MARUNIの社長ブログ

WOWOWで放映していた連続ドラマ「宮沢賢治の食卓」(全5話)を観ましたが、実際の宮澤賢治の実像に比べると、随分明るく軽やかなホームドラマに仕立てていた為か、妹トシとの深い絆の真意(理由)があまり描かれていないような気がしました。なぜ賢治はあれほどまでに妹トシを思い、慕い、彼女の死に接しては、自己の死までを覚悟したのか・・・。その背景を知らずに、宮澤賢治の思考と行動の表層だけ見ても、常人では理解し得ない奇怪なものにしか映らないと感じました。

宮澤賢治は(実は)とても裕福な家で育ちました。けれども父親の商売を嫌悪し、父や家族と対立し、家を出て、あえて家族とは別の宗派に入信し、自ら貧乏な暮らしに身を置きながら、夢や理想ばかりを追い求め、誰からも肯定されない苦しい人生を歩んでいました。けれどもその中で只一人、賢治を信頼し、尊敬し続けたのが、妹トシでした。トシだけは、賢治が入信した宗派に一緒に入り、賢治の書いた童話や詩を褒め、どんな時も賢治の心の支えで在り続けました。そのトシが結核に倒れ、24歳の若さで生涯を終えた時、賢治は真の意味で天涯孤独(宇宙でただ一人)を感じたのだと思います。

妹トシが亡くなった日の朝を描いた「永訣の朝」という賢治の有名な詩があります。この詩を読むともう涙が出て仕方ありません。窓の外は降りしきる雪。今にも息を引き取ろうとする妹トシが、息も絶え絶えに繰り返す「あめゆじゅとてちてけんじゃ」とは、「雨雪(みぞれ)を取ってきてください、賢治兄さん」という意味だそうです。自らの死を目前にして、人生最後のお願いとして、最も信頼する人(兄、賢治)に、自分の最後の食べ物(お椀一杯の雨雪)を頼んだのです。妹トシは、父親でもなく、母親でもなく、「わたくし(賢治)にたのんだのだ」。トシの死を自らの死と捉えていた賢治に対し、トシは「Ora Ora de shitori egumo」と言います。それは、「わたしはわたしで(先に)ひとりいきます」「兄さんは(死なないで)世の為、人の為に、まっすぐ生きてください」というメッセージだったそうです。お椀一杯の雨雪(天上のアイスクリーム)と、この言葉によって、宮澤賢治は(死よりも)生きる希望を見出しました。

「宮澤賢治『永訣の朝』の授業~トシへの約束」(石黒秀昭著)という本を読み、この様な「永訣の朝」の真の意味を理解することが出来ましたが、賢治は、妹トシの死によって、自らの信じる(正しい)道を明るく強く歩み始めたのだと思います。その後、賢治自身が病に倒れ、死を迎えようとした時、最後まで激しく対立していた父親から(初めて)「お前は立派だ」と言われます。賢治は「お父さんにとうとう褒められた」と大変喜び、そのまま息を引き取りました。賢治の人生が最も明るく光り輝いた瞬間だったと思います。宮澤賢治のほとんどの作品は死後になって発表され、有名な「雨ニモマケズ」は、賢治の手帳に書かれたメモの中から発見されました。

私が宮澤賢治に惹かれる理由は、この様な無様で不器用な生き方の一つひとつに在ります。誰にも評価されなくても、デクノボー(木偶の坊)と呼ばれても、自らの信じる道(世の為、人の為)をまっすぐに歩み続ける。涙を流しながらオロオロ歩き、恥ずかしい姿を晒しても構わない。それでも懸命に生きて行く。それこそが本当に美しい生き方なのだろうと思います。これからの時代は、国家や企業や個人のメッキが剝がれて行く時代に成ると思います。いくらカッコ良く繕っていても、必ず正体のバレる時代。人も会社も、カッコ悪くても構わないから、正しい道を歩んで行くことが大事に成ると思います。そのような大きな理想を胸に抱き、今日も一歩一歩、1mmの前進をして行きたいと思います。


※映画「わが心の銀河鉄道」

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宮澤賢治を描いた作品は数多くあると思いますが、今までで一番良かったのは、緒方直人主演の映画「わが心の銀河鉄道」です。賢治の人生を走馬燈のように観ることができます。ほんとうに苦しい人生だったのだなあと感じると同時に、誰よりも真の幸福に近づいた一生だったのではないかと深く感じ入ることが出来ました。それにしても「雨ニモマケズ」は凄い詩です。賢治は「雨ニモマケズ」を作品としてではなく、自らの信条(戒め)として手帳に書き留めました。その詩の最後には、彼の信仰のお題目が記されています。ほんとうのさいわいを求めて生きた一人の人間の凄まじい生き様に、ただ心が震えるのみです。

人類の夜明け

2017年6月23日

東京都議会議員選挙が始まりました。豊洲市場への移転と築地の今後については様々な意見がぶつかり合うと思いますが、これを機に(2020年の東京オリンピックに向けて)良い道筋が見えて来て欲しいと願うところです。「禍いを転じて福と為す」とか「人間万事塞翁が馬」と言いますが、目の前の問題に懸命に取り組んでさえ行けば、きっと新たな智慧が生まれて来るはずです(思わぬ副産物も出て来るかも知れません)。その為にも、私心を捨て、世の中の為を思って、真摯に考え行動して行くしかありません。国政においても、現在多くの問題が露呈しているところですが、国民の生命と安全を守り抜くという大きな道筋を見失わず、1つ1つの課題に向かって真摯に取り組んで行けば、日本の道筋はきっと見えて来ると思います。

