無く、亡くなられた方々の笑顔や温かい思いを(今、自分自身が)感じられるかどうかの問題だと思います。そのような美しい感性を持てる人間に成長したい・・・。このようにして2013年の8月が終わろうとしています。
2013.08.23
トム・ハンクス主演の映画「クラウド・アトラス」をDVDで観ました。これは、「転生」をテーマにした小説の映画化で、6つの時代を(輪廻転生しながら)生きた人々のそれぞれの人生を描いた作品です。監督はウォシャウスキー(姉弟)で、彼らの代表作は「マトリックス」です。でも私自身、「マトリックス」にあまり感動しなかったので、今回の「クラウド・アトラス」に対しても、特別大きな期待は持っていませんでした。ただ「転生」がテーマと言うことで、関心を持ったのです。
映画自体は「マトリックス」同様、映像は素晴らしかったのですが、6つの時代を行ったり来たりするので、何が何だか(誰が誰だか)分からない面もあり、「転生」そのものに対する探求や洞察よりも、スピード感あふれる壮大なアクション映画として見るべきものだったのでしょう。もう一度観れば、受け取り方は変わると思いますが、ここがハリウッド(商業)映画の限界かもしれません。でも「転生」を描いたという面において、興味深い点もありました。
それは、「悪人は6つの時代とも悪人として生きている」という点です。例えば、普段はロマンティック・コメディの主演が多いヒュー・グラントなどは、最後は人食い族にまで成ってしまい、これはこれでとても面白かったです。6つの時代を経て、一人の人間がどのような運命を辿ったかという視点は薄いので、あとは観た側で考えるしかないのですが、(あくまで転生がある前提ですが・・・)確かにそのような人生を繰り返し、その負のループ(堂々巡り)から抜け出せないことも現実的にあるような気がします。
一方で、トム・ハンクスにも悪人的な人生もあったのですが、6つの時代を経て少しずつ変化が生じ、6つ目の人生では大きな悲劇に遭いながらも、心穏やかな晩年を迎えています。そのようなマクロな視点で自らの人生を俯瞰した時、今の人生の「今」にはとても大きな意味があるように感じます。「今」をどう生きるかによって、今回の人生のみならず、その次以降の人生にも大きな影響が在る。陥りやすい(繰り返しの)負のループからどのようにして抜け出すか・・・。結局、主人公たちは(同じ時代を)同時に生きてはいますが、それぞれの人生のステージは少しずつ変化して行くのです。
そう考えると、仮に今が苦しくても(次の人生以降まで含めた)未来を良くすることは充分可能ではないかと考えます。その為には、今の環境の中で懸命に最善を尽くすことしかありません。その繰り返しによって、だんだんと負のループから脱することは出来るのではないか。それは多分、自分が思い描く理想像とは随分遠く離れているかもしれません。けれども、6つ先の人生まで含めたとしたら、先はまだまだ相当長いのです。今すぐは無理でも、時間を掛ければ必ず近づく。やはり毎日1mmの前進ですね。そう思って動き出せば、(案外)突然夢が叶ったりするかもしれません。逆に今すぐ良く成りたいと欲を出すと、なかなか負のループから抜け出せない。「人生、遠回り」と知ることで、むしろ不安は無くなり、必ず良きサイクルの中に移動できると思います。
最近、地元の大好きな本屋さん(ブックス・ルーエ)で「想定外」という本を見つけ、何となく読んでみました。この本で述べられていたのはただ1つ、「成功者は回り道をしていた」ということです。物事はすぐに(直線的に)叶うことは無く、必ず回り道や反対方向へ向かった時に、(思わぬ形で)成就している。ほとんどの人(会社)は、すぐに結果を出そうとしますが、それで成功した人(会社)はほとんど無い。苦労の中で、夢とはほど遠い内容を懸命に続けた(回り道の)結果、思わぬ形で夢が実現した。目先の欲を直接的に追いかけた人は、結果的には目的地からどんどん離れて行った。逆に(仕方無く)目的地とは違う方向へ向かったり、遠回りや回り道をした人の方が、不思議と目的地に着いている。
