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2つのデザイン

丸二の通信誌である「ニコニコ通信」第109号の社長コラムを書きました。「(要旨)戦後70年の8月が終わり、季節は秋へと移り変わりましたが、この夏は、これまでの日本とこれからの日本をよく考える機会と成りました。70年前の今頃、日本人は一体どのような日々を送っていたのでしょうか。敗戦への落胆と、終戦への安堵が入り混じっていたのでしょうか。敗戦国としての未来に対する不安と恐怖に苛まれていたのでしょうか。あるいは戦後の復興を信じ、既に前向きな一歩を踏み出していたのでしょうか。今の私たちにはとても考えられない程の毎日がそこに在ったのだと思います。そしてその困難の日々を乗り越えた先に、遂に素晴らしい経済発展と70年間の平和を実現することが出来ました。戦争と戦後の苦労を経験した先人達に対して、あらためて深い感謝の念を表したいと思います・・・」。
戦後70年の夏は、とても暑い毎日でしたが、あらためて「あの戦争」を思い出す機会と成りました。国会では「安保法案」の審議が継続中であり、これからの日本の平和と安全について、国民一人ひとりがよく思考すべき環境が生まれていたのでしょう。公開中の映画「日本のいちばん長い日」を観ましたが、あらためて昭和天皇の強い意志によって、日本の戦争が終わったことを認識しました。もちろん「降伏」ですから「敗戦」です。けれども、広島と長崎に原子爆弾を落とされても尚、もし徹底抗戦を続けていたとしたら、日本の国土は全てが焦土と化し、米ソによって分断されていたのかも知れません。惜しむらくは、2つの原子爆弾が落とされる前だったら・・・と思うこともありますが、原爆が落とされた後でさえも、(終戦を告げる)玉音放送を阻止する勢力が在ったことを考えると、それは不可能な現実だったのでしょう。
広島、長崎、そして沖縄。この地の人々の尊い生命の上に、今の私たちの平和と安全が在るのだと思います。今上天皇が(自らの生命を賭して)日本各地への慰霊の旅を続けられているお姿を見るたび、この日本に生まれて来て本当に良かったと実感します。世界各国の中で、これほど国民の幸福を思い、そのことだけに「生き切る」存在が実在する国は、日本しか無いのかも知れません。最近の中国の景気悪化による世界同時株安の際、(実体経済が必ずしも良くない)日本の「円」が買われましたが、それは「経済面の信用」を超えた「精神面(国柄)の信用」にこそ起因するものと理解します。これからますます世が乱れ、不安と混沌の時代に成れば、日本(円)に対する信用がさらに高まって行くと思われます。遂に世界が窮した時、世界は(結果的に)日本に敬意を表することに成るのでしょう。
けれども、「円高」は現在の日本の経済構造上は決して望ましいものでは無く、そこにジレンマは在ると思います。自国の通貨(信用)の価値が高まることが自国の発展と逆行してしまうとは、何とも皮肉なことです。当面の円安政策は理解できますが、その時間的猶予の最中で、円高によって豊かに成れる国造りへと舵を切って行くべきと思います。日本は物質的な資源の無い国です。けれども精神的な資源、あるいは技術的な資源、加えて豊富な水と森林に恵まれています。そういう観点からもう一度、日本の内需に活力を生み出す道はいくらでもあるように思います。日本の歴史、文化、芸術、遺産、言語、自然、技術、そして人。画家のゴッホは、日本の浮世絵の大ファンだったそうですが、今を生きる私たち自身こそが、あらためて自国の価値を再認識すべきなのでしょう。それが円高で豊かに成れる国造りへの最初の一歩では無いかと思います。
ところで最近、東京オリンピック関連で2つの大きな問題(国立競技場とエンブレム)が発生していますが、その双方とも「デザイン」という要素が絡んでいます。建築の場合、デザインとコストの間には密接な関係があるので(特に公共工事の様に予算が決められている場合は)施工コストの裏付けのあるデザインを選択しなければ成りません。ザハ氏による当初のデザインは、まさに宇宙的な流線型アートであり、それ自体は大変素晴らしいものだったと思います。けれども、その後の修正、修正で当初の美観と機能は失われ、それでも尚予算が合わず、結局中途半端なシロモノに成ってしまいました。募集する側に確かな予算意識があったのなら、このような事態には成らなかったと思います。
デザインとコストの問題は、実は建築の世界ではよくあることです。やはりデザイン募集の段階から施工のプロフェッショナルが関わることが大事でしょう。あらためての再コンペに向けて、ザハ氏は日建設計とチームを組んで応募する様です。今度は予算の枠内で、どのような新しい提案が出て来るのか、それはそれで楽しみです。この一連の問題は、(残念ながら)日本の信用を大きく損なう結果に成ってしまいましたが、それでもまだ「(オリジナルの)良いものを造りたい」という思いが底流にあったことは1つの救いだったと感じています。けれどもエンブレムの方は(同じデザインの問題でありながら)その様相は真逆で、そこに「良いものを造りたい」という作者の強い思い(志)を(残念ながら)感じることが出来ませんでした。ザハ氏の(当初の)デザインと佐野氏のデザインを並べて見れば感じます。共に「問題のデザイン」ではありますが、「志」が違うのです。
日本人が「志」を失うことが、最も恐ろしいことです。戦争と戦後の復興を経験した先人達が、想像もつかない程の艱難辛苦を乗り超え、築き上げた現在の平和と繁栄の上に胡坐をかき、ただ「うまいことやる」だけの人間が増えて来てしまったのかも知れません。でもそのような日本の恥ずかしい部分を(オリンピックという世界的事業の手によって)白日の下に晒すことに成るのであれば、それはそれで良いことなのかも知れません。日本人が自国の「恥の文化」を思い出すことが、今、必要な時だからです。けれども今回の東京オリンピック開催を招致する際に使用していた(五色の桜の花が美しい環になった)招致用エンブレムには、強い「志」を感じました。当時、美大の学生の方がデザインしたとのことですが、ここにはまだ日本人のオリジナリティと美意識が生きていると感じました。全てが悪く成っている訳では無い。否むしろ(底流では)良い潮流が生まれて来ている・・・。だから恥を晒しながらでも、日本から人心改革を始めよう。志ある者たちが舞台へ上がれる時代を築いて行こう。今の私たちに出来る(先人達への)恩返しは、これしか無いと思います。
※メンデルスゾーン作曲:オラトリオ「エリヤ」
(サヴァリッシュ指揮:ゲヴァントハウス管弦楽団、ライプツィヒ放送合唱団)
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あまり有名な曲ではなく、今回初めて聞いたのですが、非常に素晴らしかった。「エリヤ」とは、旧約聖書の「列王記(上・下)」に登場する預言者のことで、古代イスラエルを舞台にした物語です。ユダヤ人であるメンデルスゾーンは、「エリヤ」以外にも「聖パウロ」「キリスト(未完)」というオラトリオを書きました。私が好きなメンデルスゾーンの曲は、交響曲第3番「スコットランド」、同第5番「宗教改革」、ヴァイオリン協奏曲、フィンガルの洞窟などの代表作ばかりですが、それぞれの中に流れている独特の哀愁と懐かしさは、日本人の感性とどこかで繋がっているように感じます。これから、「聖パウロ」と交響曲第2番「讃歌」も聞く予定です。