

2013.05.20
タルコフスキー映画の最高傑作と言えば、「ノスタルジア」ではないでしょうか。1983年のカンヌ国際映画祭にて創造大賞他、いくつかの賞を受賞いたしましたが、そのような世間的評価とは一線を画した芸術作品の中で、きっと未来永劫生き続ける映画的宇宙のひとつだと思います。けれども、やはりタルコフスキー作品だけあって、一般的な映画を観るような訳には行きません。そこには(観る側にも)ある種の瞑想的な心構えが必要です。現代の時間の流れとは逆行するほどの「静止した動き」に身を任せることを求められるからです。
つまり、(例えば)植物の芽が出て、茎が育ち、葉が生まれて、花が咲くまでをじっと見届ける(定点観測する)様な視座のことです。それはあたかも(一見)静止しているかのように見えますが、(真実は)1秒ごとに驚異的な変化を継続しているものです。その動きは明らかに遅く、時代のスピードからの視点から見ると、単なる過去の郷愁にしか見えません。けれども、その長大な奇跡のミクロ的時間軸の積み重ねは、決して止まることなく、1mmずつ未来へ進み続けています。
一方、私たちの日常は物凄いスピード(時速100キロくらい)で、「今」という地点まで一気にやって来ました。しかしながら、ここに来て、遂に巨大な壁にぶつかり、思考も行動も一時停止してしまい、向かうべき道を見失っています。人類の歴史上、初めてと言えるほどの、八方塞がりに入ってしまったようです。そして私たちは、過去(来た道)を振り返り、遠い風景に中から(確かに)ゆっくりと近づいてくる存在を目にするのです。それはかつて、私たちが「止まっている」「取るに足らない」と思っていた微細な運動体です。私たちが、「郷愁(ノスタルジア)」と称して、過去の産物として葬ったはずのものでした。
無価値であったはずの「静」が、前へ進めなくなった「動」に追い付き、今や追い越そうとしているのです。「静」は「生」ですので、(一見)静止しているように見えて、実は物凄い生命力を内在しています。生き(続け)ているのです。私たちはきっと、目の前をゆっくりと通り過ぎて行くノスタルジアを見送り、彼らの後を付いて行くことになるのでしょう。まるで、ウサギとカメの物語のようです。
映画「ノスタルジア」から感じられるメッセージには、もっと深いものがあると思います。人類を救うことと、故郷に帰ることが交差する中で、「幸福」と言う優しい言葉では表現し切れない、真の「歓喜」を追求しているのかもしれません。映画自体は極めて難解です。多分きっと、人類は偽りの成長の終わりを迎えているのかもしれません。人類は楽をしてきたのです。ただ「楽に成りたい」だけを追い求め続けてきたからです。そして今、そのツケの請求が来たのでしょう。非常に厳しい現実です。要は、資本主義や民主主義では、全体幸福は実現出来なかった。私たちはそこを正直に認めて、今私たちを追い抜こうとしている「自然の摂理」をもう一度観察し直して、その驚異的な生命力に対する畏敬の念を持って、素直に後に付いて行く道を選択することです。
日本や世界の現状は厳しい。教育の建て直しをしても、あと30年は掛かるでしょう。人口が減り続ける以上、右肩上がりの成長も望めません。幸い「アベノミクス」によって、僅かな期待が生まれ始めていますが、これも永続的に捉えるのでは無く、私たちが静かに方向転換を行うに必要な時間軸(猶予期間)をいただいたものと感謝して、この一瞬の景気浮揚の中において、過去から未来へと(一糸乱れぬ)行進を続けている列に合流することだと思います。
このようにして、古き良きものからの「インスピレーション」を得ることは大切だと思います。過去からの長大な時間を生き続けている古い映画やクラシックや古典に触れることで、そこから何かを感じ取ることが出来ると思います。それは確かに過去への単なる「郷愁(ノスタルジア)」かもしれませんが、もしかしたら過去からの足音を聴く行為なのかもしれません。
映画「ノスタルジア」全編を貫く静寂、静止、静音は、一向に前へ進みません。音楽もほとんど流れず、静かな水の音が聞こえるだけです。普通の感覚では、ただの退屈な時間です。けれどもそれは、私たち人間の側の視座が低いからではないでしょうか。自らの意識の視座(高度)を上げ、俯瞰する地点に達し、全体を見下ろすことによって、今まで見えなかったものが見えて来る。静止していたものが動いて見える。生命の躍動感を感じられる。そのような位置に立って、映画「ノスタルジア」を見た時、主人公が故国の家族や家を思う「郷愁」には、むしろ未来(希望)を感じます。
特にタルコフスキー映画に出現する「家」は、特別な存在です。私たちがノスタルジアを感じるのは、多くの場合、「場」です。風景や街並みや家です。つまり、私たちの建築には、大きな使命が内在されている訳です。その家にノスタルジアはあるのか。その家は、未来へ向かって歩いているのか。未来の人の心に宿り続けているのか。その人の未来を救えるのか・・・。ノスタルジアが、過去への郷愁から未来への期待に変わる瞬間が起きそうな気がします。それは、自然の恩恵に感謝できる意識の開花だと思います。
2013.05.13
5月11日(土)~12日(日)、加子母に行き、岐阜県主催の「恵みの森づくりフォーラム2013」に参加してきました。本事業の後援は、坂本龍一さんが主宰する森林保護団体「一般社団法人モア・トゥリーズ」で、シンポジウムには坂本龍一さん、TBS「サンデーモーニング」でおなじみの造園家の湧井雅之さん、フリーアナウンサーで岐阜県中津川市出身の草野満代さんが登壇され、日本の山や森をいかに守って行くかについて、熱くも楽しい討論が繰り広げられました(会場は満席、立見状態でした)。
