

2010.04.16
最近、映画のCMが流れている「のだめカンタービレ」等のヒットで、最近クラシック音楽に対する人気が少しずつ上昇しているようで、私のような(数少ない)クラシックファンにとっては嬉しい限りです。よく考えてみると、18世紀から19世紀に創られた芸術が、21世紀の今になっても継承され、楽しまれているということ自体、とても考えられないことです。おそらく作曲した当人たちも、自分の作品が100年とか200年先の未来において、未来人たちに弾かれたり聞かれたりするなどと、夢にも思わなかったことでしょう。どちらかというと、多くの作曲家たちは、不遇で、経済的に豊かでなく、様々な厳しい境遇にいたはずです。でも、そのような過酷な人生の中から、不屈の魂の叫びや、美しい天上の調べが創造されたが故に、人類の遺産にまで昇華したのかもしれません。
ひるがえって昨今における様々な分野から生まれ出てくる作品はどうかと言うと、確かに今の時代を華やかに彩ることはできても、22世紀や23世紀まで生き残る「芸術」にまで成り得るものは・・・ほとんど無いと言って良いでしょう。すべてが自由経済という、「お金」を第一にまわっていく現代においては、芸術・芸能もビジネス化しなければ継続できないという現実がそこにはあります。つまり・・・「今すぐ」「極めて多くの人に」受け入れられる商品でないと、相手にされないわけです。時間をかけて、未来に向かって、評価されていくであろう真の芸術たちは、表舞台に出ることさえ難しいのです。
そのかわり、「今すぐ」「極めて多くの人に」受け入れられる作品を提供するアーティストたちは、ビジネス的な成功をおさめて、極めて豊かな生活を謳歌しながらも、次から次へと作品を生み出さなくてはならない悪循環に入っていきます。誰かの売上のために、誰かの利益のために・・・。経済的に豊かになって、逆境の時代には溢れるほどあった(初期の素晴らしい作品を生み出したであろう)インスピレーションも枯れはじめ、ただ時代の猛烈なスピードに合わせるためだけに、作品を羅列し、消費されていく。そして才能も消費されていく。これでは、22世紀や23世紀まで遺すどころか、自身の人生が終わるまで持たせることすらできない状況なのかもしれません。
この世の中にある自然や芸術への関心は、いつの時代でも高い次元で存在していますが、どのような経済体制の中でも、そのような才能、創造力を持った人材に光が当たる社会にしていかなければと思います。優れた芸術作品は、直接「天」と結びついて創造されているはずですから、そこからは何かしらのヒントがあるように思います。たったひとつの音楽からでも、生き方、意識の持ち様、楽しい気持ち、ワクワクした感情、新しいアイデア、すばらしい人間関係の創り方等の叡智が聞こえるかもしれません。
いま、確かに世界の経済は大変な状況にありますし、どんどん経費削減に向かっていくとは必至です。でも、その国の文化や芸術を守り、さらに新たな才能を生み出すことに対して、積極的にならなくてはなりません。最近「V6」というジャニーズのタレントたちが、日本全国の名産品を探して食する番組をやっていましたが、日本の各地には素晴らしい食産物があり、それを生のまま、あるいは焼いたり、煮たり、茹でたりして、おいしく食べられます。このような自然という最大の資産があるのですから、本当にみんなが安心して、コストを掛けずに暮らせる社会は、多分できるはずだと思います。安全に、その国(土地)で採れる自然のものを食べて、スローに生きて、そしてみんなで才能を持った人たちをサポートしていく。そういう心の余裕が、次の時代・次の世紀を創造していくと思うのです。
建築も、ひとつひとつが、芸術です。住む人の、考え方や精神性を映し出すオブジェです。街とは、家や建物という芸術作品が建ち並ぶ無料の美術館であり、テーマパークです。そのような意識を持って、住まいを建てたり、ビルを建てることも、これからは重要でしょう。美しい街並みは、美しい心をつくり、美しい考え方を生み出します。建築は、まさに100年以上の時間、存在し続ける芸術です。だから、これから始まる本当にスローな時代こそ、建築に花が咲く時代だと思います。
2010.04.11
昨夜は、中学校時代の友人たちと、いつもの飲み会でした。年、数回集まりながら、いろいろな事を話しつつ、各自の現状を面白おかしく理解し合い、とても刺激的で楽しい時間です。今回も6人が集まって、たくさん笑って、たくさん飲みました(私は少量)。
