社長ブログ

心の大維新

政府による南海トラフ地震の被害想定が発表され、にわかに緊迫感が走りました。実際に発生するかどうかは(もちろん)誰にも分からないことですが、起きた場合を想定して、できる限りの準備と心構えは必要でしょう。これは日本のみならず、世界のあらゆる地域も同様です。現在の地球上では、様々な形で多くの自然災害が起きています。この流れを簡単に止めることはもう難しいと思います。であるならば、防災意識を持って、毎日を生きるしかありません。仮に、安全な場所に暮らしていたとしても、たまたま行った場所で災害に遭う可能性もあります。最後は、自分自身を信じて、毎日を明るく生きて行くことだと感じます。
このような地震・津波の想定がある以上、「無」原発への道は急ぐべきだと思います。それでも間に合わなかった場合に備えて、放射線の中で生きてゆける体質造りも必要のようです。原発のみならず宇宙線(放射線)の量も増えているらしいので、人間にとってどのような栄養素が必要なのかを考えていかないといけません。いずれにしても人間の体には小食が良いようです。最近、若い人の中でも、1日1食の人が増えているようです。経済至上主義の中で、毎日たくさんの食事を摂る生活習慣が推奨され、その結果、成人病が増え、ダイエットにお金を掛けています。今こそ私たちは、本当のことを知って、生活そのものを見つめ直していくべきだと思います。
地震にしても、原発にしても、病気にしても、全て「生命」に直結する問題です。人生は「生命」あってのものなのに、私たちは「生命」を犠牲にして、経済を優先して来ました。この「本末転倒」状態から早く目覚めることが、東日本大震災で犠牲と成った多くの方々に対する本当の追悼だと思います。とは言うものの、社会の仕組みが変わらない以上、その流れを変えることは難しい。でも、意識を変えることはできます。一人ひとりが意識を変えれば、きっと大きな力と成って、新しい時代が始まると思います。外側の状況に主導権を渡さずに、自分自身の良心を信じて、淡々と毎日を生きて行くこと。内面の力が一番の資産に成る時代が始まりました。まさに「心の大維新」の始まりです。静かなる革命です。

復興、古里、祈りのひのき

今日は地鎮祭でした。会社から歩いて15分、西荻窪の駅近く。燦々とした太陽の光の下で、神事を行わせていただきました。今まで住んでいた住まいが解体され、これから新たな建物が造られる。その一瞬の束の間の間、数十年振りに、その土地は太陽の光をたっぷりと浴びます。とても神聖なる時間。そして地鎮祭が行われ、土地が浄化され、また新しい社が建ち、住む人々を末長く護ってゆく。日本の建築文化の象徴である地鎮祭には、何か特別な意味があるように思います。神仏を信じる人も、信じない人も、みんな地鎮祭を行い、ホッとされます。日本人の心の中に、「お天道様が見ているから」という良心は生き続けているようです。建設業に身を置くことで、日々このような神事に触れられていることは、まさに幸せだと思います。
神仏と言えば、いよいよ来年(2013年)は、伊勢神宮の御遷宮です。遷宮とは、20年毎に社殿を建て替える伊勢神宮(正式には「神宮」)の特異なシステムです。遷宮のための木材(ひのき)は、裏木曽加子母の神宮備林から伐り出されます。日本全国の山や森の中から、加子母地域が選ばれたわけです。加子母ひのきは、日本人の心の原点(古里)とも言える「神宮」の社と成り、20年毎に解体された社殿の木材は、他の神社で再利用させます。つまり、加子母ひのきは、「神宮」経由で、日本各地へ広まっていると言う事に成ります。
丸二が加子母森林組合様と共に志していることは、神宮社殿のための加子母ひのきを、一般の住宅にも使わせていただき、特に都会の暮らしの中に、「日本人の心の古里」を復興させようと言うことです。同時に、間伐によって、山に光を入れ、日本の森の生態系を復興させることです。今、日本は全ての面において「復興」が必要な時です。このお盆は、戦争のことを考えました。「戦後史の正体」という本を読み始めました。スカパーでは2本の映画を見ました。「一枚のハガキ」と「日輪の遺産」、共に戦時の物語です。これらの映画を見て、真実はもっと悲惨だっただろうと思いつつ、今の時代の幸福さが身に沁みて分かります。それなのに今の日本は、今の私たちは・・・。
毎週金曜日に行われている官邸前の集会では、参加者によって(自然発生的に)「ふるさと」が歌われているそうです。古里・・・。古里には森や川や田園があり、神社とお祭りがあった。草花が美しく咲き、昆虫が住む。現代の都会の中に(物理的に)「古里」を造ることは難しいですが、心の古里を造ることは可能です。加子母の神宮ひのきは、日本の古里の匂いを運んで来てくれます。強くて不思議なピンク色をした加子母ひのきは、やはり何か特別な「柱」なのではないか。そのようにして、私たちは、ほんの少しずつですが、加子母の匂いを都会に運んでいます。
さて、ある方から教えていただいたのですが、米国International Journal of Health Servicesの2011年12月号に掲載された記事に、「米国において推定14,000人が、日本で発生した福島原発事故から14週間以内に放射性降下物によって死亡。死亡者数はさらに増加し、米国ではすでに2万2千人以上が福島による放射能被爆によって死亡している」と発表されたそうです。本当なら大変なことです。
今、何かを変えなければ成らない時。では、どう変えるべきなのか。そこに明確な指針を出せる人間などいないでしょう。人間業で成せる程度の問題を遥かに超えて来てしまったのだから。だからこそ、「お天道様が見ているから」という精神文化の在る日本なのだと思います。お天道様とは良心、自分の胸の中で燦々と輝いている良心。その良心の声を聞いて、一人ひとりがお天道様に恥ずかしくない生き方をする。その連鎖が、きっと大変革のうねりを造り出すと思います。これが「祈り」の力だと思います。いよいよ、日の本、日本の真価が問われる時が来たと思います。私たちも、「志」を持って、1mmの前進を続けます。「祈りのひのき」の匂いを運び続けます。

