社長ブログ

地鎮祭と炭の力

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先日、地元の吉祥寺にて地鎮祭を行いました。お施主様は、私の中学時代の同級生で、そういう意味でも、さらに喜びの多い日となりました。天気も快晴で、地元の武蔵野八幡宮の宮司様による厳粛な土地のお清めも終わり、いよいよ着工の運びとなります。時間をかけて完成した設計図を、真心を込めて形にしていくのが私たちの仕事。胸が高まります!
今回の建築は、本格木造2階建住宅で、「ICAS」というシステムを組み込みます。「ICAS」のすごさは、①土地に「炭素を入れた特殊な金属製カプセル」を埋め、敷地内の地電流の流れを良くし、地磁気を安定させる②埋めたカプセルと「室内の壁面に塗装された特殊炭素塗料」とを銅線で結び、室内のプラスイオンを壁面に引き付け、室内をマイナスイオン優位の状態にする・・・という2点です。
土地の地磁気を整えることと、室内空気環境をマイナスイオン化することは、住む人の健康を守るために、真っ先に取り組むべき課題です。これからお住まいをお建てになる人は、まずここを押えるべきだと思います。また、「ICAS」のシステムを支えているのは、「炭」ですので、とても安心です。人が一番長い時間を過ごす寝室を、森の中で森林浴をしているようなエコ環境にしてみませんか。

誠実な現場

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先週、現場巡回に行った時の写真です。各現場とも、寒さの中でしたが、しっかりと施工管理に当たっていました。本当に、ありがとう。最近の現場の状況を見て気づくのは、場内の整理整頓に対する意識がさらに高まってきたことです。整理整頓されたキレイな現場であれば、当然、職人さんたちの動きもスムーズになり、また場が視覚的に整っているので、細部に対する神経も行き届きます。気持ち良く、いい仕事が出来ます。逆に汚くてゴチャゴチャしていると、精神的にもイライラしてきますし、落ち着いて仕事が出来ません。このように、ちょっとした心理状態の変化で、人間の作業精度は大きく影響を受けるわけです。
「キレイな現場」とは、言い換えれば、「誠実な現場」であり、品質面、安全面、工程面においてすべてプラスとなります。結果的に「完璧な引渡」への大きな力になります。この視点をしっかりと大事にしていくことが、施工管理の基礎ですし、今後もさらなる努力をして行きたいと思います。

環境が心をつくる

先週の金曜日に、日本建築医学協会「設立一周年記念講演会」が、ベルサール神田にて開催されました。丸二も、設立時からの会員として参画させていただき、当日はブース出展も含めて、充実した一日を過ごすことができました。
医学博士のアンドリュー・ワイル氏を名誉顧問とする本協会の役割は、統合医療を進化させていく上で、ますます重要な位置に来たのではないかと思います。「環境が心をつくり、心が健康をつくる」という建築医学の考え方は、むしろ、地球環境の問題から浸透していくのではないでしょうか。
例えば、オーストラリアで24日に投開票された総選挙では、京都議定書の批准を公約に掲げている労働党が圧勝し、約11年ぶりの政権交代を実現したました。環境というキーワードと個人の経済、健康、幸福というキーワードが、人々の中で、確かに結びつき始めたのでしょう。このように、環境問題が政治をも変えてしまう時代が始まったわけです。これは大きな変化です。
住まいや職場の環境が整うことで、人間の脳と心は明らかに変化します。結果的に、それは個人の健康や精神に少なからず影響を与えます。今回の講演会の中でも出ていましたが、自殺者が出る家の特徴とは、①暗い②楽しくない③会話が無い・・・という3点だと言うことです。この3つの点は、実は建築的に改善が可能なものです。建築を通じて環境を整えることで、自殺者や病気を少しでも未然に防ぐことができるのであれば、私たちは取り組まないわけにはいきません。そのような予防医学として、建築医学は生まれました。
環境という視点は、いずれ「地球」から「街並」を経て「家庭」にフォーカスされてきます。逆に言うと、「家庭」の環境が整えば、「街並」も「地球」の環境も整うはず。まず身近な生活の中で、環境を整えていく努力を、それぞれができる範囲で始めてみてはどうでしょうか。きっと、世界は生まれ変わると思います。
人は、常に地球の上にいます。そして、ほとんどの時間を建物、家庭の中で暮らしているのだから。