モア・トゥリーズの坂本龍一さんが日本の森づくりの動き出し、あの3.11を通過した後、昨年モア・トゥリーズと加子母森林組合は連携を決めました。それから一年が経ち、今回は全国にある「モア・トゥリーズの森」の(記念すべき)第1回サミット開催のために、(その会場と成った)加子母にやって来たのです。その一環で上記のシンポジウムも行われました。
われらが加子母森林組合の内木組合長も、本シンポジウムにて事例発表を行い、加子母の山づくりを紹介いたしました。「美林萬世之不滅」の理念の下で、4世代複層林の山づくりを目指し、どの世代でも山の経済が循環する仕組みを実現する。森に光を入れることで、生態系が蘇り、草や花や昆虫が住む美しい森をつくる。これが完成するにはあと50年掛かるが、そういう大きな夢を持って次世代へつなげて行きたい・・・。
国土の面積に対する森林の割合を比較すると、日本は世界第2位(1位はフィンランド)だそうです。しかも様々な種類の木々による生態系を維持しているのは世界で日本だけとのことです。日本はまさに森(木)の国なのですね。私たちは自然界、とりわけ森や植物たちのおかげで生きている(生かされている)ことを忘れがちです。だとすれば、やはり世界一の森林国である日本から、自然との親和性を取り戻して行かなければならないのでしょう。林業の活性化や地球環境の保全という(人間側の)目的の裏側には、このような自然信仰という側面もあるように感じます。だから、このような運動は日本から始まらなくては成らなかったのです。
13日(日)の朝、地元の中日新聞の朝刊の1面トップに、伊勢神宮に関する記事が大きく載っていました。「神宮、英語でもJingu」という大見出しで、伊勢神宮は今回の遷宮を機に、「神宮」を「Shrine」から「Jingu」に、「神」を「God」から「Kami」に表記を見直します。つまり、日本語のまま世界共通語に定着させることにしたのです。確かに神宮とShrineは違います。神とGodも違います。今までは、世界共通語の英語に合わせていましたが、柔道(Judo)や忍者(Ninjya)、あるいは改善(Kaizen)やもったいない(Mottainai)のように、日本オリジナルの意味を持った言葉(言霊)として貫くのです。これは大賛成です。「神宮」とは、まさに自然信仰の象徴です。そのようなオリジナルな文化を再生しようとする日本が、国土のほとんどを覆う森(大自然)を再生させようと歩み始めたことは、全く自然なことであり、必然なことだと思います。
ですので、このような森を守る運動のベースには、自然信仰の本質である「感謝」が無ければ成りません。自然界のおかげで生きている(生かされている)ことへの感謝の心を持ち、その自然界を(可能な限り)守って行く。その動きと森の経済を連動させ、いつまでも安心して森を守って行ける仕組みを造り上げる。そのような大きな流れの一部として、丸二も加子母の山づくりを(微力ながらも)コツコツと継続して行きます。内木組合長のお話には、未来や次世代(子どもたち)への大いなる夢がありました。夢は夢で終わるかもしれない。でも夢を見なければ実現しない。私たちも(加子母さんと共に)夢を見て、それを実現させる道を(一緒に)歩んで行きたいと思います。
2013.05.06
最近観たDVD(映画)で、あることに驚きました。旧ソ連時代の有名な映画作家、タルコフスキー監督が1986年に製作した「サクリファイス」に、東日本大震災の津波で生き残った「奇跡の一本松(陸前高田市)」が描かれていたからです(もちろん「符合した」という意味においてです)。この映画を観終わり、すぐにインターネット等で調べてみると、確かに多くの人たちが、そのような見方をしていました。タルコフスキーの映画は、「惑星ソラリス」が有名です。キューブリック監督の「2001年:宇宙の旅」と対照的に論じられる問題作ですが、惑星ソラリスの海を「知性ある存在」として描き、神聖なる宇宙、大自然の叡智、人間の本質について、より深く追求した稀有な作品に成っています。
「惑星ソラリス」では、バッハの音楽も印象的です。私はこの映画の中で、ソラリスの知性によって、主人公の(亡くなった)妻が再生し、その妻と(バッハの音楽と共に)無重力の部屋の中を浮かぶシーンが好きです。妻自身も、自分が「本当の人間では無い」ことを認識していて、この世の生命の儚さを感じさせます。そのタルコフスキーの遺作と成った「サクリファイス」とは、日本語で言うと「犠牲」という意味だそうです。声の出せない子供と一緒に、海辺に「日本の木」を植える男がいます。その日、世界で最終(核)戦争が起こり、全ては終わりに近づきます。男は、全てを捧げるから、家族を助けて欲しいと神に祈ります。そのためにあることを行い、目が覚めると、元のままの世界に戻ります。男はその代償(犠牲)として家に火を付け、全てを燃やし、精神病院へと送られます。最後に、「日本の木」に水をやる子供が声を発します。「初めに言葉ありき」と。