ロンドンオリンピックが終わり・・・

ロンドンオリンピックが終わりました。文明の中心が「西洋」から「東洋」へ移行する最後の年(2012年)に、西洋文明の中心地だった英国ロンドンに、聖火が灯り、そして消えました。
次の(文明の)中心地と成る(はずの)日本は、メダルをたくさん取るか、まったく取らないかのどちらかだと思っていましたが、結局メダル数は史上最多で、金メダルが少ないという結果と成り、当たったような、外れたような、いかにも日本らしい終わり方でした。
でもメダル数が最多という意味では、日本に大きな流れが来ているということだと思います。メダル数が増えれば、おのずと(今後は)金メダルも増えていくでしょう。たぶん基礎力ができてきたのだと思います。あとは、男性陣の問題ですね。日本男子の精神的弱体化は、スポーツのみならず、すでに政治や経済にも影響が出ていると思います。おそらくこの流れは変わらないと感じます。
別の見方をすると、勝負事への執着心が減少して来たという面もあるかもしれません。それは良いことなのか、悪いことなのか、分かりませんが、「金」は少ないけど、そこそこの成績は出せるぞという具合で、その辺に落ち着いたのかもしれません。日本をめぐる国際問題がいろいろとある中で、目立たず、突出せず、でも力はあるという存在感を、日本らしく表現しているようで、そう思えばなかなか面白い結果だったと思います。
もう血眼に成って、金メダルを取ろうとは思わない。結果よりも精神性。取ろうと思えば取れるけど、それより大事なものがある。何かそのような(目に見えない)意志があるようにも感じます。男子柔道の選手たちは、残念ながら金メダルを取れませんでしたが、日本発祥の武道がこれだけ世界的スポーツに成った証拠だと思えば、良き事のようにも感じます。人口の少ない日本がこれだけの結果を出していること自体、素晴らしいことです。今回の<メダル(実力)は多いが、「金」(名誉)が少ない>と言う特異な現象は、次の東洋的な文明社会へのヒントに成ると思います。
私は、(実は)オリンピックをそんなには見ていませんでした。大体は、ニュースで結果を知りました。オリンピックに賭ける自国の選手を応援する気持ちはもちろんありますが、それは特別な思いではなく、毎日の日常の中で一生懸命に働いている(生きている)世界中の普通の人々への思いと何ら変わりません。人よりも0.001秒早く走ることと同様に、(一人のある職人が)今日の仕事を昨日より丁寧にやることは、とても尊いことです。実際に他者の生活(衣食住)を助けているのであれば、比較しがたい程の尊さです。
オリンピックは、(逆に)大切な事を忘れさせます。そこで走ったり、泳いだりしている人たちだけが素晴らしいのではなく、「今」の「自分自身」こそが最高に素晴らしいということを、忘れさせてしまいます。オリンピックの恐さは、そこにあります。自分の外側に凄い人がいる。自分はダメだ。あの人のようにがんばらなきゃいけない。束の間の感動の後にやってくるこの無力感は、自分自身の素晴らしさを封印してしまいます。それは、「素晴らしいものは外側にある」という幻想(錯覚)に過ぎません。
本当に素晴らしいのは、「今」「ここで」、懸命に生きている「自分自身」ではないでしょうか。それは他の誰とも比較しようの無い、完全な尊さです。オリンピック中継も高校野球中継も大事ですが、でも同様に素晴らしいものが世の中にはたくさんあります。例えば、日々の日常の生活(衣食住)をより良くすることを懸命にしている人がいます。東北の復興に努力している人がいます。二度と戦争が起きないように戦争体験を語っている人がいます。暑い中、現場で働いている人がいます。生きるためにセールスをしている人がいます。頭を下げて、謝罪している人がいます。新しいアイデアを考えている人がいます。道端の空き缶を拾っている人がいます。仏壇に線香を立てている人がいます。みんな、みんな、毎日が金メダルです。
西洋文明は名誉依存。東洋文明は精神自立、実際に人の役に立つ実力があれば良い。そこには比較や競争の文字は無い。多分きっと(何となくですが)そんな風にして、時代が流れて行きそうな気がします。今現在の世界中の国々の防衛予算をまとめて現金にして、世界中の人々全員に配ったら、一人当たり数億円に成ると聞きました。考え方さえ変えれば、みんなが豊かに成れる時代が必ずやって来るのです。みんなが人の役に立つ仕事をして、そして分け合えば、世の中はきっと良く成って、全員に金メダル!!

