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亡き先生からのメッセージ

昨日、今年の8月に87歳で亡くなられた私の恩師(大学時代のゼミの先生)の「お別れの会」が椿山荘にて執り行われました。昨年の11月には「米寿を祝う会」があり、その時は大変お元気そうでしたので、本当に残念です。先生のご冥福を心からお祈りいたします。
私の大学時代は、(恥ずかしながら)ほとんど勉強らしいことはせず、もっぱら自主映画づくりに明け暮れていました。でも、このゼミだけは欠かさず出席していたと記憶しています。先生の専門は財務会計で、当然ゼミも財務会計を学ぶ場だったのですが、今思い出すのは、ゼミの時間の始めに行う「日記の発表(一冊のノートに学生が順番に書いていく日記帳の朗読)」や、合宿であちこち行ったことや、今でも続いているゼミ仲間と遊んだことばかりです。結局、勉強自体は、学生一人ひとりの問題であり、ゼミではそれとは違う「何か」を学んでいたわけです。その「何か」が、実は昨日、少しだけ分かりました。
「お別れの会」には、800名以上の方々が参列したと思います。そして、ご縁の深かった方々から「お別れの言葉」が語られました。その中で、ある方のお話から次のようなエピソードが紹介されました。
私は、ゼミの生徒で、先生に論文を提出した。しかしながら、その論文はすぐにつき返された。論文の表紙には、先生によって、こう書かれていた。
「今日は1月16日です。1月15日ではありません」

このお話を聞いた時、はじめて先生の先生たる所以に(今さらながらに)気がつきました。論文の提出期日が1月15日だったからという、一種のユーモアとも受け取れるようなこの言い回しの中に、体中の水分がすべて汗となって噴き出てくるような冷徹なる響きを感じました。しかし、その冷徹さの源泉が、当然のことながら限りない愛情であったことも容易に想像がつきました。
それにしても、これから社会に出て行く学生に対して、いったいどのような思考を経て、このような一言を記したのだろうか。また、このメッセージを受け取った本人も、なぜその意味の真意に気づき、受け止め、心から反省し得たのだろうか。
もし、その期日遅れの論文をただ受け取ったり、ただ受け取らなかったりしたら、その学生はどのような社会人生活を送ったのだろう。また、もしその学生が「先生は冷たい」と言って、自身の姿勢を反省しなかったら、どうなっていたのだろう・・・。結局、学生は心から詫び、先生はその論文を受け取った・・・。
かつて、教える側と教えられる側の間には、このような得体の知れない「何か」がありました。その「何か」を明確に表現できる語彙を、私は未だ持ち得ません。ただ、その「何か」が確かにあったということを感じることは出来ます。800名を越える参列者や当日来られなかった方々の心の中にも、先生との間に、きっとその「何か」があったのだろうと想像します。
今、学校教育や社内教育の現場において必要なのは、「今日は1月16日です。1月15日ではありません」とはっきり言い切ることが出来る教師や上司であり、と同時に、その言葉の真意を測ることのできる自分自身ではないでしょうか。
「今日は1月16日です。1月15日ではありません」・・・これは、「誰にも動かしようの無い真実に対して、もっと謙虚に生きなさい!」という極めて激しくも温かい、私自身に対する「お叱り」のように聞こえてなりませんでした。