「カーネル・サンダースの教え」という本を読みました。有名なケンタッキー・フライドチキンのカーネルおじさんの物語です。カーネル・サンダース氏は、65歳で全財産を失ってから、「ケンタッキー・フライドチキン」のビジネスを始めました。それまでの人生は、解雇、失職、転職、裁判、逮捕、銃撃戦、大事故、火災、離婚、倒産、破産等の連続で、現在のお店の前にあるにこやかなカーネル人形のイメージとはほど遠いものでした。けれども、そこで経験した数々の偶然の中から、フライドチキンは生まれたのです。要は、「食う」ために懸命に(文字通り命懸けで)生きながら、壮大な回り道をして来た結果、思わぬ形で(全くの想定外で)成功を掴んだのです。何とも不思議な話です。結局、カーネル・サンダース氏の信条は「最善を尽くす」だったのですが、やはりこれに尽きるのでしょう。
最善を尽くしても、結果は良く成らないかもしれない・・・と人は不安に思います。確かにすぐに良くは成らないでしょう。けれども、それは必ず時間差で応援が来るはずです。一昨日、ついにイチローが日米通算4000本安打を達成しました。この偉業は本当に素晴らしいものだと思います。けれどもイチローが「4000本」という数字を、直接的に目指していたようには決して見えません。インタヴューでも話されていたように、むしろ数多い失敗に対して真摯に向き合って来た結果としての産物のように感じます。もし転生があるとしたら、イチローは過去の人生を含めて、壮大な時間を掛けて(=回り道をして)、「今」に辿り着いたのではないでしょうか。人からは「すぐ出来た」ように見えても、実際は悠久の時間軸を経ての業かもしれません。だとすれば、私たちは他者との(全く無意味な)比較を終わりにして、自身が歩んでいる「回り道」への価値を見出し、そのまま自分自身の道を(安心して)行くことだと思います。人間誰もが、回り道をしながらゴールに向かっている成功者であると信じて・・・。
2013.08.16
昨日(8月15日)は終戦記念日でした。68年前の昨日の正午、昭和天皇の玉音放送が流れました。そして日本は負けました。当時の国民は、それをどのように聞いたのでしょうか。今の私たちには想像もつかないことです。今年の夏は異常な暑さで、連日各地で40度以上を観測しておりますが、あの戦争で焼かれた町の熱さに比べれば、まだまだ恵まれていると思います。私たちは、自国を敵国に占領された時の恐怖(覚悟)など、絶対に分からないでしょう。ところがその後の日本は(神懸かり的な)経済発展を遂げ、平和な国に成りました。敗戦国にも関わらず・・・です。この奇跡に対しての感謝の思いを(今を生きる)私たちは本当に持ち合わせているのだろうか。今こそ、この平和な日本を築き上げた先人達と御先祖様への感謝と追悼(供養)の思いが大切なのだと感じました。
8月15日は大いなる転換点と成った日です。もし昭和天皇がご自身の生命を惜しんでいたならば、8月15日以降も戦争は続いていたでしょう。その時は、今の日本の繁栄は無かったはずです。平和も無かったはずです。もちろん、戦争を回避できなかったという無念さはあります。けれども(いつの世も)「今」という現実を生きる中で、最善を尽くす以外に道はありません。皆、懸命に「今」を生き抜きました。私たちは(幸い)歴史から学ぶことできます。未来の日本を救った8月15日を思い出しながら、今度は私たちが国の未来を決める番です。
一方、エジプトの騒乱では、死者が500人を超えたそうです。このような不毛の戦いからは何も生まれないと、私たちは過去の戦争から学びました。けれども外部からの攻撃を防ぐ意識も同時に必要です。そのバランスの位置について、現在様々な意見がぶつかり合っていると思います。でもそれは戦術(方法論)であって、「日本の平和と繁栄を実現する」という戦略(目的)においては(確かに明確では無いですが)共認されていると思います。この現実世界は必ず(矛盾し合う)2つの力が働いています。だから難しいし、なかなか答えが出ない。けれども答えを出さなければ前へ進まない。そのような葛藤の中においても、「日本の平和と繁栄を実現する」という強い意志が(みんなの中に)存在すれば、日本は必ず良き方向へ行くと信じます。日本と言う国が立派に成長したところを(先人達に)見せてあげたいと思います。