現場は心の鏡

先週末は、三鷹市井の頭にて、加子母ひのき住宅と戸建貸家の地鎮祭を執り行いました。また昨日は、吉祥寺本町にて、木造住宅の上棟祝いを行いました。おかげさまで、吉祥寺を中心とした地元(武蔵野、三鷹、杉並地域)で、現在14棟の新築工事が動いています(他の地域においても、工事中・設計中・着工準備中等を含めて8棟程あります)。これもお客様並びに地域の方々のおかげと、心より感謝申し上げます。9月の情報誌「ニコニコ通信」では、現在進行中の現場をご紹介いたしますので、ぜひその折には、丸二の現場を見てください。
丸二には、「現場は心の鏡」と言う合言葉があります。現場は、そこで仕事をする人々の心が「鏡」のように映し出されるからです。工事を行う人々の心がキレイであれば、現場も自ずとキレイに成ります。そして良き建築が完成します。私は、約20年前にこの業界に入りましたが、その時感じたこの印象は今でも変わりません。プロでなくても、何となく分かるものです。ただ現場は毎日姿を変えて行く生き物です。常に整然とした状態を維持することは難しく、なかなか整理整頓に時間を割くことはできません。だからこそ、だからこそ・・・懸命にキレイに「する」のです。
仮に工事中であっても、お客様の大切な建物(財産)の上に、ゴミ1つ置きたくない。職人さんが気持ち良く仕事ができるように、いつも整理整頓しておきたい。土地の神様に叱られないように、場内を清潔で清浄な場にしておきたい。こういう思いの数々があって、現場は生命を持ち始めるのでしょう。結果、現場をキレイにすることで、人の心も磨かれるのです。自分の心が現場に映るのであれば、逆に現場を磨けば、自分の心も磨かれる・・・。建設業は、まさに「心磨き」の産業、「人造り」の産業です。
今、日本の経済が(相当)おかしく成って来ています。多分きっと、バランスを崩してしまったから。つまり「野良(のら)仕事」が無く成って来たから。きっとそうだと思います。田畑で農業を営む人、山で木を伐る人、街で建物を造る人。みんなみんな、こんなにも暑いのに、毎日外で一生懸命に仕事をしています。昔はこういう仕事が「本当の仕事」だった。でも、それがだんだん便利な世の中に成って来て、虚業が増えて来て、ボタン1つで稼げるようになった。そして、世界の経済はおかしくなった。
今こそ、バランスを整える時です。リーマンショック以降、建設業界から人が少なく成りました。それでも世界が続く限り、人間がいる限り、建設業は(絶対に)無く成りません。それは衣食住(=生命)と直結する「実業」だからです。震災復興のための人も必要です。これから農業や林業を含めて、自然の中で仕事をする人々の時代が、「再来」するはずです。それは、経済を建て直し、人の心を建て直し、時代の流れを変える力に成ると思います。私たちは、地域の小さな建設会社ですが、微力ながらも、そのような志を持って、この変革の時代を生きて行こうと思います。