友人と会って、お酒を飲んで、いっぱい笑い合える幸せは、他の何よりも勝ります。話題も当時の話に加えて、「今」から「未来」へと向かい、それぞれ人生観や生き方も垣間見ることができ、単なる同窓会ではないところが大きな魅力なのです(幹事さんに感謝です)。
自分自身の中学校時代を振り返ると、まさに遠い過去のことで、本当に忘れ去ってしまったことが多いのですが、この地元の公立中学校に通うありきたりの毎日から、きっと何かしら大切な智慧のようなものを体得できていたのかもしれないと、最近ふと思います。
特に私は、おとなしくて、口数が少なくて、目立たなくて、インパクトがなくて、勉強も運動も中くらいで、高校入試も補欠合格という何となく中途半端な人生を歩んでいた時期で、もう少し時代が違っていたら、いじめにあっていたかもしれないような性格だったように思います。
でも、幸いなことに、私のまわりにいた友達たちは、頭のいいグループもワル系グループも、みんなが良いつながり感を持っていて、私のような「居るか居ないか分からないようなヤツ」の存在も、きっと許してくれていたのでしょう。結局、これがあるべき社会の理想形であり、この経験が大人になって役立っているような気がします。
どのような組織も会社もチームも、そのトップの考え方等に対して、2割の人が協力的で、6割の人がニュートラルで、残りの2割の人が批判的と言います。これも自然の摂理によるバランスで、変えようのない道理ですね。ただ、この飲み会の仲間たちに共通しているのは、愚痴や不平・不満を言わないことです。とにかく前向きで、明るくて、楽しい。きっとそれぞれが、それぞれの世界の中で、「協力的な2割」の中にいるのだと思います。
さて、中学校時代と言えば、映画に熱中し始めた時期で、結局その思いは大学時代での映画製作につながっていくのですが、当時の映画と今の映画を比べてみると、やはり映画作家の「熱」の違いというものを感じます。
例えば映画のファーストシーン(ファーストカット)に対するこだわり感のようなものが、今の映画からはあまり感じられません。つまり物語の説明上、わかりやすいファーストシーンから始まるだけで、そこにはこの映画を象徴する暗示なり、予感なり、メッセージは無いのです。昔の映画には、最初のシーンやカットに対する異常なまでのこだわりがあったような気がします。
フランシス・コッポラ監督の有名な「ゴッドファーザー」のファーストシーンは凄いです。ゴッドファーザーに対する相談者の顔のアップから、ゆっくりと絵を引いていき、マーロン・ブランドの後ろ姿、黒い頭と手が画面に入ってくる。その数秒感の緊張が、これからこの映画で語られる世界の背景、深さ、怖さ、異常性を表現しているように感じるのです。
また、ラストシーンも同様に、同じ部屋で終わるのですが、ゴッドファーザーを継ぐことになった三男のアル・パシーノが部屋にいて、その妻が部屋の外にいて、その部屋のドアが閉められるシーンで終わりますが、最後は妻のアップで、閉められる黒いドアが画面を覆い、妻と新しいゴッドファーザーを遮断します。これでエンドロール。どういう意味か・・・、言葉では語り尽くしない現象と心情がそこにはあります。
時代は変わってきました。いろいろな分野で・・・。中学校時代の友人たちも、間違いなく変わってきています。なので、私ももっともっと良い方向に変わっていきたいと思います。そして、これから始まる新しい価値観の時代に、(今度は補欠でなくて!)堂々合格したいものです。
2010.04.05
4月に入り、新年度の始まりです。丸二の場合は12月決算ですので、1月1日が新年度のスタートとなるのですが、やはり4月1日もひとつの大きな節目です。それは・・・新入社員さんが入社する時期だからです。
おかげさまで今年も2名の新入社員さんに入社していただきました。これで6年連続の新卒採用です。丸二のような決して有名ではない小さな会社に、勇気を持って飛び込んできてくれる若い世代の方々がいるということは、本当に嬉しいことですし、感謝すべきことですし、さらに気が引き締まる思いです。
今年は二人とも女子で、設計と営業に配属される予定です。このように、社内に女子社員さんが徐々に増えてきましたが、これから建築の世界は、女性の感性、温かさ、優しさ、生活感がさらに重要になっていくでしょう。ぜひ、丸二に吹いてきた暖かい風に乗って、自らが「帆」となって、共に大海を悠々と進んでください。お客様の幸せと、会社の発展と、自分自身の夢の実現が共生する世界を目指して・・・。