その為には、私たち日本人一人ひとりの意識の向上が必要だと思います。先日のニュースでは、富士山のゴミの増加に対する報道がありました。世界遺産に登録されたことで、登山者が増えたからだそうです。世界遺産に成ったのも、登山者が増えたのも、そしてゴミが増えたのも、全て人間側の都合です。大自然(富士山)側への配慮(畏敬の念)は、そこにはありません。街を歩いていても、タバコのポイ捨てや空き缶等のゴミが目に付きます。世界的に見れば、確かにキレイな方だと思いますが、日本人だったらもっと良くできるはず・・・と思います。次に使う人のことを考えて、キレイにしておくという日本人の美意識が失われると、この日本を守っている(目には見えない)「何か」が離れて行ってしまう様な気がするのです。家や職場をキレイにすることは、運気を上げる上で非常に大切なことですが、同時に戦争(戦い)を起こさない為の抑止にも成っていたと感じるのです。飛躍した考えかもしれませんが、でも全てはつながっています。
昨日は(午後から)千葉方面に用事があり、車で出掛けました。帰りがちょうど夕日に向かって走る時間帯だったので、サングラスを掛けて運転し、薄いヴェールの雲の向こう側に滲む美しい太陽を目指しました。この光に照らされていること自体が、本当は奇跡的なことなのに、私たちはついそのことを忘れてしまいます。私は太陽を見ると、映画館を思い出します。スクリーンに映像を映し出せるのは、映写機の光源が在るからです。私たちは、自分自身の人生と言う映画を自ら脚本・監督し、その映画の中で生きようとしています。けれども、その人生(光の粒子)を映し出している光源をつい忘れてしまいます。まるで太陽の存在を忘れてしまう様に。その光源とは、自分自身の良心ではないでしょうか。自分自身の良心が光源と成り、自身の人生を白い壁に投影しているのではないでしょうか。だから人生を創り出しているのは(他の誰でも無い)自分自身だと思うのです。
光源の存在を忘れて、白い壁に映る映像を変えようとしても、なかなか上手く行きません。それはただの白い壁に過ぎないのだから。私たちは太陽を見る時、同時に自身の心を見ています。その心(光源)を美しく磨くことで、映写される映画はもっと美しく成るに違いありません。戦争も平和も、誰かが造るものではなく、自分自身の問題ではないでしょうか。平和な人生を送るには、それに相応しい光源を発すること。外側に求めるのではなく、内側に答えはある。8月15日は、日本人にとって極めて重要な日です。日頃は忘れてしまっても、この日だけは自分の心の中に「平和」を映し出すこと。目の前の太陽に「ありがとうございます」と感謝しながら、(それに比べて)自分自身の至らなさがとても恥ずかしいのですが、それでも(少しでも)良き光源に成れるよう、もっと平和な世界が実現するよう、自身の中身を磨き続けようと思います。
2013.08.12
8月12日は、日航ジャンボ機が御巣鷹に墜落した日です。あれから28年が経ちました。520人もの多くの乗客が犠牲と成ったあの大事故。私は当時大学生で、ちょうどその日は家族と外食に出掛けており、家に帰ってからニュースで知りました。最初は日航機の消息が不明という状況で、その後(かなりの時間が経ってから)墜落と分かりましたが、墜落現場の特定に迷走し、(確か)翌日以降に成って「御巣鷹」という聞きなれない地名を知りました。
その後、TVのニュースで墜落現場からの中継が始まり、数名の生存者の救出劇などが映し出されました。坂本九さんが乗客だったことも知りました。事故の原因は、同機体の直前の尻もち事故だったそうです。いずれにしても、多くの人々が尊い生命を落とされたこの事故を思い出すことで、私たちは亡くなった方々への追悼と共に、二度とこのような事故を起こして成らないと、心に強く刻んだのです。
この事故を描いた小説や映画も生まれました。中でも「クライマーズ・ハイ」や「沈まぬ太陽」は、とても素晴らしい作品でした。けれどもそこには、悲劇が起きたことによって、良き作品が生まれたと言う(何とも言い様の無い)葛藤(ジレンマ)が存在しています。でも同時に、起きた悲劇を風化させず、いつまでも(未来の)人々の心の中に残し続けようとする「希望」も同時に内在されていました。亡くなった方々の本当の思いを知る事は出来ませんが、でも「いつまでも、忘れないで欲しい・・・」という願いは(間違い無く)在ったと、私は感じるのです。
翻って、世の多くの芸術作品は、実際に起きた出来事を基に生まれています。あくまでも造られた「作品」ですので、その作者の人生観、宇宙観としての表現であり、必ずしも事実(真実)そのものという訳では無いでしょう。つまり、作者がそこで伝えようとしているものは、単なる「事象」ではなく、そこに内在する「本質」なのです。あらゆる事柄を取り巻いている普遍的な世界です。宮崎駿監督の「風立ちぬ」においても、堀越二郎氏と菜穂子の物語はフィクションです。でもそのような「事象」は(確かに)無かったけれど、そう云う「愛」という本質は在ったに違いない。そのような目には見えない世界までを映像化する為に、新たな設定や物語が発想されるのだと思います。そこには「事実では無いが、真実である」「嘘から出た真」という道理が在ります。