変化の兆し

ロンドンオリンピックが開幕しました。今のところ日本勢は(サッカー以外は)苦戦中のようですが、各国各選手の全員が金メダルを目指している訳ですので、なかなか大変なことだと思います。選手一人ひとりにとって、悔いの無いオリンピックに成れば良いなと思います。それにしてもTVを見ると、オリンピックをはじめ、高校野球、プロ野球、お笑い、ドラマ、食べ歩き、クイズと、あいかわらず日本の平和は続いているように見えます。でも実際にはその裏側で、官邸前で反原発の大規模なデモが行われています。
今、日本も世界も、本当に世の中の構造を転換しなければ成らない時に来ています。昨年の東日本大震災では、約2万人もの尊い生命が失われました。その亡くなった方々に対する本当の追悼は、世の中を立て直して行くことではないでしょうか。あの震災を経験して、私たち日本人は皆そのように思い、そのように動き始めたはずです。でも1年が過ぎ、また夏が来て、日本も世界も、また元に戻りつつあるように感じます。
例えば、原発の問題にしても、家庭用の「クリーン・エネルギー」を開発し、政策的に普及させれば、問題の大部分は解決するはずです。すでに太陽光発電も商品化されています。いずれもっと良いものも出て来るでしょう。電力会社に頼らずに、自前でクリーンエネルギーを持てば、自ずと原発依存は無く成り、デモも不要と成り、環境破壊も減少します。そういう方向へ舵を切っていれば、今頃は、世の中全体に「変化」の兆しが見えていたでしょう。原発が無くても大丈夫な状態を「創る」ことを(素直に)目指せば良かったのに。
福島原発の事故が「人災だった」という結論が出ても、電気料金は値上がりをし、原発は再稼働し、結局3.11以前と何も変わっていない。変わったのは、国民一人ひとりが節電意識を持ったこと。これは素晴らしい成果だと思います。でも、政策的には実は何も無く、3.11への追悼は、未だ果たされていない。本当に申し訳ないと言う気持ちが、そこにはあります。
そのような中で迎えたロンドンオリンピック。日本人の大健闘を心から応援しますが、仮に負けても潔く、仮に勝っても謙虚に・・・そのような日本人の精神性に(こそ)期待します。それは、私たちが(そして世界が)昨年、東北の人々から学んだはずのものです。昨日の柔道の試合で、審判による判定が覆り、日本人選手が勝った試合がありました。日本としては嬉しいことですが、相手の韓国としては悲しいことです。その両方を包み込める日本人に成りたいと思うのです。
その判定の結果を受けて、NHKの女性アナウンサーが、思わず(いかにも軽いノリで)「良かった~!勝ちは勝ち!」などと喜んでいましたが、ついにNHKは、負けた側(弱き者)への思いやりを忘れてしまったようです。冷徹なまでに公平さを貫く、かつてのNHKの「美」はそこには無い。日本という国は、風景だけではなく、人の心の美しい国です。それを昨年、私たちはついに思い出したはずなのに・・・。
このようにして、今年の日本の夏は始まりました。そしてどのようにして終わるのでしょうか。変化の兆しに期待します。