一方、近隣国の最近の動向については、大いなる緊張感があります。核ミサイルへの不安があるからです。平成時代があと一年半で終わろうとする中、このまま何とか平和が維持されるよう心から願っています。欧州の混乱、中国やロシアの苦境、米国の激変、世界的テロの多発・・・世界は相当な状況に陥っていると認識できますが、その分(逆に)日本の安定が(あくまで相対的に)際立って来ると感じます。世界が更に混沌へ向かう中、相対的に日本が上昇発展する時代に成るのではないか。同時に狙われる(巻き込まれる)可能性も増えて来るのではないか。確かに多くの問題が山積している日本ですが、世界全体から見れば極めて恵まれている国です。そのことへの感謝の意識を持って、世界の激しい潮流の中で、警戒心を強化しながら、唯一光り輝く黄金の国を築いて行きたいと思います。

話は変わりますが、最近友人から「映画の見方がわかる本」(町山智浩著)という本を貸していただき、大変興味深く読ませていただきました。その中に、スタンリー・キューブリック監督の代表作「2001年宇宙の旅」製作に関わる多くの(裏)情報が書かれていて、(キューブリック・ファンとして)とても面白かったです。映画の冒頭、「人類の夜明け」のシークエンスから400万年後の宇宙へジャンプするシーンで、猿が空高く投げた(武器としての)骨が、宇宙船に変わる有名なカットがあります。その宇宙船(のようなもの)は、人類の進歩と叡智の象徴であり、技術の進化を意味するものだと解釈されていましたが、本当は(そんな美しい意味ではなく)実は「核ミサイル」だったと言うのです。

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キューブリックは今から50年も前に、将来の核保有国の増加と核戦争の発生への警告を鳴らしていた訳です。このシーンには、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」が流れていたので、まさに人類の平和と進歩が印象付けられていました。でも実際には、「恐怖」の裏返しだったのです。この映画には元々(全編に)ナレーションが付いていたそうですが、最終的には全てがカットされました。ナレーションをあえて無くすことで、映画を意図的に分かりにくくさせたかったからとのこと。つまり、観客を訳の分からない状況に陥らせ、摩訶不思議なマジック体験へ連れ込んだのです。それは確かに成功したと思います。いろいろな解釈が、この映画に新たな生命を吹き込み続けているからです。この本には、他にも多くの映画の面白い裏話が書いてあるので、また今後も感想を書いてみたいと思います。

人類は本当に進歩しているのだろうか。技術は進歩したが、精神は進歩していないのではないか。その結果が今の混沌とした世界ではないか。映画「2001年宇宙の旅」は、最後に新たな人類(スターチャイルド)が誕生して終わりますが、今、私たちは、まさに時代の生まれ変わる瞬間を生きているのではないか。いろいろな場所で、いろいろな事態が発生していますが、それらが「禍いを転じて福と為す」「人間万事塞翁が馬」と成る道筋を見つけて行くことが大事だと思います。そのためにも人類の精神的な進歩が必要と思います。2019年に始まる日本の新天皇の時代、そして2020年の東京オリンピックの開催。このタイミングが単なる偶然とは思えないのです。日本人が真に(精神的に)世界をリードする時代の始まりではないかと感じます。映画「2001年宇宙の旅」(1968年)の製作から来年2018年で50年。これも1つのタイミングかも知れません。

古き日本の風景

2017年6月21日

今年の東京の梅雨は(いつもの梅雨らしくなく)晴れ間の多い天気が続きます。仕事柄、雨が少ないのはとてもありがたいのですが、自然の摂理としては、これも1つの異常気象なのかも知れません。けれども雨の休日もなかなか良いもので、自宅でゆっくり映画鑑賞などは最高の贅沢です。最近は古い日本の映画が面白く、溝口健二作品、成瀬巳喜男作品はもちろんのこと、水上勉原作の「雁の寺」「越前竹人形」の二本もとても良かったです(原作も読み、素晴らしかった)。

古い日本の映画の良さのひとつに、昔の日本の原風景や情緒ある町並みが観られる点があります。昔の東京下町の風景、京都の町並み、旧家の続く小径やお寺、鐘の音、山や川の農村の風景、そして木造の日本家屋。日々の生活や商売のシーンも興味深くて、不思議な懐かしさを感じます。それに何しろ言葉の美しさ。日本語の「音」としての響きの素晴らしさは、まるで西洋のクラシック音楽を聴いているかのように、心地良いものです。決して多くを語らない、寡黙さの中に、美しくも粋な音階を感じます。

古き日本の風景は、今からほんの数十年前と同じ場所なのに、別世界。まるでノスタルジックなワンダーランドです。要はそれ程、日本の高度成長とは物凄い変化だったのでしょう。そのおかげで私たちは便利で快適で長寿の生活(人生)を得ることが出来ました。それはとても素晴らしいことであり、ありがたいことです。けれども一方では、古き良き日本の風景への郷愁も強く残っています。梅雨の休日に観る日本映画が、この忙しい時代を生きる日本人の心のバランスを整えてくれるかも知れません。

古い日本の匂いは(映画だけでなく)小説からも感じ取れます。「雁の寺」の水上勉の小説からは、京都や越前の風景。夏目漱石や永井荷風の小説からは、東京下町の風景を伺い知ることが出来ます。森鴎外からは同じく江戸東京、そして留学地の独逸、有名な「山椒大夫」では裏日本の風景が印象的です。最近、森鴎外の小説を読み返していますが、短編の「高瀬舟」「最後の一句」「舞姫」はやはり素晴らしく、また「杯」という(ほんの8ページ程の)短編の美しさには心から感銘を受けました。言葉だけなのに、透き通るような「映像美」を感じました。