そのようにして、実際に起きた歴史は(歴史学者や報道機関のみならず)実は芸術家たちの手によって、確かに未来へつながっているのです。本、映画、音楽、詩、舞台、祭、花火という様な「美しい形態」に形を変えて、真実(本質)は伝承され続けています。今回の東日本大震災についても、これから多くの作品が生まれて来るでしょう。原爆と原発についても同様です。同時に、それでも原発を維持しようとする人々の苦悩を描く物語も出て来るでしょう。全てが完全に(キレイに)治まる世界は無いからです。けれども、その中で多くの人々が「共認」できる範囲を(少しでも)広くしていくことは可能です。その為に、私たちは「忘れてはいけない」のです。その「忘れない」と云う役割を担っているのが、芸術の世界だと思います。
私は映画や音楽が大好きです。一方、そんなものに興味を持っても何の得にも成らないと思っている人々も多いです。けれども(だとすれば)なぜ人間の本能の中に「感じる力」が在るのだろうか。なぜ感動し、涙を流すのだろうか。なぜ涙を流した後、心が優しくなるのだろうか。これはとてもとても大切なことではないだろうか。私は、人間が生きて行く上で、絶対的に必要な要素としての「衣(医)食住」の中に、「文」を加えます。芸術や教育などを含める文化の「文」です。
あの東日本大震災の後、東北の人々はすぐにお祭りを再開しました。食べるもの(=仕事)や住むところが未だ不安定な状態だったのに(全てが流されてしまった街の中で)いつもの様にお神輿を担ぎました。共に生きる為に「祭」という「文化」「伝統」を守りました。祭りが「生」そのものだったからでしょう。また「衣(医)食住・文」の中の「住(建物)」も、まさに人々の生命と暮らしを守る為に存在しています。けれども同時に「文」としての役割も担っています。家や街並みも、美しい芸術であり、文化です。生活や空間に色彩に加え、生きて行く為の「夢」を与えてくれます。人は、昔住んだ家のことを懐かしく思い、今でも部屋の隅々まで覚えているものです。家とは、いつまでも忘れないひとつの作品なのです。
私は、いつまでも心に残る「文化」を大切にして行きたいと思います。悲惨な戦争や災害や事故のことも、決して忘れないことで私たちは学習し、人類の進化発展に結び付けて行きたいと思います。<1.17><3.11><8.6><8.9><8.12><8.15><9.1>と、日本では毎年重要な日が続きますが、今年の9月1日は、関東大震災から丸90年という大きな節目と成ります。先人達が生命を掛けて、未来の子ども達へ残した伝言を、私たちは確かに受け継いで行かなければ成りません。今一度、防災意識を持って(未来への希望を持ちながら)自身の生命を大事にして行きたいと思います。
28年前、御巣鷹の尾根に散った520人の方々の思いもきっと同じだと思います。自分たちの死から学んで欲しい。生命の大切さを分かって欲しい。自ら生命を絶つ人がいるが、与えられた生命の意味を分かって欲しい。どんなに辛くても、生命は素晴らしいものと知って欲しい。生きたかったのに生きられなかった人々の無念さを分かって欲しい・・・。このような思いの伝言を、私たちは次代へつなげて行こうと思います。28年前、日航機墜落事故で亡くなられた方々への心から追悼を胸に・・・。
2013.08.10
8月6日、広島。8月9日、長崎。日本の8月は戦争を思い出し、平和を祈る月です。大ヒット中の「風立ちぬ」とは別に、(もう1つ)戦争を扱った映画が公開されていたので、それも見に行きました。タイトルは「終戦のエンペラー」。これは終戦直後のGHQが天皇の戦争責任を問うもので、マッカーサーの部下であるフェラーズ准将が、この戦争の真の戦争責任者を調査して行くという物語でした(アメリカ映画です)。映画としての完成度は(あくまで個人的には)決して高くは無かったですが、史実に基づく昭和天皇の真実が極めてストレートに描かれ、感動することが出来ました。