「無」原発

民主党が割れました。根本的な部分が違うのですから、その方が双方にとって自然体でしょう。考え方が違うのは良いことですし、それ故別れるのも良いことです。信念を貫くことは美しく、主張を変えることは勇気です。よって「どちらを善とし、どちらを悪とするか」という短絡的(マスコミ的)な視点では無く、先ず「自分自身の考え方」を思考する方が先決ではないでしょうか。つまり、増税は必要なのか、原発は再稼働すべきなのか。もし自分が小さな国の王様だとしたら、どのような政治を行うだろうか。増税をするだろうか。原発を再稼働するだろうか。常にそのような問いを持って、自身の考え(軸)を持つことだと思います。
つまり、そのような大事な問いを、TV画面上の政治家に投影(丸投げ)するのではなく、先ず自身自身の「良心」に投影し、思考し、その答えと適合する政策を掲げた政治家に票を入れれば良いのです。日頃の政治家の動向情報などは全く不要です。判断を誤ります。例えば、約束を守ろうとする側が、守らない側から「造反」と言われているような情報を耳にすると、判断に狂いが生じるということです。そういうフィルターを全部無しにしないと、本当に良い政治は生まれないかもしれません。
TVが無い時代は、ほとんど情報が無く、政治家の顔写真くらいしか知らなかったと思います。それでも国民は、今よりも本質を掴んでいたのではないでしょうか。仮に、会ってみたら嫌な奴だったと成っても、案外その人は良い政治をしていたという面もあります。現在は、ほとんどが作られた情報に成っているので、その対抗軸として、ツィッターやフェイスブックが真実を伝える役割を担っています。本当は、適度で正直な情報さえ流れていれば、ここまでITに頼らなくても良かったのに・・・。
ところで、ここ数カ月にわたり、官邸前で反原発デモが行われていますが、29日には約20万人が集まったそうです。日本のマスメディアもいよいよ無視し続けることが出来なくなったのでしょう。このような民衆の潜在的な意志が表面化してくると、困る人や組織がたくさん出て来ます。そこから生まれる対立も、ある種の戦争ですので、最終的には(どちらが優勢に成ろうとも)不幸な一面を残すはずです。人の心を力で変えるのは不可能です。民主主義と言っても、実際は力の世界なので、完全に分かりあえる日が来ることも無く、<やったらやられる>の繰り返しが続きます。このような悪循環から抜け出すには、やはり自らの思考の世界を変え、オリジナルの世界観を造るしかないと感じます。
人間は常に対立性を持って生きています。プロ野球でも、ワールドカップでも、政治でも、必ず敵と味方を作り、どちら側かに付きます。相手側は悪で、こちら側は善。内容や中身よりも、そのような外観で判断します。「反〇〇」という手段です。外観にはレッテルを貼ることができます。ボトルに実際の中身とは違うラベルを貼れば、人々はラベルの方を信用します。そのようにして戦いを制します。そしてまた、次の戦いが始まります。いつまで経っても終わりません。
そのような外側の様相に振り回されず、自らの思考の世界を変えて、美しい内観を造る方が実は早くて、本物で、誰とも戦わない(争わない)唯一の道だと気づきます。結果的に、多くの人々がそうなれば、外観にも変化が出て来るのでしょう。外側で起きている問題を解決するには、外側に打って出るのではなく、内側で造る方が良いのかも知れません。そのような一人ひとりの小さな努力の積み重ねが、つながり合い、めぐりめぐって、外側を(ごく自然に)変えることに成ると信じます。
以前、本ブログで紹介した映画「この空の花 長岡花火物語」は、ツィッターで広まり、尻上がりに観客数が増え続け、今や大変な反響を呼び起こしています。本当に良い(正しい)情報が出にくい世の中において、ツィッターが見事な成果を上げている一例でしょう。今回の官邸前の反原発デモも、ツィッターの力が大きかったようです。この映画を監督した大林宣彦監督は、「私は映像作家だから、映画を創る。デモには行かない。反原発ではない。無原発だ」という話をしていました。納得です。
なるほど、「無」原発か・・・。「反」原発は、(今現在)原発に関わる人々を苦しめます(現実問題として)。でも、これからの方向性として、原発の無い国造りへの道は、国民の(潜在的な)総意と言えます。「無」原発という言葉には、「共に無くそう」「無くなっても、皆が幸せに成れる社会の仕組みを造ろう」と言う、前向きで、協調の響きが在ります。対立ではなく、共に考えて行く。だから私は、無原発、無戦争(平和)、少税金、全体幸福、自然との総和を理想としたい・・・。この混乱の時代は、必ず協調、調和、総和への前奏曲に成ります。

