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長い道(B・ウィルソン/No Pier Pressure)

日々の経営活動に関わる様々な種類の数字の統計を集めて、時に俯瞰して見てみると、自社の大局(体質)と方向性を正しく掴むことが出来ます。それには、1カ月や2か月、あるいは1年や2年と言った程度の長さでは無く、最低でも5年以上の時間軸の中で積み重ねられた統計数字が必要に成ります。丸二でも、長い間の統計的な数字の蓄積活動によって、今では自社の正しい現状把握による方針決定を行えるように成りました。その方針とは、今日明日のためではなく、極めてロングスパンの性質を帯びるもので、実際に結果が見えて来るのには相当な時間が掛ります。けれども、長時間を掛けた地道な(小さな)行為の継続(積み重ね)が、ある時点を超えた時、目に見える巨大な変化と成って現れることを経験的に理解できたのです。不思議とそれまでの努力の時間(蓄積)が長ければ長い程、その効用は力強い安定感と持続性を保有しているものです。「継続は力なり(忍耐と努力)」は、本当だと知りました。人間の体の場合も、日々の小さな運動や食事に対する配慮等の積み重ねによって、安定した健康体が持続して行きます。経営も人生も、長い、長い時間を掛けて、日々の懸命な(小さな)努力を継続して行くことが、本当の道なのでしょう。これが自然の摂理なのですね。数字も人間も、この大自然の中で生かされている存在であると知れば、なるほど納得です。
さて先日は、大阪市にて「大阪都構想」の是非を問う住民投票が行われましたが、反対多数という結果で終りました。大変な僅差だった為、存続が決まった大阪市としては、賛成した方々の思いも含めて、山積している様々な問題の解決に向かって行くのではないかと思います。東京で生活している者としては、今回の「大阪都構想」の真意について、深い認識が出来ていなかったと反省するのですが、大阪市民としても、そのような面があったのでしょうか。大阪市の廃止によって、二重行政(コスト)を解消するという方策は、そもそも戦略(目的)だったのでしょうか。あるいは戦術(手段)だったのでしょうか。もし戦略(目的)であったのならば、「二重行政の廃止という目的だけで、大阪市を捨て去ってしまうのは惜しい(困る)」という答えだったのでしょう。否そうでは無く、大阪都構想(二重行政の解消)はあくまで戦術(手段)で、その真の目的が存在し、その実現のために「大阪は都に成らねばならぬ」という(大きくて抽象的な)「筋道(大義)」が在ったのであれば、その戦略(目的)が広く伝わらなかったのかも知れません。けれども7年以上という月日を掛けても「伝わらなかった」という可能性は極めて低く、そこに「筋道(大義)」は(もしかしたら)無かったのかも知れません。
大義(大欲)を抱き、その実現のために、日々の具体的な(小さな)改善(実感)を積み重ねて行くこと。そのエネルギーの蓄積が(いよいよ)大きな「山」を形成した時、構想の実現に向けての爆発が起きるのでしょう。やはり、何かを成し遂げるには、時間を掛けてでも(小さな)努力を積み重ねて行くことしかありません。遠回りの様ですが、それが一番の早道。あとは忍耐と努力のみ・・・。ただ、この場合の「忍耐と努力」とは、決して「苦」ではなく、むしろワクワク、ドキドキの入り混じった「楽」としての性質を帯びているような気がします。「諦めないで、続けて行くこと」と「それが出来る自分自身」に、ある種の心地良さを感じるからです。もしその「大義」が、自然の摂理(道理)に叶っているのならば、物事は(時間差をもって)必ず成就すると思います。この「時間差」への認識を忘れないで、この日々を懸命に生きて行くことの大切さを(数字という結果が出る)経営活動から学ぶことが出来ました。もちろん問題は、常にこの「時間差」ですね。良い薬は長く続けることで根本的な治癒を促しますが、そこまで待てないのも人情です。それがある種の「篩(ふる)い」に成っているのでしょう。健康も人生も経営も、基本は同じ。一過性の短期的成功ではなく、永続する長期的な成功を実現するには、大きくて抽象的な視点と共に、長い、長い「助走期間」が必要なのでしょう。これはとても面白い道理(ルール)だと思います。