現場が造る「100年建築」

今日は、今年最後の技術研究会を行いました。技術研究会は、研究課題別にチームをつくり、年間を通して、より良い品質・技術・仕様等を検討していくものです。今日の研究会は、今年一年の成果発表となり、各チームによる充実した内容が報告されました。
あるチームの発表の中に、横浜の「三井物産一号ビル」見学の報告がありました。このビルは、明治44年に建てられ、関東大震災にも耐えた全鉄筋コンクリート造建築で、あと4年で築100年に届くそうです。これは、私たちのビジョンである「100年建築」に繋がっています。
現代の「100年建築」の実現のためには、ルネス(逆梁)工法、外断熱工法に加えて、コンクリートの超耐久性が必要となります。今日の発表においては、それぞれのチームが、それぞれの工法に対する非常に真面目かつ誠実な研究報告をしてくれました。本当に、ありがたいことです。
また、そのような工法を支えるのは、当然、「品質」という技術の基礎です。ここに焦点を当てたチームは、新しい品質管理のチェックシステムを提案してくれました。「光触媒」という、外壁を美しく保全する素材の実験結果を出してくれたチームもあります。みんな、「100年建築」を支える大切な要素です。本当に、ありがたい。
明治の時代に出来たことが、現代で出来ないはずは無い。「100年建築」は、絵に描いた餅ではない。それを実現するための誠実な取り組みを続けていけば、必ず実現できる。そのような自信と期待を、今日の社員さんの発表を通じて、改めて感じることが出来ました。本当に、ありがとう!!
私たちの取り組みは、日本の建築文化を取り戻すことなのかもしれません。そういう意味で、決して「新しい」ことをしているのではなく、本来のあるべき姿に「還る」だけなのかもしれません。ただ、「当たり前の建築をする」ということだけなのかもしれません。それを、現代の「新しい」技術を駆使して。
いつも、社員さんの取り組みから学びます。このようにして、ひとつひとつが有機的に結び付き、「100年建築」は完成されていくでしょう。それは常に、現場で汗を流して格闘している人々の、日々の地道な前進の積み重ねがあってこそ。この現代社会において、現場で建築に取り組む人々の誠実さこそ、最高に讃えられるべき対象ではないでしょうか。私は、心からそう思います。ありがとうございます!!

「国家の品格」を聞いて

昨日、お世話になっている信用金庫様の主催する経営者セミナーに参加し、「国家の品格」で有名な藤原正彦氏の講演を聞くことが出来ました。「国家の品格」は、以前から読んでいて、その内容に心から共感していたので、とても有意義な時間となりました。
「美しい情緒と形」こそが、日本人の本質であり、これを取り戻すこと。卑怯はよくない。今、国語教育こそが最優先。子どもには、たくさんの本(例えば、日本人の偉人の伝記など)を読ませる・・・。
「卑怯」を最も嫌う国民性だったのに、今は・・・いじめを見て見ぬ振りをする卑怯、自分だけ儲かればいいという卑怯、弱いものを救おうとしない卑怯で蔓延している。これを「恥ずかしいこと」だと思えなくなってしまった・・・。
農家を大切にすること。食糧自給率を高めること。国土を美しい田園に戻すこと。美しい田園風景から、日本人の「美しい情緒と形」は生まれる。だから、すべての国民は、日本人の精神の源泉を作り出しているお百姓さんに感謝しなければならない。どんなに財政が厳しくても、弱者である農家やお百姓さんをまず最初に守ること。こういう理念こそが、「国家の品格」というものである。
以上のような、いろいろなお話の一つ一つに納得させられました。かつての日本人にとって、このような感覚は当たり前だったのでしょう。その当たり前が当たり前に出来なくなり、日本の社会から「誠実さ」が失われつつあるのではないかと思います。
結局のところ、「やせ我慢」ということではないでしょうか。「武士は食わねど高楊枝」ではないですが、志あるものは、貧しくても、やせ我慢して、心を高く持っていた。むしろそのことを誇りとしていた。そのような文化が、日本人の心の中に「美しい情緒と形」を形成していったのでしょう。
「誠実さ」と「やせ我慢」は、どこかで通じているような気がします。

