MARUNIの社長ブログ

歩いて行く

2016年8月29日

イタリア中部で大地震が発生し、死者が250人以上に達しているとのことです。被災された方々へのご冥福を心よりお祈りいたします。特に被害の大きかったアマトリーチェという町は、イタリア有数の観光地とのことで、ニュースで見た(地震以前の)街並みの美しさには心動かされました。このようなヨーロッパの古き街並みは、それ自体が人類の遺産です。けれどもこうして一夜にして崩壊してしまうと、日本的な言葉で言う・・・「もののあはれ」を感じさせます。以前ヨーロッパに行った際、イタリアはローマ、フィレンツェ、ミラノ、ベニスを巡りましたが、どの町も歴史の重さを感じさせるノスタルジアに満ちていました。「日本もこうあって欲しかった・・・」と感じたのを覚えています。

日本は地震国です。建物の耐震性を非常に大事にします。そのおかげで、大きな地震が発生する度に、耐震基準が上がり、時代と共に建物の建て替えが促進されて来ました。それは同時に、古き良き街並み、美しい景観、歴史的遺産を失う歴史でもありました。だからこそ、ヨーロッパの街並みに対する強い憧れの思いがあったのでしょう。けれどもこうしてみると、人類の造った文明は(いずれ必ず)消えて無くなるものだと分かります。諸行無常とはまさにこのことなのでしょう・・・。結局、日本は(失うものも多かったと思いますが)世界一安全な国土に成ろうとしています。地球が大掛かりな地殻変動期に突入した今、日本人の先人たちの先見性に(あらためて)感謝いたします。

日本の建物は、世界で一番(断トツで)安全です。このことは今後大いに評価されて来ると思います。古き良き家並みが(時代と共に)失われたことへの寂寥感もありますが、今と未来を生きる日本人の生命と生活を守ることも何よりも大事です。目に見えるものはいつか朽ち果てて行きます。これからは目には見えない、決して朽ちない文明の時代に変わるのでしょう。それはきっと人間の精神文明ではないでしょうか。「日本人の心」が人類最大の(生きた)遺産に成って行くのではないかと期待します。もし将来、世界全体が大和の心を持ち得るとしたならば、きっと戦争も終わるのでしょう。

宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」で述べた言葉の中に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」とあります。個人の幸福は、世界全体の幸福によって成されるのである。けれども世界全体の幸福とは、個人が自らの中に銀河系を置き、(そこに生まれる)個人の「(今)此処に生かされている」ことへの深い感謝の念(の集合体)によって成されるのである。禅問答の様ですが(要は)日本人一人ひとりの感謝の思いの蓄積こそが、世界の全体幸福への道を切り開く突破口と成るのではと期待します。今の厳しい現実(最悪の想定)に懸命に対処しながらも、明るい未来へ向けて、日本人(大和)の心を世界へ広げて行くこと。2020年東京オリンピックがその起点に成れば何より幸いです。

そして丸二は、日々(世界一)安全な建物造りに全力投球しています。その誇りと使命感を強く心に意識しています。まるで銀河系を自らの中に意識して、これに応じて行くかのように。そう思えば、日々建設現場で行われている工事作業の1つ1つが、まるで神事のように感じられて来るから不思議です。今日の1つ1つの仕事や作業が、住む人や街を護り行く所作の1つ1つに成るのではないかと・・・。あらゆる正しい仕事とは、このようにして(本来)とても畏れ多いものなのかも知れません。それが故に、仕事を「している」のではなく、「させていただいている」という実感が(自然に)生まれて来るのです。

私たちは、現場に対する「礼」の意識を大切にしています。スポーツの世界では、優秀なアスリートほど礼儀正しく、自らの競技フィールドへの入退場の際、一人静かに「礼」をしています。この姿に私たちは心動かされるのです。丸二もこの素晴らしい姿勢を見習って、「人や地域のお役に立ちます」と念じつつ、日々現場に対する「礼」の意識を持ち続けて行きたいと思います。そして、全体の幸福と個人の幸福の実現を目指しながら、日々1mmづつ、歩いて行きます。

リオデジャネイロ・オリンピックがいよいよ佳境と成って来ましたが、日本が善戦中で、まだまだメダル獲得に期待が持てます。先日は卓球女子の団体戦が終わり、日本は銅メダルを獲得することが出来ました(本当におめでとうございます!)。福原愛選手の「苦しかった・・・」という言葉と、目から溢れる涙には、何かとても清らかなものを感じました。もし日本の卓球界に彼女の存在が無かったら、石川選手や伊藤選手の出現も無く、もしかしたら男子の水谷選手の大活躍も無かったかも知れません(男子は団体で銀メダル獲得!)。本人としては悔しいオリンピックだった様ですが、(目には見えない)とても大きな力をまわりに与え続けたのではないでしょうか。

日本はもちろん、中国の人々からも愛される福原選手の人柄(人間性)の根源には、一体何が在るのでしょうか。最後の最後で、競い負けしてしまう試合もありましたが、それは彼女の人間性の深い部分に、どうしても隠し切れない程の何か・・・巨大な優しさが鎮座していたからでは無いでしょうか。勝負の世界では、それは弱さであり、徹底的に排除すべきものです。けれども彼女は、その自らの弱さを愛し、守りながら、厳しい勝負の世界に身を置き続けています。その潔い姿に温かな感動を覚えるのです。2020年の東京オリンピックへの挑戦を行うかどうかはまだ不明の様ですが、本人は「リオで最後」と心に決めているような感じもします。彼女の優しさは(むしろ)これからの日本と中国、韓国、台湾との心の架け橋と成ると思います。そして今まで以上に、世界に大きく羽ばたいて欲しいと心から期待しています。

この夏、日本は、オリンピック期間中に終戦記念日を迎えました。あれからもう71年が経ちます。地球の裏側では熱い戦いが繰り広げられています。けれども戦争に比べたら、本当に幸福な戦いです。TVに映るリオの風景の中に、あの有名な「コルコバードのキリスト像」 の(丘から)街を見下ろす姿が幾度となく現れますが、この美しくも幻想的な神々しさと、眼下の街に横たわる日々の生活の間には、きっと大きな乖離があるはずです。けれども、日本人もブラジル人も、共にその乖離の幅を(一生懸命)縮めて行く日々奮闘努力をしている最中なのだと、静かなる勇気と感動を覚えました。

今回のオリンピックでは、現地のブラジルの方々が私たち日本人選手を熱い声援で応援してくれています。それが本当に嬉しい。歴史的に縁の深い両国が、共に地球の裏側同士の縦軸と成って、またこうして強く結ばれて行くのでしょう・・・。2020年の東京オリンピックが本当の意味で「平和の祭典」に成る様、日本人の奮闘努力がこれから始まります。