揺さぶり

増税法案が衆議院を通過しました。国家財政が<極めて厳しい>という大義名分の<力>によって、国民の心の中に「それなら仕方が無い・・・」という消極的な同意が生まれたからでしょう。「増税する前に、支出を見直す努力をします」という言葉を信じて、国民は民主党に政権を委ねたと思うのですが、遂にそれは果たされませんでした。国は、国民との約束に「造反」したのです。
ならば、自民党政権のままで良かったのか。震災への対応も、もっと素早く的確だったのかもしれません。でも、国民との約束を反故しなくてはならないほど、国家財政が悪化していたのであれば、その根本的な原因は自民党時代にあったとも言えます。
あるいは、国民が知る由もない、何か強烈な圧力(のようなもの)が存在していて、仮に誰がリーダーに成ろうとも、その圧力から逃れられない「何か」が存在しているのかもしれません。それは、自分の身を守るためであり、国民の身を守るためであり。結局のところ、本当のことは良く分からないのです。だから、結果や、報道や、目に見える部分だけを見て、その是非を判断することは非常に難しい。ただ、そのようなトテツモナイ圧力によって、正しい考え方や本物の技術が、叩かれたり、無視されたり、葬り去られているのは確かなようです。
きっと多分、皆それぞれの立場の中で、懸命なのだと思います。<良心の呵責>に悩まされながら、今を生きて行くことに必死な人、組織も多いと思います。そう言う意味で、世の中全体の総和のバランスは(不思議と)保たれているように感じます。つまり、今が苦しい人は「さいわい」に成るということです。良心に応援されて、いずれ必ずバランスが取れて、「さいわい」な方向へ向かって行くはずです。
逆に<良心の呵責>に追いかけられながら、「我れ良し」で上手くやっている人や組織は、いずれバランスを崩して行くでしょう。そのような、世の中全体のバランスを調整する時が来たのではないでしょうか。そのために、世の中が大きく揺れ始めると思います。揺れて、振動して、一旦ガタガタに成って、不調和(デコボコ)が調和(平ら)へと成ります。そのような大きな振動が、すでに至る所で起きています。
地震もそうかもしれません。政治も経済も全てがもっと大きく振動していくと思います。でも最大の振動は、実は自分自身の心の中で、起き始めると思います。その揺れの大きさに、慌てたり、動揺したりするかもしれません。急にどこかへ逃げたくなるかも知れません。でも、大切なのは「いま」「ここ」です。
どこへ行っても同じことです。今、この場所で、調和が取れない限り、永久に何も変わりません。よって、これからの混迷(大振動)の時代に最も必要な事は、自分自身を信じて、いま、ここで、そのままで、強く成ることだと思います。そう成れば、増税も悩みも、関係無く成ります。世の中の事象を超えた自分自身に成れれば、外側で何が起きても大丈夫だからです。これから起きる最大の振動エネルギーは、私たち一人ひとりの心の中で起きて来ると思います。
だから、とても貴重な時代を生きていると思います。自分自身の中身が変わり、強く成ると、まわりの事象もガラっと変わって来ます。今、同じ場所にいながら「さいわい」に成れるのです。こんなウルトラCが出来る面白い時代が、<今>だと思います。何があっても慌てず、騒がず、落ち着いて、自分を信じて、「いま」「ここで」最善を尽くすことに集中です。
今までは、環境を変えれば、気持ちや運気が変わると、信じていました。でも、時代は変わってきたようです。どこへ行っても、自身の内面を変えない限り、何も変わらない。また同じ悩みが(むしろ)加速度を増して追いかけて来るだけです。そのような根本的な<意識改革>を、自然界が私たちに迫ってきたのではないでしょうか。
最近、子どもの頃に見て<心を揺さぶられた>いくつかの映画を、DVDで鑑賞し始めました。当時、何回も映画館に通って見た作品は、やはり今でも感動します。必ずしも名作で無いものもありますが、自分自身を揺さぶってくれるものであれば、私にとって、それは素晴らしい映画です。その感動の原点は、(不思議と)今の仕事や人生のどこかにつながっているような気がします。さらには、仕事や人生に対する新たなヒントも(たくさん)生まれて来そうです。自分自身の心を振動させることで、自らのアイデンティティを再発見し、感動的な仕事と人生を創造する。揺さぶりは「さいわい」です。