これはキリスト教の「生命の樹」をモチーフとした物語です。音楽も(ソラリス同様)バッハの、「マタイ受難曲」が使われています。けれども不思議なのは、主人公の男と声の出ない子供が、「日本」を尊敬し、日本に希望を託しているという点です。西洋のキリスト教的な物語で、なぜ日本なのか。そして、なぜ「日本の木」を植えるのか。しかも海辺に・・・。映画の最後に映る「日本の木」は、明るくキラキラと輝く水面の光を背景に、立派に立っています。核(原子力)の危機の後、海辺に立つ(たった一本の)「日本の木」が、未来への希望を象徴するのです。世界の終りが近づくと、なぜ人々は「日本」を思うのでしょうか。なぜ、タルコフスキーの脳裏に、海辺の一本の「日本の木」の映像が思い浮かんだのでしょうか。
この「サクリファイス」の完成直後、自国(ソ連)でチェルノブイリ原発事故が発生します。そして25年後の3月11日、日本で大震災と原発事故が発生し、陸前高田では一本の木が生き残りました。「未来への希望」のシンボルとして。25年前にタルコフスキーは、このことを予見していたのでしょうか。映画自体はタルコフスキー作品ですので、哲学的かつ難解です。一般的な意味において面白い作品では無いかも知れません。でもあの時代、ソ連の国民が映画を撮ることは命懸けでした。命を懸けても表現したいと言う「念」の力が、きっと時空を超えたのだと思います。タルコフスキーは、この作品を完成させたその年に、まだ54歳で亡くなります。あまりにも強い「念」を発し切ってしまったからでしょうか。そして私たちは25年という歳月を経て、その「念」の意味を理解するのです。
東日本大震災で生命を失った多くの方々の犠牲で、今日も私たちは生きて(生かされて)います。その感謝の思いを決して忘れてはいけないと思います。同時に、これからの日本に対する大いなる期待も背負って行かなければなりません。この大震災の経験を、「未来への希望」に昇華させる責務が私たちには在る様に思います。そしてそれは、決して日本の中だけの事ではなく、全世界からの期待の様に思えて成りません。タルコフスキーは日本を愛していたそうです。映画の中でも「前世は日本人」と言う表現がありました。だからこそ、今現在、確かに日本人である私たち一人ひとりが、「日本の木」として立派に立ち上がらなければ成りません。そのような(過去からの)強き「念」と「期待」を感じるのです。
最後に、東日本大震災の経験を「未来への希望」に昇華させる為、ぜひ(あくまで個人的に)観て欲しい映画と音楽をご紹介します。
1.映画「この空の花~長岡花火物語~」(大林宣彦)
2.音楽「イーハトーヴ交響曲」(冨田勲)
3.音楽「交響曲第1番<HIROSHIMA>」(佐村河内守)
4.映画「サクリファイス」(タルコフスキー)
また、私たちが取り組んでいる「日本の木」、つまり「加子母ひのき」への取り組みや日本の森を守る事業も、大きな視点で見れば「未来への希望」と結び付くと思います。伊勢神宮の御遷宮の年に、その御用材である「加子母ひのき」との御縁に感謝しつつ、日本や世界の未来について、もっと深く考えて行きたいと思います。映画「惑星ソラリス」のラストのように、巨大な自然界の叡智の中の、ちっぽけな存在の一粒として。
2013.05.06
今年のゴールデンウィークは本当に天気が良く、清々しい毎日でした。私は友人に誘われて(初めて)クラシック音楽の祭典「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)」に行き、(3日間!)東京国際フォーラムに通いました。クラシック音楽のファンは、身近にあまりいなかったので、このようなイベントに本当に人が集まるものなのかどうか、実は軽く考えていたのです。
ところが行ってみたら大変でした。東京国際フォーラムは毎日大混雑で、会場周辺や丸の内でも多くの出店やイベントや無料コンサートがあり、一体どこからこんなに人が集まって来たのだろうかと思うほどの盛況ぶり。この音楽祭は、日本では9年目と成り、東京国際フォーラム内の全ホールとよみうりホールを3日間使用して、(朝から夜の11時頃まで)クラシック音楽のコンサートがたくさん開かれます(全部で135個の公演です)。発祥はフランスで、1995年から始まり、リーマンショック以降は規模が縮小されたそうですが、それでもこの盛り上がりです。百聞は一見にしかず。誘ってくれた友人に感謝です。
東京国際フォーラムで一番大きいホール(A)は、5000人を収容します(上の写真)。その会場で(3日間で)延べ18回の公演があり、そのほぼ全てが満席状態と言う、クラシック音楽界の現状から考えると奇跡の様なことが起きていました。5000人×18回×(平均)2000円として、(Aホールだけで)1.8億円の入場料収入です。その他のホール(6カ所)もほぼ満席でしたので、それを加えたら相当なものです。でも出演している演奏家たちも、みんな有名な方々ばかりでしたので、出演料や会場費、広告宣伝等のコストもかなり掛かるでしょう。いろいろな企業からの協賛も集めて、このプロジェクトは運営されているようです。
一回の公演時間が45分で、入場料が(通常のコンサートよりも)とても安い。聞きたい曲や演奏家を自由に選べる。空いた時間も周辺のイベント会場や出店で楽しむ(上の写真)。東京丸の内で、ショッピングも出来る。いつから来ても良いし、最後までいても良い。同じ趣味の人達が集まって、休日を一緒に過すような感じです。何となく、どこかのヨーロッパの都市に来たような錯覚すら覚えます。コーポラティブハウスの持っている空気感(コミュニティ)とも似ています。