※映画「シン・ゴジラ」

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お盆休み中、妻と2人で話題の映画「シン・ゴジラ」を観に行きました。場所は新宿TOHOシネマズです。此処はかつての新宿コマ劇場の跡地であり、その隣には、子どもの頃によく来た映画館「新宿プラザ劇場」もありました。現在は立派な高層ホテルとシネコンの複合施設です。「新宿プラザ劇場」では、「未知との遭遇」と「スターウォーズ」の封切を鑑賞した思い出があります。子ども心に、果てしない宇宙に対する憧憬と好奇心で胸が一杯に成りましたが、今でもその思いは変わりません。

さてゴジラですが、これも子どもの頃、地元吉祥寺の古くて小さな東宝の映画館へ何度か見に行ったものです。一番記憶に残っているのは「ゴジラ対キングギドラ」。昔の普通の男の子は、みんな怪獣映画が大好きでした。その後TVでは「帰って来たウルトラマン」が始まり、それもすぐに夢中に成りました。そして時代は流れ、ハリウッド版のゴジラも製作されましたが、大人になって映画館でゴジラを観るのは今回が初めてでした。そして意外にも非常に面白く、楽しい時間を過ごすことが出来ました。

現在の東京に突如ゴジラが出現するという物語設定の背景には、今の日本が直面している危機管理(防災意識・防衛意識)を見ることができます。また放射能(原子力)に対する問題意識も描かれています。娯楽映画ですからそこに何かしらの意図や主張は無いのですが、必要な事は「今やるべきこと」と「将来の為にやるべきこと」を明確に分けられる思考力のような気がします。得てして「今やるべきこと」と「将来の為にやるべきこと」が相反することが多いからです。その巨大な時間軸を空間的に把握できる能力が、これからのリーダーには必要ではないかと感じました。

ゴジラ映画と言えば、伊福部昭氏が作曲したテーマ音楽が有名です。今回の映画でも使用されていましたが、特に最後のクライマックスで流れていた(古い音源のままの)戦闘的な音楽の爆演(!)は、最新技術の映像とのアンバランス感が凄く、それが故に不思議な高揚感を生み出していました。これは庵野監督の意図なのでしょう。伊福部昭という日本の作曲家のことも、今まであまり認識していなかったのですが、ゴジラ以外でも非常に多くの管弦楽曲等を作曲している正統的な現代音楽の作曲家と知りました。これを機会に他の曲も聞いてみたいと思います。

ゴジラのような怪物がなぜ長い間、映像化され続けるのでしょう。なぜ忘れた頃にやって来て、私たちの街を破壊して行くのでしょう。なぜゴジラの形態は、あのような恐ろしい(畏ろしい)姿かたちをしているのでしょう。ふと、そんなことを思います・・・。きっと日本人の心のどこかに恐れるべき(=畏れるべき)存在が常に内在しており、私たちがその畏れ(=畏敬の念)を忘れ掛けた頃に成ると、その「不安感」「危機感」の集合意識が物質化されて、日本人の前に突如出現するのかも知れません。伊福部昭氏の摩訶不思議な音楽を聴くと、それもあながち嘘では無いような気がして来ます。ゴジラとは、日本人みんなの心の中に住んでいる「鬼神」なのかも知れません。

優しいほほ笑み

2016年7月26日

半月前の参議院選挙は、大方の予想通り、与党が票を伸ばす結果と成りました。先の英国の(EU離脱を問う)国民投票のような番狂わせも無く、とても静かな選挙でした。また今回から18歳以上に投票権が与えられたことで、どのような変化が起こるかが興味津々でしたが、蓋を開けてみれば、18歳、19歳の投票先も他の年代とさほど変らなかった様です。一方、英国の若者たちの多くはEU離脱に反対でしたが、上の世代が賛成票を投じた為、離脱が決定してしまいました。このような世代間の主張の違いには、非常に辛い面が残ると感じます。また米国では差別を起因とする暴動が拡大化しています。

純粋な考え方の違いのみであれば、お互いに歩み寄ることが可能ですが、違う世代同士、違う人種同士、違う宗教同士の対立は、そうは行かない面があるのかも知れません。日本と云う国は、仮に考え方の違いはあっても、多くの若者は高齢者を敬い、人種問題も無く、宗教は何でも認めるというおおらかさがあります。選挙が静かということは、(逆説的には)成熟した社会の証なのかも知れません(投票率の低下は問題だと思いますが・・・・)。

けれども実際の世界情勢は、全く反対の方向へ動いています。先のバングラディッシュのテロ事件のように、日本人だからと言って安心安全な場所は無くなって来ました。動揺と緊迫の日常が世界中を覆っています。もちろん日本もその覆いの中に在る訳ですが、他国とは少し雰囲気が違うような感覚を持ちます。悪く言えば「大人しい」のですが、良く言えば(全てでは無いですが・・・)「大人」なのかも知れません。現在、東京都知事選の真っ最中ですが、おそらくこのまま大きな盛り上がりも無く、淡々と誰かに決まり、淡々とその結果を受け入れて行く都民がいることでしょう。「和」の心とは、きっとそういうものなのだろうと思います。

参議院選挙の結果を受けて、憲法改正論議が徐々に高まって来ていますが、日本の憲法と言うと、聖徳太子が作った「十七条憲法」を思い起こします。その第一条の「和を以て貴しと為す」には、日本人の心、精神、文化の全てが表現されていると思います。これは他国には無い概念なのでしょう。そのような面から日本の憲法を再構築していく道はあり得ると感じます。つまり、日本と云う国の成り立ち、日本人の特性、21世紀の日本国の役割を再認識しつつ、目の前の厳しい現実を直視する機会に成ればと思います。

その厳しい現実とは、(例えば)EU内の難民問題であり、世界中で発生中の組織的テロであり、東アジア周辺の緊迫した領土問題であり、地球環境の汚染や資源の枯渇問題も依然として在ります。最近では、まるで突然何かに憑かれたかのようにして、一人の普通の人間が(信じられないような)大事件を起こすことも増えています。今朝の相模原の障害者施設の事件もまた(まだ詳細は不明ですが)一人の若者による凶行のようです。

大地が揺らぎ、火山が揺らぎ、そして人々の精神が揺らぎ始めている時代においては、国家も、個人も、企業も、常に最悪を想定した危機管理に徹することで、平和で安心・安全な日々の生活が守られていくと思います。日本も確かに様々な重要問題が山積中ですが、他国に比べれば、(まだまだ)ありがたい暮らしが在ります。2600年以上(全く途切れず)継続している皇室の存在も実は非常に大きいと感じます。これからどんどん世界の人々が(相対的に)日本を羨ましく思うように成るのではないでしょうか(今の日本人は無自覚ですが)。その羨ましさが「尊敬」へ向かう人(国家)もあれば、妬みへ向かう人(国家)もあるはずです。この「妬み」に対する危機管理は、忘れては行けないと思います。