子どもたちの未来

消費税問題、原発再稼働、円高、株安、復興、防衛、防災、環境、教育、福祉、生活保護問題・・・。複合的に絡み合った糸を解いて辿っていくと、一体どこに行き着くのだろう・・・。1つ1つへの対処療法も大事ですが、同時に、全ての根本原因を探り当て、その根っ子を正すことが本線だと思います。その根っ子を見つけるための1つのキーワードとして、「子どもたちの未来」があると思います。未来の子どもたちが、安心して生活できる社会システム。無税国家。みんなが心豊かに付加価値を創造し、シェアし合える経済の仕組み。地球や自然に感謝して、大切にする意識。お互いに助け合う心。戦争の無い社会。安全でクリーンなエネルギー開発。病気の無い人生。精神や認識力を高める教育・・・。
全部、現在の社会システムの「反対側」に有るものです。同時に、「3.11」で気づかされた(突き付けられた)課題でもあります。大人たちは、現在のシステムを変えることに抵抗します。でも、変えなければ、未来の子どもたちが苦しみます。そのジレンマに悩み、もがき苦しむことが(ある意味)最も正しい生き方のような気もします。未来の子どもたちについて、悩み苦しんでいる人こそが本物ではないでしょうか。もし、そのような「真の」悩み苦しみを抱えている人がリーダーであるならば、それは幸福なことだと思います。
さて、先日ブログで紹介した映画「この空の花 長岡花火物語」を日曜日の夜に、今度は妻と二人で(有楽町スバル座へ)観に行きました(本当は子ども達にも見せたかったのですが、みんないろいろと予定があって・・・)。妻も感動してくれたようで、とても良かったです。最近、(公開中に)2回以上見に行った映画はあまり無く、久しぶりですね(昔は何度も見に行きました)。映画の内容については前回書いた通りですが、2回目はさらに深く、深く、震えるような感動を味わいました。監督自身も「8回見て解った」とのことで、今後の映画史の中でも、きっと稀有な存在として語り継がれていく作品に成ると感じます。
戦争や災害の悲惨さを深刻に表現した映画(芸術)は数多くあると思いますが、爽やかな風のような肌触りで、感謝と追悼の祈りを追体験できた作品はあまり無いと思います。そこには、戦争や震災で亡くなった方々からの(むしろ)明るい「声」が聞こえて来ます。モーツァルトの音楽を「悲しみは疾走する。涙は追いつかない」とよく表現しますが、この物語は「涙は疾走する。悲しみは追いつかない」と成りそうです。理屈では無く、涙しかない。でもその涙は、悲しみを超えて「祈り」へと昇華されている。このような映画を世界中の人が見たら、きっと多分、戦争は終わるかもしれないと、ほんの僅かな希望の光を感じます。
さて映画の中で、「平和は子どもたち自身がつくるもの」と有りましたが、本当にそうだと思います。戦争の無い平和な社会をつくるために、今の子どもたちは、過去から学び、新しい未来を創造しなければなりません。そこには、きっと大きな決断を伴うでしょう。でも、今の若者たちは、「仲間」「友人」「チーム」「和」を最も大切にしていると聞きます。もし本当にそうであるならば、大丈夫です。大人たちの中にも、子どもたちの未来を優先する人々が、きっと出て来るはずです。大人も子どもも、何かを超える力を与えられて、「今」を生きています。だから、期待できます。希望が持てます。日本も世界も大丈夫。みんな(過去を生きた)先人達のおかげです。深く、深く、感謝です。

金環日食

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今朝の「金環日食」、見ることが出来ました。多くの人が空を、太陽を、月を見上げていました。そのような風景に接して、昔の人は(もっと、きっと)毎日このようにして空を見上げていたのだろうなあ、と感じました。太陽と地球の間に月が入り、一直線に成った瞬間、もしかしたら何かが変わったのかもしれませんね。あらためて太陽と月に感謝です。
※携帯で撮ったので、日食の状態までは写りませんでしたが、なぜか写真の上部に小さく(もう1つ)太陽が写っていて、それだと日食しているのが分かります。面白いですね。