誠実という価値

国や企業の不祥事や、有名人たちの言動等を見ていて思います。誠実であるということが、最も重要な価値になって行くだろうと。この複雑で分かりにくくなった社会を救うのは、きっと「誠実さ」という極めて当たり前で普通の言葉なんだろうと。
ところで「誠実さ」とは一体どういうことを言うんだろうか。私は、「当たり前のことを当たり前に行うこと」のように思っています。何か特別な奇策とか、ウルトラCではなく、ただ淡々と、当たり前のことを当たり前に行うこと、ではないでしょうか。と言うことは、人間というのは、なかなか当たり前のことを当たり前にやっていないことの裏返しです。
何が当たり前か、という判断自体も見えにくくなっています。いろいろな情報が氾濫していて、何を信じて行動して良いかも分からず、結局自分勝手な行動を取ってしまい、後になって謝ったり、冷や汗をかいたりしているわけで、そういうことは人間誰しも大なり小なりあるわけです。ですから私も、人のことをとやかく言う資格はありません。
ただ、何が当たり前かがよく分からなくなった時は、自分自身の心に問うようにしています。人間誰しも良心がありますし、その良心が痛むようなことはしたくありません。何か迷いがあれば、良心や自然に聞いてみて、勇気を持って行動しようと思います。
このようにして、当たり前のことを当たり前に出来るようになった時、人も企業も磐石になるのでしょう。そのためにも、常に心を磨いて、心の声がクリアーに聞こえるようにしていかなければなりませんね。そういう心磨きの時間を、日常の中に持つことも大事だと思います。
心を磨いて、誠実に生きる。そして、誠実に経営する。これが、21世紀に求められる人間や企業の姿勢なのでしょう。今、たくさんの事象がそのことを教えてくれています。ありがたいことです。これからも、誠実な人間になれるように、誠実な会社になれるように、日々1mmの前進を続けていこうと思います。

前頭葉を活性化

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先週、伊豆の宇佐美に行った時の写真です。朝の海岸でキラキラと輝く朝日が、静かな波の音と共に心と体の中にスーっと入ってきました。たとえ一時でも、このような自然との触れ合いの時間を持てるなんて、なんと幸福なことでしょう。時には東京を脱出するべきですね。
このように朝日や遠い風景を見ていると、脳の前頭葉が活性化します。前頭葉が活性化すると、物事を計画したり準備する力が高まると言われています。日々の生活やビジネスの中において、「計画・準備」ほど大切なものはありません。しかしながら、これは個人の問題であり、なかなか指導や教育がしにくい分野でもあります。
そう言えば、常に計画的に行動したり、段取りや準備を完璧に行っている人のことを思い起こすと、確かに旅行好きだったり、山歩きが好きだったり、自然との触れ合いの時間を多く持っているような気がします。その時に目に入る美しい風景や遠い景色が、きっと人間の脳を刺激し、何かしらの良い影響を与えているのでしょう。
つまり人間の脳は、環境によって大きく影響を受けるわけです。例えば、狭く、天井が低く、散らかっている部屋に居ると、逆に脳は停滞します。怖いことですね。このような視点で住環境を捉えた時に、「建築医学」という新しい設計技術が必要となるわけです。
もし住宅の中に、前頭葉を活性化するような仕掛けがあったら、とても楽しいですよね。日々の生活の中に、朝の海岸のキラキラと輝く朝日、静かな波の音・・・等をインストールできるなんて。「建築医学」とは、実はこういうことなんです。とてもワクワクしませんか!!
※当社が参加している「日本建築医学協会」の「設立一周年記念講演会」が11月23日(金/祭)に開催されます。ご興味のある方は、当社までご連絡をください。