米国の新しい大統領がどちらに成るかは分かりませんが、今後の日米関係がより良い方向へ向かうことを祈ります。日本人としては、お日さまへの感謝の心を忘れずに、日々の仕事や生活に(笑顔で)努力して行きたいと思います。2020(ニコニコ)年の東京オリンピックへ向けて、ニコニコの日本、ニコニコの東京をイメージして行きたいと思います。


※喜劇役者

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ニコニコと言えば喜劇ですね。私が好きな喜劇役者さんは、渥美清とバスター・キートンです。渥美清さんは今年が没後20年ということで、これからBSプレミアム等で関連番組が放映されますが、今からとても楽しみです。バスター・キートンさんは、偉大な喜劇王チャップリンの陰に隠れてはいますが、何があっても無表情で、それがとてもおかしいのです。代表作は「大列車追跡」と「セブン・チャンス」で、あの体を張った演技は、今の役者さんには到底真似できないでしょう。渥美清さん(松竹映画「男はつらいよ」)と藤山寛美さん(松竹新喜劇)は、お互いに尊敬し合いながら、共に映画と演劇の分野で、当時の「松竹」の屋台骨を支えていました。その重圧は大変なものだったらしく、(文字通り)2人は命を縮めて、役者人生を全うしました。バスター・キートンさんも、危険なシーンの撮影中に、首の骨を折ってしまったにも関わらず、そのまま撮影を続行し、後に骨折の痕が見つかったとのことです。一歩間違えれば、命を落としていたのに・・・。やはり後世まで残る人物とは、その瞬間、瞬間を、他の誰よりも懸命に(=命を懸けて)生きていたのだと思います。だからこそ、自らの命を削った「笑い」の中に、深い無常観と優しいほほ笑みが宿ったのではないでしょうか・・・。

自ずから歩み進め

2016年6月15日

先月は、伊勢志摩サミットが無事に終わり、オバマ大統領の広島訪問も予定通り行われました。先ずは大きなトラブルも無く、本当に良かったと思います。また今回のサミットでは、世界の先進国の首脳たちが伊勢神宮を訪れました。一人ずつ宇治橋を渡り、あの美しい小石の長い参道を歩き、内宮本殿の石段で記念撮影を行っていましたが、そのシーンを見た時、何とも言えない明るく清らかな気持ちに成りました。世の中では日々、本当に大変な事が起きていますが、各国の首脳がこうして今、日本の伊勢神宮に集まり、(仮に一時でも)晴れやかな表情を浮かべていたという事実が、何かきっと大きな意味を持って来るのではないかと期待します。オバマ大統領も伊勢と広島で何かを感じ、米国へ持ち帰ったのではないでしょうか・・・。

政治的、外交的には、日本はいつも負けてしまうのですが、諸外国の要人の方々が持つ、日本の皇室や神宮に対する並々ならぬ敬意は、(確かに表面的には抑えていますが)その表情や体中から滲み出ているように感じ取れます。今回のサミットで伊勢神宮の映像が世界へ配信されました。これから多くの外国人が訪れるようになるでしょう。多分きっと、「此処こそが世界の真の聖地だ」と感じてくれるかも知れません。地震国、火山国、そして世界唯一の被爆国という宿命を背負った日本と云う国の本当の姿を、世界が知る時代に成ったと思います。

話は変わりますが、今、NHKで「トットてれび」というドラマが放映されています。これは黒柳徹子さんのデビュー当時を描いたコミカルなお話で、なかなか面白いです。主演の満島ひかりさんが黒柳徹子さんを演じていますが、これがまた非常に似ていて、つい笑ってしまいます。また当時の仲間の中に(私の大好きな)寅さんこと、渥美清さん(中村獅童さんが演じています)がいて、これも興味津々です。と言うのも、実は黒柳さんと渥美清さんは当時、噂になったことがあるのです。けれどもこのお二人のことですので、とても面白おかしく取り上げられた様ですね。その辺の事は、後に「徹子の部屋」に渥美清さんと倍賞千恵子さんがゲストとして招かれた際に、いろいろと話していましたが、それがまた非常におかしかった。本当にお二人ともユニークな人です。

黒柳徹子さんは、子どもの頃は(今で言うところの)ある種の発達障害だったそうです。それでも持ち前の明るさと、努力に努力を重ねて、大きな人生を築いて来ました。長年、ユニセフ親善大使も務め、社会に大いに貢献しています。人生とは本当に分からないものです。ただ言えることは、自らのハンデを(明るく)乗り越え、見えないところで小さな努力や善行を積み上げて来た人に、本当の成功や幸福がやって来る様な気がします。イチロー選手にしても、大変な努力の積み重ねの結果、あれだけの天才技が出来るようになったはずです。でもこれは、実際にはなかなか出来ないことです。それでも私たちには、この日々を懸命に努力していく道が在ります。先ずはその一歩一歩を明るく歩み始めることではないでしょうか。

私たち一人ひとりが、明るく晴れやかな気持ちで、この日々を生きて行くことが先ず第一だと思います。世の情勢によって自分自身の気持ちが左右されるのではなく、どのような時でも、自分自身の気持ちを明るく晴れやかに保って行く時代に成ったと思うからです。そのような一人ひとりの明るい気持ちが大きな束と成って(初めて)、その集合体(国や地域)に本物の「光」が灯るのではないでしょうか。もう誰かに依存するのを止めて、自らの自立を目指すべきです。そう思えば、全ては自ずから歩み進むことによって、時代も明るく変化して行くでしょう。この夏、丸二はさらに明るい気持ちでがんばって行きたいと思います。


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※映画「ミツバチのささやき」(1973年:スペイン)

スカパーの映画チャンネルで、1973年製作のスペイン映画「ミツバチのささやき」(監督:ビクトル・エリセ)を鑑賞しました。この映画の事は題名以外ほぼ知らず、先入観ゼロで見ることが出来たのですが、その全編絵画の如く美しい映像風景に大変心を打たれました。物語性という意味では起伏は小さく(内容的にも)一体何が主題なのかが少々分かりにくい面もありましたが、スペイン内戦の末の苦しい独裁政権下における、一人の少女の意識の目覚めが、全編夢のような暗喩世界として繰り広げられていたのではないかと感じました。

物語自体は、決して明るく楽しいものではありません。どちらかと云うと暗く、陰鬱で、物悲しく、そして荒涼とした寂しさすら感じます。けれども主人公の少女アンの持つ透明無垢な可愛らしさとスペインの厳しくも美しい広大な原野を吹き渡る風と光が、何故か不思議と明るい未来へと私たちを誘ってくれるような気がしました。最後に少女アナは、様々な経験をした後で、夜の窓を開き、神々しい光の中に立ちます。その後ろ姿に、未来への明るさを予感させます。

