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光り輝く姿

日本人人質事件が最悪の結果と成り、とても大きなショックを感じています。キリスト教側とイスラム教側との戦いと言われていますが、日本もその枠組みの中に(遂に)巻き込まれてしまったのでしょうか。本来、日本はそのどちらでも無い訳で、出来る限り静観の立場で行きたかったと思うのですが、国際社会を取り巻く情勢が許さなかったのでしょうか。20年前(1995年)の地下鉄サリン事件の際に感じた戦慄的な恐怖が再び蘇りますが、今回の場合はそれ以上の世界的規模です。中東における(事実上の)戦争状態は止まらないのでしょう。最近の原油安についても、輸入国である日本の経済面にとってはプラス要素ですが、中東の産油国や石油メジャーにとっては大きな打撃と成り、いよいよ地球を掘削するエネルギー時代の終焉を迎えるのかも知れません。そうなると今後の中東情勢は更なる混乱と成り、けれども同時に、世界的に新たな水素エネルギー等の普及が始まることで、地球にとっては大変な朗報と成り、資源の無い日本にとっても未来へのプラス材料に成ると思います。
日々現実に起きている出来事には、厳しい側面の方が多いのですが、その中にも未来へのプラス因子が宿っていると思います。もちろん変化する過程においての混乱や混沌を避けることは出来ませんが、その中に「光り輝く姿」を観る目を持つことが出来れば、個人の未来も、国の未来も、地球の未来も、きっと「光り輝く姿」へと(一歩一歩)向かうに違いない。だからこそ、懸命に、日々の生活の中に自らの「光る輝く姿」を見つけて行く。世界で起きている事件を冷静に注視し、正しく認識しながらも、心(感情)まで奪われずに、日々の自分自身の生活と意識こそを見つめ直して行く。その個人の意識の集合体が結局、世界全体(意識)を形成して行くのであれば、一人ひとりの(心の中に)「光」を内在させることで、世界も変わって行くのかも知れない。全ては己の内面(心)の映し鏡なのだから。
さて、先日のブログでバッハのことを少し書きましたが、やはりクラシックの王道はモーツァルトとベートーヴェンです。モーツァルトの音楽は、まるで天から降って来た神の声の様であり、ベートーヴェンの音楽は、人間の生きる(苦悩から歓喜へと至る)道、まさに魂の叫びそのものです。音楽的にはモーツァルトの方が遥かに崇高であり、人間的にはベートーヴェンの方に共感を覚えます。モーツァルトは、いろいろな書物(記録)を見る限り、人間性にはかなりの問題があった様です。それにも関わらず、彼が五線譜に記した音楽の調べは、この世のものとは思えない程、美しく、清らかで、完璧でした。専門家の意見としては、その作曲の速さと量は尋常ではなく、人間が「考えて」書ける次元を遥かに超えていたとのことです。おそらくモーツァルトは(本当に)何も「考えずに」五線譜に音符を書いていたのではないか。ただ(勝手に)頭の中で鳴っている音を、音符として記録しただけではないか。もし、本当にそうだとすると、彼の音楽は(正しい意味で)彼が創作した音楽と言えるのかどうか。もしそうではないとしたら、一体「誰の」音楽なのか。
ベートーヴェンの音楽は、彼が実際に生きた人生の中の苦悩から発生した(まさしく)人間ベートーヴェンの魂の音響と言えます。人間誰しもが味わう艱難辛苦より引火した「爆発的感情」の渦は、多くの人々の魂と共鳴し、さらには(第九のように)人類全体の共有財産にまで拡大し続けました。この音響の震源地は、まさにある一人の男の魂にあったと実感できます。ところがモーツァルトの音楽の場合は、そうではなく、元々(ごく当たり前に)空気中にあった粒のような感覚がするのです。そこには特別の苦労の影も無く、物語性も無く、いつも同じ姿のままで在り、常に誰に対しても(同じ様に)微笑み、ふわふわと浮かび続けている。あまり頑張ってない様に見えるし、あまり努力もしていない。ただ、そこに「在る」のみ。例えば、モーツァルトの音楽を耳にした時、「よくあるメロディーだな」と思うのですが、よく考えて見ると「まるでモーツァルトみたいだ」と感じているのです。結局、あらゆる音楽の起源として「モーツァルトが在る」ことを認めてしまっている。宇宙創成から存在していた音楽(音の粒子)を、その後に生まれた一人の人間が作ったはずはありません。モーツァルトの音楽は、モーツァルトが生まれる以前から在ったのではないか。それでは、一体「誰の」音楽なのか。