基本的に「斜陽」と言われているクラシック音楽界ですが、このように、永遠と続く音楽自体の生命力に火を付けることで、新しい復興が起こせるのだと(驚きと共に)認識することができました。要は「アイデア」なのだと。3日間を過しながら、自分自身の仕事に対するヒントも得られたように思います。良きものは、やり方を変えれば、火が付く。これは大いなる収穫です。
さて、演奏会自体の感想です。今回のテーマは「パリ、至福の時」で、フランス音楽が中心です。私たちは、135個のコンサートの中から10個(だけ)選びました。その中で特に印象に残ったのは。。。
マスネ:タイスの瞑想曲(カントロフ指揮&デュメイのバイオリン)
ショーソン:詩曲(カントロフ指揮&デュメイのバイオリン)
ラヴェル:マ・メール・ロワ(ケフェレックと仲道郁代の連弾)
ロドリーゴ:ある貴紳のための幻想曲(カントロフ指揮&村治佳織のギター)
ラヴェル:ピアノ協奏曲(カルイ指揮&小山実稚恵のピアノ)
フランク:ヴァイオリン・ソナタ(デュメイのバイオリン)
フォーレ:レクイエム(コルボ指揮&ローザンヌ声楽アンサンブル)
ラヴェル:ボレロ(カルイ指揮)
オーケストラは、ポーランドの「シンフォニア・ヴァルソヴィア」とパリの「ラムルー管弦楽団」で、その両方ともとても豊潤で柔らかい音響で、本当に素晴らしかった。また初めて聞く曲も多く、そのような意味でも、安い入場料で試しに聴いてみるというシステムは、とても良いと思いました。音楽との新たな出会いが生まれます。
上記の演奏の中で、特に感動的だったのは、最終日のフォーレ(レクイエム)です。コルボ指揮のレクイエムは(名盤中の名盤で)、随分昔からCDを何度も聴いていましたが、遂に今回初めて生で聴くことが出来ました。会場が5000人収容のホールAでしたので、本当はもっと小さな会場の方が良かったのかもしれませんが、そんなことは全く関係なく、始めから終りまで、ガタガタと感動の震えを感じながら、真剣に聞き入ることが出来ました。とにかく、「素晴らしい」の一言です。コルボさんも80歳くらいですが、とても素敵でした。やはりCDと本物は、決定的に何かが違います。風景の写真を見るのと、そこに実際に行くのとの違いと同じかもしれません。フォーレのレクイエムは、静かに死者を楽園に導く穏やかで瞑想的な音楽です。その神聖さに酔いしれました。
また、最後の打ち上げ的な演奏会でのボレロは、本当に凄かった。実は前日の別の指揮者によるボレロを聴いた時は、さほど感動しなかったのに、この日の演奏では、徐々に力強く、最後は大音響と化すパワーに圧倒されました。5000人満席の会場で、3日間の大トリの花火ですから、そういう意味での力も加わったのでしょう。オーケストラの演奏者一人ひとりの音量がどんどん力強く成って、会場にも一体感が生まれました。3日間だけの出会い(コミュニティ)の最後に、聴衆も演奏者も一緒に成って、最後の音を鳴らし切る。そして万雷の拍手。終幕の曲は、メキシコの女性カスタネット奏者とのコラボレーションで、これも大いに盛り上がりました。カスタネット奏者は、75歳なのに物凄いエネルギッシュ。そのパワーのおかげで、終演後も2度のアンコールと繰り返されるカーテンコールで、最後は(すでに引き上げた)オーケストラのメンバーまでがステージに戻ってきて、みんなに「さようなら」の挨拶。
結局、「コミュニティ力」だったのです。クラシック音楽で結ばれたコミュニティが、このプロジェクト・アイデアの真髄だったのでしょう。日本人はそういう力を持っていると思います。あの3.11の時もそうでした。5000人の会場で、小さな子どもがいる中で、クラシックが初めての人も多い中で、静かに音楽に耳を傾けられる力。きっと遥々東京まで来た演奏家の方々も、日本の素晴らしさを体感できたのではないでしょうか。2日目の演奏会では、(終演後に)オーケストラの中の一人の女性演奏者が泣いていました。これも音楽の力、日本の力だと思います。
このようにして、今年のゴールデンウィークは終わりました。特に遠出もせず、東京の中で時間を過しましたが、とても充実した経験ができました。あらためて友人に感謝です。音楽の素晴らしさは、「今」という瞬間にあると思いました。今鳴らした音は、数秒後には消えている。過去も未来も無い。「今」という瞬間の芸術。だから今鳴らす音だけに集中すれば良い。数秒前(過去)のミスは忘れて、数秒後(未来)の難所も考えず、ただ「今」の音だけを懸命に鳴らすこと。その「今」の連続が人生と言う作品に成って、いつか振り返った時、確かに何か(形のないもの)を残せたのだと解る。全ては消え行くものだからこそ、心の中に残る。最後は形なきものが勝利する。きっと音楽は、神様の発明だと思う。
2013.04.24
もうすぐゴールデンウィークです。今年は特に遠出はせず、東京で(中学時代の友人たちと)クラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)」に行く予定です。この音楽祭は1995年にフランスの港町ナントで誕生し、2005年に日本に上陸して以来、延べ526万人を熱狂させたクラシックの音楽祭とのこと。私は今回初めてなので、とても楽しみにしています。この音楽祭は毎年テーマがあって、今年は「パリ、至福の時」。つまりフランス音楽が中心です。クラシックと言うとドイツ、オーストリア、イタリア等が中心ですが、フランス人の素晴らしい作曲家も多く、特に私はフォーレ、ラヴェル、ドビュッシーが好きです。クラシックのコンサートは、普段はなかなか行く機会が無いので、久しぶりにワクワクしています。