独裁政権に対する批判を直接表現できない時代だからこそ、このような作品が生まれたと思います。けれどもそのおかげで、(単なる批判・批評を超えた)人間個人の持つ崇高な意思の力と未来へ向かう明るい光の束、そして、それら全てを包み込む天の温かい眼差しを、(美しい映像風景として)同時にフィルムに焼き付けることが出来たのでは無いでしょうか。「ミツバチのささやき」はそのような映画でした。どんなに厳しい時代でも、どんなに苦しい時でも、自ずから歩み進み、自らの意志で窓を開ければ、誰もが「光を観る」ことが出来るのです。

上杉謙信を思う

2016年5月21日

三菱自動車が日産自動車の(事実上の)傘下に入ることが決まり、今回の不正問題から端を発した新たな自動車業界の再編が進んでいます。これで日本の大手自動車メーカー2社(日産・三菱)が実質的にルノー(フランス)に支配される構図となり、シャープに続き、日本企業の弱体化が目立つ様になって来ました。けれども実際はルノーの経営も低迷中で、日産が支えているとのこと。本来の企業としての実力がありながら、どうも日本は戦略的に負けてしまう面がある様です。これも日本人的と言えば、その通りなのかも知れません。

日本人は「和」を重んじる国民性なので、そもそも戦い(攻撃)は苦手です。日本の歴史の中で最も人気があるのが戦国時代ですが、日本としては極めて稀な(戦闘的な)時代だったが故に、関心度が高いと言われています。その後の明治以降の戦争も(基本的には)世界の覇権獲得の為と云うよりも、国を守るための防衛的(危機意識)な性格が強く、そうせざるを得ない、やむにやまれず、という面が時代の底流に横たわっていたのではないでしょうか。けれども戦争は戦争ですから、実際の戦場では勝つ為の戦闘行為しか無かったと思います。そして日本は敗戦を迎えました。

私自身、戦国時代をそれ程好きな訳ではないのですが、信長は確かに凄い革命家だったと思いますし、秀吉も相当魅力的な人物だったのでしょう。家康は江戸時代を築いたことで、その後の日本の歴史的な道筋と文化を造ったと思います。その他、実にたくさんの戦国武将がいて、今では人気ランキングなどもありますが、その中で私が密かに興味を覚える人物が、上杉謙信です。上杉謙信は、戦国時代の越後国の武将で、軍神と呼ばれた人物ですが、他の戦国武将、戦国大名とは少し違う性質を持っていたそうです。

あの時代の戦国武将は、自らの領土拡張や天下統一を唯一心に追い求めていました。それが権力の獲得であり、自らの贅沢と安全の担保だったからです。とどのつまりは「野心」「欲」のためです(世の統治による平和の実現という大欲も含まれていたとは思いますが)。けれども上杉謙信は、そのような自らの野心や欲は無く、苦境にある者を救う為の戦いのみに、自らの生命を掛けたと云うのです。つまり「無欲」の人だったのです。

上杉謙信は、衰えていた室町幕府(足利将軍家)を支え、あるいは信濃国を奪われた人々のために強敵・武田信玄と壮絶な戦いを繰り広げました(川中島の合戦)。仮に勝ったとしても自分自身の領土に成らないにも関わらずです。歴史作家の井沢元彦氏の本に、「だが、全国でたった一人だけ領土欲ではなく義(正義)のために戦争をする大名がいた。それが上杉謙信なのである」「謙信は常に利害あるいは損得ではなく、善悪で物事を考える」とありました。これが本当であれば、大変な人物だったと思います。井沢氏は、「武田信玄があと10年長生きしても天下は取れない」とし、一方「謙信があと10年長生きしたら天下を取っただろう」と言う人がいないことが実に不思議であると述べています。

「無欲」「野心がない」「義のため」・・・これ以上に強い(畏しい)存在は無いでしょう。あの織田信長でさえ、もし戦場で謙信に出くわしたら「戦わずに逃げろ」と言っていたそうです。また、「敵に塩を送る」という言葉がありますが、それは、敵対する武田領に塩(生きるために不可欠)が不足していると知った謙信が、人道的な配慮として塩を運んだことから生まれた言葉だそうです。実際に、信玄の死の直後も、謙信は武田領に攻め込みませんでした。にわかに信じがたい話ばかりですが、上杉謙信が子どもの頃から寺に預けられ、そもそも僧侶に成る人物だった事と知ると、そこには常人では計り知れない程の何か、特別な背後の意志を感じさせます。

ところで、上杉謙信には女性説があります。様々な史料から、いくつかの確かな証拠があるとのことです。あのような時代の中で、女性の武将など全く想像はできないのですが、けれども謙信が遺した様々な(極めて異質なる)言動や事実を思うと、確かに辻褄が合う様な気もするのです。信長が「謙信とは戦うな」と命じた件も、信長の(男としての)美学だったのかも知れません。そしてその後の日本は、戦争に負けながらも、世界に大いなる影響力を与える国家に成長して来ました。きっと日本人のどこかに、「無欲」「野心がない」「義のため」という遺伝子が残っていたからだと思います。

日本は今こそ、もう一度日本人の遺伝子をONにして、良い政治、良い経営、良い生活を始めて行く時なのでしょう。今、日本の歴史ある大企業の中で多くの不正問題が発生していますが、私たちは此処で再び、日本の「義」の経営を思い出すべきなのでしょう。戦国時代ならば、確かに上杉謙信のような生き方では、天下を取ることは難しかったと思います。けれども今は、損得から善悪で物事を考える時代に変わりました。ある意味、女性性の時代、母性の時代に成ったとも云えます。ここで、上杉謙信の女性説とも繋がって行くのです。

オバマ米大統領がもうすぐ広島を来訪されます。人と人、国と国が、「義」で結ばれる時代は果たして来るのでしょうか・・・。私は、「義」とは「良心」の事だと思います。あの凄惨なる戦国時代の最中においてさえも、確かに「良心」の世界が在ったのです。この事は、今を生きる私たちにとって、大いなる勇気と成ります。「義」も「良心」も、結局は勇気と共に発露されるものです。日本も、日本人も、勇気を持って、この日々を懸命に生きて行けば、必ず道が拓けて行くと信じます。