先日、「エレファントカシマシ」という日本のロックバンドの30周年コンサートに行きました。基本的にロックは大の苦手です。でも彼らが鳴らす音響の果てには、古き日本人の情緒(寂しさ、悲しさ、清らかさ、恥ずかしさ、無骨さ、やせ我慢など)や郷愁(ノスタルジア)が聴こえるような気がします。例えば・・・有名ブランドの立ち並ぶ大都会の表通り、そこから一本奥に入った裏道りの一角に、小さな古い団子屋さんが在る。そこの店主は、只々、己自身の最高の団子を作ることにしか興味がなく、世間には背を向け、遊ぶ暇があったら黙々と汗だくになって団子を作り続けている。売るための商品パッケージや宣伝にも無関心。それなのに(本心は)表通りの賑わいへの憧れを抱き、時には嫉妬し、悔し涙を流す。「売れたい」という正直な本音も隠さない。苦労に苦労を重ね、幾度か潰れそうになりながら、必死で乗り越えて来たが、気が付いてみると、表通りの店はほとんどが入れ替わっているのに、自分の店はなぜか30年以上も続いている・・・。この立派な老舗団子屋さんが彼らのイメージ。努力を積み重ね、困難と苦労を乗り越えて行く愚直な姿勢こそに、ある種の(転んだり、よろけたり、オロオロしたりの)恰好悪さも含めて、愛すべき(尊敬すべき)何かが在るように感じるのです。

さて、その30周年コンサートですが「歴史」という曲で始まりました。この歌は森鴎外のことを歌った曲です。ロックで森鴎外を歌うなどという発想は、なかなか無いと思いますが、一人の日本の文豪の「生き様」と「死に様」への憧憬が詠われていて、とても好きな曲です。この歌の歌詞に、「名作『山椒大夫』そして『渋江抽斎』に至って輝きは極限」とあります。この「渋江抽斎」という作品はとても難解の様ですが、鴎外の最高傑作とのことで、いつか挑戦してみたいと思います(※渋江抽斎とは、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者で、森鴎外が歴史小説として発表し、広く世に知られるように成った)。

古き日本の風景と現代の豊かな生活との間には、(戦争を含めた)様々な歴史が流れています。その時代、その瞬間、只々懸命に生き抜いて来た先人達の歩みの積み重ねが、今日の豊かな日本を実現させたに違いありません。ならば今の私たちの歩みの蓄積が、もっと素晴らしい日本の未来を築いても良いハズです。けれども実際には、世間は右往左往の毎日を繰り広げているばかり。だからこそ私たちは、自らの人生の道筋のみに集中し、真摯に、愚直に、懸命に、胸を張って歩んで行くしかないのでしょう。古い日本の映画の登場人物は、皆(悪人も善人も)「今」を懸命に生きています。苦労をしても、無様な恰好でも、自らの道筋を只ひたすら歩んで行くこと。此処に日本人の美の極限を感じます。

ミュシャ展にて

2017年5月15日

今年のゴールデンウィークは、とても気持ちの良い天気が続きましたが、5月も半ばに成ると、ゆっくりと梅雨の季節が近づいて来ます。それでも雨が降ることで、日本の清らかな水資源が蓄えられ、豊かな自然界と人間の生活が維持されます。「自然との共生」と言いますが、それは自然と人間が、別個の(対等の)存在同士というニュアンスを感じさせます。でも本来は、自然界の中に人間が含まれる訳で、人間は自然の摂理に従わねばならぬ「従」の存在のはずです。ここにまだ(人間側の)驕りが残っており、未だに地球規模の自然災害が発生している真因に成っているように感じます。日本人には、八百万の神、自然信仰のDNAが残っているので、「自然界に含まれている」という感覚は、日本人が一番よく理解できるはずです。自然界はとても厳しく、摂理と道理によって運行されています。人類は「自然との共生」から、「自然への感謝」「自然への畏れ」へと回帰すべきなのでしょう。

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さて今年のゴールデンウィークは、妻と一緒に六本木の国立新美術館「ミュシャ展」へ行きました。ミュシャという画家の名は全く知らなかったのですが、いくつかの美しいポスターや装飾パネルを見たことがありました。けれども今回の展覧会のメインは、彼が晩年に描いた「スラブ叙事詩」という巨大な大作群です。チェコ出身の彼が(パリで)華やかなポスター画等によって成功を得た後、故郷に戻り(縦6メートル、横8メートルの!)巨大な20枚の油彩画を描きました。これが古代から近代に至るスラヴ民族の苦難と栄光の歴史の大絵巻、「スラブ叙事詩」です。実際に観た印象は・・・もう、壁一面の巨大キャンパスに描かれた風景、人物、精神からの圧倒的なエネルギーを感じ、この20枚の大作を(一生ではなく)たった16年で描き上げたことが信じられない程でした。

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日本も世界も数々の戦乱や動乱、自然災害を乗り越えて、今の時代に至っています。確かに理想的な状態にはまだ程遠い場所に居ると思います。けれども過去の戦争の時代よりも、明らかに今は豊かで幸福な時代を生きています(生かしていただいています)。私たちはこのことに、深く、深く感謝しなければ成らないと思います。その上で、この厳しい自然界の中で、この厳しい世界情勢の中で、懸命に生きて行くしかありません。ミュシャの描いた「スラヴ叙事詩」の中に、じっとこちら側を見つめる人物が何人かいました。その鋭い眼の奥の方から、「甘えるな。今を懸命に生きろ」という声が聴こえたような気がします。二人で美術館を出てから、近くのお店で美味しいランチを食べて、家に帰りました。それがどんなに幸福な時間なのか。深く、深く、思いを巡らせることのできた素晴らしいゴールデンウィークでした。

四月の風

2017年4月 7日

桜が満開の東京で、あたたかい四月の風が吹き始めました。日本でも世界でも、色々な(あまり嬉しくは無い)出来事が毎日報道されていますが、結局のところ(私たち人間は)、自分自身の最善の道を懸命に歩んで行くしか無く、その時間と努力の積み重ねこそが、唯一無二の真の(無限の)財産に成って行くのだろうと思うのです。世の中の現象(騒ぎ)に惑わされず、常に本質を見つめて行くこと。このような日々の生活の中にこそ、美しい幸福が見えて来るのではと思います。まして日本に生まれたことへの感謝の気持ち(実感)が、これからますます強烈に成って行くに違いありません。それほど諸外国の現状は恐ろしく厳しいものと想像します。