そして、何があっても、良い方向に考えて、前向きに進むことです。毎日、1mmでもいいのです。太陽が昇る方向に船首を向けて、少しずつ進めばいい。ただ「最善の住環境」を、お客様にご提供することだけを考えて、誠実に生きていけばいい。共感する気持ちを大切にして・・・。そうやって、ひとつひとつの波を乗り越えていきましょう。自分や他人の良いところを見つけて、協力し合って、励まし合って、いい気分で進みましょう。
社会は今、大きな激変の中にあります。そういう意味で言うと、波は高く、航海は大変でしょう。でも、だからこそ、面白い時代です。自分の力を磨くには最適の時です。一緒に、お客様の住まい、事業、生活がより良くなるよう、最善を尽くしていきましょう。
4月という月は、私も、社員さんたちも、新たな気持ちなる時です。ここで、あらためて丸二の目指すべき方向を確認しあって、本物の建設会社になっていこうと思います。お客様に感謝をして、社員さんに感謝して、自然界の恵みに感謝をして・・・。
2010.03.12
このたび丸二は、東京都の審査による「経営革新計画」の承認を受けることができました。「経営革新計画」とは、国(中小企業庁)が、経営革新に積極的に取り組む企業を特別に支援するためのもので、その対象としては、「新たな取組み」によって企業の事業活動の向上に大きく貢献する革新的事業となっています。この「経営革新計画」の承認を受けることは、経営理念の社員との共有化や経営目標の明確化にも寄与します。
ポイントは、「新たな事業活動」ということで、丸二の場合は、「建築医学に基づく無料診断システム開発による経営革新」というテーマで申請し、おかげさまで今年の1月25日付けで、東京都からの承認を受けました。これは、丸二が現在取り組んでいる「建築医学」という技術を、よりシンプルに分かりやすくシステム化し、各ご家庭の住環境を数値で評価するもので、このような診断サービスを無料で提供しようとするものです。
例えば、室内の明るさ、色、香り、騒音、温度、ホルムアルデヒドの量などの測定を行い、それが人間と脳と心と体に与える影響度を計算し、その結果と提案をビジュアルな診断シートでご提供するような中身になります。このような診断を受けることで、自分自身の住まいの環境が、良好なのか、不快なのか、を客観的に掴むことができ、またそれが家族の生活にどのような影響を与えているのかを理解することで、具体的な改善策も出てきます。
住環境が人に与える影響は、とても大きなものがあります。住まいと病気との因果関係を、いま多くの医療関係の方々が研究を行っており、それらが「建築医学」として体系化されつつあります。その根本的思想は、現在の医学のような「病気を治す」という発想ではなく、その逆で、「病気にならない(なりにくい)環境をつくる」・・・つまり「予防医学」「未病医学」という捉え方なのです。
住環境を整えることで、人間の脳や心や体は、無意識に反応し、良い方向性に向かいます。それならば、そのような良い影響を受けられる環境を住まいにインストールしてはどうかという発想で、予防医学と建築が結びついたのです。この考え方を普及啓蒙することは、病気になる原因を少なくし、病気になる人を少なくし、国の医療費を削減することに繋がり、人々が健康で元気で長寿になれる社会をつくることに結びつくと思います。
この「建築医学に基づく無料診断システム開発による経営革新」というテーマは、そのような社会をつくるためのひとつの地道な取り組みであり、これから丸二が大きな夢を持って取り組んでいくものです。今後、具体的なシステム開発を進めていきますので、適時ご紹介をしてまいります。
※音楽が環境を変える
住環境の改善の中で、「音楽」の役割も大きいと言われています。音楽は音の波動であり、その空間の空気や物体を、物理的に振動させていますので、明らかに空間に作用しています。良い音楽を聴くことは、自分自身の心と体を心地よく振動させるのと同時に、その住空間にある空気、水、植物、家具、建築素材も振動させていることになるのです。
ですので、もし家を留守にする時、小さな音で音楽を流したままにしておくと、家に帰った時に、とても気持ち良く感じます。普通であれば、誰もいない家に帰ると、空気が死んでいる・・・、淀んでいる・・・ような感じがして、なんとなく嫌ですよね。音楽を流しておくと、それが無くなります。良い音楽、住環境が喜ぶ音楽を聴いて、自分自身だけでなく、住まいも元気にしてみませんか?