高村薫氏の「言葉」

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私が大好きな小説家の一人に、高村薫さんという女流作家がいます。有名なのは「マークスの山」等の警察小説ですが、「リヴィエラを撃て」「李歐」「照柿」「レディ・ジョーカー」も良かった。最近では「新リア王」のような政治家を扱った作品も出て、全体的に非常に重厚かつ深遠な作風であり、社会や人間への厳しい眼を感じさせます。
先日、その高村氏の「作家的時評集2000-2007」という文庫本を見つけ、早速読んでみました。これは、2000年から2007年にかけて、いくつかの新聞や雑誌のために書かれた短い時評発言集であり、その時々に起きた事件、事故、選挙(政治問題)、社会問題を非常に鋭く批評したものです。
今、この高村氏の時評発言を読むと、「物事の本質を捉えて発言すること」の恐ろしさが分かります。当時の世論やマスコミの風潮を思い出すと、その時点における高村氏の発言は、完全にマイノリティー(少数派)であり、黙殺されるべき意見であったことが想像できます。そのような完全に無視される意見を、コツコツとリアルタイムに発表し続けることは、作家として必ずしもプラスではなかったはずです。
しかしながら、この半年くらいで世の中の空気が変わってきました。今、社会は高村氏が言い続けた「困った」状態であることに、やっと気づき始めました。そうなってから色々とプロの評論家が論評をするのは容易いことです。しかしながら高村氏は、ずっと以前から少数派として物事の本質を捉えて発言し続けてきた。ここが違うところです。
高村氏の意見や批評の内容については、ここに記しませんが、まさに今の日本にとって大切な「言葉」ばかりだと思います。「言葉だけで何ができる」という意見もあるかもしれませんが、私は違うと思います。まず初めに「言葉」がなければ、何も始まらず、何も生まれません。むしろ「言葉」なき「行動」の方に恐ろしさを感じます。
「困った」世の中を変えるには、自分自身の生き方を変えるのと同時に、社会を変えることが必要です。そのために、高村氏は「とにかく選挙に行くこと」を繰り返し述べています。今の政治だけで世の中が変わるとは到底思えないが、それでもただひとつの選択肢である以上、参加しなければいけないと。今の若い人たちがもっと社会に対して参加していかないと、最後に一番痛い目に合うのは、自分たちなのだからと・・・。
私も、そう思います。

地鎮祭とメッセージ

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今日は三鷹市で地鎮祭を行いました。とても素晴らしい天気で、温かいお天道様にも見守られ、厳粛な祭事を執り行うことができました。
今回のお施主様は、数年前に丸二にて賃貸マンションを建設させていただいたお客様で、今回が2度目のご縁となります。信用がすべてであるこの建設業にとって、再びお声を掛けていただくことほど嬉しく光栄なことはありません。お客様、本当にありがとうございます。
今回の建物は木造の住宅(外張り断熱)で、ご家族のためのものです。前回の鉄筋コンクリート造の賃貸マンションとは全く違いますが、日本の伝統的な木造建築の技術の粋を発揮し、さらに喜んでいただけるよう全力を尽くしてまいります。
さて、地鎮祭の後に、お客様といろいろなお話をさせていただいたのですが、その中でとても印象的なキーワードを見つけました。それは「視点を変える」ということです。
お施主様の仕事は造園業経営で、植木の管理も行っています。生きている自然の木々のすべてを知ることによって、初めて成り立つ深遠なる仕事です。「これでいい」という限界がない分、その技術は「人」によって大いに左右されます。だから「視点を変える」ことが大切だと言われます。
視点を変えることによって、見えないところが見え、先々を見通すこともできる。マクロの全体を整えたり、ミクロの細部にこだわることもできる。すべて視点を変えることで成せる技です。逆に、視点を変えることによって、気になってしまうこともかなりあるのでしょう。それは、もしかしたら大変なことかもしれません。それでもお客様は、それを無限の可能性と捉え、心から楽しんでいます。
常に視点を変えて、無限の可能性に挑戦する。
しかも、それを楽しむ。