この空の花 長岡花火物語

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大林宣彦監督の最新作「この空の花 長岡花火物語」を見て、久しぶりに映画について書きたくなった。最もこの作品を「映画」だと言い切れるのかどうかは分かりません。セミ・ドキュメンタリーという説明ですが、そういう域を遥かに超えている気がします。普通ではありません。しかも新潟県長岡市の(いわゆる)町おこし的な地域のローカル映画であるはずなのに、そんな小さな枠組み(常識やイメージ)などを全てぶち壊し、大胆かつ刺激的な大林流の超ワンダーランドに仕上げながらも、「果たしてこれ以上に長岡花火物語を伝える手立てがあったのだろうか」と思えるくらい、本質を突いた爽快感がありました。何だろう、これはいったい・・・。
あの戦争で長岡は大変な空襲にあったそうです。多くの市民が犠牲となり、その追悼のために始まったのが長岡花火。それは中越地震を乗り越えて、東日本大震災の復興とも重なり合い、今や平和への「祈り」のシンボルと成りました。長岡花火は、米軍から大空襲を受けた8月1日に、毎年上げられます。土日に合わせたりはしません。なぜか・・・。それは「観光用」では無いからだそうです。「追悼」「祈り」そして「復興」へ。ひとつの里が、いつまでも「その日」のことを「決して」忘れずに、先人を供養し、追悼し、感謝を捧げている。このように、永遠に「未来へ」つなげていく無形の「思い」こそが、本当の意味での「平和」なのではないかと、あらためて気づかされます。外側に向けて、何かを訴える(運動する)のではなく、自らの内側に向けて、「供養」「祈り」「感謝」を「思う」ことで、長岡の人々は戦後60年以上を掛けて、日本の平和を「実現」して来たことを、知りました。
この映画では、戊辰戦争でこの里が焼けた時に支援された「米百俵」を、未来の子ども達のために(国漢学校創設に)使った小林虎三郎の精神も紹介されています。これも、やはり「未来のため」でした。有名な画家、山下清も長岡を訪れて、「長岡の花火」を描いています(このエピソードも映画に出て来ます)。山下清画伯は「世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界から戦争が無くなるのにな」と言ったそうです。そうか、だから花火なのか。戦争も花火も同じ音(爆発音)がします。同じものを「善」に使うのも人間、「悪」に使うのも人間。そのモノ自体は善でも悪でも無く、それを「どのような心」で使うのか・・・結局、人間性の問題なのです。原爆や原発も、それを扱う「人間」の問題なのです。映画では、花火の音を聞いて、空襲を思い出し、恐怖する人も出て来ます。一方、現代の私たちは、花火を見て、空襲を思い出したりはしません。なんと平和なことか・・・。ありがたいことか・・・。多分それは・・・長年「供養」「祈り」「感謝」を思い続けてきた「誰か」のおかげなのでしょう。
いつまた戦争が起こるかは分かりません。二度の起きないとも限りません。それなのに今の私たちは、あまりにも能天気です。この「無知さが故の」怠惰なる姿勢は、いずれまた「次の戦争」を生み出すことでしょう。危機を想定すれば危機を回避できますが、危機を想定しなければ、危機を回避できません。私たちは「3.11」で、そう学んだはずです。この映画の中心軸は、不思議な女子高生が台本を書いた「まだ戦争には間に合う」という劇です。まだ戦争には間に合う???・・・もう戦争は終わったのに・・・はっとしました。そうではないのです。これは過去からのメッセージ、いや忠告、いや警告です。二度と起こしてはいけない戦争が、また起こるかもしれない。だから「次の」戦争にまだ「間に合う」と言っているのです。寒気がしました。私たちは、60年以上前の戦争を「思い出し」、そこへ向けての「供養」「祈り」「感謝」を捧げることで、次の戦争を起こさないようにしなければならないのです。だから「まだ間に合う」。過去の先人達は、自らの生命を犠牲にして、未来の人々を救おうとされました。自分が苦しいのに、痛いのに、熱いのに、恐いのに、寂しいのに、悔しいのに・・・未来の「知らない」子どもたちのために、何かを残そうとされました。そのことへの「感謝」を、私たちは忘れてないだろうか・・・。
去年、東日本大震災が起きました。2万人もの多くの犠牲者の方々も、同じように「未来へのメッセージ」を残してくださいました。だから、そのことを「忘れずに」祈り、感謝して、平和を実現して行きたいと思います。日本は原爆、大空襲、大震災、原発事故等を経て、その度に、「未来へのメッセージ」をつなげ続けています。でも、もうそろそろ「応え」を出さないといけません。「まだ間に合う」けど、もう最後のチャンスです。それは、一人ひとりが「意識を変えること」しかないと思います。原発事故以来、節電で、夜の明るさが暗くなりました。映画の中でもありましたが、昔の人は「その方が落ち着く」。また、映画の(劇中劇の中の)セリフでも、「神様も、夜はこれくらいの明るさで暮らしなさいと言っている」とありました。いま私たちは多くのシグナルをいただいています。政治や経済、資本主義、みんなもう変わります。でも、絶対に「良い」方向に変わるのです。意識さえ変えれば・・・。
この映画の主人公は、不思議な女子高生で「花」という名前です。いつも一輪車に乗っています。多分、時空を超えた存在です。「時空を超えた存在」が現れる「ご当地映画」などは、普通はありません。映像も(必ずしも予算たっぷりでは無いことが判るような)合成やアニメーションも多用され、テンポも早く、かつ上映時間は160分(2時間40分)。きっと「変な映画」と思う人も多いことでしょう。でも、そのような危険を冒してまで、この風変わりな作品を、70歳を超えた一人の人間が造り出したことに対し、私は素直に感動しました。私たちは今、戦争を含めた数々の危機や混乱、大変革の前に立っています。でも、「まだ間に合う」。意識を変えて、本質を知る努力をし、すべてを見直し、やり直すこと。日々1mmでも良いから、前進していくこと。そう、この映画の全編を流れるエネルギーは「前進」です。良き未来への前進を、始めて行こうと感じました。