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「無」原発

民主党が割れました。根本的な部分が違うのですから、その方が双方にとって自然体でしょう。考え方が違うのは良いことですし、それ故別れるのも良いことです。信念を貫くことは美しく、主張を変えることは勇気です。よって「どちらを善とし、どちらを悪とするか」という短絡的(マスコミ的)な視点では無く、先ず「自分自身の考え方」を思考する方が先決ではないでしょうか。つまり、増税は必要なのか、原発は再稼働すべきなのか。もし自分が小さな国の王様だとしたら、どのような政治を行うだろうか。増税をするだろうか。原発を再稼働するだろうか。常にそのような問いを持って、自身の考え(軸)を持つことだと思います。
つまり、そのような大事な問いを、TV画面上の政治家に投影(丸投げ)するのではなく、先ず自身自身の「良心」に投影し、思考し、その答えと適合する政策を掲げた政治家に票を入れれば良いのです。日頃の政治家の動向情報などは全く不要です。判断を誤ります。例えば、約束を守ろうとする側が、守らない側から「造反」と言われているような情報を耳にすると、判断に狂いが生じるということです。そういうフィルターを全部無しにしないと、本当に良い政治は生まれないかもしれません。
TVが無い時代は、ほとんど情報が無く、政治家の顔写真くらいしか知らなかったと思います。それでも国民は、今よりも本質を掴んでいたのではないでしょうか。仮に、会ってみたら嫌な奴だったと成っても、案外その人は良い政治をしていたという面もあります。現在は、ほとんどが作られた情報に成っているので、その対抗軸として、ツィッターやフェイスブックが真実を伝える役割を担っています。本当は、適度で正直な情報さえ流れていれば、ここまでITに頼らなくても良かったのに・・・。
ところで、ここ数カ月にわたり、官邸前で反原発デモが行われていますが、29日には約20万人が集まったそうです。日本のマスメディアもいよいよ無視し続けることが出来なくなったのでしょう。このような民衆の潜在的な意志が表面化してくると、困る人や組織がたくさん出て来ます。そこから生まれる対立も、ある種の戦争ですので、最終的には(どちらが優勢に成ろうとも)不幸な一面を残すはずです。人の心を力で変えるのは不可能です。民主主義と言っても、実際は力の世界なので、完全に分かりあえる日が来ることも無く、<やったらやられる>の繰り返しが続きます。このような悪循環から抜け出すには、やはり自らの思考の世界を変え、オリジナルの世界観を造るしかないと感じます。
人間は常に対立性を持って生きています。プロ野球でも、ワールドカップでも、政治でも、必ず敵と味方を作り、どちら側かに付きます。相手側は悪で、こちら側は善。内容や中身よりも、そのような外観で判断します。「反〇〇」という手段です。外観にはレッテルを貼ることができます。ボトルに実際の中身とは違うラベルを貼れば、人々はラベルの方を信用します。そのようにして戦いを制します。そしてまた、次の戦いが始まります。いつまで経っても終わりません。
そのような外側の様相に振り回されず、自らの思考の世界を変えて、美しい内観を造る方が実は早くて、本物で、誰とも戦わない(争わない)唯一の道だと気づきます。結果的に、多くの人々がそうなれば、外観にも変化が出て来るのでしょう。外側で起きている問題を解決するには、外側に打って出るのではなく、内側で造る方が良いのかも知れません。そのような一人ひとりの小さな努力の積み重ねが、つながり合い、めぐりめぐって、外側を(ごく自然に)変えることに成ると信じます。
以前、本ブログで紹介した映画「この空の花 長岡花火物語」は、ツィッターで広まり、尻上がりに観客数が増え続け、今や大変な反響を呼び起こしています。本当に良い(正しい)情報が出にくい世の中において、ツィッターが見事な成果を上げている一例でしょう。今回の官邸前の反原発デモも、ツィッターの力が大きかったようです。この映画を監督した大林宣彦監督は、「私は映像作家だから、映画を創る。デモには行かない。反原発ではない。無原発だ」という話をしていました。納得です。
なるほど、「無」原発か・・・。「反」原発は、(今現在)原発に関わる人々を苦しめます(現実問題として)。でも、これからの方向性として、原発の無い国造りへの道は、国民の(潜在的な)総意と言えます。「無」原発という言葉には、「共に無くそう」「無くなっても、皆が幸せに成れる社会の仕組みを造ろう」と言う、前向きで、協調の響きが在ります。対立ではなく、共に考えて行く。だから私は、無原発、無戦争(平和)、少税金、全体幸福、自然との総和を理想としたい・・・。この混乱の時代は、必ず協調、調和、総和への前奏曲に成ります。