明日への記憶

2016年5月 9日

石原慎太郎氏の最新刊「天才」を読みました。昭和の大政治家、田中角栄氏の人生を一人称(「俺」)で語るという異色の作品でした。田中角栄氏が首相に成った頃と云えば、私自身はまだ小学生でしたが、おぼろげながらも記憶は残っています。とにかく「凄い総理大臣だなぁ」と云う印象を持っていたと思います。その後、ロッキード事件で政界から姿を消して行った事も覚えていますが、決して悪人の様には思えませんでした。世の中には、私腹を肥やす為のお金と、志(大欲)を実現させるためのお金とがありますが、田中角栄氏にとってのお金は、(今になって思うと)後者だったように感じます。田中角栄氏は、中国との国交を回復させましたが、米国との関係にヒビを入れてしまいました。そこに(ある種の)大いなる意志が関与したのでしょう。

田中角栄氏は、自らが地方の土建屋として、汗水流して働きました。まさに此処が氏の人生観の原点であると思います。国家とは、現場で汗水流して働いている人々のおかげで成り立っている。華やかな物事の裏側には、泥にまみれて働く人々がいる。此処に真実の労働(仕事)がある。田中角栄氏が唱えた「日本列島改造論」は、脈々と長い年月を経て、確かに新しい日本の建設へ導いたと思います。そこにはきっと大いなる志(大欲)があったのではないでしょうか。けれども同時に、志が高ければ高い程、敵が増えるのも世の常です。そのようにして、本物の政治家はだんだんと少なくなって来ました。今もし、田中角栄氏の様な人物がいたとしたら、東日本大震災の時、そして熊本大地震の時、一体何をしたのだろうと、ふと想像します。熊本のその後は、まだ厳しい状況の様です。心から早期の復旧と復興を祈ります。

ところで、この小説「天才」ですが、田中角栄氏の人生を簡潔に知る上では非常に為に成りました。特に田中角栄氏が愛した二本の映画のことが記述されていたので、とても興味を覚え、その内の一本をDVDで鑑賞しました。「心の旅路」という古い米国映画でした。現代の多くの小説や映画、TVドラマ等で多用されている物語設定として、「記憶の喪失」がありますが、もしかしたらこの映画はその元祖なのかも知れません。戦争で記憶を失った男性と、その彼を救った女性との物語で、最後はハッピーエンドの素晴らしい感動作でした。けれどもなぜ、人間同士の愛情や感動の描く為に、主人公が記憶を失う必要があるのだろうか。ふと、そんな風に思いました。

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多くの映画やドラマの中で描かれる記憶を失った人間は、(大体)物語の最後で記憶が蘇るのですが、そこで衝撃(カタルシス)がやって来ます。自らが記憶を失っている間の全てを思い出し、真実を知ります。そこには只々、あふれる涙と共に、大いなる感謝の念(あるいは大いなる後悔の念)が現れます。何か・・・ここに私たちの人生(生き死に)の根源的かつ普遍的なテーマが隠されている様に感じます。私たちは「大いなる真実」の記憶を忘れて、この日々を生きているのかも知れません。その「大いなる真実」を思い出すこと自体が、我が人生の目的のような気がするのです。同時に、まるで映画の観客が如く、我が姿を(全てを知っている誰かに)観られている様な気もします。このようにして、記憶を失う物語は、人間の潜在意識を震わせるのでしょう。私たちは、その映画やドラマの主人公に自らを投影し、本当は私自身の「大いなる真実(=記憶)」を探しているのではないでしょうか。

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さて最近、大林宣彦監督の映画「野のなななのか」のDVDが発売され、映画館で数回の鑑賞を経て、この度あらためてTVで観ました。この映画は北海道の芦別を舞台とした、過去の戦争の記憶と、人の「生き死に」(輪廻)を描いた独特かつ奇妙な作品です。「なななのか」とは四十九日のこと。人間と死者とが並行世界の中で同時に「生き死に」を繰り返しながら、この世の無常観を現したものです。そしてそこには、決して忘れては成らない戦争の記憶と、決して思い出したくはない心の傷が共存しています。けれども私たち人間は、過去の人生があって「今の人生」を生きているのです。だからこそ、過去の記憶を忘れずに、そこからの教訓を胸にして、今を立派に生きることが大事なのでしょう。その先にきっと素晴らしい日々が待っていると思うからです。

今こそ日本の歴史(過去の記憶)をもう一度振り返り、そこから重大な何かを感じるべき時なのかも知れません。それほど、今と云う時代は歴史的な大転換点に在ると思います。同時に、自分自身の過去の生き様をも振り返り、自らの人生の意味を探りながら、「今を懸命に生きること」に全エネルギーを使って行きたいと思います。そのような日々の歩みの中で、何かきっと大切な記憶(大いなる真実)が蘇って来るかも知れないから・・・。

この度の熊本大地震で被災された多くの方々に心から御見舞を申し上げます。一刻も早く、救援救助、復旧が進むことを心から祈るばかりですが、実際の現場はそれどころでは無いのかも知れません。これだけ大きな余震が続くことは今まで無かったことで、先ずは大地が落ち着くことを祈りたいと思います。被災地では車中泊によるエコノミー症候群が多発しているとのことで、大きな余震が続いている中、自宅に戻れない状況があるのでしょう。体を動かしたり、水を飲んだりと云う普段の日常生活では当たり前のことが出来ない状況ほど、苦しいものは無いのかも知れません。この毎日の普通の生活への感謝と共に、早期に余震が落ち着き、多くの方が安心して自宅へ戻られることを心から祈ります。阪神淡路、東日本、そして九州熊本と、日本列島は常に大きな地震と共存しながらも、それでも必ずや大難を乗り越えて行くはず・・・。熊本への思いを持って、この日々を懸命に生きて行きたいと思います。

この熊本の大地震発生の直後には、南米のエクアドルでも大きな地震がありました。その後の報道によると死者が507人、負傷者は4000人超に上っているそうです。まだ救助の手が届かない場所が多く、被害はさらに拡大すると思われます。日本は昔から地震大国ですから、あらゆる面での地震対策を行ってはいますが、それでも実際に発生すれば、常に想定外の被害や問題が起きてしまいます。まして元々地震の少ない国や地域の場合は、もし震度5以上の地震が発生した場合、街や地域あるいは国家全体が崩壊する危険性もあると思います。今後、大きな地震が日本列島のみならず地球全体に拡大して行く可能性もあるとのことで、熊本とエクアドルの復旧・復興と共に、他の国や地域への拡大が無き様、心から祈りたいと思います。  

実際にこのような場合、私たちは「祈る」ことしか出来ません。でも人間の祈りには、確かに何か大きな力が内在していると感じます。多くの人の祈りの思いが無数の束に成れば、目には見えない大きな力と化して、きっと何かしらの物理的な作用を及ぼすと思います。只そう信じ、祈り続けることで、この日本と云う国はここまでやって来たのでは無いでしょうか。前のブログに書きましたが、「お天道様が観ている」という情緒的発想は、日本人特有の(所謂、宗教とは全く別物の)信仰心、祈りと同意のような気がします。西洋人の云う祈りとは、自身が信仰する宗教の主に向けられたものと思いますが、多くの日本人の場合は、例えばお天道様をはじめ、大自然とか、山々とか、森の木々とか、風とか、空とか、月とか、海とか・・・あるいはご先祖様を含めた(ある種)大いなる抽象的なる大自然、森羅万象に向けた祈りのように感じます。ここは大きな違いです。この自然信仰という意識を、日本人は(特に誰にも教わらずに)生まれつき、心の中に宿しているのではないか・・・。