私が思うに、クラシック音楽の素晴らしさは、曲が誕生してから数百年以上も経っているのに、いまだに聴かれ続けているという、この「生命力」に在ります。実際、現代の音楽家たちが「今まさにこの瞬間に生まれた音楽」として新しい演奏を繰り広げています。その「熱さ」は物凄いです。さらにこの生命力は、時間が経つに連れて輝きを増しているような気がします。建築も同様に、時が経つに連れて、深みと味わいが生まれて来るようにして行きたい。音楽も建築もオリジナル・アートです。いつまでも残る作品を造り続けたいと思います。
さて、休日や余暇の時間の使い方ですが、何かこのようなイベントや旅行があれば、かなり充実したものになります。けれども時々、ぽっかりとした自由な時間が生まれることもあります。そのような時、私の場合は、映画を観る、音楽を聴く、本を読む、が最も多い選択肢に成ります。その他では、掃除、片付け、整理整頓。昔から部屋の模様替えをするのが好きで、レイアウトやインテリアを変えるのが楽しみの1つです。でも全部インドアですね。もちろん外へ行くこともあります。けれども人混みが嫌なので、人通りの少ない場所が好きです。
日本でも外国でも、街並み自体が古くて静かで美しい場所がたくさんあります。そのようなところで、そのような懐かしい古道をコツコツ歩くのは悪くないです。歩きながらきっといろいろ考えるでしょう。楽しい事も心配な事も。歩きながら様々な気づきやアイデア、発想も生まれるかもしれません。途中で小さなカフェでのんびりしたり、本を読んだり。また、南国の静かな夕暮れ時の海辺で、オレンジ色の太陽を眺めるも良いでしょう。泳ぎは苦手なので、マリンスポーツはご遠慮したいですが、涼しくなった美しい浜辺で、繰り返す波の音を聴ききながら、本を読むのも悪くないです。
実際は、なかなかこのような時間が持てないのですが、このようなイメージを持つだけでも、心は穏やかに成り、夢も膨らみます。夢と言えば、一生の内に、何か1つでも良いから楽器を弾けるように成りたいと思っています。音楽を聴くのは好きなのですが、譜面は全く解らないですし、楽器は何も弾けません。何となくチェロが良いなと思い、先日(勇気を出して)吉祥寺の音楽教室に行き、パンフレットだけ頂戴してきました。「大人の音楽教室」みたいなものがあって、全くの素人でも大丈夫と言われましたが、本当にそうなのかなとか、いろいろ考えます。自分がチェロを弾いている姿は、まだイメージできないので、これは時間が掛かりそうですが、私のチャレンジ目標の1つです。
仕事でも趣味でも、人生を「生き生き」とさせるのは自分自身だと思います。人生は(もちろん)いろいろなことがありますが、どんな時でも「生命力」さえ失わなければ(結果的に)より良い方向へ行くと思います。そのような中で、数百年もの間(微動だにせず)生き続けている「音楽」や「建築」、数億年もの間(微動だにせず)生き続けている「大自然」から学ぶべきことは多いのではないか。その「生命力」の源は一体何だろうか。多分きっと、創造者の「熱」ではないか。決して冷めない熱。いつまでも燃え続ける熱。これが生命力と化し、永遠の力と成る。これからの時代は「生命力」の時代だと思います。いつも心に熱き炎を。
2013.04.22
20日(土)に、加子母の山(神宮備林)をお守りする氏神様「護山神社」の奥社にて祭事があり、関係者と一緒に出席して参りました。実は、この「護山神社」の新しい鳥居を、このたび丸二(農商工連携事業でご縁のできたチーム)で寄贈させていただいたのです。そのようなご縁で、今回の祭事へのご招待をいただき、感謝状もいただきました(誠にありがとうございました)。上の写真は、その新しい鳥居の下で、私と加子母森林組合の内木組合長と護山神社の総代の方です。護山神社の奥社は、国有林(神宮備林)の険しい山の上に在り、そこへ行く途中にある小さな鳥居ですが、このたび加子母ひのきで立派に完成しました。
今まで約5年超を掛けて、加子母森林組合さんと一緒に、「森を守る」ための様々な取り組みをして来ましたが、実際にここに至るまで未だ大きな成果が上っていないのにも関わらず、「諦めずに良く続けて来た」と、加子母の山の神様がやっと認めてくださったような気がして成りません。静かな山での祭事の最中、鳥や小川のせせらぎの音を聞きながら、とても清らかな気持ちに成りました。
伊勢神宮の御用材として有名な「加子母ひのき」プロジェクトは、いよいよここから本当のスタートです。おかげさまで木造住宅やレンタルハウス(タカラバコ)のご依頼も非常に多く成り、だんだんと加子母の山を守ることに寄与し始めました。日本の木を使うことは、日本の森を守り、国を護ることに成ります。ですから、「加子母ひのき」を一本でも良いから使って欲しい。そのような「1mmの前進」の「継続」こそが大事なのだと、あらためて感じました。
今年は6月22日(土)~23日(日)と10月19日(土)~20日(日)の2回、加子母森林ツアーを行います。一人でも多くの方々に、日本の山、日本の森、日本の林業を知って欲しいという願いと祈りから、毎年開催をしています。あの東日本大震災を経て、私たちは遠い古里を思い出しました。日本という国を静かに護ってくださる日本の森と、その中に息づく生命との出会いをしてみませんか。ぜひお待ちしています。