今年の5月から、そのような住まい環境についての様々なお話を、お茶を飲みながら気楽にやりましょうということで、「(仮称)風水生活セミナー(茶話会)」を始める予定です。風水と言うと、占い的に聞こえてしまいますが、本当は環境を整えるための調整技術で、とても面白いものです。このセミナーにつきましても、あらためてお知らせいたします。
ライヴ・イン・東京1970(モーツァルト:交響曲第40番、シベリウス:交響曲第2番、他)
セル&クリーヴランド管
さて、良い音楽の代表選手と言えば、モーツァルトです。私が好きなモーツァルトのCDはこれ。以前紹介したCDと同様、これも日本での来日公演のライブです。交響曲第40番ト短調は、モーツァルトの代表的な名曲で、特に「ト短調」という調性は、モーツァルトの音楽の本質を衝いた「悲しみは疾走する。涙は追いつかない」という表現を最も感じさせるものです。軽快で、この世のものとは思えないくらい美しいのに・・・なぜか悲しい。そんな演奏です。
2010.03.10
今日は、ブログをもうひとつ。丸二が経済産業省の「農商工連携事業」の認定を受けて進めている「加子母ひのきの産地直送住宅」ですが、おかげさまで多くのお問い合わせをいただくようになりました。やはり本物の木の家に暮らしたいという方々は多く、日本人の自然志向というDNAは、絶対に無くならないものだと感じています。むしろ、エコ・環境というトレンドの変化に敏感に反応して、いま出来うる最善の住環境を造りたいというお客様が増えつつあると感じます。
「加子母ひのきの産地直送住宅」のコンセプトは、実際に岐阜県・加子母に行き、そこで森林体験を通じて、山の実際を理解するところから始まります。日本は森林の国であること・・・、木を間伐して、森に光を入れていかないと、山が荒れていくこと・・・、今の日本の木材自給率は20%で、80%が外国産であること・・・、国産材が使われず、日本の美しい森が荒れ始めていること・・・。このような現状を認識して、国産の天然木を使うことが、いかに日本と地球の環境を守ることにつながるかを学びます。
また、「地産地消」という考え方から言っても、日本人が日本の木を使い、同時に植林をして、森を持続・循環させていくことも大切です。日本人には、やはり日本の木が一番ですね。これが、自然の恩恵に感謝して、再び自然界に還元していく道理ではないかと考えます。また、加子母ひのきは、伊勢神宮の御用材としても有名で、日本人の精神性のルーツでもあります。よって、加子母ひのきで住環境を造ることは、日本の森を守ると同時に、家族の心と体を護ることにもつながります。
さて、その加子母ひのきの産地である「加子母森林組合」が、このたび「緑の循環」認証会議(SGEC)の森林認証(NFEA-035)を取得いたしました。これは、日本の森林・林業の活性化に向け活動している公益法人である「社団法人:全国林業改良普及協会」が審査したもので、森林が適正に管理されていることを中立的な第三者が客観的に評価し、社会にその価値を認めてもらう制度です。持続可能な森林管理を通じて、森林環境の保全と循環型社会の形成に貢献することを目的とする「緑の循環」認証会議に認められたということは、とても重要です。
この「緑の循環」には、7つの基準があります。①認証対象森林の明示およびその管理方針の確定②生物多様性の保全③土壌および水資源の保全と維持④森林生態系の生産力および健全性の維持⑤持続的森林経営のための法的、制度的枠組み⑥社会・経済的便益の維持および増進⑦モニタリングと情報公開・・・このような厳しい条件をクリアーしないと認定を受けることが出来ません。まさに、「正直・安心・安全」の時代に入りました。
木造住宅の構造材・内装材、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の内装材に、加子母ひのきを活用してください。それは、住環境に優しさと温かみと精神性を与え、家族を護り、日本の森を守り、地球環境を救うことに結びつきます。
2010.03.10
住宅着工件数が80万戸まで落ち、また今後の景気回復への見通しも見えにくい経済環境の中ですが、「家を建て替えて、賃貸経営もしたい」という潜在的なニーズはむしろ高まりつつあるように感じています。先行きが見えない状況の中だからこそ、安定的かつ持続的に家計を助ける収入(=家賃収入)の確保というテーマが重要になってきたからです。家の建て替えと収入の確保を両立させる「賃貸併用住宅」という選択肢が広がりを見せています。
