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霧の中の風景~一本の木への希望

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映画「旅芸人の記録」で有名な(ギリシャの)テオ・アンゲロプロス監督の「霧の中の風景」をDVDで鑑賞しました。父親に会いに、ギリシャからドイツへと旅をする姉弟の物語です。実はアンゲロプロス監督の作品はこれが初めてで、約4時間の大作「旅芸人の記録」も未見なので、特別な先入観も無く、素直に観ることが出来たと思います。この監督の特徴は「長回し」と言われています。確かに「霧の中の風景」でも、ワンカットがとても長く、移動しながら360度を映し出すシーンもあり、とても斬新的で面白く感じました。けれども、それは単なる手法と言うよりも、時空の移ろいや儚さを強烈に見せつけるものであり、この作品の本質と連動するものであると理解しました。
まだ12歳の姉と5歳の弟の厳しい旅の物語。未だ会ったことの無い父を求めてドイツへ旅立ちます。旅の冒頭で、「父はいない」と知らされるのですが、それでも旅を続ける二人。その二人が最後に辿りついた場所はいったいどこなのでしょうか・・・。実は、その答えを暗示する象徴として、「一本の木」が出現します。これは(以前、本ブログで紹介した)タルコフスキーの「サクリファイス」とも(偶然にも)符合します。霧の向こう側の一本の木。この二人の姉弟は、父親に会えたのか。ドイツに着いたのか。否、すでにこの世にはいないのか。いずれにしても、「一本の木」への収束こそが、この作品の結論でした。
でも、なぜ「木」なのでしょうか。森林国家である日本の場合は、木や森には精霊が宿るとし、森羅万象への信仰心(自然信仰)が国民の心の深い部分に在ります。神様の数え方も、「一柱、二柱」と、木(柱)で表現しています。昨日(5月26日)は、鳥取県で「全国植樹祭」が行われ、天皇皇后両陛下が植樹をされていました。NHKの生中継を観ながら、あらためて感じたことは、「日本は森林の国であり、森林に守られている。森林は人々の生活を支え、自然界の循環システムとして機能し、目には見えない神聖な力を宿している」ということです。天皇皇后両陛下が、土を手にして(けっこう苦労しながら)植樹されている姿を観て、この木(森)に対する祈りの積み重ねが、日本と言う国を築いているのだと、静かな感動を覚えました。
西洋人にとっての「木」とは、おそらく「希望」ではないかと思います。西洋文明が1つの大きな終焉を迎えようとしている今、未来への希望の象徴としての「木」が在るとすれば、それは、木に宿る「目には見えない力」への期待ではないかと感じるのです。物質的な発展を遂げた西洋文明が終わりを告げる時に、目には見えない「何か」を手にしたいと願う。その象徴として「木」が出現しているのではないかと。ならば、古来から「木」に対して、特別な思いを抱き、目には見えない「何か」を感じて祈り、畏れ、感謝してきた民族である日本とは一体何か。毎年、天皇が「植樹祭」を行う国とは一体何か。西洋の映画「サクリファイス」に続いて「霧の中の風景」でも、「一本の木」が希望の象徴として現れている以上、私たち日本人は、もう少し考えた方が良いのではないでしょうか。私たちが思っている以上に、世界は(潜在的に)日本に向いているのかもしれません。
映画「霧の中の風景」は二人の姉弟の旅を、決して甘くは捉えません。相当厳しい現実を突き付けます。涙と感動のロードムービーではありません。けれども、それでも二人は、美しい雪の中を、冷たい雨の中を、ただひたすら前へ向かって歩いて行きます。「父がいない」と聞かされても、厳しい目の前の現実を乗り越えながら、前へ進みます。つまりゴールへの執着から、プロセス(経験)に生きるのです。それ故に、二人は<本当の>ゴールに到着したのでしょう。とても美しい(最後の)霧の中の風景が忘れられません。