2013.04.19
DVDで「ラビットホール」という映画を観ました。ニコール・キッドマン主演で、とても静かで地味な映画です。4歳の息子を事故で亡くした夫婦の物語で、その心の再生を描いたドラマです。けれども大きなドラマ展開があるわけでなく、日々の日常の中で、その悲しみの大きさを(少しずつ)小さくして行く姿を(淡々と)描いています。過去に生きるべきではない。でも明るい未来を描くこともできない。だから今を生きる。ほんの少しの先だけを見ながら。少しずつ重荷を下ろしながら。
映画の中で、その事故を起こした(加害者である)少年と(息子を亡くした)二コール・キッドマンが会う場面があります。もうそこには答えは無く、何か(良きこと)が生み出される可能性すらありません。でも、二人の心は通い合います。そして少年が描く「コミック」が完成するのですが、その主題は「並行宇宙(パラレルワールド)」。この今の現実とは別の世界が(同時並行的に)存在していて、そこでは私も息子も元気に生きている。きっとそういう世界があるはずだ。
この「パラレルワールド」は、多くの科学者によって研究されています。いずれにしても、「今をどう生きるか」によって、複数の未来への可能性が(今、同時並行的に)発生しているという意味においては、理解できると感じます。悲しんでいる自分がいる世界から、幸せな自分がいる世界へ移動すること。それは物理的に移動するという意味では無く、自分自身の意識を動かすことによって、それはきっと可能なことなのでしょう。良きことも、きっとどこかで(同時並行的に)存在していると信じて。
さて、4月13日の淡路の地震以降、三宅島、宮城と続き、同時に海外でもイラン、パプアニューギニアにて大きな地震が発生しました。その間、ボストンではテロ事件が発生し、北朝鮮のミサイル発射問題も収束していない状況です。この短期間でこれだけの重大な事象が起きていることを見ても、世界は「連鎖」していることが分かります。しかしながら「同時並行的」に、きっとたくさんの良きことも起きている「はず」です。何事も陰と陽の両面が在るからです。ただ人間は、どうしても不安と恐れの面だけにフォーカスを向けてしまいます。
例えば、今日(18日)はとても素晴らしい日和で、国分寺市内で地鎮祭を行いました。それはとても「ありがたき」ことです。今日という日が(本当に)やって来て、みんなが(予定通り)元気に集まること出来て、お天道様が暖かく迎えてくれて、無事に立派な祭式を挙行することが出来たのです。何て素晴らしいことでしょうか。でも私たちは、そのような事象を「当たり前」と思い、別の不足面の方ばかりに意識を向けようとします。終わったことを後悔したり、先々のことを不安に思ったり。結局、「いま」「ここ」の幸せを忘れています。これほどもったいないことはありません。
「いま」と「ここ」の素晴らしさに気づき、感謝の心を持って、今、ここで、出来る限りの最善を生きて行くこと。あるいは最善を「生きようとする」こと。その「生きようとする」意識と「動作」自体が、本当の幸せの「正体」のような気がします。世の中で起きている様々なネガティブな現象に意識を奪われたり、いつか来て欲しい物的な(あるいは静止した)「何か」を獲得することに魂を奪われたり・・・。それも確かに必要なことであり、生きるために価値あることですが、「そこだけに」生きてはいけないと感じます。今の自分自身の「良心」が向かっている「流れ」そのものが、私たちの目的(結果)ではないかと思います。
同時並行宇宙があるとすれば、それは自分自身の中に(既に)存在しているのではないでしょうか。だから(一瞬のうちに)どんな世界へも移動できる。確かにそこに、失われた人は(物理的に)存在しないかもしれませんが、「良き思い出と共に在る」という充足と感謝があるかもしれません。今の世の中、いろいろと大変なことが起きていますが、それと同時並行的に起きている「はず」の、たくさんの「良きこと」にこそフォーカスをして、今を思い存分「味わう」こと。そう思えると、今は本当に「素晴らしき世界」です。
2013.04.06
「昨日4月5日の東京株式市場は、出来高が64億4912万株と過去最高を更新し、前日比199円10銭高の1万2833円64銭と3日連続で上昇。4年7カ月ぶりの高値水準となった。」
私の前職は証券会社でしたので、出来高64億株という数字がいかに物凄い商いの量であるか判ります(当時のバブル時でも20億株台だったと記憶します)。当時は取引所内で、大勢の場立ちが手でサインを送りながら、売り買いをしていました。商いが多い日の盛り上がりは(それはそれは)大変なもので、出来高20億株を超えた日などは、当然株価も高騰し、取引所内も異様な興奮状態に包まれ、あちらこちらで拍手と歓声が湧き起こり、ある種の興奮状態でした。日々、投資家にもそのような(取引所の)熱気が伝播し、株価は更に上昇し続け、遂にバブルが発生しました。後にそれは終わってしまうのですが、日本経済が最も光り輝いていた良き時代だったのは事実です。
現在の取引所は全てがシステム売買に成り、もう場立ちの姿はありません。人間の手では無く、機械ですので、64億株も楽に処理できるのでしょう。静かにで効率的で合理的に成りました。けれどもそこには、あの時代の「熱気」はありません。バブル自体に対する見方は様々ですが、あの時、あの場所で、確かに日本は「元気」を創造していたと思うのです。