同時に、最近流行の「おそうじ風水」のような、住まいの環境美化に対する問題意識も芽生え始め、キレイで快適な住環境にしないと、経済的自由を得にくいという統計学的な現実を知ることが、(無意識にですが)住まいのリフォームや建て替えニーズを後押ししていると思います。そう考えると、先行き不透明な時代の中で、自らの経済力を高めることを目的とし、家の建て替えやリフォーム需要が喚起され、それが景気を刺激していくことにつながれば、世の中をさらに元気にするひとつの方向性が見えてくるのです。「賃貸併用住宅」には、個人の将来への不安を解消すると同時に、社会全体を明るくする力があると思います。
ただ問題は、「どのようにして建て替えればいいのだろう・・・」という中身です。賃貸併用住宅は、自分自身の住まいと賃貸部分をひとつの建物にする形態なので、構造的には鉄筋コンクリート造にし、音やプライバシーの問題に対応しなければなりません。また、将来に向かって永続的に入居者を確保するために、入居者が喜ぶ仕様・・・例えば床下収納がある、上下階の音がしない、デザイン性や間取りがいい、健康的で室内空気環境が気持ちいい、エコで省エネ効果が高い・・・等のメリットが大切です。加えて、メンテナンス費用の軽減も重要です。
そのように考えると、ルネス工法と外断熱工法による「賃貸併用住宅」は、これからの時代、最もニーズに適した建築になるのではないでしょうか。「キレイで快適な住環境+家賃収入」が、自らの経済を助け、かつ社会貢献に役立つのであれば、これからの大きな選択肢のひとつになってくるでしょう。チェンジの時代にはチャンスがあります。建築は、これからが面白いです。
2010.03.01
バンクーバー・オリンピックが、もうすぐ閉会です。日本もなかなか金メダルには届かず、惜しい試合が多かったですね。でも、参加した選手たちにとって、楽しく有意義な経験であったのならば、それが一番良いことではないでしょうか。見ている側としては、つい日本の代表という意識で過度な応援をしてしまいますが、本人にとっては、ただ自分の力量を試す(あるいは発表する)ための一番大きな大会ということでしかなく、結果に対する評価は、本人やコーチ等の関係者だけの問題だと思います。まわりが誉めたり、非難する筋合いは、そもそも無いわけです。
根本的な問いは、スポーツで優劣を競うということが、本当に良いことなのかどうかということです。スポーツは、自分自身の健康や体力づくり、楽しみのためにあるので、そもそも他人と比較してどうこう言うものではありません。ただ、一生懸命続けていくためのひとつの糧として、あるいは勉強の場として、または同士や仲間をつくる場として、さまざまな大会があり、その大会を盛り上げるために、「順位を決めよう」というゲーム感覚を取り入れたのではないでしょうか。今は、そのお楽しみゲームの方が目的になってしまった・・・。例えは全く違いますが、何かのパーティーを開催する時に、場を盛り上げるためにビンゴゲームがあります。つまり、そのビンゴゲームに必死になっている状態が、今のオリンピックという感じです(ちょっと極端な表現ですが・・・)。つまり、滑稽なのです。
誰が一等賞を引こうと、そこで自身の最高のパフォーマンスを発表でき、本人がそのことに喜びを感じられれば、それでいいのではないかと思います。そして、(どこの国の選手であろうと)その素晴らしい姿を見て、私たち自身も、自分の生きている世界の中で、最高のパフォーマンスを実現しようと思うのです。特定の誰かや特定の国が勝つように必死に応援することは、その他の国が負けることを一心に願うことであり、世界の全体調和の精神性としては、最も乖離しているように感じます。順位付けは盛り上げるための一種のゲーム。真の目的は、世界の素晴らしい美とスポーツの競演です。
私が一番危惧するのは、世界の最高の選手たちが、「金メダルを取らなくてはいけない」という強迫観念に陥ってしまうことです。もし、取れなかった際に陥る・・・過度な責任感や虚無感。もし、取れた際に陥る・・・相手を倒してしまった罪悪感や人々から受ける妬み。このような思いを抱えたまま、その後の人生を幸福に生きていけるのだろうか・・・。自分の最高のパフォーマンスをして、たまたま結果的に金メダルを取ったとしても、その喜びは対戦相手があってのことで、共に得たもの。そのような、最後は人間としての意識の持ちようが問われているような気がします。