私たちは建設会社ですので、日々、建物を造り続けています。建物を造る為には(宇宙創成から)地球上に存在している様々な素材を使わせていただき、それらを(人間が勝手に)加工して、建材として活用しています。ですので、私たち人間が建物を造っている様に見えますが、実際には、建物の原始的状態は、宇宙創成から「在った」のではないか。私たちは決して「ゼロ」から建物を生み出しているのではなく、与えられた自然界の資源を組み立てる過程の中でのみ働かせていただいている。そう思うと、音楽にしても、建物にしても、全ては既にこの世界に存在していて、(そもそも)新しいものは無いと言えるのではないか。問題は(それを)いつ誰が気づき、いつそれを取り出す(ダウンロード)のか。モーツァルトの場合は、彼が生きた時代に、彼がそれを取り出した(ダウンロードした)。そのような役割(通信回線)を担ったのでしょうか。エジソンもきっとそう。ノーベル賞を受賞した方々も、きっとそうなのでしょう。人類が幸福に生きて行く為に必要な智慧や資源は、すでにこの宇宙全体に浮遊して(用意されて)いる。人間には、その智慧(電波)を受信して、ダウンロードする力が在る。だから、現在の世界を取り巻く様々な問題や紛争や貧困の解決策も本当は(既に)「在る」のではないか。ただ、それを取り出せる人が(まだ)いない。あるいは、取り出せたとしても、今すぐ活用(導入)できない。もっともっと多くの人々が気づくことで、そのダウンロードされた新ソフト(新たな智慧)は普及拡大するのではないか。
そして私たちが「気づく」ために必要なものこそが、「信じる力」だと思います。100%信じた上で、考えて、考えて、考え抜くこと。信じる力の原点は、先ずは自分自身を信じること(=自信)。モーツァルトもベートーヴェンもエジソンも、人並み外れた自信を持っていたと思います。自分自身の中に在る「何か」を信じ切っていたと思います。それは(時に)周囲からは変人と映ったと思います。それでも構わず己を信じ続け、その強き意識が、空気中に浮遊する智慧の粒と化学反応をし、素晴らしき音楽や、素晴らしき発明に至ったのではないか。その智慧の源泉は、そもそも自分の中に在ったのではなく、実は空気中に在った。そのことを肌身で感じられた人物こそが、偉大なる謙虚さを身に付けるのではないか。これは「私の作品ではなく、頂いた作品なのだ」「頂いたアイデアなのだ」と。
この世界をより良くする為に必要なのは、一人ひとりが自分自身を信じて、自分自身の内面を成長させて行くことではないかと思います。その結果、宇宙創成から空気中に在る「何か」と結びつき、世の為、人の為に成る「何か」をダウンロードできる。自分自身の外側で起きている事象の中に「光り輝く姿」を観るとは、実は、己の中に在る「光り輝く姿」を観ていることと同意ではないか。その意識的行為の先に、空気中との通信回線へと通じる雲の合間が見えて来る。やはり、とどのつまりは、「己の内面を磨け」と言うことなのでしょう。世の中の事象の中を懸命に生きながら、(同時並行で)己の内面を磨くことで、己の中に「光輝く(何かの)姿」を観て行く。それが自分自身の人生と自分自身を取り巻く全世界をより良くする為の素晴らしき智慧のダウンロードと結びつく。だから、やはり、どのような時代でも、自分自身を信じて、心の中に「光り輝く(己の)姿」を観て行くことなのでしょう。まるで、モーツァルトの音楽の様な光を・・・。そんなことを思う日々です。
※私が好きなモーツァルト
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私が特に気に入っているモーツァルトの音楽は、交響曲第36番「リンツ」と第39番です。もちろん有名な40番や41番「ジュピター」も大好きですし、傑作の多いピアノ協奏曲もよく聞きます。それでも、今でも一番思い入れがあるのが、私がまだ(確か)高校生の頃に買ったブルーノ・ワルター指揮/コロンビア交響楽団のレコード(1960年:ステレオ録音)です。これが私にとっての初めてのモーツァルトでした。ワルターは古い指揮者で、一般の方にはあまり有名では無いと思いますが、フルトヴェングラーやトスカニーニと同様に、戦時中を生きた大指揮者です。幸いワルターの場合は、その最晩年にステレオ録音が残され、特にモーツァルトの交響曲の素晴らしいステレオ録音はまさに人類の至宝と言えます。その中でも、第36番「リンツ」と第39番はとても美しく、清らかで、今でも自分自身の心を温かく浄化してくれるのです。また最近では、クラリネット協奏曲もよく聴きます。レオポルト・ウラッハ(クラリネット)/アルトゥール・ロジンスキー指揮/ウィーン国立歌劇場管弦楽団の1954年のモノラル録音は名盤です。毎朝の目覚ましに、このクラリネット協奏曲の第1楽章が流れるようにしていて、とても爽快な朝を迎えています。やはり朝はモーツァルトですね。