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雪、自然、佐村河内守さん

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予報通り、東京は雪に成りました。仕事柄、現場の事を考えると、冬の降雪は少ない方がありがたいのですが、子どもの頃を思い出すと、雪が降った時のワクワクした気持ちが蘇ります。そう言えば、夏の夕立や雷が鳴った時も、怖さと同時に、何かドキドキ感、ウキウキ感がありました。きっといつもの日常とは違う未知の体験に胸が躍ったのでしょう。昔は自然の変化にもっと敏感で、もっと素直に受け入れていたように思います。けれども今は、人間側の都合の方が優先と成ってしまい、自然をコントロールしようとさえしています。本当は人間の方が自然界に含まれている側なのに・・・。
そしてソチオリンピックが開会しました。冬のオリンピックとしては、長野オリンピック以来、日本人の活躍が大いに期待できそうです。ただいつも思うのは、相手を負かして喜びを得るというスポーツの持つ根源的な疑念を、私たちは一体どのように認識して行けばよいのかと言う点です。そもそもそのような疑念を持つ人自体、あまりいないと思いますが、世界の平和を願うオリンピックの祭典を目にするたびに、いつもそのように感じるのです。日本を代表して出場する選手の方々が、世界の選手たちと仲良く成って欲しい。オリンピックが開催される度に、世界中のアスリート達の輪が広がって、国境を越えた和になって欲しい。それが本当に期待するところです。
自然界はそれぞれの存在が、勝ち負けで争っている訳では無く、お互いが固有の価値を有し合いながら、全体が調和しています。小さな虫も、大きな山も、美しい花も、枯れた草も、それぞれが素晴らしい価値と役割を持っているのでしょう。この見事なまでに完成された雛形を、もし人間社会に転化できたならば、本当に素晴らしい世界が生まれるのではないかと想像します。けれども、そうは成らないのも世の中の現実。このような矛盾やジレンマの葛藤の中で、(それでも)少しでもより良く成って行こうとするプロセス(体験・経験)が人生の本質なのでしょう。
今、佐村河内守さんのゴーストライター問題が、世間で大きな話題に成っています。私もNHKの特集を見て、深く感動し、CDを一枚買いました。しかしながら、そのあまりにも重く、暗い音楽の様相を感じて、未だCDの封を切らないままでいました。そして今回の報道があり、驚きと共に、一人の人間の持つ絶望的な苦悩を感じました。もちろん、自身が作曲していないにも関わらず、そのように装ったことは大いなる罪でしょう。しかしながら、佐村河内さんの脳内に在る曲想イメージを指示されない限り、真の作者である方が、そのような巨大な音楽を創造することは(きっと)出来なかったに違いありません。佐村河内さんは立派なプロデューサーとして、真の作曲者と共に、良き音楽を発表して行けば良かった。譜面が書けなくても、ベートーヴェンのような悲劇性を身に纏わなくても、プロデューサーとして価値は微動だにしなかったはずなのに・・・。
この問題が発覚後、佐村河内さんは全てを真実として認めています。普通であれば、お互いによる訴訟合戦に成るところです。真の作曲者の方も、佐村河内さんの罪がこれ以上、塗り重ねられないようにと、真の愛情と勇気ある行動をされたと思います。ここで終って、本当に良かった。ここにまだ、何か一縷の救いが残っています。佐村河内さんのCDは発売中止と成りましたが、逆に注文が殺到しているそうです。確かに、社会性という意味においては間違いなく「偽物」ですが、偽物を身に纏った一人の人間の絶望が音化された芸術としては「本物」なのかもしれません。幸い、私の手元には(もう二度と手に入らない)一枚のCDが在りますので、いずれ封を切って、偽者が想起した本物、真の作者が創造した本物を聴いてみたいと思います。お互いに極度の罪の意識を抱えながら、それでも尚、良き音楽を創造しようと命を削った二人の合作音楽を・・・。
「自然に生きる」ことが大切なのでしょう。毎日、呼吸できる幸せに感謝して生きること。そのこと自体が素晴らしい奇跡的なことなのに、私たちはそれを当たり前の事と思い、常に間違った選択をしてしまいます。佐村河内さんの件は、決して他人事ではありません。みんな(大なり小なり)偽りを身に纏って生きていると思います。そのような覆いをいち早く撤去できたならば、自然に生きる道が見えてくるのでしょう。大自然から学ぶこと、まだまだたくさんあります。