だから、メダルを取って狂喜乱舞する姿は、異様な風景と映ります。金メダルをいただいて、(逆に)申し訳ない位の気持ちが本当かもしれません。反省は、メダルの色では無く、自身のパフォーマンスの中身だけのはずです。それも本人だけの問題で、まわりには関係の無いことです。浅田真央選手が悔しがったのは、順位では無く、自身のフリーの演技の中身だったと思います。それが、選手の本当の気持ちだと思います。実は、うちの妻は、オリンピック等の戦いの場面は見たくないといって、すぐTVを消してしまいます。多分、そういう感性の方が、正しいのかもしれません(私は、やっぱり見てしまいますが・・・)。
2010.02.28
政治とお金の問題やマニュフェストとの乖離等により、民主党の勢いも徐々に落ちてきたようです。国民の期待に応えるというのは、本当に並大抵なことでは無いのでしょう。私は、日本の政治家の多くが、(与野党問わず)高い志を持って、日本を何とかしようとしていると、固く信じています。そのような過程の中で、多少の問題が起きたとしても、それほど気になりません。それよりも、もっと大きなことに取り組んで欲しいからです。しかしながら、その大きなことに、実際に取り組めているかと言うと、現実はどうもそうでもなさそうです。何かきっと、壁があるのでしょう。もしかしたら、それは(意外と単純に・・・)「世代」という壁かもしれません。
今の国会議員の定数を削減して、参議院も無くして、かつ政治家の年齢制限または任期制限を設けたら、どうなるのか・・・。例えば、国会議員に立候補できるのは原則50歳未満とする(世襲も禁止)。ただ一部、地方自治の経験者(市議、市長、知事等)のための特別枠(年齢制限は無し)を設けて、それは2期(8年)あるいは3期(12年)までとする。企業団体献金は廃止し、広くインターネット等で個人から献金できるシステムに変える。仮に、このようなシステムになると、特定の企業団体からの影響を受けずに、若い人たちが生き生きと政治を行うことができるようになり、また地方自治の経験豊富なベテラン政治家たちの、プロとしての経験を国政に生かすこともできます。
こうなれば、国政における権力構造は弱まり、若い人がもっと自由に大きなことに取り組めるのではないでしょうか。もちろん、それによって政治が甘くなったり、軽くなったりしてはいけません。そこは、私たち国民が、厳しい目でチェックをしていきます。そして50歳を過ぎて引退した大物政治家たちは、政治塾を開校して、ガンガン若い政治家たちを指導・教育し、立派に育てていくのです。仮に、その塾生が立派な政治家になれば、その塾は評価を受け、入塾希望者も増えるでしょう。そのような状態になれば、国政はもっとダイナミックかつオープンになり、本当のリーダーシップが生まれて来ると思います。
このような改革をやれば、意外と面白いのではと思います。面白い政治によって、様々な問題が解決し、国が良くなっていく喜び、世界が良くなっていく喜び、地球が良くなっていく喜びを味わいものです。日本人の精神性があれば、きっと大丈夫です。
2010.02.24
丸二の経営理念は「感謝」ですが、感謝の気持ちを表した有名なクラシック音楽が、実はあります。ベートーヴェン作曲:交響曲第6番「田園」の終楽章(第5楽章)です。田園交響楽は、ベートーヴェンが書いた9つの交響曲の中でも、最も穏やかで牧歌的気分に満ちた名曲です。その終楽章は「牧人の歌~嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」という副題のとおり、第4楽章の「雷雨、嵐」が去った後の感謝と喜びの田園風景を歌ったものです。
もちろん全曲素晴らしいのですが、特にこの「感謝の歌」は、詩も無く、管弦楽だけなのに、本当に感謝と喜びの気持ちが、聴く人の心に歌のように響いてくるのです。多分、ベートーヴェンの他の楽曲と比べると、やや単調な楽章ですが、素晴らしい演奏で聴くと、とても感動しますし、涙が出そうになります(逆に、演奏がいまいちだと、厭きやすいですが・・・)。
耳が聞こえなくなり、とうとう死を覚悟し、遺書まで書いたベートーヴェンにとって、森や田園に木霊する音たちは、もはや心の中でしか響いていなかったはずです。その音たちを、今、ここにあるかのように、ひとつひとつ優しく積み上げて、感謝の気持ちの大聖堂に築き上げたことは、常人では不可能だったと思います。そういう背景を思いつつ聴くと、また感慨深いものです。
さて、その「素晴らしい演奏」ですが、私が好きなのはこの2枚です。
ベートーヴェン:交響曲第5番『運命』、第6番『田園』、他 ベーム指揮ウィーン・フィル(1977年 東京ライヴ)
ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』、ワーグナー:『ワルキューレの騎行』、他 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(1979年 東京ライヴ)
偶然にもこの2枚、共に1970年代後半の東京ライヴです。ベーム指揮ウィーン・フィルという伝統的ドイツ・オーストリアの温かく美しい響きと、旧ソ連のムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルという厳格で強固な響き・・・この全く相反する名演が、ほぼ同時期にわが日本で鳴っていたのです。それだけでも何か不思議なものを感じます。
実は、他のCDでも、東京公演のライヴがたくさんあって、しかもとても素晴らしい演奏が数多く残っています。これは一体どういうことなのでしょうか・・・。少なくともプロですから、演奏を間違うことは無い訳ですし、「特別、名演にしなくてもいいや・・・明日もやるし・・・」などと考えてもおかしくないと思います。それなのに、日本まで来て、最高の演奏をするというのは・・・。
それはきっと・・・日本人の意識の高さ、感性の良さ、真摯な姿勢、歓迎の精神、おもてなしの心、思いやり・・・そんなものに触れたことによって、大いなる感謝の思いが高まり、結果的に一世一代の名演を生み出したのではないかと思うのです。一方、すべての文明の起源(源流)は日本にあるという説もあるようですから、世界の芸術家達は、日本という国の存在を(無意識に・・・)神聖な場所として捉えているのかもしれません。ただ単に、チケットが高く売れるからという理由ではないような気がします。
これで、日本と感謝の歌が結びつきましたが、日本には「ありがとう」という素敵な言葉があります。今、確かに日本は苦しんでいるように見えますが、この日本独自の精神性を呼び戻しさえすれば、すぐに世界に感謝される存在になれると思います。経済から解き放たれているアーティスト達の純粋な目には、もう見えているはずです。さらに良い時代になります。田園交響楽の聴きながら、そんなことを思いました。
2010.02.15
今回のトヨタのリコール問題を通じて知ったのは、今の車のブレーキ・システムが複雑な電子制御によるものだということです。足で踏み込むという物理的な動作が、そのままタイヤを止める力になっているというのは思い込みで、実は複雑なプログラミングによって、ブレーキが作動しているんですね。
私は、車の電気化には賛成ですし、ハイブリッドなどのような中間的なものでなく、本格的な電気自動車が早く世に出て欲しいと思っていますが、エンジン(動力)以外の機械的なメカニック部分は、できるだけ単純な方がいいですね。その方が、運転をしていて、音や振動や効き具合から異常が感じられますし、何となく安心感があります。すべて電子制御になってしまうと、そういう感覚が無くなり、修理もできにくくなり、何かの誤作動や電気製品からの電磁波等の影響で、突然狂うことも考えられ、ちょっと怖いです。
デジタル化の波に乗って、人々の生活を快適にするために、昨今さまざまな商品開発が行われていますが、今後はデジタルとアナログの両方の良さ、あるいは電子式と機械式の両方の良さを、うまく統合していく必要があると思います。建築は、そういう意味では、アナログ的であり、現場で人が手造りで建設していくものです。姉歯問題のようなことも、本来、現場で鉄筋の本数や太さを見て、アナログ感覚で、「おや?」と思うはずです。そういう意味で、太古の時代から継承されている建築は、極めて単純明快で、最も安心・安全な技術体系ではないかと思います。
これから電子化が行くところまで行くと、その後はむしろ、このような人力によるアナログ的な製造工程、アナログ的な商品に価値が移っていくのではないでしょうか。造る人によって違う商品。絵も、芸術も、建築も、みんなそうですね。現在の街の店頭に並んでいる商品は、みんな1ミクロンの誤差も無い、全く同じものです。そういうモノは、そういうモノとしての価値がありますが、そうではないモノも同時に、必要なのです。
だから、建築も、プレハブ式の精密な組み立て物よりも、現場で職人たちが気持ちを込めて造る方が良いいのです。絶対に他には無い建物が生まれます。今の時代、夏は猛暑、冬は極寒の中で、コツコツとものづくりが出来る人は極めて希少です。そのような人たちの温かい心が、有機的に、建物に宿ります。建物にも生命があるからです。だから、無機的な組み立てではなく、人の手によるアナログな建築を大事にしてもらいたいと思います。それが、新しい文化の創造です。