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「がんばる」と「あるがまま」について

先日(5月25日)、埼玉の北部~茨城にて震度5弱の地震があり、東京もかなり揺れました。一瞬「またか」という意識が頭を過りましたが、幸い全く大きな被害はなく、安心しました。このように、震度5前後の地震が起きても、ほぼ問題の無い(小難で済む)国というのは、実際世界でどのくらいあるのでしょうか。あらためて、地震国であり、火山国であるが故に強靭な国造りが行われて来た我が国土に、ある種の畏怖の念すら覚えます。今回の箱根や桜島、あるいは鹿児島の口永良部島の火山活動等も、未来の大きな地震や噴火を小難にする(回避する)為の大自然の計らいのような気がします。
あの3.11以降、私たち日本人の防災意識は確実に上がって来ており、これから始まる(かもしれない)地球規模の地殻変動に向けての準備が(精神的にも)整いつつあると感じています。けれども、その根底においては、今のこの日本に生きている(生かされている)ことへの感謝、大自然の恵みへの感謝、地球(大地)への感謝が大切ではないかと思います。それは、資本主義的な経済活動を第一とする日々の生活においては(むしろ)不要な要素なのかも知れません。もっと言うと、そのような意識を捨てて行かなければ、現実的な成功が難しいという面もあるでしょう。けれども、今こうして、遂に大地自らが(何かしらの)意思表示を開始した21世紀の初頭において、私たちの価値観が(少しずつ)逆転し始めていることも事実だと思います。
さて最近、「がんばる」という言葉を使わない方が良いのでは・・・という考えが徐々に浸透して来ているように感じます。現在放映中の堺雅人さんが精神科医を演じているドラマでも、それが1つのテーマの様です。私も今まで「がんばる」という言葉への多少の違和感を持っていました。「我を張る」なんて、何かエゴ的な匂いを感じていたからです。けれどもよく調べてみると、「がんばる」の語源は「我(われ)を張る」であり、この意味は「信念を貫いて仏道修行に励む」と言う仏教用語だった様です。「我=私」を正しい道(真理)に置く(張る)こと。要は、「間違った道に張るのではなく、正しい道に張りなさい」という感じなのでしょうか。現在使われている「がんばる」には「努力する」という意味があり、その点は間違ってはいないと思いますが、問題なのは、その「努力」という言葉の裏腹に、自分自身の希望や他者からの期待に応え「ねばならない」という強迫観念が付いていることです。そして実際に、その強迫観念に負けてしまう人が増えているということです。だから「がんばって」と言う言葉の中には、ある種の危険性が孕んでいるのです。
けれども本来の「がんばる」とは、正しい道を堂々と行くことであり、そこには(自分を含めた)誰かからの強迫観念など存在せず、むしろ「無為自然」なる清々しい心境が付随しているはずです。つまり、今の私たちの「がんばる」とは、人間(自分自身や他人の誰か)に向けて「がんばる」ことであり、本当の「がんばる」とは、(人間の人智を超えた)道(=天)に向けて「がんばる」という意味ではないかと気づいたのです。もしそうであるならば、自分自身や他人からの圧力(強迫観念)に向けて「がんばる」のは確かに間違いでしょう。胸を張って(堂々と)、我を(正しき)道に置き(張り)、その道を歩むことに日々努力を重ねて行く。そのような意味の本来の「がんばる」を胸に置いて行きたいと思います。あの有名な老子も、きっと、「(一般的な意味での)がんばる」を無視し、「無為自然」の道を行くことに「(本来の意味で)がんばった」のでしょう。
今の日本の姿も、過去の様々な艱難辛苦を超えながらも、常に、道(=天)に向けてがんばって来た結果ではないでしょうか。決して、地震や火山と戦って来たのではなく、それを「あるがままに」受け入れながら、努力を重ねて来た結果、震度5の地震があっても、大きなニュースに成らない程の強靭さを身に付けたのだと思います。「正しい道」とは、人間によって造られるものではなく、人間によって変えられるものではなく、ただ「あるがままに」受け入れ、努力を重ねて行くしかないもの。それが、「正しい道」を行くという意味であり、「その道を行く(張る)」という決心覚悟こそが、本当の「がんばる(そこに私を張る)」の真意である。日本は「あるがまま」を受け入れることで、強い国に成って来たと思います。そして、これからも更に強い国に成って行くと思います。その基礎には、「あるがまま」を受け入れながら、努力を重ねて来た素晴らしい国民性が在ると思います。この国民性こそを国の宝(最高の資源)として捉え、継承し、育てて行きたいと感じる今日この頃です。
※クーベリック指揮の「英雄」
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私がクラシック音楽に興味を持ったきっかけは、2つあります。1つは映画のサントラ盤からで、キューブリック監督の作品に使われていたクラシック音楽の全曲が聴きたくなり、初めてレコード屋さんのクラシック売り場へ行って、先ずはベートーヴェンの第9を買いました(確かショルティ指揮のものでした)。そしてもう1つは、シンセサイザー音楽のパイオニアである冨田勲氏のレコード「惑星」を聴き、その原曲を聴いてみたいと思って、ホルストのレコードを買ったのです(確かオーマンディ指揮だったと思います)。そのようなところからクラシック音楽に入って行き、今に至るのですが、その初期の頃はやはりベートーヴェンの交響曲が大のお気に入りでした。第9はもちろん、有名な5番の「運命」にも感動し、6番「田園」や7番にも夢中に成りました。しかしながら、もっと有名な3番「英雄」だけは、なかなか分からなかったのです。多くの評論家たちが、極めて革新的な音楽であり、ベートーヴェンの最高傑作としていたにも関わらず、私は何回聴いても退屈で、ダメでした。
ところがある時、クーベリックという指揮者の「英雄」のレコードを聴いた瞬間、「この曲すごい」と感じられたのです。その時の感触は(うまく言えませんが)この大河の様な音楽が、自分自身の体の中で、心地良く(ゆったりと)流れ始めたという感覚です。そしてその瞬間から「英雄」が大好きに成ったのです。クーベリックのレコードの演奏が良かったのか、あるいは、クラシック音楽を聴き続けて来た過程の中で、たまたまそのレコードを聴いている最中に、(理解可能となる)ある段階が訪れたのか・・・それは分かりません。でも、その後も、別の指揮者による演奏を聴いて、突然好きに成ることが多々あり、やはりそれぞれの演奏の中には、何か目には見えない波動というか、力があるのだなと理解することができたのです。
そして今、あらためてクーベリックの「英雄」をCDで聴いてみると、本当に素晴らしい演奏で、再び感動しました。当時感じた感覚も(確かに)蘇って来たのですが、同時に、この演奏が極めてオーソドックスなもので、全く奇を衒ったものでもなく、まるで指揮者の存在を感じさせない程、「英雄交響曲」の「あるがままの姿」を写し出していることにも気づきました。自分自身の個性に執着せず、聴き手の反応への強迫観念も無く、只々純粋に、ベートーヴェンの「英雄」に向き合うのみ。音楽そのもの(=道)だけに自身を置くのみ。そこには、只「無為自然」の清々しい心境だけが在り、その波動が聴き手の心の中で共振します。クーベリックは決してがんばること無く、純粋に、正しい道を「張っていた」のではないか。そんな風に感じ入りながら、ベートーヴェンの最高傑作「英雄」に浸ることが出来ました。