あらゆるものが効率的、合理的に成り、物事は早くて楽に成りました。便利に成ることで、人々の暮らしはきっと良く成るはずだと。けれども便利と引き換えに、同時に何か大切なエレメントも喪失してしまったような気もします。例えば、連日、証券取引所を包み込んだ「熱気」もその1つでしょう。アベノミクスと日銀の金融緩和政策によって、日本がデフレからの脱却を目指す中、市場が良い反応し始めています。これを発展的に持続して行く為に必要なことは、日本人一人ひとりの気持ちが、前向きに成り、元気に成り、勇気が出る、そういう「気」を創造することではないでしょうか。
いま私たちに必要なのは、「明るい気」です。目指すべきは「北極星」です。「決して手は届かないけれど、あの光り輝く星を目指して行こう」とするワクワクしたビジョンです。北極星とは、常に北天の中心に在る、決してブレない(目指すべき)光点です。そこへ向かう「気」の伝播こそが、日本人の底力を復興させ、(そしていつか必ず)あの北極星のように世界を照らすことを実現するでしょう。北極星に向かって歩いて行こう。世界を照らす場所へ行こう。日本人の潜在意識が、そのような精神の復興によって、一致団結するように思えて成りません。
あの東日本大震災と共に、日本の大地と海は大きく振動しました。けれども、その振動が最も揺らしたかった対象は、私たち日本人の魂だったのでは無いでしょうか。日本人の魂は、共に協力し合う「共認」によって、再び光り輝きます。そこが西洋の個人主義とは違うところです。「みんなで良くしよう」とする共認の和を増幅させることで、震災の傷跡を再生の力に変換する。だからこそ、みんなを照らす北極星に成ろうと。自分だけが良く成るのではなく、みんなで良く成ろうと。そういう意識の方向性が明確に成った時、日本人の「気」は(一気呵成に)一体化すると思います。そしてその力は世界へと伝播して、きっとそこから新しい(熱気に満ちた)社会が始まると思います。だから先ずは、自分自身が北極星に成ること。まわりの人を照らすこと。その総和が、きっと世界を変えると信じて・・・。
2013.03.13
2011年3月11日から丸2年が過ぎ、その日の午後2時46分には(心の中で)黙祷を捧げました。ここ数日、各テレビ局では震災についての特集番組を組み、被災された方々のその後を放映していましたが、(実際には)そこには映らない(映せない)本当の苦しみが未だ存在しているはずだと感じます。被災地の復旧・復興は遅々として進んでいないようですが、確かに、物理的な面において、あの日以前の状態に戻すのには、相当の時間が掛かるのでしょう。さらには以前の場所に街を再現するのではなく、別の地域(高台等)への移設ですから、全てがゼロからのスタートです。作業以前に先ずビジョン(方針)を確立しないと、なかなか心も形も1つに成りません。今までの場所への愛着と共に、またいつか来るかもしれない地震や津波への恐怖の中で、答えの無い質問が(頭の中で)繰り返されている人もいると思います。その精神的な苦しみは、きっと計り知れないものだと思います。
そのような中でも、働く場所がある人は、前向きに生きているように感じます。自分の家を失い、大切な家族を失っても、今日の「衣食住」があり、今日の仕事がある人は(大変な苦しみや悲しみを抱えながらも)生き生きとしているように見えます。もちろん明日への不安を拭い去ることは出来ないと思いますが、「今を生きる力」とは、本当に物凄いものだと感じます。それにひきかえ私たち多くの人間は、毎日「衣食住」に恵まれているのに、常にいろいろな不満や不安を持ち、今を生きずに、過去(後悔)や未来(不安)の中を生きています。終わったことにクヨクヨしたり、まだ来ないことを不安に思ったりして、今の意識が「今、ここ」に無く、どこか遠くに浮遊しています。多分きっと、これほど「もったいない」ことは無いのでしょう・・・。
現在、過去、未来とは言いますが、それは理屈の世界で、実際には(この世界では)「今」しか無いようです。「今」の連続が、ただ続いているだけです。「過去」の経験によって「今」が在り、「今」の意識と行動によって「未来」が形成されます。つまり今の中に、(すでに、同時並行的に)過去も未来も含まれていると言うことです。だから「今、最善を生きる」こと。将来への不安で、今が楽しくないとしたら、それは無意味なことです。今を楽しむことで(同時並行で)良き未来が形成されるからです。同時に、過去の全てに感謝すれば、今を楽しむことも出来ます。今、感謝の心で、最善を生きること。私は、今回の東日本大震災で、そのようなことを感じ、学ぶことが出来ました。
さて今日も強風が吹いています。先日の日曜日には煙霧が発生し、空が急に暗く黄色に染まり、ある種の恐怖心を抱きました。最近は寒暖の差が激しく、花粉の猛威も増して来ています。全て、自然界に対する(私たち人間の)行いの結果だと思います。そうであるならば、私たちは意識を変えて(できる限り)自然を破壊しない生き方に修正しなければ成りません。同時に(その間)自然の猛威から身を守ることも考えなければ成りません。それは「衣食住」の確保が基本であり、特に食糧の確保と安全な住宅が最優先に成ると思います。過去の行いによって、私たちは厳しい(今の)時代を生きていますが、そのことに(積極的に)感謝することで、明るい未来を引き寄せると思います。インフレ、円安、消費税アップ、外交、防衛、原発、エネルギー、社会保障、景気回復、財政再建等、難問ばかりの日本ですが、それでも尚、生かされている現状に感謝して、近隣諸国との融和を思い(願い)ながら、最善を生きて行きたいと思います。そのことが、東日本大震災でお亡くなりに成られた多くの方々への最大の供養だと信じます。