そして我が丸二ですが、今年は3名の新入社員さんが入社しました(本当に嬉しいことです)。右肩上がりの時代を知らない世代にとって、実社会に出るということは、大いなる不安との背中合わせなのかも知れません。けれども、そのような時代だからこそ、自分自身を見失わず、自らの人間としての成長を目指す道を(真っ直ぐに)歩んで行けるのではないか。人生で一番大切な何かを見つけられるのではないか。建設業と言う大いなる仕事(使命)と向き合う中で、一人ひとりが立派な社会人に成長する様、みんなで応援して行きたいと思います。

さて最近、単行本の新刊を(吉祥寺の「ブックス・ルーエ」さんで)数冊買いました。高村薫の「土の記(上・下)」、(話題の!)村上春樹の「騎士団長殺し(第1部・第2部)」、安部龍太郎の「家康(自立篇)」です。先ずは、「土の記」を少しずつ読み始めたところですが、なかなか面白いです。「土の記」は現代小説家の中で最も好きな高村薫の最新作なので、非常に興味深く読んでいます。高村薫の作品はどれも異常な程の細部に渡る描写があり、圧倒的なリアリティーと共に、超微細な世界に宿る作者の強烈な情念を感じます。恐らく一冊の本を書く為に、気が遠くなるほどの取材と調査を重ね、その世界に自らの一切合切を委ねることによって(架空の世界に実在する)生身の人間たちが自ずと動き出すような感覚がします。今回の作品も農作業に生きる男の日常と記憶、そして自然界の森羅万象が克明に綴られており、読み手を奈良県は大宇陀の山中へと瞬間移動させます。けれどもそこは(決して異界ではなく)地に足の着いた確かな現実世界です。今は下巻の途中ですが、時間を掛けて、ゆっくりと読み進めて行こうと思います。

また先月の大相撲春場所ですが、大きな負傷を負った新横綱の稀勢の里が見事逆転優勝を果たしました。普通なら休場するところ、強行出場しただけでも驚きだったのに、まさか千秋楽で二番とも勝つとは。本当に深く感動しました。「自分の力以上のものが出た。見えない力が働いた」という本人の言葉通り、確かに見えない力の応援があったと感じます。けれどもそれは「横綱としての最初の場所、みっともないことはできない」という本人の強い意志と勇気、日々の努力があったからなのでしょう。来場所以降も素晴らしい相撲を見せてくれるものと心から期待します。

時間は掛かるけれども、この様な日々の「1mmの前進」の蓄積が、後に偉大な結果を呼び起こすことが(実際に)あると思います。今回の稀勢の里関もそうでしょう。スケートの羽生選手の大逆転劇もそうでしょう。仮にあと一歩及ばないことが続いても周りの評価などを気にせず、日々の「1mmの前進」を(淡々と)続けて行くことさえ出来れば、そのエネルギーは確実に蓄積し(決して漏電せず)いつか必ず確かな実を付け、大いなる花を咲かせることと思います。芽や花や草木が毎日気づかない程の(ほんの少しの)成長を継続しているが如く大自然の摂理(秩序)に従った生き方や働き方をして行けば、必ず「自分の力以上のものが出た。見えない力が働いた」という実感の得られる日々がやって来る。そのようなことを感じさせてくれる四月の風の中で、私たちは今日を歩いて行きます。

お伊勢参り

2017年3月 5日

2月の末にお伊勢参りに行かせていただきました。前回の伊勢神宮参拝は3年前、会社の創立60周年記念で(その翌年に)社員全員で参りましたが、今回は妻と二人です。朝早く近鉄名古屋駅を出て、伊勢市駅で下車。そのまま歩いて外宮まで行きました。外宮は内宮に比べて参拝者の数は少ないですが、非常に神秘的な森の中に在り、けれどもとても明るい光を感じさせます(上空から巨人に見られているような感覚です)。今回は特別参拝(御垣内参拝)をさせていただきました。御正宮の参拝後は、反対側の小さな山の上へと続く階段を登って(重要なお宮と言われている)多賀宮を参拝。後はゆっくり歩きながら、伊勢市駅まで戻りました。普通ならそのまま(バス等で)内宮へ向かうコースですが、今回は時間があったので、また電車に乗って(少し遠い)伊雑宮まで行きました。

伊勢市駅からさらに賢島方面へと下り、上之郷という小さな無人駅で降ります。そこまでの電車は二両編成のワンマン電車。駅員がいないため、切符は電車内の回収箱に入れてから下車します。そのようにして(誰もいない)上之郷駅を降り、普通の民家の間の小道を3分ほど歩くと、小さなお宮が在りました。そこが伊雑宮です(内宮の別宮です)。いろいろな識者や専門家のお話によると、全125社ある伊勢神宮の中で(内宮・外宮はもちろんですが)伊雑宮は最も重要なお宮とのこと。そのようなことを知り、確か10年程前(夏頃)の伊勢参りの際にも一人で来たことがあり、その時の印象がとても良く、また今回も参りました。本当に小さなお宮なので、参拝者の数も2~3人ほど。けれどもその森の参道の奥に在る御正宮の回りには、暖かな光のシャワーと鳥のさえずりが集まっていて、何とも言えない(原始的な)静寂空間でした。参拝を終え、隣にある御神田も観ました(此処で伊雑宮に奉納する米の田植えを毎年6月に行なう御田植式は、香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大御田植祭とのことです)。