さて話しは変わりますが、アメリカの60年代以降に活躍したバンド「ビーチ・ボーイズ」の元リーダーである(今年73歳の)ブライアン・ウィルソンが、ニュー・アルバムを発表しました。私は、高校生の頃からクラシック音楽が好きだったのですが、姉等の影響で、いくつかのブリティッシュ(英国)ロックにも興味を持ち、特に当時人気のポリス(スティング)のレコードは随分聞いたものです。けれどもその後、なぜだか米国の昔のおじさんバンドである「ビーチ・ボーイズ」に行き着いたのです。所謂オールディーズ系に嵌った訳でもなく、ビートルズが好きに成った訳でもなく、ダイレクトに「ビーチ・ボーイズ」に心を奪われました。以前にも本ブログに書いたと思いますが、「ビーチ・ボーイズ」は兄弟と従弟と友人の家族バンドで、その長男であるブライアン・ウィルソンがリーダーで、全ての楽曲の作曲者でした。もし彼が、このような気楽で大衆的なサーフィン・ミュージックで満足さえしていれば、その後の悲劇は起こらなかったのでしょう。けれども彼の人間としての本質は、極めてピュアなる「芸術家(アーティスト)」だったのです。
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今年の夏に、ブライアン・ウィルソンの伝記映画が公開されるそうです。世界中にはとても多くの有名なミュージシャンがいると思いますが、彼の様に、多くのドキュメンタリー作品や伝記、あるいは書籍が出されている人は、それほど多くないと思います。そこに流るる彼の物語とは、才能があるのに(あるが故に)、家族や世間との狭間で悩み苦しむ孤独な男の姿であり、(同時に)廃人に成ってでも、自らの理想(音楽的探究)を追い求め、いよいよ人生の集大成に向けて、それを加速させている現在の姿だと言えます。言葉は悪いのですが、まるで子どものような純真性のまま生き続けてしまい、その分、きっと多くの損や裏切りに遭って来たのではないかと想像します。私自身は、彼のコンサートを2度観ることが出来ました。2回とも、ソロとして日本公演に来た時でしたが、もうけっこうな歳なのに、本当に元気な姿で、心から感動しました。
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そして、今回のニュー・アルバム「No Pier Pressure」ですが、本当に儚くも美しい、見事な音楽です。明るいのに悲しく、優しいのに深い。彼の最高傑作である「ペット・サウンズ」や「スマイル」とはまた違う、自らの(長い、長い)悲しみや絶望を超えた先に見えた、極めて平凡で、極めて自然なる「静観の世」に浮かぶ、まるで彼岸から聞こえて来るような和声の響きです。確かにとても地味な音楽ですし、ヒット曲も生まれないでしょう。それでもきっと彼にとっては、(この長い、長い道のりを懸けた)真の成功への到達点ではないのかと・・・。学生の頃、初めて彼らの音楽に接した時、(私はきっと)サーフィン・ミュージックの「ビーチ・ボーイズ」を聞いたのではなく、ブライアン・ウィルソンの魂(精神)の声を聴いたのだと思います。その明るくて呑気な音楽の陰に潜んでいる、どうしようもなく暗い慟哭の声を聴いたのだと思います。その慟哭の叫びが、今こうして、(長い、長い時間を経て)美しく清らかなる音響と化している。まるで「人生とは、こんなものだよ」と言われているかのように。そうか・・・人生とは結局のところ、自己との対峙であり、自己との和解へ至る道なのか。長い、長い時間を掛けての終わりなき旅なのか。そのための小さな一歩一歩の積み重ねこそが、最も美しい。そして我が長い、長い道のりは、まだまだ続く・・・。