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風立ちぬ

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長岡花火を見に行った前の週、宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を観ましたが、この映画も戦争を描いていました。ゼロ戦の開発者である堀越二郎の人生と、堀辰雄の小説「風立ちぬ」を融合させた物語であり、(同時に)主人公の夢と現実を融合させた物語でもありました。主人公は飛行機に憧れ、飛行機の設計技術者に成りました。けれども自身の開発した素晴らしい飛行機は、「ゼロ戦」と呼ばれるように成り、戦争のために使われました。それでも主人公は、飛行機の開発に全てを懸けました。敵に勝つために。味方を守るために。愛する妻との生活のために。夢の実現のために。
ここに在る苦悩と葛藤は、爆弾と花火の物語と同様の構造です。創造する側と利用する側との間にある、どうしても埋まらない溝がそこには存在します。けれども創造する側は、そのような矛盾を遥かに超えた次元で、創造をし続けるのです。いつかきっと本当の使い方が分かる人間が出て来ると信じて・・・。
この映画の中の堀越二郎に悲壮感が無いのは、そのようなマクロな世界観を持っていたからでは無いでしょうか。二郎の見る夢の中で、尊敬するイタリア人飛行機製作者のカプローニと対話をし、普通の人々が様々な美しい飛行機に乗って楽しんでいる情景が出て来ますが、これは決して現実逃避では無く、いつか必ずやって来るであろう飛行機の未来図でした。だからこそ、普通の人々が飛行機に乗って楽しめる「今」という未来が実現したのです。
不治の病(結核)に冒されていた妻・菜穂子は、先に亡くなってしまいます。そして、残された二郎に向けて「生きて」と伝えます。二人の出会いを結びつけたのは「風」でした。風は空気の抵抗です。飛行機も空気という抵抗があって飛ぶことが出来ます。全ての愛も創造も、矛盾(抵抗、葛藤)の世界から飛び立つのです。その矛盾を受け入れる器の大きさが、次の時代を築く。困難と葛藤の中だからこそ、生きる意味と価値がある。それらを追求する行為の中にこそ「美」が宿る。
宮崎駿監督が、本作品の製作に入り、冒頭の「関東大震災」のシーンに取り掛かった直後、あの東日本大震災が発生したそうです。その前の作品である「崖の上のポニョ」では、すでに巨大津波と水没する街を描いていました。未来を予知する力が数々の作品を造らせているのではないか。このような厳しい現実世界に身を置きながら、今の自分自身に出来ることを懸命にやり続ける。仮にそこに大いなる矛盾や葛藤が含まれていても、その先にある未来図を信じて前へ進む。多くの人間が立ち止まっても、自分だけは前へ進む。そういう「矛盾の海」を泳ぎ切った先にしか、葛藤を超えられる場所は無いのだから。本映画は、そのような作者の心象風景を強く感じます。そして私も、その考えに大いに賛同したいと思います。
ちなみに「ゼロ戦」という名前の由来は、「ゼロ戦」が採用された昭和15年(1940年)が<皇紀2600年>に当たったからだそうです。下二桁が「00」ですので「零式」という名称になりました。「皇紀」とは、神武天皇の生まれた時を元年とする日本皇室の年数です。西暦に相当する日本の歴でした。そのような国家100年の節目の年に、世界最強と言われた「ゼロ戦」が生まれたのです。その後戦争には負けましたが、技術大国日本が誕生しました。
人生も仕事も国家も、常に矛盾と葛藤の連続です。多くの人間は、「それはおかしい」として、傍観者(批判者)の側に立とうとします。けれども本物の人間は、その矛盾や葛藤の中にあえて身を置いて、その先にある理想を信じながら、懸命に追求し続けます。風と共に消えて行った妻の最後の言葉「生きて」は、風の先の世界が「見えた」妻からの報告だったのではないでしょうか。「大丈夫。安心して、生きて。」と。矛盾と向き合い、矛盾を乗り越えながら、懸命に今を生き切る人間の未来は100%明るい。