この日本人特有の祈りの根源は、やはり「感謝の心」ではないかと思います。日本人は(漠然とした感覚だと思いますが)「生かされている」と云う発想を(心のどこかで)認識しているのだと思います。その思いが、自分以外の全ての象徴たる大自然やご先祖様へ向けての「ありがたいなあ」という心境を醸造しているのでしょう。そのような日本人的遺伝子の(過去から現在に渡る)無数の束の蓄積が、今の日本国を造っているのではないでしょうか。映画「男はつらいよ」の第39作目「寅次郎物語」では、寅さんが、甥の満男の「人間は何のために生きてんのかな」という問いに対し、「生まれてきてよかったなって思うこと、何べんかあるじゃない。そのために人間生きてんじゃねえのかな」と答えます。本当にそうだと思います。阪神淡路大震災、東日本大震災、そして今回の熊本大地震で被災された方々も、そして日々の生活の中で個人的絶望に苦しんでいる人も、きっと「生まれて来てよかったな」と思える日が来ることを信じて、この日々を懸命に生きているのだと思います。どんなに辛くても、朝が来れば、空にお天道様がちゃんとある。そのお日さまに向かって、そっと手を合わせる。その美しい姿を、この大自然(森羅万象)は必ず見てくださっている。そう信じます。

今回の九州の大地震の震源が(長期的に)日本列島を北上する可能性があると言われています。また火山の噴火にも連動すると思われます。あらためて日々の防災意識と共に、この我が身が(今日も)生かしていただいていることに心から感謝し、心の底から「ありがたいなあ」と思える日々を(自らの力で)創造して行きたいと思います。

「パナマ文書」なる告発が世界を揺るがしていますが、要は世界の政治家や富裕層が無数のペーパーカンパニーを利用して、租税の回避を行っているとのこと。おそらく日本人もいるのでしょう。その一方で、先日初来日した「世界一貧しい大統領」として有名なウルグアイのムヒカ前大統領は、自らの報酬の9割を寄付しているそうです(報酬自体もささやかな額の様です)。この違いは(文字通り)「天地」の差でしょう。そのムヒカ氏が、あまりにも西洋化し過ぎた現在の日本の姿を観て嘆いたと聞きました。恥ずかしながら、確かにそうかも知れません。かつての日本人は、善い事、悪い事の分別を、西洋人の様な「法律」「解釈」「理屈」を超えた、「天」の視座・視点で判断していたと思うからです。それはある意味、情緒的な感性によるもので、「お天道様が見ているよ」の一言で、「よし、分かった」となる種類だったように感じます。

今回のパナマ文書の問題にしても、おそらく極めて精妙な精度で法律の目を掻い潜っているはずです。それくらいの知恵は使っているでしょう。でも問題はそういうことではなく、大切な税金を納めることを(節税を遥かに超えるレベルで)意図的に回避しようとする、その精神、「人間性」が問われているのではないでしょうか。仮に法的にはセーフであっても、「そんなみっともない事、できるか」という情緒がそこには不在なのです。このような西洋的思考による社会は、これからきっと崩れて行くと思います(既に崩れていますが)。同時に、明治維新以降、日本に深く根付いて来た西洋的な面も徐々に崩れながら、日本古来の元点、「情緒」ある文化が再浮上して来ると思います。それはきっと、とても良いことです。

税金とは国民としての義務ですが、その国を経由して、大地、天地自然への奉納(感謝)でもあります。この国土、社会、制度、文化が無ければ、私たちは日々の生活を行うことは出来ません。自国に対する様々な不平や不満があるとしても、そのような基本的精神が根底に無ければ成らないと思います。なぜかと言うと、「お天道様が観ているから」です。まさに情緒的な理由です。でも、その一言で「そうだな」と成るのが、かつての美しい日本人の姿だったのではないでしょうか。ムヒカさんはきっとそこを観たのだと思います。「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです」というムヒカさんの言葉が胸に突き刺さります。

先日、米国の外相が広島の平和公園を訪れ、原爆資料館を見学後、原爆慰霊碑に献花を行い、その後(予定にはなかった)原爆ドームまで視察しました。当然、日米両国の政治的な意図がある訳ですが、それでも素直に嬉しく感じました。過去の歴史的な背景が在る故、明確な謝罪の言葉は無くても、それでも現地で献花をし、その花輪の置き方を一寸(戻って)直す動作をした所作の中に、ほんの一縷の情感、情緒を感じました。ただそれだけの事ですが、そこに小さな感動を覚えたのです。今後もし、本当に現職大統領が来るとなれば、両国にとって大きな一歩に成るでしょう。その行為の事実はきっと原爆で亡くなった方々の魂まで届くと思います。つくづく日本人の「水に流す」という特異な習性は、世界的にも稀なる不思議現象と思いますが、けれどもその日本人的な「情緒」という感性に、いつかきっと世界が敬意(畏れ)を表する時が来ると思います。

ところで、この「情緒」と云う言葉は、世界的な天才数学者である岡潔さんの本(「情緒と日本人」「人間の建設」等)を読んで、深く心に刻まれました。日本人の数学の大家が、なぜ「論理」とは真反対の「情緒」を言うのかと驚きましたが、岡潔氏にとっては、それが全く自然なことのようです。つまり、「数」の探求によって、この世界が全て数字で表現されていることを知り、その数字を完全に理解することで、大自然(宇宙)の本質が分かったのかも知れません。その大自然(宇宙)を司る存在こそが(まさに)情緒だったと云うのでしょうか・・・。語られる言葉がとても平易な分、非常に哲学的です。

また、岡潔氏の発言の中でとても興味深いものがありました。西洋の指揮者が目を閉じて大きく手を動かしている姿を観て、「目を閉じて、むやみに体を動かしている。これでは奈落の底へ落ちる」と。そして「日本人は体を動かさずに、じっと坐り、目を開いて、何もしないことだ。日本人がこの役割をやらなければ誰もやらない(やれない)」と。つまり、「眠ったまま、体だけを動かしている人類」から、「目を覚まし、思考を動かす人類」に変われと言う意味ではないかと思います。ここで指揮者の例が出て来たのですが、確かに本当に超一流の指揮者は、ほとんど動かないと言われています。実際、何もしていないようにすら見えると。ところが、ほんの小さな指揮棒の動き一つで、オーケストラがその瞬間に劇的な大音響を発生するのです。「指揮者は汗をかくべきではない。聴衆を暖かくすることだ」と言われますが、そこには「覚醒」と「静止」の巨大エネルギーが内在していると想像します。