これこそ、まさに、生き方や仕事の極意ではないでしょうか。今日は、地鎮祭という慶びの日において、素敵なメッセージを心に刻むことが出来ました。いつも教えていただけるのはお客様です。本当にありがとうございます!!

亡き先生からのメッセージ

昨日、今年の8月に87歳で亡くなられた私の恩師(大学時代のゼミの先生)の「お別れの会」が椿山荘にて執り行われました。昨年の11月には「米寿を祝う会」があり、その時は大変お元気そうでしたので、本当に残念です。先生のご冥福を心からお祈りいたします。
私の大学時代は、(恥ずかしながら)ほとんど勉強らしいことはせず、もっぱら自主映画づくりに明け暮れていました。でも、このゼミだけは欠かさず出席していたと記憶しています。先生の専門は財務会計で、当然ゼミも財務会計を学ぶ場だったのですが、今思い出すのは、ゼミの時間の始めに行う「日記の発表(一冊のノートに学生が順番に書いていく日記帳の朗読)」や、合宿であちこち行ったことや、今でも続いているゼミ仲間と遊んだことばかりです。結局、勉強自体は、学生一人ひとりの問題であり、ゼミではそれとは違う「何か」を学んでいたわけです。その「何か」が、実は昨日、少しだけ分かりました。
「お別れの会」には、800名以上の方々が参列したと思います。そして、ご縁の深かった方々から「お別れの言葉」が語られました。その中で、ある方のお話から次のようなエピソードが紹介されました。
私は、ゼミの生徒で、先生に論文を提出した。しかしながら、その論文はすぐにつき返された。論文の表紙には、先生によって、こう書かれていた。
「今日は1月16日です。1月15日ではありません」

このお話を聞いた時、はじめて先生の先生たる所以に(今さらながらに)気がつきました。論文の提出期日が1月15日だったからという、一種のユーモアとも受け取れるようなこの言い回しの中に、体中の水分がすべて汗となって噴き出てくるような冷徹なる響きを感じました。しかし、その冷徹さの源泉が、当然のことながら限りない愛情であったことも容易に想像がつきました。
それにしても、これから社会に出て行く学生に対して、いったいどのような思考を経て、このような一言を記したのだろうか。また、このメッセージを受け取った本人も、なぜその意味の真意に気づき、受け止め、心から反省し得たのだろうか。
もし、その期日遅れの論文をただ受け取ったり、ただ受け取らなかったりしたら、その学生はどのような社会人生活を送ったのだろう。また、もしその学生が「先生は冷たい」と言って、自身の姿勢を反省しなかったら、どうなっていたのだろう・・・。結局、学生は心から詫び、先生はその論文を受け取った・・・。
かつて、教える側と教えられる側の間には、このような得体の知れない「何か」がありました。その「何か」を明確に表現できる語彙を、私は未だ持ち得ません。ただ、その「何か」が確かにあったということを感じることは出来ます。800名を越える参列者や当日来られなかった方々の心の中にも、先生との間に、きっとその「何か」があったのだろうと想像します。
今、学校教育や社内教育の現場において必要なのは、「今日は1月16日です。1月15日ではありません」とはっきり言い切ることが出来る教師や上司であり、と同時に、その言葉の真意を測ることのできる自分自身ではないでしょうか。
「今日は1月16日です。1月15日ではありません」・・・これは、「誰にも動かしようの無い真実に対して、もっと謙虚に生きなさい!」という極めて激しくも温かい、私自身に対する「お叱り」のように聞こえてなりませんでした。