昭和天皇とマッカーサーが面会した時、そこで天皇が述べられた言葉が(決して大げさでは無く)日本という国を救ったのだと思います。さらには、後の繁栄と平和を導いたのだと思います。自らの生命を捨てて、国民を守る。この言葉を聞いて、マッカーサーは恐らく思考停止状態に陥ったと思います。あり得ない程の巨大な言葉を聞いた時、人間はもう相手の世界に飲み込まれるしかありません。マッカーサーは昭和天皇に対し(日本の復興への)協力を依頼しました。もし天皇に何かしらの手を下したら、大変な事が起きるだろうと直感したに違いありません。
そのようにして日本の「戦後」が始まりました。現在の日本とアメリカの関係においては、沖縄の基地問題も有り、様々な意見が対立しています。真珠湾の攻撃も、広島と長崎への原爆投下も、両国の間に未だ暗い影を落としたままです。けれどもあの終戦の時、アメリカが日本の天皇の戦争責任を追求しなかったことは、本当に奇跡の様な出来事だったと思います。そのことは未来の日本にとっても未来のアメリカにとっても、感謝してもしきれないほどの天啓だったのでは無いでしょうか。映画でフェラーズ准将は、愛する日本人女性を通じて、日本と云う国を信じました。それは確かに私情だったのかも知れません。フェラーズ准将はマッカーサーに、「天皇の戦争責任に対する証拠はありません」と報告します。一人の日本人女性が、国の未来を救ったのです。
今年は68回目の平和記念式典が(広島と長崎で)行われました。最近、いよいよ戦争経験者の方々の声が大きく成り始めた様に感じます。あの戦争の悲惨さを何とかして後世(子どもたち)に伝えなければならない。過去の戦争を知らず、未来の戦争を予期できない日本にしては成らない。「もう終わった戦争」では無く「もう来ない戦争」でも無い。戦争はまだ終わっていない。戦争はまた起こるかもしれない。もう時間が無い。けれどもまだ間に合う。そういう声がこの夏、日本中から聞こえて来た様な気がします。
そしてもうすぐ「少年H」という映画も公開されます。大林宣彦監督の次回作も(今度は)北海道芦別を舞台にした古里映画ですが、やはり戦争を描いています。もう二度と戦争を起こさないために、私たちは戦争を忘れては成らない。けれども同時に、有事の際に国や家族を守るにはどうしたら良いかも考えて行かなければ成らない。この矛盾に対する葛藤は、人類が抱える永遠の課題なのでしょう。世の中が不況に成ると戦争の足音が聞こえて来ます。でも今を生きる私たちには、その矛盾を越えられる何か良きアイデアが(きっと)思い付くはずです。みんなの思いは同じです。もう戦争はしたくない。国を守りたい。家族を守りたい。だからゴールは一緒です。ならば一緒に智慧を出して行こう。戦争を忘れないことで、共に平和を築いて行こう。
昨夜のニュースでは、映画監督のオリバー・ストーン氏が来日し、広島と長崎を訪れ、平和祈念式典に参列している姿を紹介していました。オリバー・ストーン監督は、ベトナム帰還兵としての経験があり、「プラトーン」や「7月4日に生まれて」等のベトナム戦争の映画を撮っています(その後は「JFK」や「ニクソン」等の社会派映画も撮っています)。インタヴューの中で、ストーン監督は「広島、長崎への原爆投下は誤りだった。戦争を終わらせる為という理由も嘘だった。仮に終わらせる為であったとしても、許されないことだ」と述べていました。約70年の戦後史において、いろいろな観点から歴史が見直されて行くことは良いことだと思います。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ。世界唯一の被爆国日本は、世界の平和を祈るに最も相応しい国です。
東日本大震災以後、平成の天皇皇后両陛下は、(お体の具合がとても悪いのに)幾度となく被災地を訪れ、被災者の方々を勇気づけられ、亡くなった方々への慰霊と共に、被災の土地を鎮める祈りを捧げ続けています。このお姿に、昭和天皇がマッカーサーに立ち向かった時の澄み切った思いと同様のものを感じます。これを「無私」の心と言うのでしょうか・・・。「自分は良いから国民を守ってください」。私たち日本人は、再びここで救われようとしています。先日、気象庁の緊急地震速報がありましたが、結局「誤報」とのことでした。けれども国民の生命を守るための懸命の努力の上で起きたことであり、責めるべきことでは無いと感じます。それでも尚、謝罪を行う姿勢にむしろ感謝の念を抱きました。最後は私たち一人ひとりが、自身の心の中に平和をつくることしかありません。その総和が世界平和になるのだから。みんな、一生懸命生きているのだから。