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ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

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今年の1月に公開されたアン・リー監督の映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」をDVDで鑑賞しました。本当は映画館で観たかったのですが、つい見逃してしまい、やっとです。この映画はアカデミー監督賞や撮影賞等を受賞した、映像の美しい冒険映画として話題に成りました。でもそれは違いました。この作品は決して単なる「冒険映画」などでは無く、「人間の持つ根源的な本能」と「宗教を超えた真の神、大自然」を描いた、人類の深層部分に迫る一大叙事詩だったのです。
物語は、動物園の動物たちを連れてインドからカナダへ(貨物船に乗って)移住しようとする家族が、大嵐で船が難破し、家族の中で唯一生き残った少年が救命ボートで(227日間)漂流するというものです。そのボートには、獰猛な虎も乗っていました。よって少年と虎のサバイバル(冒険)が本映画の主題と成りました。映画の内容や結末については、詳しくは書けませんが、ただ、懸命に生きようとする人間のことを、神(あるいは太陽)は間違いなく見守っている。善悪を超えた「視点」で、その人の「全て」を包み込んでいる。厳しさも優しさも、同時に与えている。人間はそのような「航海」の中で、激しく葛藤しながらも、「生きようとする」ことで、生かされ、救われる。
この映画に登場する虎はほぼ全てCGで作られています。あまりにも現実離れした美しいシーンも連続します。それは、ただ単に映像的な技術を駆使したいが為ではなく、人間にとっての現実とは(事実を超えた)脳内に宿る「思考の世界」だからかもしれません。そして最後は、全てを受け入れ、「事実」に回帰し、人間は遂に葛藤から脱出します。映画の中で、「人生とは手放すこと」と語られますが、一体何を手放すのでしょうか。それは、自己の善悪を認め、正当化する自分自身(自我)を捨てることでしょうか。そこから湧き上がる涙こそが、人生の真の成果物なのでしょうか。
神から見たら人間なんて(当然)未熟者でしょう。善も悪も持っています。そして「生きる」とはまさに熾烈な葛藤の連続です。でもこの「葛藤」の中にこそ、生きる意味があり、目的があるのではないか。この映画の主人公の少年の名前はパイ(π)と言います。円周率(3.14・・・)ですね。ですので、割り切れません。でもその永遠に「割り切れない(=葛藤)」中で、「葛藤を乗り越えよう」「懸命に生きよう」とする行為こそが最も美しく、最も尊いのかもしれません。この映画の美しさは、人工的です。それは思考の世界の映像化だからです。懸命に生きようとする人間の「心」を映像に転写したものです。だから、これは冒険映画ではありません。誰の心の中にも宿る、美しい良心の映像化だと思います。
以上、「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」の印象を書きました。結局全ての人間の人生も、自分自身の(たった一人の)航海なのだと思います。その航海の最中で、様々な困難や葛藤が起きます。その経験=人生ならば、その困難や葛藤を(自ら)抱きしめてあげれば良い。どんなに酷い嵐も時間が経てば(必ず)終わります。そして穏やかな海が現れ、優しい太陽が顔を出します。その繰り返しです。大嵐(極限状態)の中で、「私は懸命に生き切る」と心に決めること。そうそれば、「恐怖」は(振り返らずに)去って行き、「勇気」と化して(自身の中で)生き続けるのでしょう。
さて、映画には(どうも)2種類あるようです。1つは、(その物語世界の中で)現実に起こる事(目に見える事実)だけを追う手法。これはリアリズムやリアリティを大事にするものです。もう1つは、登場人物の夢や思考の世界までを「現実」として捉える手法。あるいは「作り物」である事を隠さない手法。つまり「嘘か真か」の境界線が曖昧なものです。一般的な映画やドラマのほとんどは、前者です。それが一番分かりやすいからです。でも時々、後者の作品も生まれます。
例えば英国の映画監督、デビット・リンチの作品の多くは後者に属します。それは主人公の脳内にある思考(幻想、理想)までを当然の事実として描きますので、現実との乖離が起こります。よって非常に難解な映画に成ります。でもそこが面白いところでもあります。私の好きな「マルホランド・ドライブ」などは、何回見ても様々な解釈が生まれます。映画全編で映しだされていた物語とは全く違う本当の物語(事実)が(後に)分かるからです。その事実の物語を全く「描いていない」にも関わらずです。そして「ライフ・オブ・パイ」も、こちら側の映画に属します。これも「精神」と「思考」の物語だったからです。
翻って私たちの人生はどうでしょうか。多分きっと、起きた事実に対する「感情(思考)」までを現実のものとして含めていないでしょうか。起きたことは単なる事実であって、本当は「中立」のはずなのに、その事実に対する様々な「観念」を加えて、自分だけの(偏った)現実社会を造りあげています。要は起きたことにレッテルを貼っているのです。起きたことはただの「事」に過ぎないのに。起きたことを素直に(無色透明に)受け止め、感謝し、その対応(=方法論)を淡々と進めて行く。それこそが「懸命に生きる」ための究極の武器かも知れません。パイ(π)は「生命の危機」あるいは「虎」との葛藤に、素直に、正直に、真剣に向き合い、極限状態を乗り越えました。目の前で起きている事実の「本質」だけと向き合い、受け入れたからでしょう。
私たちは、何かが起こると、その事実に対していろいろなレッテルを貼ります。それは良いことだ。それは悪いことだと。そのような評論家的発想から抜け出したところに本当の答えはあるのかもしれません。大切な事は、「良い」「悪い」の自己評価(色付け)では無く、どこにいようが、何が起ころうが、常に「最善を生きる」「懸命に生きる」「良き人生を歩む」「課題を解決する」という「力の方向性」を持つことでは無いでしょうか。今は大量の情報を手に入れることが出来る時代です。でも、それらに振り回されるのではなく、「今」「目の前で」自分自身に起きている現実にこそ意識を集中する。多分きっと、本当の答えはそこにしかないのかもしれません。パイ(π)のような極限状態に陥ると、人間は不思議(不可能)な力を発揮します。それは、目の前の巨大な現実だけと対峙せざるを得ないからでしょう。本当に必要な情報は、実はすでに自分自身の中に膨大にあるのではないでしょうか。
仕事は人生の一部です。仕事は、自分自身の中に在る本当の力(情報)を呼び起こすのに最適です。何もパイ(π)のような極限状態を味わう必要はありません(味わいたく無いですよね)。日々の仕事や生活の中に在る困難と向き合い、乗り越えて行く経験の蓄積こそが、自らの人生を形成して行きます。だから、仕事とは「自分自身を成長させる為のもの」であり、会社とは「社員の人格形成の場」であると思うのです。「π」は決して割り切れませんが、(割り切れるまで)永遠に続きます。私たちの人生も同じです。