再び上之郷駅に戻り、一時間に二本の各駅停車に乗ってゴトゴトと上り、今度は五十鈴川駅で下車。タクシーに乗って内宮まで行きました。特に特別な行事の無い平日にも関わらず、やはり内宮の賑わいは凄かったです。駐車場を待つ車の渋滞もありました。此処で時間が正午を過ぎていたので、おかげ横丁でお昼を食べ、そしていよいよ内宮へ。あの有名な木造の長い橋(宇治橋)を渡り、玉砂利の参道を行きます。内宮は「右側通行」と書いてあり、皆、参道の右端を歩いて行きます(確か外宮は「左側通行」と聞いたことがあります)。外宮も内宮も参拝者の多くが、参道の端を歩くことや鳥居の下で(立ち止まって)一礼をすること等をごく自然に行っていました。他に気を付けるマナーとしては・・・御神木に手を触れない、石等を持ち帰らない、写真は正殿の正面からは撮らない、きちんとした服装でお参りする等があり、決して不敬にならないように神経を使います。決して観光気分では歩けない参道です。

御正宮への石段を一段一段と上がり、内宮も特別参拝(御垣内参拝)をさせていただきました。外宮も内宮も御垣内に入っての参拝は本当に緊張します。その瞬間まるで太古の日本へとワープしたかのような感覚がします。そして参拝後は御神楽を上げていただきました。雅楽の太古の響きにはいつも「厳しさ」を感じます。日常の人間同士の甘えとは程遠い世界が在り、身の引き締まる思いがしました。このようにして外宮~伊雑宮~内宮にて、それぞれの御札をいただき、そのまま真っ直ぐ帰路に着き、翌朝には自宅と会社の神棚に新しい御札をお祀りさせていただきました。ここで(やっと)ほっと一息です。古い御札を持って出かけて、新しい御札を持って帰り、新たにお祀りするまでの間(無意識にですが)ずっと緊張していたように思います。これがきっと伊勢神宮なのでしょう・・・。また来年以降も御礼参りに行けるよう、この日々を懸命に歩んで行きたいと思います。そして会社の創立70周年(2023年)の際は、また社員全員でお参りに行きたいと思います。確かもうその頃は・・・新しい天皇の時代、新しい元号の時代なのですね。次の式年遷宮に向けての神事もどんどん進んでいる事でしょう。さあ、新しい日本の風が吹く時代へ行きましょう。きっと素晴らしい時代に成ると信じて!!

本音の時代

2017年2月 2日

米国はトランプ大統領が連発している大量の大統領令によって大混乱の様相です。アメリカの混乱は世界の混乱でもあり、まさに全世界がトランプ大統領の毎日の動向、言動に注視していると思われます。日本は(落ち着いて)静観の構えで行くと思いますが、混乱や混沌の中にこそ大いなるチャンスが潜んでいると思います。その好機を掴めるかどうか・・・。いよいよ不安と期待の入り混じった2017年がスタートです。今年は日本にとっても米国にとっても、そして世界にとっても非常に大きな分水嶺の年に成ると思います。

それはトランプ大統領の出現により、今までずっと眠っていた「本音」「本心」という巨大なエネルギーが、あらゆる国や企業や個人の中から堰を切ったように溢れ出すのではないかと思うからです。そういう意味では、全く予測不能な時代が始まったと言えます。お互いが自分の本音、本心、都合を優先させて行くという実に怖い時代です。今までの常識や想定、歯止めも効かなく成って行くのでしょう。このようにして不確定要素がどんどん増えて行けば、あらゆる予測も当たらなく成って来ると思います。そのような時代は、とにかく本質的な部分に意識を向け、日々「1mmの前進」を続けて行くことしか無いと考えます。

けれどもその一方では、その国、その企業、その個人の本当の考え方が解る(解ってしまう)時代に成る訳で、良い考えの国や企業や個人にとっては、何も心配は無く、むしろやっと光の当たる機会に恵まれて来るのではないかと思います。逆に、悪い考え方の国や企業や個人は、その正体が白日の下に晒されることに成るでしょう。そういう意味においては、確かに怖い時代であることに間違い無いのですが、日本の立ち位置は決して悪くは無いと思います。未だに様々な問題が山積していますが、それでも今の日本は(他国に比べれば)清らかな国柄を持っているはずです。先ずはその現状に対し、素直に感謝することが一番大事だと思います。その総和の力が日本をさらに底上げして行くと信じます。

国内では、大相撲の稀勢の里が横綱に昇進し、1998年の若乃花以来、19年ぶりの日本出身横綱が誕生しました(日本人横綱不在期間としては14年)。そのニュースを聞いた時、十数年もの間、日本人横綱が不在だったことにあらためて気が付きました。同時にその十数年間と日本の苦境の十数年間との関連性を考えました。今に成って思い出すのは、あの2011年の年明け、大相撲の八百長問題が発覚、その年の春場所開催の中止、伊勢神宮奉納相撲の中止・・・その直後の東日本大震災です。

日本の国技である大相撲は(所謂)スポーツではなく「神事」とされています。横綱になる力士には(その地位に相応しい)品格が要求され、神の依り代として見なされます。よって稀勢の里は、「横綱の名に恥じぬよう精進いたします」と述べたのでしょう。日本人横綱が不在だった日本、神事を止めてしまった日本・・・此処に日本の苦境の影のひとかけらが見えたような気がします。まだその実力や勝負強さに対する不安要素はある様ですが、2017年の年初に横綱稀勢の里が誕生して、此処に小さな光明が射して来たと思います。これが日本の気勢が上がる道につながって行けばと期待します。

もし品格と云う言葉で測るとしたら、今の日米対決は日本の勝ちでしょう。まるでコインの裏表のような両極端の関係です。でもなぜかこの陰と陽の組み合わせが不思議な相性を生み出しているような気もします。かつては敵国同士でありながら、今や(良くも悪くも)お互いに切っても切れない関係性を持ち、重大な何かを補完し合っている様に感じます。

戦後の世界は、何と言ってもアメリカの時代でした。けれども日本という国が存在しなければ、アメリカの発展も無かったはずです。トランプ大統領が「アメリカ・ファースト」に徹し、世界の盟主の座から降りるのであれば、世界の基軸が(今までの)物金から品格へと移行するのではないでしょうか。それは日米の攻守交替です。二国の関係は(表向きは変わらなくとも)日本の品格が米国を支える時代に成ると思います。それは同時に世界を支える道です。私たち日本人の責任が重大に成って来ました。