2013.03.08
今週の火曜日は縁会でした。縁会と言っても宴会ではなく、全社員が月1回集まる縁会です。私はここで毎月30分ほど社員さんに話をします。今月は、このような話をしました・・・。
最近は隕石や気球の事故があり、地元では恐い事件が発生し、北海道では暴風雪で多くの方々が亡くなりました。特に地元の事件と北海道の件では、親の気持ちを考えると、何とも言いようのない悲しみが襲って来ます。北海道の暴風雪で9歳の娘を抱きながら亡くなった父親の愛情を思うと、涙が出て来ます。父親は亡くなりましたが、娘は生きることができました。父親は自分の服を娘に着せて、さらに雪から守るように娘を抱いていたそうです。お母さんは数年前に病気で亡くなり、父と娘のたった二人の家族でした。娘は両親を失いました。立派に生きて欲しいと祈ります。
宮澤賢治の物語は、自己犠牲を描いています。「銀河鉄道の夜」では、川に落ちた友人を救うために(カンパネルラが)水に入り、「グスコーブドリの伝記」では、寒波から人々を救うために(ブドリが)火山へ入ります。生と死とは一体何だろうか・・・。「雨ニモマケズ」の最後は、「ヒドリの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに私は成りたい」と結ばれます。
一般的には「デクノボー」は、「下手」とか「役に立たない」というマイナスのイメージがありますが、賢治の言う「デクノボー」とは、むしろ「自分を後回しにする」あるいは「自分を勘定に入れない」という精神面を強く感じます。現代社会の中では、全く損な生き方であり、決して「成りたい」イメージでは無いでしょう。もう少し深く考えると、それは「愚直」という言葉なのかもしれません。私たち日本人の精神的美徳でありながら、随分昔に忘れ去ってしまった・・・愚直さ。今、東日本大震災を経て、その心の復興が始まっているような気がします。
そう・・・もう「3.11」から丸2年です。時代が大振動を始めて、賢治の理想郷とする<イーハトーヴ>への道が始まりました。振動は大地を揺らすと共に、人々の魂も揺らし続けています。きっといろいろな不都合も起きるでしょう。それでも人間は、前へ向かって歩き続け、きっと乗り越えて行きます。丸二も、賢治の言う「デクノボー」的な面がある会社です。このデクノボー、つまり「愚直さ」を「あきらめない」限り、私たちはこの大振動時代に応援されると思います。
大振動の時代は、大地も空も揺れます。自然現象も揺れ、気候も揺れます。今までの感覚では理解できない天候を経験するかもしれません(先日の北海道のように・・・)。同時に、ますます「衣食住」への重要性が高まると思います。衣食住とはまさに「生」の原点です。あの暴風雪の中、もし(もう一枚)温かい服があったら、もし何か食べるものを持っていたら、もしどこかの建物に中に入れたら・・・。衣食住への回帰、つまり生命を守る産業への回帰は、人間の生きる力の再生であり、あらゆるものの根源への収束を促すと思います。
中でも建設業の存在は重大です。地球環境の変化に従って、自然界の猛威が増すことで、「住居」にも大きな変化が訪れるでしょう。文字通り「生命を守る」ことが中心軸と成るはずです。今現在の建設業界は、様々な構造的な問題が重なり、改善の足取りは遅い状態です。それでも世の中は、かつて無いほどに、建設業を離さなく成るでしょう。決して楽な道ではありませんが、決して失われない道でもあります。
あの北海道の暴風雪の中で、自分の命と引き換えに娘の命を救った父親を思う時、私には(その娘を抱きかかえている姿こそが)建設業の心と感じたのです。何があっても、どんなことをしてでも、守る。人々の日々の生活、暮らし、家族の生命を守る。これが住居の本質だと、気づかされました。だから私はいつもこう言い続けています。「建設業は尊い仕事、聖職である」と。
デクノボー(愚直)を続けて行く限り、私たちの職業は求められるでしょう。もちろん苦労もあるし、評価されないこともある。けれども、それでも良いじゃないか。みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、ただ造った建物をギュッと抱きしめ続けるのみ。北の暴風雪の中で、あるいは夜の街の中で、大切な命が失われた時も、私たちはこうして服を着て、ご飯を食べて、家に暮らしている。その幸せへの感謝を決して忘れてはならない。この聖なる建設産業に従事している喜びを持って、明日もまた「良き建築」を社会へ提供して行こう。それが私たちの使命。この道を行こう。
・・・以上が、社員さんへ話した(大まかな)内容です。これからの建設産業で最も大事なことは、熟練技術者を大切にすることと若い力を結集させることです。長年この業界で建築技術の腕を磨いてきた方々の智慧は、国の宝だと思います。もう70歳までは現役の時代です。同時に、その技術の伝承を若い世代へつなげなければ成りません。そのような業界の構造的なテーマを持ちながら、愚直に前へ進んで行こうと思います。