さて情緒と云えば、(最近お気に入りの)寅さんですね。寅さんは地道な仕事には付かず、いつも勝手気ままな旅をしているので、確かに(一見)駄目人間のように見えますが、けれども実は、誰にも真似できない物凄い「啖呵売(たんかばい)」の技量があり、日本全国どこに行っても、露店で物を売ることが出来、自力で日々の生活費を稼ぐ力を持っているのです。これは普通の人には絶対に出来ないことです。また(意外と)筆まめで、旅先からよく葉書を出します。内容は反省と後悔が多いですね。自分がお金を持っていないのに、「釣りはいらねえよ」とも言います。あるいは「これで飴玉でも買ってやれ」とか言いながら、困っている人にすぐお金を差し上げます。でも必ずその後、自分の財布の中を確認して「しまった~」となるのです。寅さんは、知人が亡くなったと聞けば、お香典を届けに走ります。病気になったと聞けばお見舞いを、良い事があったと聞けばお祝いを渡しに出掛けて行きます。全て自分の財布から、なけなしのお札を出して、しわを伸ばし、袋に入れて、飛んで渡しに行きます。自分事を後にする・・・。これもひとつの日本人的な情緒だったのかも知れません。

先日、毎年春に行う「箱根社員研修」に行きました。二日目の朝、夜明けとともに部屋の窓には箱根の山々の尾根の姿が映り始め、そして空には暖かいお日さまが昇り、次第に可愛い鳥たちの声が聞こえて来ました。毎日、東京の喧騒の中にいると、このような自然の息吹を感じるだけで心の中が浄化されて行く様です。けれども本当はどんな環境に生きようとも、心の中に「情緒」なるものを宿すことで、日々心清らかに暮らせるのではないでしょうか。「お天道様が観ている」と云う思いを決して忘れずに、この日々を(目を覚まして)懸命に生きて行くこと。きっと私たち日本人には、そういう暮らしが一番似合っていると思います。


未来への情緒

2016年3月29日

ベルギーのブリュッセルで連続テロ事件が発生しましたが、今度はパキスタンでも大規模なテロが発生。現在のヨーロッパから中東、南アジア地域は非常に不安定な状態だと思います。特に(今後は)日本からヨーロッパへの旅行者が減少するのではないでしょうか。そのようにして考えて見ると、世界広しと云えども、安心して行ける国や地域がどんどん狭まって来ている様に感じます。日本の場合は(ここ数年)海外からの来日観光客が急増していますが、間違いなく「安心・安全」も大きな要素になっているはずです。2020年オリンピックが東京に決まった理由の中にも、そのような面が多分に在ったのでしょう。

けれどもこのままの世界情勢が続くとなると、今後のオリンピックの開催地決定は非常に難しい課題に成って来るのではないでしょうか。日本としては、先ずは2020年の東京オリンピックを無事に終了させなければ成りません。そういう意味では、今回のオリンピック開催によって、首都東京の防衛インフラが(図らずも)整備されることと成り、それはそれで一つの幸運と呼ぶべきなのでしょう。物事に偶然は無いのだから・・・。

それでも日本と云う国が盤石と云う訳では決して無く、常に様々な大きな課題を抱えています。特に今の子ども達を取り巻く環境に対しては一抹の不安を覚えます。イジメ、虐待、誘拐、自殺、待機児童問題・・・。戦後の経済成長と共に生じて来た様々な弊害が大きな塊となって、未来の子どもたちの行く手を阻んでいるかの様に見えます。けれどもこれらの重大な問題の数々も、他国の実態に比べれば(まだまだ)素晴らしい状況であることも同時に認識しなければ成りません。

そもそもこの世の社会とは、全てが完璧にまとまることは無いはずです。1つが成り立てば、1つは我慢しなければならない。その連続です。人の人生も同様で、全てが完璧に恵まれた状態は決して訪れないでしょう。必ずどこかで解決すべき課題が発生するからです。むしろ人生とは、自らの課題を解決する為の大舞台(ステージ)であり、課題(問題)無き人生は、生ける屍と同意であり、全く無意味(無駄)な人生でしょう。国家も同様で、次から次へとやってくる課題に向き合っていく為に存在しています。日本の場合も、重大な課題との闘いの日々ですが、それでも他国よりも安全で安心な国家です。そのことへの深い感謝を忘れてはいけないと思います。その上で起きている問題を共に共有し、共に解決をしていくことが大切だと思います。

今、大人達が子ども達に教えるべき事は、他殺も自殺も等しく殺人(罪)であるということではないでしょうか。また、他人を傷つけることも自分を傷つけることも等しくイジメ(罪)ではないかと。他人の命も自分の命も全く同じ、天から授かった大切な宝物(預りもの)です。この与えられた生命を何よりも大事にすること。(他人のであろうと、自分のであろうと)ひとつの生命を傷つけた罪を償うとは、(法的な意味だけでなく)本当に大変なことだと思います。このような道徳的な観点から、物事の本質や厳しさを教えて行くことが大事だと思います。そこから子ども達の本来の「生きる力」が本領発揮するのではないでしょうか。

最近、俳人、尾崎放哉に関する小説(「海も暮れきる」吉村昭 著)を読み終えました。尾崎放哉とは、種田山頭火と並ぶ自由律俳句の俳人で、かなりのエリートでありながら、突然、その安定した職と生活を全て捨て、妻とも別れ、最後は小豆島の庵寺で孤独な病死を遂げました。酒癖が悪く、自分の体をイジメ抜いた人だと思います。有名な句は、「咳をしても一人」です。彼の人生の末路において、病気で体が全く動かなくなっても、それでも尚生きようとする強烈な苦しみと痛みの中で、かつて自らが傷つけた我が生命の最後の光を観たのだと思います。そこには只、後悔と懺悔しかなかったのではないでしょうか。本当に壮絶な死だった様です。人間は、仮に人からイジメられても、自分までが自分自身の生命をイジメてはいけないと思います。人様がちゃんと叱咤、罵倒してくださるのだから、自分だけは自分自身の生命を優しく守るべきです。

実は、尾崎放哉の本を読むきっかけは、渥美清さんが尾崎放哉を演じることを夢見ていたと知ったからです。渥美清さんも尾崎放哉も、同じく結核を患っており、渥美さんは「自分は、結核の人の咳ができます」と話していたそうです。孤独な俳人でもある渥美清さんの人間としての凄みが此処に見えてきます。最近の新聞に、寅さんの舞台である柴又が、「重要文化的景観に申請される」とありました。あの下町情緒を守る為とのこと。とても嬉しいことです。この「情緒」という言葉、大好きです。今の時代、この情緒が失われて来たのではないでしょうか。その事と子ども達の抱える不安感は、決して無関係では無いと思います。