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※映画「沈黙-サイレンス」

先日、妻と映画「沈黙-サイレンス」を観に行きました。原作は遠藤周作、監督は巨匠マーティン・スコセッシですから、大いに興味が湧きます。江戸時代初期のキリシタンへの弾圧をポルトガル人宣教師の目から見た物語で、非常に重苦しく、深く考えさせられるテーマでした。遠藤周作自身、家がカトリックであり、カトリックの洗礼を受けている為、キリシタン側の苦しい思いがひしひしと伝わりました。同時に「日本にキリスト教を入れない」とする徳川幕府の毅然とした態度の意味をも考える機会に成りました。そして時代は流れ、現在は難民問題が世界的な問題と成っています。難民を受け入れるべきかどうか。此処にまた大きな歴史的な分水嶺がやって来ています。

歴史の積み重ね

2017年1月19日

2017年(平成29年)、良く晴れた素晴らしいお正月も終わり、早くも半月が過ぎました。最近のニュースでは、天皇陛下の譲位に伴い、平成31年1月1日から新元号に成るとの報道が気に成りますが、前回の昭和64年の際の(当時の)小渕官房長官が「平成」という文字を発表した瞬間が脳裏に蘇ります。今上天皇にはもっともっと長く・・・という思いがあるのですが、(同時に)毎日の(日本と国民の幸せを心から願う)神事の激務を考えると、唯々「ありがたい・・・」という思いだけです。

昭和から平成へ・・・そして次の時代へ。日本の平成時代は戦争の無い時代でした。そして次の時代においても、戦争の無い、物質的な豊かさと精神的な豊かさが共存できるような時代に成ることを期待しています。日本が中心になって、世界の平和を実現して欲しいと思います。そういう意味では、昭和時代と平成時代の集大成に成るのではないでしょうか。その為には、私たち日本人一人ひとりが、人間的な成長を遂げていくことしか無いと思います。私は、皇太子様とほぼ同世代です。天皇陛下と同世代を生きるとは、ある意味、時代に対する責任を共有する意識を感じます。次の元号の時代を素晴らしい時代にして行きたいと思います。

一方、外国ではテロが多発しています。いよいよ明日米国大統領に就任するトランプ氏の発言や言動にも、いろいろな意味で緊張感が走ります。年末年始、NHKの「ヨーロッパ鉄道の旅」という番組を観ましたが、あんなに美しくて、長閑で、歴史ある場所で、人々が幸せそうに暮らしている様に見えるのに、実際には経済は低迷し、治安は悪化し、不安の日々を送っているという現実との乖離がなかなか理解できません。確かにヨーロッパは戦争の歴史です。EUが上手く行かないのも、そのような土地の持つ因果があるのかも知れません。あんなに天国のような美しい景観の中で暮らしているのに、苦しみと不安が増している・・・。一方、日本の都会はコンクリートジャングルなのに、それでも(相対的には)平和に安全に生活が出来ている。このギャップは一体何だろうか。やはり目に見えない世界では、逆の様相(因果)があるのかも知れません。

昨年の大晦日は、家族と紅白歌合戦(部分部分)を見ました。視聴率が一番のテーマの様で、いろいろな趣向や演出を凝らしていましたが、個人的にはかつてのNHKらしく、生真面目に「歌合戦」のみに集中して欲しいなという印象を持ちました。民放とは違う価値がそこにはあるからです。いろいろな企画や演出に時間や労力を掛けるよりも、一人でも多くの歌手の歌を聴かせて欲しいからです。無名でも良いので、NHKが評価する素晴らしい歌手、素晴らしい歌をもっと紹介して欲しい。一年の最後に(静粛な気持ちで)日本の歌を思い出す・・・何かそのような文化こそが、かつての日本の発展を陰から支えていたのではないでしょうか。日本の価値とは、目には見えない面の方が強いと思います。ヨーロッパの様に、目に見える美しい風景や街並みとは全く別物の「風」の様なものです。その風を吹かせ続けて行くことが大事だと思いました。

紅白に関しては、人気グループのSMAP問題もありました。でも25年もの間、第一線の有名グループとして活動し続けて来たことに対する尊敬心の方が勝ります。これは本当に大変なことだったと思います。内部の人間関係もある様ですが、時間が過ぎればまた変わるのでしょう。全ては「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。私が好きな日本のロックバンド「エレファントカシマシ」は、今年でデビュー30周年です。最初から同じメンバー(同級生)のままで30年とは、これも大変なことだと思います。今年も武道館で新春ライブがあり、妻と行ってきましたが、50歳なのに物凄いパワーでした。此処に「続けて行くこと」「積み重ね」の凄みがありました。これが歴史というものなのでしょう。日本の皇室が2677年(途切れずに)続いていることと、(他国よりも)平和と安心が持続していることは、決して無関係では無いと思います。今年も一年、日本も、個人も、歴史の積み重ねを続けて行くこと。そのような風を吹かせて行きたいと思います。今年も何卒よろしくお願いいたします。


※溝口健二監督の映画「残菊物語(1939)」「祇園囃子(1953)」

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最近DVD等で溝口健二の有名な二作「残菊物語」と「祇園囃子」を鑑賞しました。今までに見た溝口作品は「雨月物語」「近松物語」「山椒大夫」「祇園の姉妹」「赤線地帯」で、どれも全て本当に素晴らしかったのですが、今回の二作はさらに良くとても驚きました。今から60~70年以上も昔の映画なのに、その感動を言葉で表現できません。やはり私が好きな日本の映画監督は溝口健二です。この人の作品の中に流れている芸術性と精神性に心が震えます。そして、どの作品にも幽玄さが潜んでいます。黒沢明や小津安二郎に比べて決してメジャーではありませんが、多くの日本人に観て欲しい。あらゆるものに迎合しない、極致の世界を感じます。

情緒と1mmの前進

2016年12月29日

昨日12月28日、無事に会社の納会を終えることが出来ました。これもお客様や関係者、地域の皆様のおかげです。今年も本当にありがとうございました。この一年の世の中全体を振り返ってみると、個別の様々な出来事がありましたが、大きな視点で見れば(あくまで相対的にですが・・・)日本の地位(存在感)が増した一年だった様に感じています。確かに日本国内では様々な厳しい問題が山積していますが、諸外国の切迫した情勢と比較すれば、それでもまだ幸運と思うのです。広島と真珠湾に日米の首脳が降り立ったことも(様々な評価や異論はありますが)素直に心が震える思いでした。同時に、一つの大きな時代の終わりと始まりを感じました。仮にこれからどんどん世界全体の流れが悪化して行くとしても、日本には徐々に日が昇り、その明るい光によって、また世界全体に明かりが灯る日が来るだろうと。なんとなく、私たちはそのような時代を生きているように感じます。

いずれにしても此処からは(どこでも)「順流」と「逆流」の両方の流れが(同時並行的に)行き交う時代に成るのではないでしょうか。そのどちらの流れに乗って行くかは、個々の国家、個々の会社、個々の個人で違って来る様な気がします。要は「何を大切に生きていくか」によって決まって来るのでしょう。そして日本人の大半が「順流」を選択して行けるのではと思います。いろいろな問題や事件が後を絶ちませんが、日本人の持つ不思議な「情緒性」によって、最後は理屈を超えた大きな力を呼び込むものと信じるからです。情緒とは目に見えるものではありませんが、間違いなく(古来より)日本人の心の中に宿り続けているものです。それは要するに、良心の放つ温かさではないでしょうか。今の日本に生まれたことへの感謝、今此処に生きている(生かされている)幸せへの感謝が、私たち日本人の情緒の力をさらに光輝かせると確信します。

会社に宿る情緒のことを社風と言います。これも理屈を超えた空気の様なものです。長く続く会社、最後に残る会社には、必ず「良い社風」と云う究極の財産(金塊)が在ります。良い社風を造るとは良い人を造ることです。それには膨大な時間と手間暇が掛かるでしょう。そしてまた、いかなる時流の中でもその歩みを止めてはいけません。結局のところ、人造りとは思想哲学なのだと思います。目に見える業績に(即効性をもって)直結しないが故に、その継続には大きな価値と評価が発生します。私たち丸二も、そのような素晴らしい社風造りを目指して歩んでいる真最中です。来年も(まだまだ遠い理想に向かって)一歩一歩、この道を歩いて行きたいと思います。

大切なことは、日々1mmの前進を続けて行くことです。他者との競争など全く関係なく、ただ自分自身(良心)との「同行二人」です。昨日よりも今日、今日よりも明日、1mmで良いから前進して行こう。成長して行こう。一気に10mや100m行って、そこで止まって胡坐をかくのではなく、毎日少しずつ(ゆっくり)でも良いから、真っ直ぐに(止まらずに)歩んで行こう・・・。丸二には、「1mmの前進」と云う合言葉があります。毎日ほんの少しで良いから人間的に成長して行く、技術的に成長して行く。この日々の1mmの蓄積こそが、後に大きな金塊に育つと思うからです。良き人が良き社風を造り、良き社風が良き現場、良き建築を創造する。その日々日常の私たちの道標が「1mmの前進」です。

最近、丸二の現場の仮囲に掲示中の標語看板を見て、お客様や地域の方々から色々なお言葉をいただく様に成りました。標語看板とは、丸二の(いくつかの)合言葉を書いた看板です。例えば、「日々、1mmの前進」「迷ったら、良心に問う」「現場は心の映し鏡」等です。特に「1mmの前進」に対しては、「なぜ1mmなの?」とか「ラグビーの思想と同じだね」とか「前進という言葉、大好きです」とか、とても多くのお声を頂戴するように成りました。このようなコミュケーションを通じて、私たちの理念とお客様の理念とが「同心円」に成るような気がして・・・そのことがとても嬉しいのです。

「現場は心の映し鏡」とは、建物を造る監督や職人さんたちの「心の状態」が、そのまま「現場の状態」に現れるという意味です。つまり、心が明るく清らかであれば、現場もキレイということです。逆に言うと、現場が汚いのは監督の心が・・・と成ってしまいます。そのような厳しい価値観を持つことで、私たちは自らの心を磨き、現場を磨く努力を日々行っています。なぜならば、素晴らしい建物の現場は(間違いなく)「キレイ」だからです。このような価値観も(ある意味)日本人的な情緒に由来していると思います。来年もこのような合言葉を目指し、日々1mmの前進を続けて参りますので、何卒よろしくお願いいたします。本当にありがとうございます。
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※映画「モダン・タイムス」(1936年)

久しぶりにチャップリン映画をDVDで鑑賞。チャップリンの映画の中では「街の灯」が一番好きなのですが、今回「モダン・タイムス」を数十年ぶりに観て、「これもこんなに面白かったのか!」とちょっと驚きました。製作当時は資本主義を批判する映画として問題になった様ですが、今に成ってみると、チャップリンはそのもっともっと先、つまり(21世紀の)資本主義の果ての世界を「視ていた」のではないかと感じました。確かに今の時代、資本主義による多くの弊害が起きています。世界平和も実現していません。貧困と格差も未解決です。そしてなかなか「次の世界」も見えて来ません。では一体どうするべきなのか・・・。その答えをチャップリンはこの映画で(既に)描いていました。