今の子ども達に「情緒」という感性は残っているのでしょうか。先日、都電荒川線に乗りました。未だに東京に路面電車があることが素晴らしいと思います。この小さな電車が古い家々の軒の間をゴトゴトと走り行く風景には、ノスタルジア、懐かしさ、そして風流を感じます。ほっとします。もしかしたら、今の子ども達には、この「ほっとする」という感覚が無いのかも知れません。最近の住宅販売で、高尾山の近くの大規模マンションが完売したそうです。そこには「ほっとしたい」現代人の渇望が見え隠れします。逆に言うと、自然、懐かしさ、ノスタルジア、風流さという感性自体を感じられない日本人が増えて来ることが、一番の恐怖です。日本の町並みの中に情緒を取り戻して行く努力が、未来の子ども達の心を守る道のひとつかも知れません。

日本人の情緒の源流と云えば、例えば、仏壇(御先祖様)へ手を合わせたり、太陽(大自然)へ手を合わせたり、神社やお寺へ手を合わせることでしょう。これは信仰と云うよりも、ある種の文化であり道徳です。郷土愛や国を愛する心も同じ源流でしょう。また日本人は、虫の音、風の音、波の音、雪の降る音等の自然界の(微細な)振動エネルギーを感じるだけで、自らの魂を震わすことが出来ます(これも情緒だと思います)。西洋の場合は、それに代わる振動エネルギーとして、クラシック音楽が開発されたのだと思います。これは(ある種の)霊媒としての大作曲家(バッハ、ハイドン、モーツァルト・・・)を経由して、天から降りて来た振動エネルギーを音化させたものでしょう。日本と西洋との違いがありますが、音から感情を感じられるのは、同じく「情緒」だと思います。秋の夜長の虫の音に、情緒(特別な感情)を感じられる日本人のオリジナルな感性こそを、大事に継承して行きたいものです。情緒ある国柄は、きっといつまでも安心で安全で守られて行くと思います。

政治、企業、芸能、スポーツ等のあらゆる分野で、様々な形の不正や違反、ミスやトラブルが露呈している昨今ですが、同時にその事象に対する「必要以上の」社会的干渉にも、何か妙な違和感を覚えます。自らが犯した罪やミスは、いつか必ず(「因果応報の法則」により数倍に成って)本人に跳ね返って来るのであれば、もうそれで良いのではないでしょうか。それよりも何も、人を批判できる自分自身なのかどうかが問題です。この毎日を全て「善」で生きている人など、そうはいないでしょう。大なり小なり、人や社会に迷惑を掛けながら、その反省の繰り返しです。仮に、社会を揺るがす程の大きな罪は無くとも、日々の生活の中で、(例えば)ゴミを落としてしまったとか、こぼした水を拭くのを忘れてしまったとか、ついあの人に嫌なことを言ってしまったとか、そう云うホンの小さな「微悪」までを含めれば、やっぱり自分は完全な善人ではないと感じます。みんな等しく、反省の身です。

前回のブログで寅さんのことを書きましたが、映画「男はつらいよ」のエンディングでは、必ず(旅先からの)寅さんの葉書が届き、そこには毎回「今はただ、後悔と反省の日々・・・」と書かれています。確かに寅さんの場合は「その通り!」と思いますが、私もたいして変わりません・・・。寅さんのように、心から素直に、「ありのままの恥ずかしい自分自身」を観ることが出来れば、日々一歩一歩、明日を信じて、前へ向かって歩いて行けるのだと思います。その歩く道とは、決して誰かとの競争では無く、自分自身(良心)との対話の道だと思います。誰かに追い抜かれても、誰かを追い抜いても、それは自身の人生とは無関係な現象でしょう。単なる風景の一つに過ぎないのかも知れません。皆それぞれ歩く目的が違うからです。只、他者の歩き方(生き方)を見て、学ぶことは大事だと思います。最近の建設業界では、大手ゼネコンによる施工不良問題がいくつか明らかに成りましたが、そこから自社の品質管理の点検と確認を行うことが本線であり、他社を批判する必要はありません。

最近、『お遍路が一列に行く虹の中』という俳句を知りました。とても美しくて、神々しくて、清らかな句だと思います。実はこの句の作者は、渥美清さんです。寅さん演じる俳優、渥美清さんの素顔は、知れば知る程ミステリアスです。決して自らを語らず、人と群れず、孤独や芸術を愛し、そして誰にも知らせずに死んで行きました・・・。その彼の唯一の趣味が俳句だったそうで、小さな(素人の)句会に真面目に顔を出し、一人離れた部屋の向こう側で、静かに空を見つめながら、沈思黙考していたそうです。句会の後の食事会にも出ず、いつもさっと姿を消していました。寅さんとは違う様な、否、寅さんのような・・・。ちなみに俳号は「風天(フーテン)」でした。

野山の道を、お遍路が一列に行く風景は、一人ひとりが前を向いて、我が人生(道)を歩み続ける姿に思えます。一人ひとりの人間としての差など無く、人生を歩むという一点において、皆同じ。その人々の一列の白い線が、神々しい七色の虹の中へ入って行く・・・。本当に明るくて、色鮮やかで、けれども心静かな余韻を覚えます。世の中が騒がしい時代だからこそ、私たちは観るべき視点を「外側への干渉」から「内側への観照」へと切り替え、この美しき一列の中の一人に(そっと)加わりたいと願うのです。冷たい雨が上がり、その先に映る「虹の中」に入れば、きっと素晴らしい天上の音楽が聞こえていることでしょう。私の脳内では、モーツァルトのシンフォニーがキラキラと鳴っています。


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※モーツァルト: 交響曲第36番「リンツ」、 第38番「プラハ」、 第40番、
第41番「ジュピター」
シューリヒト指揮/パリ・オペラ座管弦楽団(SACD)

私がモーツァルトで一番好きなのは交響曲ですが、特に後期6大シンフォニーは本当に最高です。先日、シューリヒト指揮の超名盤がSACDで出たので、買って聴いてみましたが、本当にモーツァルトの音楽が「今この瞬間に!」生まれたかの様な感動と、降り注ぐ光の束を感じることが出来ました。録音は1961年~64年ですので、もう50年以上も昔ですが、やはり本物はいつまでも残り続けるのですね。他の演奏ではワルター、クリップス、ベーム、C・ディヴィスも好きですが、同じく古い録音ばかりです。会社も50年以上、100年以上永続することによって「本物」に成ると思います。そして丸二はまだ62歳。まだまだ先は長いですが、100年企業を目指して、「丸二の道」を歩んで行きます。

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