結論は、笑顔で歩いて行くこと・・・ただそれだけ。映画「モダン・タイムス」のラストシーンで、チャップリンと少女が歩き出す際、チャップリンは悲壮な顔をしている少女に向かって、「笑顔で」と(言葉ではなく)表情と仕草で教えます。そして二人は笑顔になって、真っ直ぐに伸びた一本道を(手を繋いで)歩いて行きます。どんな時代でも困難と苦労は無くならない。外側の世界に理想的なユートピアなど存在しない。だから自らの中にユートピアを置こう。どんな時でも笑顔で歩いて行く。自らの良心と手を繋いで(同行二人で)歩いて行く。社会への批判ではなく、自ずから歩み進むのだ。歩け、歩け、笑顔で歩け・・・。世界を変えるとは、自分の内側を変えることだと、チャップリンの映画から学ぶことが出来ました。ちなみに、私のチャップリン映画のベストは、「街の灯」「モダン・タイムス」「ライムライト」です。


今月は米国大統領にトランプ氏が決まり、いろいろな意味で衝撃の走ったひと月でした。国内でも博多の道路陥没という(前代未聞の)大事故が発生しましたが、幸いにして怪我人はゼロ(更には)たった一週間での完全復旧と、その対応力の凄さに素直に驚きました。日本は確かにいろいろな問題がありますが、なんとかして乗り越えられるパワーを持っていると感じます。逆に言うと今、表に現れて来ている課題の1つ1つに対して(隠さずに)誠実に対応さえして行けば、きっと道は拓けて来ると思います。

豊洲の盛り土問題にしても、東京オリンピックの多額な開催費用にしても、所謂「ブラックボックス」を破壊したことで、(確かに)一時的な大トラブルの発生中ではありますが、そこへ「光」を当てたことによって、きっと物事は(思い掛けない)良い方向へ収斂して行くと思います。結果として、「見えない部分を明らかにして良かった!」と成ると思います。その答えが見えて来るまでの間は苦しいですが、きっと時間が解決してくれると信じます。

盛り土の問題、道路陥没の問題、そして(少し前の)傾斜マンションの問題等は全て、「目には見えない地下(基礎)」の由来する事象でした。私たちはこうして(目には見えない)反対側へと光を当てることで(もちろん様々な不都合が生じますが)、それによって大いなる飛躍への一歩が発生するのではないかと期待します。米国もトランプ氏のような破壊力のある異端が現れたことで、今まで抑え込まれていた(隠されていた)鬱屈したエネルギーがきっと表面に出て来るのでしょう。それはそれで(今までの)体制側にとっては大変困ったことかも知れませんが、飛躍へのために必要なプロセスになると思います。

トランプ勝利の一報を聞いた時は、ある種の衝撃と共に、今後の日米関係に対する不安と恐れが走りましたが、その直後、真っ先に日本の首相が面談し、個人的な人間関係を結んだことで、先ずはほっと、安心感が出てきました。今後の防衛に関することも、日本にとっては、真剣かつ現実的に「国(国民)を守ること」を考えられる良い機会になるかも知れません。TPPの問題、ロシアとの関係構築等、当面の様々な国際的な課題がありますが、その中できっと日本が主導権を握る可能性を感じます。本当に何か(危機)が起きた時の日本の対応力、団結力は、圧倒的と思うからです。

国内経済も、2020年の東京オリンピック後への不安もありますが、むしろオリンピック以後、本当の日本の隆盛が始まるような気もします。地球上にこんなに安全で、安心で、優しくて、思いやりがあって、四季折々の豊かな自然がある国が他にあるだろうか・・・と、世界が知る機会と成れば、2020年以後からの観光立国への道が拓けて行きます。都会も田舎も、文化も歴史も、そして何よりも人間性そのものが観光資源です。

結局、全ての物事には「見える面」と「見えない面」があり、この「見えない面」こそが大事であるという「物の道理」が、この世界を貫く軸に成ったのだと思います。見えない基礎(工事)がいい加減であれば、その悪事は必ず表に出て来る時代です。でもその悪事が表に出たことによって、状況は(逆に)良い方向へ変わって行くはずです。

人間も同様で、「見える面」の前に「見えない面」、つまり「人間性」という基礎の部分への意識を持って、そこに光を当てて行く時代に成ったのではないでしょうか。目には見えない「人間性」のリーディング・カントリーが我が国日本だと思います。そのようなプライドを持って、21世紀を素晴らしい世紀にして行きたいと思います。何か・・・世界の流れが一変する気運を感じます。そこには危機感と期待感があります。この目で「歴史」を見てやろうと思います。


※ゴッホとゴーギャン展

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先日、妻と「ゴッホとゴーギャン展」を観に行きました。あまり絵には詳しくないので、ゴッホとゴーギャンが南仏アルルで共同生活をしていたことも知らず、ただ気楽に鑑賞したのですが、この二人の違いは、「目に見える世界」を描いたゴッホと、「目に見えない世界」を描いたゴーギャンとの対比でした。目に見えない世界までを描いたゴーギャンの絵は、とてもエキゾチックで、幻想的で、大変な迫力を感じました。一方ゴッホは、目に見える世界(風景や自画像)をそのまま描いているのですが、私たち一般人の目に映る普通の風景とは何か違っていて、全ての光や色や形が(渦の様に)グルグルと揺れていました。

ゴーギャンの場合は、(実際には)目の前に存在しない「何か」を絵の中に(意図的に)描いたのだと思います。でもゴッホの場合、「彼の眼には、本当に彼が描いた絵の様に(全てが揺れて)見えていたのではないか」とも言われています。だから「自分の眼に目えたものを、そのまま描いた」のは、確かにその通りだと。

芸術的な優劣は全く分かりませんが、ゴーギャンが長生きし、ゴッホが自死したことを考えると(生き方として)ゴーギャンの方が健全だったことが分かります。でももし(本当に)「ゴッホの眼には、全てが(彼が描いた絵の様に)グルグルと揺れて見えていた」としたら、正常な精神を保ち続けることは難しかったと思います。いずれにしても、見える世界と見えない世界の不思議なバランスが、芸術を生み、人生を生み、この世界を創っているのだと感じました。


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